ここは「花待館」の別館となっています。非公式で「うみねこのなく頃に」「テイルズオブエクシリア」「ファイナルファンタジー(13・零式)」「刀剣乱舞」の二次創作SSを掲載しています。
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変態嘉音くんシリーズ第5弾(多分)です。今回一応の進展はあるのですが、相変わらず嘉音くんが変態です。
格好いい嘉音くんがお好きな方はご注意ください。最初から最後まで変態です。
では、どうぞ。
世界は虹色お花畑
格好いい嘉音くんがお好きな方はご注意ください。最初から最後まで変態です。
では、どうぞ。
世界は虹色お花畑
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某月某日、晴れ。
僕の朱志香は今日も可愛い。
この間譲治様とラブラブデートに行って来たらしい紗音が買ってきたワンピースを着て鏡の前でくるっと回ってみる辺りなど鼻血ものだ。そういえば最近僕の朱志香が僕のことを自然に「嘉哉くん」と呼んでくれるようになった。とてもとても嬉しい。
あと今日は僕のために手作りクッキーを持ってきてくれた。
きっと朱志香は慣れない料理に四苦八苦したりチョコレートをあの真っ白な頬に飛び散らせたりして僕のために頑張ってくれたんだと感動した。ほんのちょっとビターなチョコレートクッキーも朱志香が作ったということそれだけで最高のお茶菓子になった。
そんなわけで僕は今日も元気です。
世界は虹色お花畑
その日、嘉音は上機嫌であった。どのくらい上機嫌かというと、鼻歌を歌いながら廊下をスキップで走っていくぐらいの上機嫌である。
本人としては目の前にお花畑が広がっていて、そこで白いひらひらワンピースを着た朱志香がにこにこ笑っているぐらいの情景が見えている。
いつもは(自称)クールで(自称)真面目な(自称)家具の彼がこんなにも上機嫌、いや、浮かれている原因は先日晴れて恋人になった右代宮家の令嬢・朱志香から貰ったチョコレートクッキーにある。
「朱志香の手作り……僕だけにくれた朱志香の手作りクッキー……早く食べたい……」
仕事があるのをこんなにも苦々しく思った日があっただろうか、と考えて、そういえば朱志香と恋仲になってからはいつものことだったと思い出す。家具として、勿論使用人としても失格だが、そんなことに構っている嘉音ではない。
彼の頭の中を染め上げているのは勿論朱志香のクッキーである。
「はぁ……朱志香に食べさせて貰いたい……」
そう思えばたちまち嘉音の脳内ではとんでもない妄想が展開されるわけである。ただし、本人としてはその光景は朱志香との逢い引きのイメージトレーニングであり、決して妄想などではないと思っている。
『嘉哉くん……』
襟元と胸元、袖口にフリル、胸元と袖口に黒いリボンの付いたエプロンドレスを着て黒いニーソックスを同色のガーターベルトでつり上げた朱志香がクッキーの小袋を持って恥ずかしそうに見つめてくれる。
『朱志香……よくお似合いです……』
『そ、そうかな……』
はい、と頷けば朱志香は途端に頬を染めて恥ずかしそうに笑う。
『こんなフリルふりふりでリボンひらひら満載の服は似合わないかなと思ったんだけど……嘉哉くん、こういうの好きだろ?』
パニエの仕込まれた黒いスカートが、エプロンの縁に縫いつけられたフリルがゆらゆらと揺れる。可愛い。実に可愛い。
『朱志香には何でも似合いますよ?僕はメイド服じゃなくて朱志香が好きなんです!』
『嘉哉くん……!』
潤んだ瞳で朱志香が見上げてくる。嘉音も優しく見つめ返す。
『私も……嘉哉くんのことが大好きだぜ!』
『朱志香……!』
ぎゅう、とだきしめてふわふわ揺れる金髪に顔を埋める。いい匂いがする。
『よ……嘉哉くん……』
『はい……』
『クッキー、今日の調理実習で作ったの……食べて……』
それがあらぬ意味に聞こえて嘉音は思わず聞き返す。
『食べて……いいんですか?』
『だって、そのためにクッキー沢山作ったんだぜ?』
『僕の、ために……?』
『うん……』
暫く見つめ合って、嘉音は朱志香の頬に手を添える。すべすべしていて気持ちいい。
『朱志香、僕に食べさせてください』
彼女の頬が真っ赤に染まる。
『え……』
『朱志香に、食べさせて貰いたいんです』
耳まで真っ赤に染めて、朱志香はこくんと頷いた。綺麗にラッピングされた小袋からチョコレートクッキーを一枚取りだし、嘉音の口許に近づける。
『はい、あ~ん……』
さく、と囓ったクッキーはチョコレートだった。少しビターな味わいがたまらない。
『美味しいです、朱志香……』
『あ、もう一枚、いる……?』
同じようにクッキーを差し出してくるのをやんわりと制止して、彼女の手からクッキーを取り上げると桜色の柔らかい唇に挟ませる。
『ん……?』
『朱志香、愛しています……』
そうして、顔がゆっくりと近づいてゆく。クッキー、いや、朱志香の唇まであと数センチ……。
べしょん。
愛しい朱志香の唇に触れたと思ったら嘉音は絨毯に思い切り倒れ込んだ。妄想に浸っていたため、当然ではあるがどこも庇わずに顔から突っ込んでゆく。
「痛い……鼻が痛い……」
あくまで痛いのは自分の妄想ではなく思い切りぶつけた鼻である。普段ならここでのろのろと起きあがって妄想を再開するのだが、今日の嘉音は違う。クッキーが壊れたりしていないかを慌てて確かめて、ひびすら入っていないことを認めると安堵のため息を吐き出した。
「よかった……」
ゆっくり立ち上がって嘉音は今度こそ仕事場へと駆けていった。
突然だが、使用人室に常備してあるお茶は部屋の主である使用人達が買ってきたものが大半である。大体それは各自の好みによって某有名メーカーのティーバッグであったり、近所のスーパーでタイムセールだった茶葉であったり、はたまた自分でブレンドした茶葉だったりするのだが、たまに家人が買ってきてくれた茶葉というものも存在する。そして本日使用人室に置いてあるのは、朱志香がわざわざ買ってきてくれたダージリンであった。
ようやく休憩時間になった嘉音はその缶を取りだして頬ずりする。
「朱志香のお茶……」
彼はこの茶葉をほぼ自分1人で飲んできた。たまに紗音あたりが飲むと盛大なケンカを繰り広げて源次に雷を落とされたこともある。朱志香が使用人室を訪れたときには必ずこの茶葉を淹れたが、それ以外は死守してきた。理由はいたってシンプルで、朱志香がくれた茶葉だからという公私混同も甚だしいものである。
缶から茶葉を出して慣れた手つきで1人分の茶を淹れると鼻歌交じりにソファに座ってクッキーを囓る。ビターチョコレートとバニラエッセンスのハーモニーがとても美味しい。
「朱志香のクッキー……美味しい……」
紅茶を一口啜って朱志香と結婚を前提としたお付き合いを本当に始めたのだなぁと嘉音は感慨に耽った。少々愛が重すぎるようなところも否めないが、誰も彼を責められはしないだろう。使用人室には今この瞬間、嘉音以外に誰もいないのだから。
「……ん?結婚を前提としたお付き合い……ということは」
嘉音はそのフレーズだけを口に出して、しばし愕然とした。
結婚を前提としたお付き合い。
それはなんという甘い言葉であろうか。
愛し合う恋人達の普遍的な誓いではあるが、如何せん自分はしがない使用人で朱志香は令嬢である。身分の差としては天と地ほどの開きがある。
そして朱志香は優しく明るく美しい少女だ。群がる男という名の狼など星の数ほどいるだろう。その中で嘉音より身分の高い男など沢山いるだろう。
「……指輪、早い所渡して僕と結婚して貰おう……」
恋煩いの狼には相変わらず法律の壁など見えていないのであった。
「嘉音くん、お洗濯もの畳んでちょうだい」
休憩時間が終わるや否や紗音が洗濯物を持って使用人室に入ってきた。早速嘉音はふて腐れる。洗濯物がまるでバベルの塔かと思わんばかりに積み上げられていたからである。
「姉さん……これ、多くない?」
「しょうがないでしょ、このところお天気が悪かったんだから。ほら、お嬢様のお洋服もあるから畳んでちょうだい」
「お嬢様の……僕の朱志香の……」
洗濯物を畳みながら嘉音はついつい妄想の世界に飛んで行く。
『嘉哉くん、洗濯物、持ってきてくれたんだ……ありがとう』
朱志香に洗濯物を渡すと、彼女は恥ずかしそうに笑う。
『いえ、僕が朱志香の洗濯物を畳みたかったんです』
きっちり畳まれた洗濯物に朱志香は頬を埋めて、うん、と小さな声で頷く。
『きれいに畳んでくれて……凄く嬉しいよ、嘉哉くん』
『朱志香……』
『わ、私も……その、嘉哉くんの洗濯物、きれいに畳めたらいいんだけど……』
しゅんと項垂れる彼女を引き寄せて腕の中に閉じこめる。
『大丈夫です。僕がちゃんと付いていますから……』
『嘉哉くん……』
うるうると潤んだ瞳で見つめられて、嘉音の鼓動は高鳴るばかり。今すぐいちゃつきたいのを抑えて朱志香の耳元で囁いた。
『朱志香……結婚してください』
『……はい……』
「朱志香ラ~ブ!」
思い余って叫んだ嘉音の横っ面をタオルが張った。
「痛いじゃないか姉さん!」
「五月蝿いわよ、嘉音くん?しっかりお仕事なさい?」
「いいじゃないか少しぐらい!姉さんだってたまに『譲治様ラ~ブ!』って叫んでるじゃないか!」
あんまりにあんまりなので紗音に抗議すると、彼女はきっ、と睨み付けてくる。
「休憩中に叫ぶからいいの!っていうか、お仕事ぐらいちゃんとやってよ!お嬢様に言いつけるからね!」
「お嬢様はそれでも僕を愛してくれるもん!」
そう叫ぶと、姉は露骨に変なものを見るような顔になった。
「ねぇ、嘉音くん……それ、愛が重すぎるんじゃない?」
重いとは失礼な、と嘉音は憤った。が、自分の手の中にある朱志香のハンカチを見て、途端に顔が緩む。
「これ、僕がプレゼントしたハンカチだ……やっぱり僕と朱志香はラブラブなんだ……」
「……嘉音くん、床に垂らした涎、ちゃんと拭いてね?」
紗音が呆れたように零した呟きは、勿論嘉音の耳には届いていなかった。
本日の仕事があらかた終わり、夜勤でもないので嘉音は朱志香の部屋のベッドの中にいた。むろん無許可である。朱志香の香りに包まれて、嘉音は実に上機嫌であった。ちなみに朱志香本人は現在シャワーを浴びている。
しかもこのベッドはシャワーから上がった朱志香が寝る場所である。
『あ……あの、嘉哉くん』
目を閉じればネグリジェ姿の朱志香が嘉音の胸にもたれかかる。その細い肩を抱いて返事をする。
『どうしましたか?』
『あの……その……ここにいて、平気なの?』
彼女の頬はリンゴのように赤い。それがまた可愛らしくて、口元が自然と緩む。
『はい。今日は夜勤もありませんから』
『そっか……』
嬉しそうに身体をすり寄せる朱志香をぎゅっと抱きしめて、ふわふわの髪を梳く。
『朱志香……今晩はあなたの傍で過ごしてもいいですか?』
『うん……』
ふわりと微笑む彼女があんまりにも可愛らしくて、ついつい理性のタガが外れる。柔らかい身体を押し倒すと、朱志香の頬がもっと赤く染まった。
『嘉哉、君……?』
『大好きです、朱志香……』
ちゅ、と触れるだけの口付けを落として覆い被さる。
『嘉哉くん……私も、大好きだぜ……』
朱志香の腕が嘉音の背中に回される。
『よろしいですか……?』
『ん……』
そうしてもう一度、二人の唇が重なった。
「嘉哉くん……」
「朱志香……」
「何やってるの……?」
「じぇ、朱志香っ!?」
はっ、と目を開ければ、呆然と目を見開いた朱志香がそこにいた。朱志香にはいい所を見せたい、というのが嘉音の心情なので、言い訳にもならない言い訳を自信満々でする。こうなっては嘉音はもう問題児でしかない。
「朱志香のベッドを温めておこうと思いまして」
「……」
「あと、僕、今日ここで寝たかったんです!」
「……」
朱志香は呆然としたまま何も言わない。暫く見つめ合っていると、彼女はくるりと嘉音に背を向けた。
「じぇ、朱志香?」
「ごめん、今日私母さんのところで寝るね……嘉哉くん、そこで寝たいんでしょ?」
「ち、違うんです、違うんです、朱志香っ!」
「だって……現に寝てるし……」
嘉音はそこで自分がまだ朱志香のベッドの中にいた事実を知る。慌てて抜け出してぱたぱたと歩き出す朱志香の後ろ姿を追いかけて、叫ぶ。
「朱志香ぁぁ!愛しているんだぁぁぁぁっ!」
ぴた、と朱志香の足が止まる。後ろから彼女を抱きしめて耳元で囁いた。
「今晩は朱志香の抱き枕になりたかったんです……勝手にベッドの中に潜り込んだりしてすみませんでした」
彼女が振り返って嘉音を見つめる。
「寝てる間に……変な事しない……?」
「し、しません!」
本当は変なことをしたい。もの凄くしたい。けれども寝ている間にそんなことをするのは朱志香の愛を信頼していないように思えて、彼は泣く泣くそう誓った。
「嘉哉くん」
「はい」
頬にちゅ、と柔らかいものが触れた。はっとして朱志香の顔を見れば、彼女は頬を赤く染めて微笑んでいる。
「大好き!」
その笑顔があまりに眩しくて、美しくて、今日はとても良い日だったと嘉音は本気で思ったのだった。
六軒島はいつもと変わらない暮らしが続いている。でも、僕の目に映る景色は全く違う。
僕の朱志香さえそこにいれば世界は一面お花畑。
クッキー貰ったり紅茶貰ったり、朱志香の抱き枕になったりして、今日も僕は元気です。
僕の朱志香さえいればその他の有象無象は背景に過ぎないのだから!
「誰が有象無象ですって?」
地の底からはい上がってきたような声を耳にして振り返れば、空恐ろしい微笑みを浮かべた紗音が立っていた。
「え、僕と朱志香以外の万物に決まってr……」
「ねえ嘉音くん、私と譲治様は有象無象じゃないわよねぇ?」
「何を言ってるの姉さん、有象無象に決まってるじゃないk……」
そこで嘉音はようやく気付く。紗音が振り上げた花瓶に気付く。
「よくも私の譲治様を有象無象にしてくれたわねぇぇぇぇぇぇっ!」
「ぎゃああああああああああっ!」
が、いくら待っても予想した痛みは来なかった。恐る恐る目を開けると、朱志香が紗音を一生懸命取り押さえている。
「しゃ、紗音、ダメだ、そういうことしちゃダメだ!」
「いいえお嬢様、止めないでください!嘉音くんはここでしっかり躾ておかないと社会に出せないんです!」
「そ、それは……」
「お嬢様は嘉音くんが将来引きこもりのニートになっちゃってもいいんですか?」
「いや、それは良くないけど……」
紗音は再び花瓶を振り上げる。
「ひぃっ!」
「紗音、それどっかで見たと思ったら母さんの花瓶!高いらしいから割ったらやばいって!」
「えっ!?奥様の花瓶!?」
紗音が花瓶をあわあわと戻しに行き、ようやく花瓶の恐怖から解放される。
「朱志香、ありがとうございます」
「いや、いいんだ。偶然通りかかったから……」
そう照れる朱志香のスカートの裾が揺れる。赤い布に隠された白い下着が見えて、気付いたときには嘉音は感想を漏らしていた。
「朱志香……今日のお下着は白なんですね……可愛いです」
すうっと朱志香が真顔に戻る。
「嘉哉くん」
「はい」
「立って」
言われたとおりに立つと、朱志香が手を振り上げた。
「嘉哉くんのバカぁぁぁっ!」
ぱぁん、と小気味よい音が響いた。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡(?)
発見当時、嬉しそうな顔で鼻から血を大量に流していたため、死因は大量出血と見られる。傍には血文字で相合い傘が書かれており、傘の下には「よしや」「じぇしか」と書かれていた。
思っても言って良いことと悪いことがあるという良い見本だと思われる。本当に彼の頭はお花畑だったようだ。
「あんな事言うんだから、もう嘉哉くんのバカっ!」(by朱志香)
僕の朱志香は今日も可愛い。
この間譲治様とラブラブデートに行って来たらしい紗音が買ってきたワンピースを着て鏡の前でくるっと回ってみる辺りなど鼻血ものだ。そういえば最近僕の朱志香が僕のことを自然に「嘉哉くん」と呼んでくれるようになった。とてもとても嬉しい。
あと今日は僕のために手作りクッキーを持ってきてくれた。
きっと朱志香は慣れない料理に四苦八苦したりチョコレートをあの真っ白な頬に飛び散らせたりして僕のために頑張ってくれたんだと感動した。ほんのちょっとビターなチョコレートクッキーも朱志香が作ったということそれだけで最高のお茶菓子になった。
そんなわけで僕は今日も元気です。
世界は虹色お花畑
その日、嘉音は上機嫌であった。どのくらい上機嫌かというと、鼻歌を歌いながら廊下をスキップで走っていくぐらいの上機嫌である。
本人としては目の前にお花畑が広がっていて、そこで白いひらひらワンピースを着た朱志香がにこにこ笑っているぐらいの情景が見えている。
いつもは(自称)クールで(自称)真面目な(自称)家具の彼がこんなにも上機嫌、いや、浮かれている原因は先日晴れて恋人になった右代宮家の令嬢・朱志香から貰ったチョコレートクッキーにある。
「朱志香の手作り……僕だけにくれた朱志香の手作りクッキー……早く食べたい……」
仕事があるのをこんなにも苦々しく思った日があっただろうか、と考えて、そういえば朱志香と恋仲になってからはいつものことだったと思い出す。家具として、勿論使用人としても失格だが、そんなことに構っている嘉音ではない。
彼の頭の中を染め上げているのは勿論朱志香のクッキーである。
「はぁ……朱志香に食べさせて貰いたい……」
そう思えばたちまち嘉音の脳内ではとんでもない妄想が展開されるわけである。ただし、本人としてはその光景は朱志香との逢い引きのイメージトレーニングであり、決して妄想などではないと思っている。
『嘉哉くん……』
襟元と胸元、袖口にフリル、胸元と袖口に黒いリボンの付いたエプロンドレスを着て黒いニーソックスを同色のガーターベルトでつり上げた朱志香がクッキーの小袋を持って恥ずかしそうに見つめてくれる。
『朱志香……よくお似合いです……』
『そ、そうかな……』
はい、と頷けば朱志香は途端に頬を染めて恥ずかしそうに笑う。
『こんなフリルふりふりでリボンひらひら満載の服は似合わないかなと思ったんだけど……嘉哉くん、こういうの好きだろ?』
パニエの仕込まれた黒いスカートが、エプロンの縁に縫いつけられたフリルがゆらゆらと揺れる。可愛い。実に可愛い。
『朱志香には何でも似合いますよ?僕はメイド服じゃなくて朱志香が好きなんです!』
『嘉哉くん……!』
潤んだ瞳で朱志香が見上げてくる。嘉音も優しく見つめ返す。
『私も……嘉哉くんのことが大好きだぜ!』
『朱志香……!』
ぎゅう、とだきしめてふわふわ揺れる金髪に顔を埋める。いい匂いがする。
『よ……嘉哉くん……』
『はい……』
『クッキー、今日の調理実習で作ったの……食べて……』
それがあらぬ意味に聞こえて嘉音は思わず聞き返す。
『食べて……いいんですか?』
『だって、そのためにクッキー沢山作ったんだぜ?』
『僕の、ために……?』
『うん……』
暫く見つめ合って、嘉音は朱志香の頬に手を添える。すべすべしていて気持ちいい。
『朱志香、僕に食べさせてください』
彼女の頬が真っ赤に染まる。
『え……』
『朱志香に、食べさせて貰いたいんです』
耳まで真っ赤に染めて、朱志香はこくんと頷いた。綺麗にラッピングされた小袋からチョコレートクッキーを一枚取りだし、嘉音の口許に近づける。
『はい、あ~ん……』
さく、と囓ったクッキーはチョコレートだった。少しビターな味わいがたまらない。
『美味しいです、朱志香……』
『あ、もう一枚、いる……?』
同じようにクッキーを差し出してくるのをやんわりと制止して、彼女の手からクッキーを取り上げると桜色の柔らかい唇に挟ませる。
『ん……?』
『朱志香、愛しています……』
そうして、顔がゆっくりと近づいてゆく。クッキー、いや、朱志香の唇まであと数センチ……。
べしょん。
愛しい朱志香の唇に触れたと思ったら嘉音は絨毯に思い切り倒れ込んだ。妄想に浸っていたため、当然ではあるがどこも庇わずに顔から突っ込んでゆく。
「痛い……鼻が痛い……」
あくまで痛いのは自分の妄想ではなく思い切りぶつけた鼻である。普段ならここでのろのろと起きあがって妄想を再開するのだが、今日の嘉音は違う。クッキーが壊れたりしていないかを慌てて確かめて、ひびすら入っていないことを認めると安堵のため息を吐き出した。
「よかった……」
ゆっくり立ち上がって嘉音は今度こそ仕事場へと駆けていった。
突然だが、使用人室に常備してあるお茶は部屋の主である使用人達が買ってきたものが大半である。大体それは各自の好みによって某有名メーカーのティーバッグであったり、近所のスーパーでタイムセールだった茶葉であったり、はたまた自分でブレンドした茶葉だったりするのだが、たまに家人が買ってきてくれた茶葉というものも存在する。そして本日使用人室に置いてあるのは、朱志香がわざわざ買ってきてくれたダージリンであった。
ようやく休憩時間になった嘉音はその缶を取りだして頬ずりする。
「朱志香のお茶……」
彼はこの茶葉をほぼ自分1人で飲んできた。たまに紗音あたりが飲むと盛大なケンカを繰り広げて源次に雷を落とされたこともある。朱志香が使用人室を訪れたときには必ずこの茶葉を淹れたが、それ以外は死守してきた。理由はいたってシンプルで、朱志香がくれた茶葉だからという公私混同も甚だしいものである。
缶から茶葉を出して慣れた手つきで1人分の茶を淹れると鼻歌交じりにソファに座ってクッキーを囓る。ビターチョコレートとバニラエッセンスのハーモニーがとても美味しい。
「朱志香のクッキー……美味しい……」
紅茶を一口啜って朱志香と結婚を前提としたお付き合いを本当に始めたのだなぁと嘉音は感慨に耽った。少々愛が重すぎるようなところも否めないが、誰も彼を責められはしないだろう。使用人室には今この瞬間、嘉音以外に誰もいないのだから。
「……ん?結婚を前提としたお付き合い……ということは」
嘉音はそのフレーズだけを口に出して、しばし愕然とした。
結婚を前提としたお付き合い。
それはなんという甘い言葉であろうか。
愛し合う恋人達の普遍的な誓いではあるが、如何せん自分はしがない使用人で朱志香は令嬢である。身分の差としては天と地ほどの開きがある。
そして朱志香は優しく明るく美しい少女だ。群がる男という名の狼など星の数ほどいるだろう。その中で嘉音より身分の高い男など沢山いるだろう。
「……指輪、早い所渡して僕と結婚して貰おう……」
恋煩いの狼には相変わらず法律の壁など見えていないのであった。
「嘉音くん、お洗濯もの畳んでちょうだい」
休憩時間が終わるや否や紗音が洗濯物を持って使用人室に入ってきた。早速嘉音はふて腐れる。洗濯物がまるでバベルの塔かと思わんばかりに積み上げられていたからである。
「姉さん……これ、多くない?」
「しょうがないでしょ、このところお天気が悪かったんだから。ほら、お嬢様のお洋服もあるから畳んでちょうだい」
「お嬢様の……僕の朱志香の……」
洗濯物を畳みながら嘉音はついつい妄想の世界に飛んで行く。
『嘉哉くん、洗濯物、持ってきてくれたんだ……ありがとう』
朱志香に洗濯物を渡すと、彼女は恥ずかしそうに笑う。
『いえ、僕が朱志香の洗濯物を畳みたかったんです』
きっちり畳まれた洗濯物に朱志香は頬を埋めて、うん、と小さな声で頷く。
『きれいに畳んでくれて……凄く嬉しいよ、嘉哉くん』
『朱志香……』
『わ、私も……その、嘉哉くんの洗濯物、きれいに畳めたらいいんだけど……』
しゅんと項垂れる彼女を引き寄せて腕の中に閉じこめる。
『大丈夫です。僕がちゃんと付いていますから……』
『嘉哉くん……』
うるうると潤んだ瞳で見つめられて、嘉音の鼓動は高鳴るばかり。今すぐいちゃつきたいのを抑えて朱志香の耳元で囁いた。
『朱志香……結婚してください』
『……はい……』
「朱志香ラ~ブ!」
思い余って叫んだ嘉音の横っ面をタオルが張った。
「痛いじゃないか姉さん!」
「五月蝿いわよ、嘉音くん?しっかりお仕事なさい?」
「いいじゃないか少しぐらい!姉さんだってたまに『譲治様ラ~ブ!』って叫んでるじゃないか!」
あんまりにあんまりなので紗音に抗議すると、彼女はきっ、と睨み付けてくる。
「休憩中に叫ぶからいいの!っていうか、お仕事ぐらいちゃんとやってよ!お嬢様に言いつけるからね!」
「お嬢様はそれでも僕を愛してくれるもん!」
そう叫ぶと、姉は露骨に変なものを見るような顔になった。
「ねぇ、嘉音くん……それ、愛が重すぎるんじゃない?」
重いとは失礼な、と嘉音は憤った。が、自分の手の中にある朱志香のハンカチを見て、途端に顔が緩む。
「これ、僕がプレゼントしたハンカチだ……やっぱり僕と朱志香はラブラブなんだ……」
「……嘉音くん、床に垂らした涎、ちゃんと拭いてね?」
紗音が呆れたように零した呟きは、勿論嘉音の耳には届いていなかった。
本日の仕事があらかた終わり、夜勤でもないので嘉音は朱志香の部屋のベッドの中にいた。むろん無許可である。朱志香の香りに包まれて、嘉音は実に上機嫌であった。ちなみに朱志香本人は現在シャワーを浴びている。
しかもこのベッドはシャワーから上がった朱志香が寝る場所である。
『あ……あの、嘉哉くん』
目を閉じればネグリジェ姿の朱志香が嘉音の胸にもたれかかる。その細い肩を抱いて返事をする。
『どうしましたか?』
『あの……その……ここにいて、平気なの?』
彼女の頬はリンゴのように赤い。それがまた可愛らしくて、口元が自然と緩む。
『はい。今日は夜勤もありませんから』
『そっか……』
嬉しそうに身体をすり寄せる朱志香をぎゅっと抱きしめて、ふわふわの髪を梳く。
『朱志香……今晩はあなたの傍で過ごしてもいいですか?』
『うん……』
ふわりと微笑む彼女があんまりにも可愛らしくて、ついつい理性のタガが外れる。柔らかい身体を押し倒すと、朱志香の頬がもっと赤く染まった。
『嘉哉、君……?』
『大好きです、朱志香……』
ちゅ、と触れるだけの口付けを落として覆い被さる。
『嘉哉くん……私も、大好きだぜ……』
朱志香の腕が嘉音の背中に回される。
『よろしいですか……?』
『ん……』
そうしてもう一度、二人の唇が重なった。
「嘉哉くん……」
「朱志香……」
「何やってるの……?」
「じぇ、朱志香っ!?」
はっ、と目を開ければ、呆然と目を見開いた朱志香がそこにいた。朱志香にはいい所を見せたい、というのが嘉音の心情なので、言い訳にもならない言い訳を自信満々でする。こうなっては嘉音はもう問題児でしかない。
「朱志香のベッドを温めておこうと思いまして」
「……」
「あと、僕、今日ここで寝たかったんです!」
「……」
朱志香は呆然としたまま何も言わない。暫く見つめ合っていると、彼女はくるりと嘉音に背を向けた。
「じぇ、朱志香?」
「ごめん、今日私母さんのところで寝るね……嘉哉くん、そこで寝たいんでしょ?」
「ち、違うんです、違うんです、朱志香っ!」
「だって……現に寝てるし……」
嘉音はそこで自分がまだ朱志香のベッドの中にいた事実を知る。慌てて抜け出してぱたぱたと歩き出す朱志香の後ろ姿を追いかけて、叫ぶ。
「朱志香ぁぁ!愛しているんだぁぁぁぁっ!」
ぴた、と朱志香の足が止まる。後ろから彼女を抱きしめて耳元で囁いた。
「今晩は朱志香の抱き枕になりたかったんです……勝手にベッドの中に潜り込んだりしてすみませんでした」
彼女が振り返って嘉音を見つめる。
「寝てる間に……変な事しない……?」
「し、しません!」
本当は変なことをしたい。もの凄くしたい。けれども寝ている間にそんなことをするのは朱志香の愛を信頼していないように思えて、彼は泣く泣くそう誓った。
「嘉哉くん」
「はい」
頬にちゅ、と柔らかいものが触れた。はっとして朱志香の顔を見れば、彼女は頬を赤く染めて微笑んでいる。
「大好き!」
その笑顔があまりに眩しくて、美しくて、今日はとても良い日だったと嘉音は本気で思ったのだった。
六軒島はいつもと変わらない暮らしが続いている。でも、僕の目に映る景色は全く違う。
僕の朱志香さえそこにいれば世界は一面お花畑。
クッキー貰ったり紅茶貰ったり、朱志香の抱き枕になったりして、今日も僕は元気です。
僕の朱志香さえいればその他の有象無象は背景に過ぎないのだから!
「誰が有象無象ですって?」
地の底からはい上がってきたような声を耳にして振り返れば、空恐ろしい微笑みを浮かべた紗音が立っていた。
「え、僕と朱志香以外の万物に決まってr……」
「ねえ嘉音くん、私と譲治様は有象無象じゃないわよねぇ?」
「何を言ってるの姉さん、有象無象に決まってるじゃないk……」
そこで嘉音はようやく気付く。紗音が振り上げた花瓶に気付く。
「よくも私の譲治様を有象無象にしてくれたわねぇぇぇぇぇぇっ!」
「ぎゃああああああああああっ!」
が、いくら待っても予想した痛みは来なかった。恐る恐る目を開けると、朱志香が紗音を一生懸命取り押さえている。
「しゃ、紗音、ダメだ、そういうことしちゃダメだ!」
「いいえお嬢様、止めないでください!嘉音くんはここでしっかり躾ておかないと社会に出せないんです!」
「そ、それは……」
「お嬢様は嘉音くんが将来引きこもりのニートになっちゃってもいいんですか?」
「いや、それは良くないけど……」
紗音は再び花瓶を振り上げる。
「ひぃっ!」
「紗音、それどっかで見たと思ったら母さんの花瓶!高いらしいから割ったらやばいって!」
「えっ!?奥様の花瓶!?」
紗音が花瓶をあわあわと戻しに行き、ようやく花瓶の恐怖から解放される。
「朱志香、ありがとうございます」
「いや、いいんだ。偶然通りかかったから……」
そう照れる朱志香のスカートの裾が揺れる。赤い布に隠された白い下着が見えて、気付いたときには嘉音は感想を漏らしていた。
「朱志香……今日のお下着は白なんですね……可愛いです」
すうっと朱志香が真顔に戻る。
「嘉哉くん」
「はい」
「立って」
言われたとおりに立つと、朱志香が手を振り上げた。
「嘉哉くんのバカぁぁぁっ!」
ぱぁん、と小気味よい音が響いた。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡(?)
発見当時、嬉しそうな顔で鼻から血を大量に流していたため、死因は大量出血と見られる。傍には血文字で相合い傘が書かれており、傘の下には「よしや」「じぇしか」と書かれていた。
思っても言って良いことと悪いことがあるという良い見本だと思われる。本当に彼の頭はお花畑だったようだ。
「あんな事言うんだから、もう嘉哉くんのバカっ!」(by朱志香)
お久しぶりです。お久しぶりの更新にカノジェシSSです。
検索結果見たらこっちのが多かったんだけどなぁ。
そんなわけで、初めて注意書きのない(それも問題だけども)カノジェシSSです。
では、どうぞ。
『Navigatria』
検索結果見たらこっちのが多かったんだけどなぁ。
そんなわけで、初めて注意書きのない(それも問題だけども)カノジェシSSです。
では、どうぞ。
『Navigatria』
お嬢様、と伸ばした腕を引っ込める。自分は家具だ、そう言い聞かせて諦めようとする。
それでも、諦めきれない。
朱志香は嘉音の太陽なのだから。
嘉音は、朱志香を愛しているのだから。
だから、彼女が導いてくれる限り、彼は恋を諦めきれない。
Navigatria
「嘉音くん、ただいま」
バラ庭園で作業をしていたら朱志香のほうから声を掛けてくれた。明るい笑顔が眩しくてついつい目を細めそうになる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「バラの世話してるんだ、大変だな」
「いえ、これが仕事ですから」
釘付けになってしまいそうなその笑顔から目を逸らして、園芸鋏で小さなバラを刈り取る。
朱志香が嘉音のことを好きだと聞いたのは文化祭の少し前のことである。けれど文化祭の夜の一件以来、朱志香本人は彼に対して何も言ってこないし、嘉音にしてもそれについてとかく言うわけにはいかなかったのでずっと黙ってきた。
もしも人間だったなら、と嘉音は夢想する。
もしも自分が人間だったなら、迷うことも躊躇うこともなく朱志香に想いを伝えるのに。
想いを伝えて、甘く香る身体を腕の中に閉じこめて、何度も愛していると囁いて、それから……。
(それから?)
そこで急に現実に引き戻される。どんなに夢想して、どんなに朱志香に恋い焦がれても、嘉音は所詮は家具で、人間ではないのだ。
(何を考えているんだ、僕は……。早く、早く諦めなければいけないのにっ!)
苛立ち任せにしゃくんとバラの枝を切る。じわりと胸に痛みが広がる。
「か、嘉音くんっ!?大丈夫!?」
朱志香の慌てた声に思考が止まる。
「あ……」
嘉音らしくないミス。小枝と一緒に自分の指の皮まで切ってしまうなんて、なんて不覚。胸に広がったはずの痛みは指を切った痛みだったのかとぼんやりと考えた。けれど指はともかく胸までつきんと痛む。
朱志香が悲しそうな、心配そうな顔をしているから。慌てた声で鞄を探った彼女は絆創膏を取り出すと嘉音の手を取った。
「お嬢様……?」
朱志香の行動の意図が分からなくて少しだけ訝しんだ嘉音は、次の瞬間に思い切り仰天していた。
「お嬢様っ!」
「ん……」
温かくて柔らかいものに包まれる。それが朱志香の口内だということに気付いたのは指先に彼女の唇が触れた後だった。傷口に触れぬように、滴る血を清めていくその行為はとても自然で、とても神聖なものに見えた。
けれどもその行為は、嘉音の怪我の原因となった心を通して見ると汚してはならないものを自分の血で汚してしまったような、そんな罪悪感に苛まれる。恋い焦がれる朱志香をそんな目で見てしまった自分に嘉音は嫌悪して、だから痛みを堪えて彼女の口内から指を引き抜いた。
「お嬢様……おやめください」
引き抜いた指を引っ込めると、朱志香が少しだけ傷ついたような表情を浮かべる。
「あ……ご、ごめんな、私……その、余計なこと、しちゃって……」
「いえ……ありがとうございます。心配をおかけしてすみません」
す、と朱志香が何かを嘉音の手に握らせた。それからすぐに立ち上がってしまう。
「じゃ、私……もう行くね。お大事に!」
寂しげな笑顔に胸がまたつきんと痛む。何も言えなくて、立ち上がってお辞儀をする。スカートを翻して屋敷に走っていく彼女を見送りながら、手の平に握られたものの正体を知る。
「絆創膏……」
それは朱志香が取り出した、絆創膏だった。
彼女の体温が移って温かいそれをゆっくりと指に貼り付ける。いつも使用人室の備品を貼る時はてきぱきと貼れるのに、今日に限って絆創膏はあちらへこちらへとずれてゆく。それはまるで今の嘉音の心のよう。朱志香がくれた絆創膏。その事実だけで、彼の心は千々に乱れて仕事どころではなくなってしまう。
「お嬢様……好きです、あなたのことが……好きなんです……」
掠れた声でそう呟いて、嘉音は朱志香の温もりが未だ残る指に唇を押し当てた。
使用人室に戻る途中で朱志香とすれ違う。
「あ、嘉音くん……その、さっきは……」
優しい彼女はいつも嘉音を気に掛けてくれるからこそ、謝らせたくない。
「いえ、ご心配をおかけしました。見苦しい所をお見せして申し訳ございません」
遮ったのに、朱志香の笑顔は何故だか悲しげに見えた。
「う、うん……それじゃ、ね」
金髪がふわふわと揺れる。その背中にお嬢様、と腕を伸ばし掛けて、引っ込める。
自分は家具で、朱志香は人間なのだ。
恋をすることなど叶わない、結ばれることなど叶わないのだ。
だから、彼は朱志香が向かった方とは反対に歩き出した。
使用人室には誰もいなかった。日誌を手に取り、椅子に座る。
ぱらぱらと捲っても書いてあることは頭に入ってこない。
朱志香の顔ばかりがちらついて、嘉音は日誌をぱたんと閉じる。
(お嬢様……悲しませたくなんかなかったのに……)
嘉音にとって朱志香は本来仕えるべき人のはずで、もっとも恋に落ちることが許されないはずの人だ。右代宮の令嬢で、この家の跡取りで、嘉音と同じように六軒島で生を過ごし、六軒島で生を終える少女。
人間と家具の間で恋などしてはならないのだ。
それなのに、その範を越えたくなる。
結ばれてはならないのに、結ばれたいと願ってしまう。
許されない恋を煩ってしまったことは百も承知で、自分が行動を起こすことがどれほど朱志香に迷惑を掛けるかも知っていて、嘉音は朱志香を渇望していた。
朱志香とならば人間として生きていけるかもしれないから。
朱志香とならば空を飛べるかもしれないから。
何故なら朱志香は、嘉音を色鮮やかな明るい世界へと導く太陽なのだから。
「お嬢様……朱志香様……っ」
日誌を握ったままの拳の上に涙がぱたぱたと落ちる。もしも黄金郷が存在したとして、そこでは本当に朱志香と結ばれることが出来るのだろうかと考える。けれどそんな血塗られた場所はただの御伽噺。
自分が人間になりたいと本当に願うのならば、自分の行動で示さなければならないのだ。
自分が朱志香を愛していて、朱志香も嘉音を愛してくれるなら、それはもう二人の黄金郷なのだから。
だから、嘉音は諦めきれない。いや、諦めない。
朱志香が愛おしいから。
その日の夕方、バラ庭園でバラの世話をしていると、朱志香が屋敷から出てくるのが見えた。目が合うと彼女が微笑みかける。
「お嬢様……」
「き、今日の当番、嘉音くんだったんだ」
「はい」
頷くと朱志香はそっか、と笑う。その微笑みは柔らかい。
「お嬢様はどうしてここへ?」
「い、いや、あの、えっと……少し、散歩でもしようかと思って」
「そうですか」
会話が途切れる。沈黙の中、しゃくん、しゃくんとバラの小枝を刈り取る音が聞こえる。すぐそばに朱志香がいる。それだけで鼓動が高鳴る。朱志香に聞こえてしまわないか、それだけが気がかりで。
それが、ミスの元だった。
「きゃっ……」
しゃくん、と枝を切ると同時に朱志香の短い悲鳴が聞こえた。
「お嬢様!?」
鋏をうち捨てて朱志香のほうを向けば、彼女ははっと顔を強張らせて慌てて笑ってみせる。
「あ、だ、大丈夫だぜ、ちょっと掠っただけだから!」
彼女の足下にはバラの小枝。朱志香の指を傷つけたのはこれだろう。
「お嬢様、傷口を見せてください」
「え、あ、大丈夫……」
朱志香が言い終わる前にその白い手の平を取る。傷自体は深くないものの、棘で傷ついた箇所からはじわりと血が滲んでいた。
「申し訳ございません……お嬢様の手に傷を……」
「や、大丈夫だから、あの、手……」
真っ赤に頬を染めて手を引き抜こうとするのを握りしめることで押しとどめて、嘉音は朱志香の傷口に口づけた。
「……!」
そのまま指を口内に含むと、まごまごと朱志香の指が逃げまどって、結局は大人しくなる。
「や、嘉音、くん……っ」
頬を染めて、困ったようにおろおろしながら朱志香はされるがままになっている。傷口を舐めて清めると、指を解放する。
「僕の不注意です、申し訳ございませんでした。……お嬢様?」
彼女は頬を赤くしたままじっと嘉音を見つめている。
「お嬢様?」
「あ、あぁ、うん、私こそ邪魔しちゃってごめんな。えっと……」
そうしてすっと立ち上がった朱志香を追うように嘉音も立ち上がる。
「あ、あの、私、もう、戻るね」
くるりと嘉音に背を向けて、朱志香は屋敷へと駆け出す。
このまま屋敷に帰らせたくない。
想いを伝えたいのだから。
その衝動だけが嘉音を突き動かした。
「朱志香様っ!」
大きく一歩踏み出して、朱志香を背後から抱きしめる。いい匂いがする。彼女は数拍おいて状況を理解したらしく、あわあわと意味のない言葉を紡ぐ。
「朱志香様……行かないでください」
「え……?」
「す……すっ……」
あんなに告げたい言葉なのに、朱志香を目の前にするとす、の先が出てこない。だから朱志香は困ったように嘉音くん、と囁く。
「す……」
「あの、ね……嘉音くんの、せいじゃないから……私の不注意だから……謝らないでくれよ……」
弱々しい声に胸が締め付けられる。だから嘉音は全力で否定する。
「違うんです!」
「違うって、何が!?」
「好きですっ……朱志香様が好きなんですっ」
え、と朱志香が身を捩って振り向いてくれる。嘉音はなおも腕の中に柔らかな体を抱きしめながらもう一度想いを告げる。
「愛しています、朱志香様……」
今度は朱志香は何も返さず、呆然と嘉音を見つめる。
不意に、彼女の頬を一筋の涙が転がり落ちた。
「朱志香様!?」
「ありがと……嬉しいの、嘉音くんにそう言ってもらえて、嬉しいの……!」
ぐしぐしと目を擦る朱志香を再びきつく抱きしめる。
「あなたが喜んでくださるのなら、何度でも言います!朱志香様を愛しているんです!」
「ありがと……ありがとう、嘉音くん……!私も、その……」
「朱志香様?」
「あの、私も、好きだぜ!」
朱志香の頬は今までよりもずっと赤かった。おそらく嘉音のそれも同じぐらい赤くなっているだろう。だってはっきりとした愛の告白は今この瞬間、初めて受けたのだから。
ふつふつと心の底から嬉しさが湧き上がる。
朱志香と想い合うことが許される、その幸せが嬉しくてたまらない。
「ありがとうございます……愛しています、朱志香様……!」
涙は嬉しい時にも流れるのだと、嘉音は初めて知ったのだった。
ずっと朱志香が太陽のように眩しかった。
嘉音を導くのはいつだって朱志香だった。
だから、これからは二人で歩いてゆく。
例えこの先に何が待ち受けていようとも、どんなことが起ころうとも、朱志香の導きをすぐ近くで追いかけながら、二人手を繋いでどこまでも一緒に歩んでゆくのだ。
二人の間にはもう何人たりとも引き裂けない、強い強い愛の絆があるのだから。
それでも、諦めきれない。
朱志香は嘉音の太陽なのだから。
嘉音は、朱志香を愛しているのだから。
だから、彼女が導いてくれる限り、彼は恋を諦めきれない。
Navigatria
「嘉音くん、ただいま」
バラ庭園で作業をしていたら朱志香のほうから声を掛けてくれた。明るい笑顔が眩しくてついつい目を細めそうになる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「バラの世話してるんだ、大変だな」
「いえ、これが仕事ですから」
釘付けになってしまいそうなその笑顔から目を逸らして、園芸鋏で小さなバラを刈り取る。
朱志香が嘉音のことを好きだと聞いたのは文化祭の少し前のことである。けれど文化祭の夜の一件以来、朱志香本人は彼に対して何も言ってこないし、嘉音にしてもそれについてとかく言うわけにはいかなかったのでずっと黙ってきた。
もしも人間だったなら、と嘉音は夢想する。
もしも自分が人間だったなら、迷うことも躊躇うこともなく朱志香に想いを伝えるのに。
想いを伝えて、甘く香る身体を腕の中に閉じこめて、何度も愛していると囁いて、それから……。
(それから?)
そこで急に現実に引き戻される。どんなに夢想して、どんなに朱志香に恋い焦がれても、嘉音は所詮は家具で、人間ではないのだ。
(何を考えているんだ、僕は……。早く、早く諦めなければいけないのにっ!)
苛立ち任せにしゃくんとバラの枝を切る。じわりと胸に痛みが広がる。
「か、嘉音くんっ!?大丈夫!?」
朱志香の慌てた声に思考が止まる。
「あ……」
嘉音らしくないミス。小枝と一緒に自分の指の皮まで切ってしまうなんて、なんて不覚。胸に広がったはずの痛みは指を切った痛みだったのかとぼんやりと考えた。けれど指はともかく胸までつきんと痛む。
朱志香が悲しそうな、心配そうな顔をしているから。慌てた声で鞄を探った彼女は絆創膏を取り出すと嘉音の手を取った。
「お嬢様……?」
朱志香の行動の意図が分からなくて少しだけ訝しんだ嘉音は、次の瞬間に思い切り仰天していた。
「お嬢様っ!」
「ん……」
温かくて柔らかいものに包まれる。それが朱志香の口内だということに気付いたのは指先に彼女の唇が触れた後だった。傷口に触れぬように、滴る血を清めていくその行為はとても自然で、とても神聖なものに見えた。
けれどもその行為は、嘉音の怪我の原因となった心を通して見ると汚してはならないものを自分の血で汚してしまったような、そんな罪悪感に苛まれる。恋い焦がれる朱志香をそんな目で見てしまった自分に嘉音は嫌悪して、だから痛みを堪えて彼女の口内から指を引き抜いた。
「お嬢様……おやめください」
引き抜いた指を引っ込めると、朱志香が少しだけ傷ついたような表情を浮かべる。
「あ……ご、ごめんな、私……その、余計なこと、しちゃって……」
「いえ……ありがとうございます。心配をおかけしてすみません」
す、と朱志香が何かを嘉音の手に握らせた。それからすぐに立ち上がってしまう。
「じゃ、私……もう行くね。お大事に!」
寂しげな笑顔に胸がまたつきんと痛む。何も言えなくて、立ち上がってお辞儀をする。スカートを翻して屋敷に走っていく彼女を見送りながら、手の平に握られたものの正体を知る。
「絆創膏……」
それは朱志香が取り出した、絆創膏だった。
彼女の体温が移って温かいそれをゆっくりと指に貼り付ける。いつも使用人室の備品を貼る時はてきぱきと貼れるのに、今日に限って絆創膏はあちらへこちらへとずれてゆく。それはまるで今の嘉音の心のよう。朱志香がくれた絆創膏。その事実だけで、彼の心は千々に乱れて仕事どころではなくなってしまう。
「お嬢様……好きです、あなたのことが……好きなんです……」
掠れた声でそう呟いて、嘉音は朱志香の温もりが未だ残る指に唇を押し当てた。
使用人室に戻る途中で朱志香とすれ違う。
「あ、嘉音くん……その、さっきは……」
優しい彼女はいつも嘉音を気に掛けてくれるからこそ、謝らせたくない。
「いえ、ご心配をおかけしました。見苦しい所をお見せして申し訳ございません」
遮ったのに、朱志香の笑顔は何故だか悲しげに見えた。
「う、うん……それじゃ、ね」
金髪がふわふわと揺れる。その背中にお嬢様、と腕を伸ばし掛けて、引っ込める。
自分は家具で、朱志香は人間なのだ。
恋をすることなど叶わない、結ばれることなど叶わないのだ。
だから、彼は朱志香が向かった方とは反対に歩き出した。
使用人室には誰もいなかった。日誌を手に取り、椅子に座る。
ぱらぱらと捲っても書いてあることは頭に入ってこない。
朱志香の顔ばかりがちらついて、嘉音は日誌をぱたんと閉じる。
(お嬢様……悲しませたくなんかなかったのに……)
嘉音にとって朱志香は本来仕えるべき人のはずで、もっとも恋に落ちることが許されないはずの人だ。右代宮の令嬢で、この家の跡取りで、嘉音と同じように六軒島で生を過ごし、六軒島で生を終える少女。
人間と家具の間で恋などしてはならないのだ。
それなのに、その範を越えたくなる。
結ばれてはならないのに、結ばれたいと願ってしまう。
許されない恋を煩ってしまったことは百も承知で、自分が行動を起こすことがどれほど朱志香に迷惑を掛けるかも知っていて、嘉音は朱志香を渇望していた。
朱志香とならば人間として生きていけるかもしれないから。
朱志香とならば空を飛べるかもしれないから。
何故なら朱志香は、嘉音を色鮮やかな明るい世界へと導く太陽なのだから。
「お嬢様……朱志香様……っ」
日誌を握ったままの拳の上に涙がぱたぱたと落ちる。もしも黄金郷が存在したとして、そこでは本当に朱志香と結ばれることが出来るのだろうかと考える。けれどそんな血塗られた場所はただの御伽噺。
自分が人間になりたいと本当に願うのならば、自分の行動で示さなければならないのだ。
自分が朱志香を愛していて、朱志香も嘉音を愛してくれるなら、それはもう二人の黄金郷なのだから。
だから、嘉音は諦めきれない。いや、諦めない。
朱志香が愛おしいから。
その日の夕方、バラ庭園でバラの世話をしていると、朱志香が屋敷から出てくるのが見えた。目が合うと彼女が微笑みかける。
「お嬢様……」
「き、今日の当番、嘉音くんだったんだ」
「はい」
頷くと朱志香はそっか、と笑う。その微笑みは柔らかい。
「お嬢様はどうしてここへ?」
「い、いや、あの、えっと……少し、散歩でもしようかと思って」
「そうですか」
会話が途切れる。沈黙の中、しゃくん、しゃくんとバラの小枝を刈り取る音が聞こえる。すぐそばに朱志香がいる。それだけで鼓動が高鳴る。朱志香に聞こえてしまわないか、それだけが気がかりで。
それが、ミスの元だった。
「きゃっ……」
しゃくん、と枝を切ると同時に朱志香の短い悲鳴が聞こえた。
「お嬢様!?」
鋏をうち捨てて朱志香のほうを向けば、彼女ははっと顔を強張らせて慌てて笑ってみせる。
「あ、だ、大丈夫だぜ、ちょっと掠っただけだから!」
彼女の足下にはバラの小枝。朱志香の指を傷つけたのはこれだろう。
「お嬢様、傷口を見せてください」
「え、あ、大丈夫……」
朱志香が言い終わる前にその白い手の平を取る。傷自体は深くないものの、棘で傷ついた箇所からはじわりと血が滲んでいた。
「申し訳ございません……お嬢様の手に傷を……」
「や、大丈夫だから、あの、手……」
真っ赤に頬を染めて手を引き抜こうとするのを握りしめることで押しとどめて、嘉音は朱志香の傷口に口づけた。
「……!」
そのまま指を口内に含むと、まごまごと朱志香の指が逃げまどって、結局は大人しくなる。
「や、嘉音、くん……っ」
頬を染めて、困ったようにおろおろしながら朱志香はされるがままになっている。傷口を舐めて清めると、指を解放する。
「僕の不注意です、申し訳ございませんでした。……お嬢様?」
彼女は頬を赤くしたままじっと嘉音を見つめている。
「お嬢様?」
「あ、あぁ、うん、私こそ邪魔しちゃってごめんな。えっと……」
そうしてすっと立ち上がった朱志香を追うように嘉音も立ち上がる。
「あ、あの、私、もう、戻るね」
くるりと嘉音に背を向けて、朱志香は屋敷へと駆け出す。
このまま屋敷に帰らせたくない。
想いを伝えたいのだから。
その衝動だけが嘉音を突き動かした。
「朱志香様っ!」
大きく一歩踏み出して、朱志香を背後から抱きしめる。いい匂いがする。彼女は数拍おいて状況を理解したらしく、あわあわと意味のない言葉を紡ぐ。
「朱志香様……行かないでください」
「え……?」
「す……すっ……」
あんなに告げたい言葉なのに、朱志香を目の前にするとす、の先が出てこない。だから朱志香は困ったように嘉音くん、と囁く。
「す……」
「あの、ね……嘉音くんの、せいじゃないから……私の不注意だから……謝らないでくれよ……」
弱々しい声に胸が締め付けられる。だから嘉音は全力で否定する。
「違うんです!」
「違うって、何が!?」
「好きですっ……朱志香様が好きなんですっ」
え、と朱志香が身を捩って振り向いてくれる。嘉音はなおも腕の中に柔らかな体を抱きしめながらもう一度想いを告げる。
「愛しています、朱志香様……」
今度は朱志香は何も返さず、呆然と嘉音を見つめる。
不意に、彼女の頬を一筋の涙が転がり落ちた。
「朱志香様!?」
「ありがと……嬉しいの、嘉音くんにそう言ってもらえて、嬉しいの……!」
ぐしぐしと目を擦る朱志香を再びきつく抱きしめる。
「あなたが喜んでくださるのなら、何度でも言います!朱志香様を愛しているんです!」
「ありがと……ありがとう、嘉音くん……!私も、その……」
「朱志香様?」
「あの、私も、好きだぜ!」
朱志香の頬は今までよりもずっと赤かった。おそらく嘉音のそれも同じぐらい赤くなっているだろう。だってはっきりとした愛の告白は今この瞬間、初めて受けたのだから。
ふつふつと心の底から嬉しさが湧き上がる。
朱志香と想い合うことが許される、その幸せが嬉しくてたまらない。
「ありがとうございます……愛しています、朱志香様……!」
涙は嬉しい時にも流れるのだと、嘉音は初めて知ったのだった。
ずっと朱志香が太陽のように眩しかった。
嘉音を導くのはいつだって朱志香だった。
だから、これからは二人で歩いてゆく。
例えこの先に何が待ち受けていようとも、どんなことが起ころうとも、朱志香の導きをすぐ近くで追いかけながら、二人手を繋いでどこまでも一緒に歩んでゆくのだ。
二人の間にはもう何人たりとも引き裂けない、強い強い愛の絆があるのだから。
むしゃくしゃして書いた。
だが反省はしていない。
そんなわけで「うみねこ」のEP6までをネタバレのみを含めて読んだ結果出来ちゃったカノジェシ妄想小説。
今出さないと永遠に出せない気がしますので出しちゃいます。
!諸注意!
・ベアト=朱志香説です。
・八城十八=嘉音説です。
・嘉音がいつも以上にヤンデレで変態です。
・朱志香の年齢が退行しています。
・なぜかベルンカステル卿がちょろっと出てきています。
・R15です。
では、どうぞ。
miracle of whiches
だが反省はしていない。
そんなわけで「うみねこ」のEP6までをネタバレのみを含めて読んだ結果出来ちゃったカノジェシ妄想小説。
今出さないと永遠に出せない気がしますので出しちゃいます。
!諸注意!
・ベアト=朱志香説です。
・八城十八=嘉音説です。
・嘉音がいつも以上にヤンデレで変態です。
・朱志香の年齢が退行しています。
・なぜかベルンカステル卿がちょろっと出てきています。
・R15です。
では、どうぞ。
miracle of whiches
六軒島爆発事故。
それはあまりにも突発的に起きたことだった。
嘉哉のあずかり知らぬところで、彼の大切な人を奪ってしまった。
彼が八城十八と名乗り始め、女性のフリをしたのはボトルメールに嘉音という名前があったから、というのがひとつの理由だった。
爆発事故の日は右代宮家の親族会議だった。その場に何故彼がいなかったか。
それは右代宮家を解雇されたからであった。
朱志香と心を通わせて少し経った頃に突然通告されたことだった。
それなのに、彼の名前がボトルメールに書いてあったのだ。
それは即ち、『嘉音』を社会から隠すということ。
知られては困る真相を彼とボトルメールの作者、すなわち朱志香が共有していることを仄めかすことでもあった。
そして嘉哉は真相を隠すことを選んだからである。
もう一つの理由は全てを知ってしまったからだった。
爆発事故は事故ではなかったこと。
愛のない親族に愛を与えたかったこと。
昔の恋を諦めなければならなかったこと。
それでも罪を糾弾しなければならなかったこと。
右代宮戦人の罪が朱志香への裏切り、即ち魔法の否定だったこと。
そして、重症化した喘息に自らの死期を悟った朱志香が、戦人への恋も親族への愛も、嘉哉への恋さえも抱きしめたまま次々と親族達を殺していったこと。
それらは朱志香本人が伝えたことだった。真相を手紙に綴り、銀行のカードと嘉哉との思い出の品と一緒に箱に詰めて船長に託したのだった。
それを受け取った時、彼は全てを知った。
朱志香が彼に向けてくれた、真実の愛を知った。
だから、嘉哉は八城十八となった。
書かなければ、と筆を執って偽書を執筆する傍らで、彼が最初で最後に愛した朱志香が他の男と心を通わせかねない話を書くのはとんでもない苦痛であった。
朱志香が託した真実を守らなければ、という気持ちとこのまま朱志香の元に行って幸せになってしまいたいという気持ちの板挟みに陥った時に、ベルンカステルと名乗る魔女が現れた。
「あなたに朱志香を返してあげるわ」
「は……?」
魔女はくすくすと笑ってぱちんと指を鳴らす。すると、何もないはずの空間に人の姿が現れる。
ウェーブがかった金髪の美少女。
閉ざされた瞳は見えなかったけれど、その少女は間違いなく事故……いや、六軒島大量殺人事件で自らを犠牲にした嘉哉の恋人、右代宮朱志香であった。
「朱志香、さん……」
ゆっくりと腕の中に落ちてくる彼女を抱き留める。最後に抱いた時よりも小さく頼りなげに見えるのは彼が成長したせいだろうか。
「その朱志香はこのカケラから連れてきた彼女じゃないわ。あなたがあんまりにも嘆いているからちょっとした気まぐれで別のカケラから1986年以前の朱志香を連れてきただけよ」
「そんなことが……カケラ……!?」
思考が追いついていかない。
ベルンカステルは何を言っているのか、さっぱり分からない。
「ちなみに彼女はあんたのことなんか全然知らないわ。14才だから。……夏妃達に邪魔者扱いされるカケラに置いておくのも良かったんだけど、この子自身が死にそうだったのだもの」
朱志香の身体をかき抱く。そのカケラとやらの彼女の境遇を思えば、たしかにここに置いておく方がよいのだろう。
そして、魔女はこう言った。
「彼女をどうしようが、あとはあんたの勝手よ」
嘉哉の腕の中で朱志香が目覚めたのは夜明け頃だった。
「ぅ……ん……」
「おはようございます、朱志香さん」
眠そうに目を瞬かせた彼女はそこが自分の部屋でないことに気が付いて怯えたような顔をする。
「ここ……どこ……あんたは……」
「ここは僕の部屋です」
ぎゅ、と抱きしめると、朱志香は酷く怯えて暴れ始めた。
「やだっ……放せっ、放せよっ」
嘉哉を知らない頃の彼女は戦人を好いていた筈だ。ならば知らない男に抱きしめられているのは不愉快、もしくは屈辱に近いかもしれない。
しかし、彼にとってもそれは不愉快だった。だから無理矢理に口づける。
「んっ……ん、んぅ……」
深く口づけて朱志香の動きを押さえ込む。舌先で唇をつついて彼女の口内に入り込む。
「ふ……ぅん……っ」
唇を離すと2人の間に銀色の糸が伝う。朱志香の柔らかい身体をもう一度抱き込んでベッドに潜る。
「嫌だぁ……っ、離してぇ……」
「朱志香様……僕は嘉哉といいます」
今にも泣き出しそうな顔をしていた朱志香がこちらを見上げる。
「よし……や……」
「あなたはこれからここで生きるのです。あなたを邪魔者扱いする奥様達の元になど……返しません」
びくんと彼女の身体が震えた。
「そんな……こと……」
「僕は……この世界ではかつてあなたの家具でした。けれど、あなたを守ることがとうとう出来なかった……だから、今度こそは守ってみせます。あなたを傷つける全てをこの手で葬り去りましょう。あなたがいつも笑っていられる世界を作りましょう。あなたのためなら僕は何でも出来る……だから」
全て本当のこと。
朱志香と結ばれて少し経った頃に、彼は突然解雇を言い渡された。
だから彼は魔女ベアトリーチェと化した朱志香を止めることが出来なかった。
朱志香の汚れのない心にどす黒いどろどろした憎しみが広がっていくのを止められなかった。
そして、朱志香の心を侵す全てのものから彼女を守りきることが出来なかった。
けれど、今度こそ朱志香を守りきってみせる。
彼女が望むならなんだって出来る。
彼女を傷つけるものはなんであろうと……例えそれが紗音であろうとも、嘉哉は葬り去れるだろう。
朱志香があの太陽のような微笑みをもう一度見せてくれるのならば、彼は魔女の爪先にだって躊躇なくキスできるだろう。
愛してください、と抱きしめた腕の中で朱志香が体を震わせた。
「嘉哉……さん……」
「朱志香……この世界であなたを失ってから、僕の時間はずっと止まったままでした……どうしようもなくあなたが欲しかった……」
それが今、彼女は彼の腕の中にいる。
確かに目の前にいる少女は嘉哉の世界の中にいた朱志香ではない。けれど、姿も、声も、匂いも、身に纏う雰囲気も朱志香のそれだ。
彼が偽書で描写した、ベアトリーチェを失って、新たなるベアトリーチェを創りだした右代宮戦人と同じシチュエーション。
けれど、それでも彼女が朱志香ではないと嘆くには、彼はあまりに朱志香を愛しすぎていた。
記憶の中で嘉哉くん、と笑う右代宮朱志香と寸分違わず、されど時間だけが違う彼女は、それでもやはり右代宮朱志香だったのだから。
「愛しているんです……あなたを、あなただけを愛しています……」
「嘉哉さん……」
背中に回されるしなやかな腕の感触に渇いた心が癒えていく。
「私……ここにいても、良いの……?」
「ここに……いてください……」
きつくきつく抱きしめて、漸く愛しい人が戻ってきた喜びに嘉哉は涙した。
暫くして朱志香が彼を嘉哉くんと呼ぶようになった頃、嘉哉は全てを話すことにした。
「朱志香、僕はずっと……朱志香の物語を書いていたんだ」
「私の……?」
「そう。前にも話したけど、朱志香はこの世界では死んだことになってる。絵羽様と、縁寿様を除いて」
「紗音や……譲治兄さんも?」
「そう。それと、……戦人様も」
あの日の新聞を見せる。12年前の10月6日の夕刊。
六軒島爆発事故。
伊豆諸島にある右代宮家所蔵の島で起きた爆発事故。
親族会議のために前々日から集まっていた当主・右代宮蔵臼を始めとする16人の生存は絶望的……。
その翌日の朝刊。
右代宮家本邸から離れた隠れ屋敷の地下で右代宮絵羽が見つかる。
そして、その数年後の日付の夕刊。
六軒島爆発事故の様子を描いたボトルメールが発見される。
「ボトルメール……?」
「そう、ボトルメール」
「ベアトリーチェのボトルメールのことか?」
それを聞いて、驚いた。
「知っているの?」
「だって……あれは……みんなが幸せになれる魔法を私が自分で書いたものだから……母さん達から邪魔者にされなくてすむ……愛のある世界を書いたものだから」
「碑文通りに殺人事件が起きるんだ……」
「碑文……殺人……!?そんな……碑文って、何のことだよ……それに、殺人……って……そんな、そんなの、私は書いた覚えがねぇぜ!」
そう言えばそうだ。碑文が飾られたのは朱志香が16歳の時だった。ちょうど今の彼女と同じ年頃だ。14で嘉哉の元に連れてこられた彼女が知るはずがない。
「碑文は金蔵様が当主選びのために作ったものなんだ。その碑文に沿って、13人が殺されて、遺った5人も最後は死んでしまう……そう言う内容なんだ」
「……犯人は、私……ベアトリーチェなのか?」
「ベアトリーチェだって、ボトルメールには書いてある……けれど、朱志香が犯人だって……手紙をくれて……」
「……見せてくれないか?」
手紙と真相の書かれたノートを渡す。彼女はそれを全て読むからと寝室に入っていってしまった。
「朱志香……」
碑文のことも、殺人のことも知らなくても、彼女は確かに朱志香だ。
だからこそ心配で心配で仕方ないのだ。
朱志香を自分の鳥籠の中に閉じこめたのに、それでもまだ死んだ戦人に彼女を攫われる不安に襲われる。
朱志香はお前のものではないと嘲笑われて彼女を攫われてしまう悪夢を彼はここ数日見ていたのだ。
だから、寝室にそっと入り込む。
「嘉哉くん……」
気付いた朱志香がこちらを向く。その眼には、涙。
「朱志香……!?」
「この世界の私……も、辛かったんだ……本当は殺したくなんて、なかっ……」
朱志香の頬を涙が伝う。
「朱志香……」
抱きしめると、彼の腕の中で朱志香は何度もしゃくり上げた。
「嘉哉くん……っ、私……」
「どこにも……どこにも行かないでください!」
言葉を遮ってもっときつく抱きしめる。
「嘉哉くん……」
「朱志香が戦人様を愛していたのは知ってます。でも……それでも、僕はあなたを……」
ぎゅ、としなやかな腕が抱き返す。
「うん……どこにも、行かない……」
大好きで、ずっとずっと聞きたくて、それでも朱志香がいない時には叶わなかった優しい声。
「だから……私を元の世界に帰さないで……私……白い魔女のままでいたい……」
「元の世界になんて返しません……ずっと、僕の傍にいてください……愛してるんです……朱志香」
「嘉哉くん……」
「事件当日、僕は島にいることが出来なかったんだ……」
「え……でも、嘉音くん、って嘉哉くんの事じゃ……」
「姉さんの……紗音の行動を半分削って、そこに僕を入れたんだ……朱志香が、僕を島にいさせてくれた」
「あ……」
「だから……僕は朱志香の物語を書き続けるんだ……だけど、朱志香が戦人様と愛し合うのを書くのが、辛くて……」
「嘉哉くん……大丈夫……大丈夫だよ……私はずっと傍にいるから……」
一番聞きたかった声。一番欲しかった言葉。
元のカケラがどうなろうと、嘉哉の知ったことではなかった。
何故なら、今この瞬間、朱志香は彼だけのものなのだから。
だから、腕の中の宝物を壊してしまわないように優しく抱きしめて口づけた。
「ん……っ」
「朱志香……愛してる。この世で一番愛してる……」
通販で買ったワンピースの胸元に手を這わせる。
「あ……っ、嘉哉くん……っ」
首筋に口づけて、重なる鼓動に酔いしれた。
朱志香と床を共にするのは10年ぶりだった。嘉哉の元で養育された腕の中の朱志香は相変わらず可愛らしくて、やっぱりもうどこにも帰したくなくなっていた。
思い返してみれば、朱志香はずっと嘉哉のことを気に掛けていた。それに応えなかったのは彼の罪。
贖罪のために朱志香を抱くわけではない。
けれど、密告されても傍にいることが出来なかったから事件が起こってしまったのかもしれないとずっと後悔してきた。
後で聞いたことだったが、2人のことを密告したのは紗音だった。
ずっと信頼していたけれど、しかし姉は譲治との結婚という誘惑には勝てなかったのだろう。
もともと、紗音と譲治、嘉音と朱志香の二組のうち、どちらかしか結ばれなかったのだ。右代宮家の当主候補は朱志香と譲治。しかし当主と結婚するのが使用人では親たちの収まりがつかなかったのだ。
だから紗音が譲治と結婚してしまえば嘉音は朱志香と結婚することは出来なくなる。だからといって朱志香が他の男と愛を育むのを見ているのも辛かった。だから島から出てしまったほうがましだと思った。
だが嘉音が朱志香と結婚できれば紗音が譲治と結婚することは出来なくなる。しかし紗音は元々本家のメイドだから、譲治と一年に一回だけ会って、諦めるだけですむのだ。
けれどその緊張状態は譲治と結婚したいがための紗音の行動で崩されてしまったのだ。
未発表の原稿に書いた紗音との決闘。
2人がもしも現実で決闘して、二人共が倒れてしまったとしても、朱志香は戦人と結婚して当主になるだろう。なぜなら彼女はベアトリーチェだから。実際朱志香の幸せを願って書いた本来の筋書きはその筈だった。
それなのに執筆中にどうしようもなく紗音が憎くなって、紗音の行動の全てを自分に書き換えたくなった。
朱志香を裏切り、嘉哉を裏切った紗音への恨みが爆発したのだ。
だからあの筋書きは彼の個人的な恨み故だと言える。
けれど、彼の敗北という現実に、嘉哉の妄想は勝つことが出来なかった。傍に朱志香がいなかったから。
紗音が勝った時点で朱志香は嘉音と愛し合うことが出来なくなって、結果ベアトリーチェとひとつになった。
もし密告されても朱志香を攫って島から出ていれば、こんな事件は起きなかったのかもしれない。
その苦い後悔が胸を満たす。
「嘉哉、くん……?」
不安そうな声にはっと現実に引き戻される。朱志香はワンピースが申し訳程度に腹に引っ掛かっているしどけない格好で、潤んだ目のままこちらを見ていた。
「どうしたの……」
「朱志香のこと、考えてた」
「この世界の私のこと?」
「うん……ずっと離さなければ事件が起きることもなかったかな、って」
「……わかんないけど……多分、私はそれでも事件を起こしたかもしれない」
「朱志香……」
腕の中にいる朱志香はずっと夏妃達から疎まれていた、とベルンカステルが言っていたか。
「私……母さん達に嫌われてるから……幾ら自分のことに精一杯がんばれるもう1人の自分を作っても、辛いものはやっぱり辛いんだぜ……?」
はらりと涙がこぼれ落ちる。
「もしかしたら愛されていたのかもしれない……でも、愛されているフリをして嫌われているのはもっと辛いから、そういう時はベアトに慰めて貰ったんだ……お母様、大丈夫ですよって」
待ち続けるのが辛くて、口約束をバカ正直に信じているのを大人達にバカにされて、それでも彼女は待っていたのだ。ベアトリーチェをイマジナリーフレンドとして創り出すことで、ずっと励まして貰ったり慰めて貰ったりしながら、待ち続けていたのだ。
「ねえ、嘉哉くん……」
「うん」
「本当はね、私も、この世界の右代宮朱志香も、戦人との約束なんて諦めかけていたのかもしれない。ベアトがいてくれたから、ずっと好きでいることが出来たのかもしれない。けど、多分、どうしようもない事情で諦めなきゃいけなかったのかもしれない……」
いとこ同士の結婚は可能だが、家が栄えないという理由で却下されたのかもしれない、と嘉哉はぼんやり思う。一度却下されてしまえば覆ることがないのが右代宮家。しかも戦人は朱志香の魔法を否定した。その辺りが彼女をベアトリーチェの母親たらしめる事情なのだろう。
「だけど……私、今は……嘉哉くんの傍にいたい」
「朱志香……」
「もうこの世界で戦人が迎えに来てくれることはないし、このまま母さん達のところに戻っても戦人と恋することは出来ないんだ……それに、嘉哉くんを、幸せにしたい……」
その一言が嬉しかった。
彼女の華奢な身体を抱きしめる。
「朱志香……、大好きです、あなたが……あなただけが……っ」
「よしや、くん……っ、わたしも、好きぃ……っ」
12年越しの想い。それはずっと叶わないと想っていた。
この世に真の意味での魔女が存在するならば、それは朱志香と再び心を通わせる奇跡を起こしてくれたベルンカステルが適当なのだろう。
いや、奇跡を起こした自分たちと見るべきか。
ともあれこうして再び朱志香は彼の鳥籠へと囚われる。
温かな身体を腕の中に抱きしめて、嘉哉は幸せのうちに目を閉じた。
それはあまりにも突発的に起きたことだった。
嘉哉のあずかり知らぬところで、彼の大切な人を奪ってしまった。
彼が八城十八と名乗り始め、女性のフリをしたのはボトルメールに嘉音という名前があったから、というのがひとつの理由だった。
爆発事故の日は右代宮家の親族会議だった。その場に何故彼がいなかったか。
それは右代宮家を解雇されたからであった。
朱志香と心を通わせて少し経った頃に突然通告されたことだった。
それなのに、彼の名前がボトルメールに書いてあったのだ。
それは即ち、『嘉音』を社会から隠すということ。
知られては困る真相を彼とボトルメールの作者、すなわち朱志香が共有していることを仄めかすことでもあった。
そして嘉哉は真相を隠すことを選んだからである。
もう一つの理由は全てを知ってしまったからだった。
爆発事故は事故ではなかったこと。
愛のない親族に愛を与えたかったこと。
昔の恋を諦めなければならなかったこと。
それでも罪を糾弾しなければならなかったこと。
右代宮戦人の罪が朱志香への裏切り、即ち魔法の否定だったこと。
そして、重症化した喘息に自らの死期を悟った朱志香が、戦人への恋も親族への愛も、嘉哉への恋さえも抱きしめたまま次々と親族達を殺していったこと。
それらは朱志香本人が伝えたことだった。真相を手紙に綴り、銀行のカードと嘉哉との思い出の品と一緒に箱に詰めて船長に託したのだった。
それを受け取った時、彼は全てを知った。
朱志香が彼に向けてくれた、真実の愛を知った。
だから、嘉哉は八城十八となった。
書かなければ、と筆を執って偽書を執筆する傍らで、彼が最初で最後に愛した朱志香が他の男と心を通わせかねない話を書くのはとんでもない苦痛であった。
朱志香が託した真実を守らなければ、という気持ちとこのまま朱志香の元に行って幸せになってしまいたいという気持ちの板挟みに陥った時に、ベルンカステルと名乗る魔女が現れた。
「あなたに朱志香を返してあげるわ」
「は……?」
魔女はくすくすと笑ってぱちんと指を鳴らす。すると、何もないはずの空間に人の姿が現れる。
ウェーブがかった金髪の美少女。
閉ざされた瞳は見えなかったけれど、その少女は間違いなく事故……いや、六軒島大量殺人事件で自らを犠牲にした嘉哉の恋人、右代宮朱志香であった。
「朱志香、さん……」
ゆっくりと腕の中に落ちてくる彼女を抱き留める。最後に抱いた時よりも小さく頼りなげに見えるのは彼が成長したせいだろうか。
「その朱志香はこのカケラから連れてきた彼女じゃないわ。あなたがあんまりにも嘆いているからちょっとした気まぐれで別のカケラから1986年以前の朱志香を連れてきただけよ」
「そんなことが……カケラ……!?」
思考が追いついていかない。
ベルンカステルは何を言っているのか、さっぱり分からない。
「ちなみに彼女はあんたのことなんか全然知らないわ。14才だから。……夏妃達に邪魔者扱いされるカケラに置いておくのも良かったんだけど、この子自身が死にそうだったのだもの」
朱志香の身体をかき抱く。そのカケラとやらの彼女の境遇を思えば、たしかにここに置いておく方がよいのだろう。
そして、魔女はこう言った。
「彼女をどうしようが、あとはあんたの勝手よ」
嘉哉の腕の中で朱志香が目覚めたのは夜明け頃だった。
「ぅ……ん……」
「おはようございます、朱志香さん」
眠そうに目を瞬かせた彼女はそこが自分の部屋でないことに気が付いて怯えたような顔をする。
「ここ……どこ……あんたは……」
「ここは僕の部屋です」
ぎゅ、と抱きしめると、朱志香は酷く怯えて暴れ始めた。
「やだっ……放せっ、放せよっ」
嘉哉を知らない頃の彼女は戦人を好いていた筈だ。ならば知らない男に抱きしめられているのは不愉快、もしくは屈辱に近いかもしれない。
しかし、彼にとってもそれは不愉快だった。だから無理矢理に口づける。
「んっ……ん、んぅ……」
深く口づけて朱志香の動きを押さえ込む。舌先で唇をつついて彼女の口内に入り込む。
「ふ……ぅん……っ」
唇を離すと2人の間に銀色の糸が伝う。朱志香の柔らかい身体をもう一度抱き込んでベッドに潜る。
「嫌だぁ……っ、離してぇ……」
「朱志香様……僕は嘉哉といいます」
今にも泣き出しそうな顔をしていた朱志香がこちらを見上げる。
「よし……や……」
「あなたはこれからここで生きるのです。あなたを邪魔者扱いする奥様達の元になど……返しません」
びくんと彼女の身体が震えた。
「そんな……こと……」
「僕は……この世界ではかつてあなたの家具でした。けれど、あなたを守ることがとうとう出来なかった……だから、今度こそは守ってみせます。あなたを傷つける全てをこの手で葬り去りましょう。あなたがいつも笑っていられる世界を作りましょう。あなたのためなら僕は何でも出来る……だから」
全て本当のこと。
朱志香と結ばれて少し経った頃に、彼は突然解雇を言い渡された。
だから彼は魔女ベアトリーチェと化した朱志香を止めることが出来なかった。
朱志香の汚れのない心にどす黒いどろどろした憎しみが広がっていくのを止められなかった。
そして、朱志香の心を侵す全てのものから彼女を守りきることが出来なかった。
けれど、今度こそ朱志香を守りきってみせる。
彼女が望むならなんだって出来る。
彼女を傷つけるものはなんであろうと……例えそれが紗音であろうとも、嘉哉は葬り去れるだろう。
朱志香があの太陽のような微笑みをもう一度見せてくれるのならば、彼は魔女の爪先にだって躊躇なくキスできるだろう。
愛してください、と抱きしめた腕の中で朱志香が体を震わせた。
「嘉哉……さん……」
「朱志香……この世界であなたを失ってから、僕の時間はずっと止まったままでした……どうしようもなくあなたが欲しかった……」
それが今、彼女は彼の腕の中にいる。
確かに目の前にいる少女は嘉哉の世界の中にいた朱志香ではない。けれど、姿も、声も、匂いも、身に纏う雰囲気も朱志香のそれだ。
彼が偽書で描写した、ベアトリーチェを失って、新たなるベアトリーチェを創りだした右代宮戦人と同じシチュエーション。
けれど、それでも彼女が朱志香ではないと嘆くには、彼はあまりに朱志香を愛しすぎていた。
記憶の中で嘉哉くん、と笑う右代宮朱志香と寸分違わず、されど時間だけが違う彼女は、それでもやはり右代宮朱志香だったのだから。
「愛しているんです……あなたを、あなただけを愛しています……」
「嘉哉さん……」
背中に回されるしなやかな腕の感触に渇いた心が癒えていく。
「私……ここにいても、良いの……?」
「ここに……いてください……」
きつくきつく抱きしめて、漸く愛しい人が戻ってきた喜びに嘉哉は涙した。
暫くして朱志香が彼を嘉哉くんと呼ぶようになった頃、嘉哉は全てを話すことにした。
「朱志香、僕はずっと……朱志香の物語を書いていたんだ」
「私の……?」
「そう。前にも話したけど、朱志香はこの世界では死んだことになってる。絵羽様と、縁寿様を除いて」
「紗音や……譲治兄さんも?」
「そう。それと、……戦人様も」
あの日の新聞を見せる。12年前の10月6日の夕刊。
六軒島爆発事故。
伊豆諸島にある右代宮家所蔵の島で起きた爆発事故。
親族会議のために前々日から集まっていた当主・右代宮蔵臼を始めとする16人の生存は絶望的……。
その翌日の朝刊。
右代宮家本邸から離れた隠れ屋敷の地下で右代宮絵羽が見つかる。
そして、その数年後の日付の夕刊。
六軒島爆発事故の様子を描いたボトルメールが発見される。
「ボトルメール……?」
「そう、ボトルメール」
「ベアトリーチェのボトルメールのことか?」
それを聞いて、驚いた。
「知っているの?」
「だって……あれは……みんなが幸せになれる魔法を私が自分で書いたものだから……母さん達から邪魔者にされなくてすむ……愛のある世界を書いたものだから」
「碑文通りに殺人事件が起きるんだ……」
「碑文……殺人……!?そんな……碑文って、何のことだよ……それに、殺人……って……そんな、そんなの、私は書いた覚えがねぇぜ!」
そう言えばそうだ。碑文が飾られたのは朱志香が16歳の時だった。ちょうど今の彼女と同じ年頃だ。14で嘉哉の元に連れてこられた彼女が知るはずがない。
「碑文は金蔵様が当主選びのために作ったものなんだ。その碑文に沿って、13人が殺されて、遺った5人も最後は死んでしまう……そう言う内容なんだ」
「……犯人は、私……ベアトリーチェなのか?」
「ベアトリーチェだって、ボトルメールには書いてある……けれど、朱志香が犯人だって……手紙をくれて……」
「……見せてくれないか?」
手紙と真相の書かれたノートを渡す。彼女はそれを全て読むからと寝室に入っていってしまった。
「朱志香……」
碑文のことも、殺人のことも知らなくても、彼女は確かに朱志香だ。
だからこそ心配で心配で仕方ないのだ。
朱志香を自分の鳥籠の中に閉じこめたのに、それでもまだ死んだ戦人に彼女を攫われる不安に襲われる。
朱志香はお前のものではないと嘲笑われて彼女を攫われてしまう悪夢を彼はここ数日見ていたのだ。
だから、寝室にそっと入り込む。
「嘉哉くん……」
気付いた朱志香がこちらを向く。その眼には、涙。
「朱志香……!?」
「この世界の私……も、辛かったんだ……本当は殺したくなんて、なかっ……」
朱志香の頬を涙が伝う。
「朱志香……」
抱きしめると、彼の腕の中で朱志香は何度もしゃくり上げた。
「嘉哉くん……っ、私……」
「どこにも……どこにも行かないでください!」
言葉を遮ってもっときつく抱きしめる。
「嘉哉くん……」
「朱志香が戦人様を愛していたのは知ってます。でも……それでも、僕はあなたを……」
ぎゅ、としなやかな腕が抱き返す。
「うん……どこにも、行かない……」
大好きで、ずっとずっと聞きたくて、それでも朱志香がいない時には叶わなかった優しい声。
「だから……私を元の世界に帰さないで……私……白い魔女のままでいたい……」
「元の世界になんて返しません……ずっと、僕の傍にいてください……愛してるんです……朱志香」
「嘉哉くん……」
「事件当日、僕は島にいることが出来なかったんだ……」
「え……でも、嘉音くん、って嘉哉くんの事じゃ……」
「姉さんの……紗音の行動を半分削って、そこに僕を入れたんだ……朱志香が、僕を島にいさせてくれた」
「あ……」
「だから……僕は朱志香の物語を書き続けるんだ……だけど、朱志香が戦人様と愛し合うのを書くのが、辛くて……」
「嘉哉くん……大丈夫……大丈夫だよ……私はずっと傍にいるから……」
一番聞きたかった声。一番欲しかった言葉。
元のカケラがどうなろうと、嘉哉の知ったことではなかった。
何故なら、今この瞬間、朱志香は彼だけのものなのだから。
だから、腕の中の宝物を壊してしまわないように優しく抱きしめて口づけた。
「ん……っ」
「朱志香……愛してる。この世で一番愛してる……」
通販で買ったワンピースの胸元に手を這わせる。
「あ……っ、嘉哉くん……っ」
首筋に口づけて、重なる鼓動に酔いしれた。
朱志香と床を共にするのは10年ぶりだった。嘉哉の元で養育された腕の中の朱志香は相変わらず可愛らしくて、やっぱりもうどこにも帰したくなくなっていた。
思い返してみれば、朱志香はずっと嘉哉のことを気に掛けていた。それに応えなかったのは彼の罪。
贖罪のために朱志香を抱くわけではない。
けれど、密告されても傍にいることが出来なかったから事件が起こってしまったのかもしれないとずっと後悔してきた。
後で聞いたことだったが、2人のことを密告したのは紗音だった。
ずっと信頼していたけれど、しかし姉は譲治との結婚という誘惑には勝てなかったのだろう。
もともと、紗音と譲治、嘉音と朱志香の二組のうち、どちらかしか結ばれなかったのだ。右代宮家の当主候補は朱志香と譲治。しかし当主と結婚するのが使用人では親たちの収まりがつかなかったのだ。
だから紗音が譲治と結婚してしまえば嘉音は朱志香と結婚することは出来なくなる。だからといって朱志香が他の男と愛を育むのを見ているのも辛かった。だから島から出てしまったほうがましだと思った。
だが嘉音が朱志香と結婚できれば紗音が譲治と結婚することは出来なくなる。しかし紗音は元々本家のメイドだから、譲治と一年に一回だけ会って、諦めるだけですむのだ。
けれどその緊張状態は譲治と結婚したいがための紗音の行動で崩されてしまったのだ。
未発表の原稿に書いた紗音との決闘。
2人がもしも現実で決闘して、二人共が倒れてしまったとしても、朱志香は戦人と結婚して当主になるだろう。なぜなら彼女はベアトリーチェだから。実際朱志香の幸せを願って書いた本来の筋書きはその筈だった。
それなのに執筆中にどうしようもなく紗音が憎くなって、紗音の行動の全てを自分に書き換えたくなった。
朱志香を裏切り、嘉哉を裏切った紗音への恨みが爆発したのだ。
だからあの筋書きは彼の個人的な恨み故だと言える。
けれど、彼の敗北という現実に、嘉哉の妄想は勝つことが出来なかった。傍に朱志香がいなかったから。
紗音が勝った時点で朱志香は嘉音と愛し合うことが出来なくなって、結果ベアトリーチェとひとつになった。
もし密告されても朱志香を攫って島から出ていれば、こんな事件は起きなかったのかもしれない。
その苦い後悔が胸を満たす。
「嘉哉、くん……?」
不安そうな声にはっと現実に引き戻される。朱志香はワンピースが申し訳程度に腹に引っ掛かっているしどけない格好で、潤んだ目のままこちらを見ていた。
「どうしたの……」
「朱志香のこと、考えてた」
「この世界の私のこと?」
「うん……ずっと離さなければ事件が起きることもなかったかな、って」
「……わかんないけど……多分、私はそれでも事件を起こしたかもしれない」
「朱志香……」
腕の中にいる朱志香はずっと夏妃達から疎まれていた、とベルンカステルが言っていたか。
「私……母さん達に嫌われてるから……幾ら自分のことに精一杯がんばれるもう1人の自分を作っても、辛いものはやっぱり辛いんだぜ……?」
はらりと涙がこぼれ落ちる。
「もしかしたら愛されていたのかもしれない……でも、愛されているフリをして嫌われているのはもっと辛いから、そういう時はベアトに慰めて貰ったんだ……お母様、大丈夫ですよって」
待ち続けるのが辛くて、口約束をバカ正直に信じているのを大人達にバカにされて、それでも彼女は待っていたのだ。ベアトリーチェをイマジナリーフレンドとして創り出すことで、ずっと励まして貰ったり慰めて貰ったりしながら、待ち続けていたのだ。
「ねえ、嘉哉くん……」
「うん」
「本当はね、私も、この世界の右代宮朱志香も、戦人との約束なんて諦めかけていたのかもしれない。ベアトがいてくれたから、ずっと好きでいることが出来たのかもしれない。けど、多分、どうしようもない事情で諦めなきゃいけなかったのかもしれない……」
いとこ同士の結婚は可能だが、家が栄えないという理由で却下されたのかもしれない、と嘉哉はぼんやり思う。一度却下されてしまえば覆ることがないのが右代宮家。しかも戦人は朱志香の魔法を否定した。その辺りが彼女をベアトリーチェの母親たらしめる事情なのだろう。
「だけど……私、今は……嘉哉くんの傍にいたい」
「朱志香……」
「もうこの世界で戦人が迎えに来てくれることはないし、このまま母さん達のところに戻っても戦人と恋することは出来ないんだ……それに、嘉哉くんを、幸せにしたい……」
その一言が嬉しかった。
彼女の華奢な身体を抱きしめる。
「朱志香……、大好きです、あなたが……あなただけが……っ」
「よしや、くん……っ、わたしも、好きぃ……っ」
12年越しの想い。それはずっと叶わないと想っていた。
この世に真の意味での魔女が存在するならば、それは朱志香と再び心を通わせる奇跡を起こしてくれたベルンカステルが適当なのだろう。
いや、奇跡を起こした自分たちと見るべきか。
ともあれこうして再び朱志香は彼の鳥籠へと囚われる。
温かな身体を腕の中に抱きしめて、嘉哉は幸せのうちに目を閉じた。
某月某日、晴れ。
今日は海も真っ青だ。あと今日は六軒島リゾート化の第一歩リベンジの日だ。
前回は紗音と僕が挑戦したらなんか却下された。あとお嬢様と戦人様も挑戦されたが却下された。どうも食べ過ぎだったらしく、あの後暫くお嬢様はランニングに勤しんでおられた。
あまりに可愛いのでこっそりビデオで撮影していたらなんかいろいろな人に怒られた。世の中不条理だ。
それはともかく、お嬢様は今日も可愛い。
人魚姫と妄想王子
「失礼します、お嬢様、紗音です」
「失礼します、お嬢様、あなたの嘉音です」
紗音と2人でノックをすると、中から元気の良い声が返ってくる。
「あ、入っていいよ~」
室内に入ってお辞儀をする。朱志香は今日も可愛い。
「今日の撮影の衣装です」
紗音が嘉音の持つ荷物(服の山)を指さす。朱志香は一瞬固まった後、苦笑いしながらわかった、と言った。
「今度は水着じゃないんだな」
「水着もありますよ?私と2人で撮る時に使います」
聞いていない。嘉音はとりあえず姉に提案してみる。
「姉さん、提案があるんだけど」
「何?」
「僕とその役代わって!」
朱志香の顔が少し赤くなる。
「え、嘉音くんと撮影!?」
「大丈夫ですよ、お嬢様」
彼女を落ち着かせてから、紗音はにっこり笑って嘉音のほうを向く。
「いい加減にしなさい、嘉音くん。あなた、前回の撮影で大不評だったじゃない」
「姉さんだって不評だったじゃないか!」
「だいたいあなた、不評になった原因がお嬢様の水着姿が見られなかったから、って何よ?」
「あ、あの……2人とも、落ち着いて?な?」
朱志香の遠慮がちな声に2人ははっと彼女のほうを見る。
「あの、嘉音くんが見たいなら後で見せるから、さ……とりあえず、着替えだけしちゃいたいなぁ、って」
「そうですね。お着替えだけしちゃいましょう。ほら嘉音くん、お部屋を出なきゃダメでしょ」
朱志香に見えないようにこちらを向いた紗音の顔があまりに怖かったのでとりあえず退出する。
だが、である。
特に施錠はしていないので、鍵穴から部屋の中は見えるわけである。
「……よいしょ」
鍵穴から目をこらし、耳を澄ませて様子を伺った。朱志香が普段着をするりと脱ぐと、日に焼けていない白い肌が見える。本日の下着はピンクと白の縞々だ。
「お嬢様が縞々……」
今日の撮影はますます男という名の狼を近づけてはいけないと心に誓う嘉音だったが、彼が一番狼であることに未だに気付いていないのだった。気付いていればどこからどう見ても変質者のようなマネはしないのだから当然だ。
紗音の声が聞こえる。
「お嬢様、最初はバニーガールだそうですよ」
「え、じゃあ肩紐取った方が良いかな?」
「お下着ごと脱がれてもよろしいかと。カップ付いてますよ」
「なんだ……よかった」
バニーガール。その単語だけで嘉音は目を剥きかけた。
朱志香は嘉音の恋人である。よってそんな露出の激しいコスチュームは嘉音の前でのみ見せるべきではないのだろうか。そんなわけで、嘉音の頭はバニーガール姿の朱志香を自然と思い浮かべるわけである。ただし妄想付きで。
『か、嘉音くん……その、に、似合うかな?』
頬を赤く染めて上目遣いでこちらを見上げる朱志香。ものすごく可愛い。
『はい……よくお似合いですよ』
可愛らしい質問にこちらが照れながらもそう返す。すると朱志香は赤い頬に両手をあてて恥ずかしそうに笑うのだ。
『あ、ありがと……えへへ、照れるぜ』
頬に手をあてた拍子に胸の谷間が強調される。元々谷間が出来るような構造の服だが、腕で胸が寄せられて余計に深くなっているのだ。
『朱志香……その、谷間が』
『え?……あっ』
指摘すると、彼女は真っ赤になって胸元を隠す。こんなにボディラインが露わなコスチュームを着せておいたら男が彼女をいやらしい目で見かねない。そもそも自分が彼女をいやらしい目で見ていることに一向に気付かない嘉音は少々お待ちください、と言うと使用人室からシャツを取ってきて優しく彼女に被せるのだ。
『嘉音くん……』
『他の男性に見せてはいけませんよ、朱志香』
『あ……で、でも……撮影だし……』
『コスチュームの変更を申し出てきましょうか?』
そう問いかけると朱志香は耳まで赤くして恥ずかしそうに頷いた。
『その……私、嘉音くんに見られたり、触られたりするのは大丈夫……だから……その』
『よろしいのですか?』
『うん……嘉音くんだったら……いいよ』
羽織らせたばかりのシャツが床に落ちる。そのまま嘉音は朱志香のむき出しの肩をそっと掴んで。
すかっ。どしゃっ。
嘉音は自分を抱きしめる格好で絨毯に強かに口づけた。
「痛い……」
自分の妄想が、ではなく顔面が痛い。絨毯から起きあがり、窓のほうを見ながら呟く。
「いかがでしょうかお館様。僕の朱志香とコスチュームがそこにあるだけで嘉音はこれだけの妄想が可能です……きっと朱志香はちゅーしてくれる」
妄想癖もここまでくると重傷である。
「お待たせ、嘉音くん。どうかな、これ」
嘉音が自主規制も甚だしい妄想をしている間に着替えたらしい朱志香は羽織っていたジャージの前を開けて見せてくれる。ものすごく可愛い。白い肌と黒い衣装のコントラストが素晴らしい。
「とてもよくお似合いです!」
元気のよい返事に朱志香が一瞬戸惑ったような表情になる。
「あ、ありがとな。じゃあ行こうか、2人とも」
「はい」
「はい」
返事をして歩き出してから気が付いた。ちゅーをして貰っていない。しかし今更ちゅーしてください、なんて言えるわけがない。
悶々としていると、前を歩く朱志香のむちむちの太股が目に入った。網タイツに包まれた太股はとても色っぽく見えるのだ。
「まあいいや。……網タイツ最高」
2人に聞こえないように問題発言をしつつ、嘉音は朱志香と紗音とともに浜辺に向かった。
「六軒島にようこそ!六軒島は大都会ではお目に掛かれない綺麗な海と豪華な薔薇庭園の組み合わせがウリだぜ!潮騒の音を聞きながら薔薇庭園でデート、もアリ。家族連れで海水浴、もアリ。疲れたら綺麗なホテルとシェフの美味しい料理で休憩してくれよな!」
なかなか撮影(のリハーサル)は順調である。後は本番(という名のサンプル)を取り終えるだけなのだが、何となくすぐ近くの茂みに隠れている嘉音にはどうしても納得できないことがあった。
「何で戦人様達が来ているんですか!」
「暇で……蔵臼叔父さんが来てくれって言うから」
戦人は朝早かったのだろう、欠伸をしながら答える。譲治はあはは、と笑う。
「蔵臼叔父さんが若者の意見をまた採り入れたいから、って」
「若者なんて僕がいるから充分じゃないですか!」
それにしてもこの嘉音、本気でキレている。いわゆるマジギレ、というやつである。
「あはは、それもそうだよね。……ところで嘉音くん、朱志香ちゃんとはどうなんだい?紗音からは嘉音くんの妄想が激しすぎて破局寸前って聞いたけど」
笑っていた譲治が真剣な顔になって問いかける。勿論嘉音にはそんな覚えは全くない。
「僕の朱志香とはいつでもラブラブです!姉さんが変なデマを吹き込んだようで……」
「お、ついにくっついたのか」
「くっつきました。結婚式は大安吉日です」
しつこいほどに主張しているため聞き慣れている譲治はただ笑っているだけだったが、戦人は素っ頓狂な声を上げて驚く。
「結婚式ぃ!?あの朱志香がか!?」
「はい。僕と朱志香の結婚式です。あの礼拝堂で式を挙げるんです」
「戦人くん、大丈夫?魂抜けてるけど」
「兄貴……男の結婚可能年齢って……」
外野2人を余所に嘉音はうっとりと目を閉じた。
『嘉哉くん……タキシードもよく似合うぜ……』
ウェディングドレスを身に纏った朱志香が照れくさそうに微笑む。嘉音はそれに優しい笑みを見せながら彼女の手を取るのだ。
『朱志香も……ドレス、よくお似合いです』
『嘉哉くん……』
『朱志香……もう放しません』
ぎゅ、と抱きしめて耳元で囁くと、彼女の腕が彼の背に回される。
『うん……ずっと放さないでいてくれよな?』
こちらも囁くような声。
『はい……必ず、幸せにします。プロポーズの誓い通りに』
『わ、私も嘉哉くんを幸せにするからな!』
『朱志香……』
『嘉哉くん……』
互いの唇が近づく。あと5センチ、4……3……2……。
べちゃっ。
「愛しています、朱志香……」
「わっ、か、嘉音くん大丈夫かよ!?砂に埋まってるぜ!?」
ふもふもと茂みを乗り越えて砂に埋まり掛けた状態のままの嘉音は朱志香の声で現実に引き戻される。一瞬で砂から顔を出した彼は下から見上げるアングル故にあらぬ妄想を誘発する光景を目の当たりにする。
「大丈夫です、朱志香様……」
「か、嘉音くん!?ちょ、どうしたんだよ!?」
すらりと伸びる脚。網タイツに包まれたむちむちの太股。身体にぴったりフィットした衣装は下から見上げれば黄金郷である。何より、びっくりして慌てた表情がなにやら自主規制の必要な想像を思い起こさせる。
「……生きててよかった」
「え?え?譲治兄さん、戦人、嘉音くんどうしちゃったんだよ?」
「う~ん、そっとしておいてあげて。それより次の撮影もあるんでしょ?着替えておいでよ」
「兄貴のいうとおりさぁ。……ところで朱志香」
「なんだよ」
「すげぇ良い眺めのカッコじゃねぇか。揉ませろ~い」
どかっ。ばきっ。どすっ。
わきわきと指を軟体動物のように動かしながら朱志香に迫る戦人に、彼女は素手で強かに殴りつけた。次いで嘉音もそこらにあった石ころを握り込んで殴りつける。トドメに譲治が回し蹴りをお見舞いした。
「うぜぇぜ!」
「僕の朱志香に手出ししないでください」
「戦人くん、女の子にそう言うこといっちゃダメっていったよね?」
「……す、すいませんでした……」
砂浜に沈没した戦人を放っておいて、朱志香と2人で屋敷に戻る。またドアの外から、今度は声だけを聞いていた。
「あれ、こんな水着私買ったっけ?」
「あら、この間海にお行きになった時はお持ちじゃなかったですよね?」
「うん……」
どんな水着なのか、とてもとても気になる。
「本当、どうしたんでしょう……奥様ではなさそうですし……」
「父さんでもないと思うぜ?こんな凄いの、卒倒しちまうよ」
「ですよね……」
凄い水着。何が凄いのだろうか。想像するうちに、それは妄想になっていった。
『嘉音くん、こっちこっち!』
『朱志香、待ってくださいよ』
オレンジの地にピンクの花柄のビキニを着た朱志香が砂浜を走る。嘉音も彼女を追いかけて走る。翻るパレオ。揺れる金髪。
『ほら、こっちだぜ!』
『捕まえちゃいますよ?』
『あはは、捕まえてくれよな!』
2人を照らす夕日。ぱしゃぱしゃと水が飛び散る。暫く追いかけっこを楽しむ。恋人達の特権というものだ。
ふとくるんとこちらを向いた朱志香がにこりと笑う。可愛い。振り向いた拍子にぷるんと胸が揺れる。黄金郷ってこれか。
『えいっ』
朱志香の手で掬われた水が嘉音に掛けられる。着ていたパーカーの裾と海パンが僅かに濡れる。掛けられたら掛け返すのが礼儀であるので、嘉音も海水を掬って掛ける。オレンジ色にキラキラ輝く水玉が彼女に掛かる。しかも掛けるたびに腕が上下するのでその動きに合わせて胸がまたぷるんぷるんと揺れる。まさに黄金郷。朱志香のキラキラ輝く笑顔が眩しい。
『わっ、ほら、お返し!……わぁっ!』
ぱしゃん、と水を掛けた瞬間、朱志香はバランスを崩して倒れ込んだ。慌てて駆け寄って支える。
きゅ、と目を瞑ったまま嘉音の腕の中に倒れ込んだ朱志香は、一度瞬きをすると、彼と目があってぱっと赤面した。
『あ……ありがと、嘉音くん』
『朱志香……無事でよかった……っ!?』
ざぁん、と引く波に足を取られて、2人で水に倒れ込む。おかげで着ているものは全部びしょぬれだ。
『びっくりしたぁ……』
すぐ近くに朱志香の身体がある。少し起きあがって、頭を引き寄せて唇を合わせた。
『朱志香……』
『嘉音くん……』
濡れた髪。水の滴る身体。上気した頬。
全てが嘉音の理性をぐらつかせる。
起きあがって、朱志香を抱き寄せる。
『嘉音くん……大好きだぜ……』
『朱志香……愛してます』
もう一度口づけて、水着に手を掛けて。
ごんっ。
「……痛い……」
「……何やってるの?嘉音くん……」
紗音の冷たい視線。水着は前回の撮影と同じもの。
「嘉音くん……大丈夫か?頭打ってただろ」
ちょっと待ってて、と言い残し、朱志香が駆けてゆく。ものの数分で戻ってきた彼女の手には冷却ジェルのパックが握られていた。
「ごめんな、嘉音くん……私が確認しないでドアを開けちゃったから……」
「いえ……」
パーカーを羽織った朱志香の水着はファスナーをぴっちり閉めているせいでどんなものかはわからない。しかし、非常に良い匂いが後ろから漂ってくる。朱志香が冷却ジェルを嘉音の後頭部に当ててくれているのだ。彼女がすぐ近くにいるせいか、何となく柔らかいものが背中にかすかに当たっているような気がする。
「大丈夫?」
「はい。もう大丈夫です。朱志香様がお手当してくれましたから」
「じゃあ行きましょうか。譲治様にお見せしたいんです」
きゃっきゃと笑いながら前を歩く乙女2人。紗音ばっかりずるい、と姉に嫉妬しながら朱志香のほうを見る。
薄く揺れるパレオ。透けて見える水着に包まれたぴちぴちの桃尻。そしてむちむちの太股。
「夏っていいな……」
嘉音、こればっかり。
撮影は順調だった。お嬢様のギリギリショット的な水着姿も見られた。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様……。
僕の煩悩は108ではすまないと思います。もう家具とか正直どうでもよくなってきた。
お嬢様と水着で戯れたかったです。
そんなわけで僕もビデオに撮ってました。ついでに写真も撮ってました。
薄緑色の生地にオレンジの花柄のやけに面積が少ない水着、実は戦人様が買ってきたんだそうです!今度は僕が買ってきますね。
あと確信しました。
灰色だった海は、あなたがいるだけで薔薇色に見えました。綺麗な蒼です。僕の目が映し出す舞台の上には朱志香様だけがいればいい!
愛してます!
「……で、相変わらず姉さんと譲治様を省く、と……」
後ろから聞こえた声にぎくりと振り返る。紗音が鬼の形相で武器をひっさげて立っていた。
「ひぃぃぃぃっ!姉さん、なんで金属バットなんか持って……あれ、譲治様もなんで間合い取ってるんですか?」
紗音の横には譲治。
「紗音の敵は僕の敵。紗代を傷つけるものには報復をするのが僕の信念さ」
「え、それ、毎回僕が瀕死状態なんですけど……って聞いてないし!」
そして、紗音は金属バットを振り上げ、譲治は跳び蹴りをするべくアップを始めた。そう、それはまさしく魔王と……。
「よくも譲治様を大道具にしてくれたわねぇぇぇぇぇっ!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
「紗代は大道具なんかじゃなぁぁぁぁぁぁいっ!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
うみねこのなく頃に、生き残れた嘉音は無し。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
金属バットと跳び蹴りが致命傷。
遺留品のカメラからは朱志香を盗撮した映像と写真が見つかっており、映像には最後に「朱志香は僕の嫁」というメッセージが残されていた。普段の行動が災いを呼んだのかもしれない。盗撮と妄想もほどほどに。
「だからいい加減学習してよ。それと、誰が鬼嫁ですって!?私は譲治様の良妻よ!」(by紗音)
今日は海も真っ青だ。あと今日は六軒島リゾート化の第一歩リベンジの日だ。
前回は紗音と僕が挑戦したらなんか却下された。あとお嬢様と戦人様も挑戦されたが却下された。どうも食べ過ぎだったらしく、あの後暫くお嬢様はランニングに勤しんでおられた。
あまりに可愛いのでこっそりビデオで撮影していたらなんかいろいろな人に怒られた。世の中不条理だ。
それはともかく、お嬢様は今日も可愛い。
人魚姫と妄想王子
「失礼します、お嬢様、紗音です」
「失礼します、お嬢様、あなたの嘉音です」
紗音と2人でノックをすると、中から元気の良い声が返ってくる。
「あ、入っていいよ~」
室内に入ってお辞儀をする。朱志香は今日も可愛い。
「今日の撮影の衣装です」
紗音が嘉音の持つ荷物(服の山)を指さす。朱志香は一瞬固まった後、苦笑いしながらわかった、と言った。
「今度は水着じゃないんだな」
「水着もありますよ?私と2人で撮る時に使います」
聞いていない。嘉音はとりあえず姉に提案してみる。
「姉さん、提案があるんだけど」
「何?」
「僕とその役代わって!」
朱志香の顔が少し赤くなる。
「え、嘉音くんと撮影!?」
「大丈夫ですよ、お嬢様」
彼女を落ち着かせてから、紗音はにっこり笑って嘉音のほうを向く。
「いい加減にしなさい、嘉音くん。あなた、前回の撮影で大不評だったじゃない」
「姉さんだって不評だったじゃないか!」
「だいたいあなた、不評になった原因がお嬢様の水着姿が見られなかったから、って何よ?」
「あ、あの……2人とも、落ち着いて?な?」
朱志香の遠慮がちな声に2人ははっと彼女のほうを見る。
「あの、嘉音くんが見たいなら後で見せるから、さ……とりあえず、着替えだけしちゃいたいなぁ、って」
「そうですね。お着替えだけしちゃいましょう。ほら嘉音くん、お部屋を出なきゃダメでしょ」
朱志香に見えないようにこちらを向いた紗音の顔があまりに怖かったのでとりあえず退出する。
だが、である。
特に施錠はしていないので、鍵穴から部屋の中は見えるわけである。
「……よいしょ」
鍵穴から目をこらし、耳を澄ませて様子を伺った。朱志香が普段着をするりと脱ぐと、日に焼けていない白い肌が見える。本日の下着はピンクと白の縞々だ。
「お嬢様が縞々……」
今日の撮影はますます男という名の狼を近づけてはいけないと心に誓う嘉音だったが、彼が一番狼であることに未だに気付いていないのだった。気付いていればどこからどう見ても変質者のようなマネはしないのだから当然だ。
紗音の声が聞こえる。
「お嬢様、最初はバニーガールだそうですよ」
「え、じゃあ肩紐取った方が良いかな?」
「お下着ごと脱がれてもよろしいかと。カップ付いてますよ」
「なんだ……よかった」
バニーガール。その単語だけで嘉音は目を剥きかけた。
朱志香は嘉音の恋人である。よってそんな露出の激しいコスチュームは嘉音の前でのみ見せるべきではないのだろうか。そんなわけで、嘉音の頭はバニーガール姿の朱志香を自然と思い浮かべるわけである。ただし妄想付きで。
『か、嘉音くん……その、に、似合うかな?』
頬を赤く染めて上目遣いでこちらを見上げる朱志香。ものすごく可愛い。
『はい……よくお似合いですよ』
可愛らしい質問にこちらが照れながらもそう返す。すると朱志香は赤い頬に両手をあてて恥ずかしそうに笑うのだ。
『あ、ありがと……えへへ、照れるぜ』
頬に手をあてた拍子に胸の谷間が強調される。元々谷間が出来るような構造の服だが、腕で胸が寄せられて余計に深くなっているのだ。
『朱志香……その、谷間が』
『え?……あっ』
指摘すると、彼女は真っ赤になって胸元を隠す。こんなにボディラインが露わなコスチュームを着せておいたら男が彼女をいやらしい目で見かねない。そもそも自分が彼女をいやらしい目で見ていることに一向に気付かない嘉音は少々お待ちください、と言うと使用人室からシャツを取ってきて優しく彼女に被せるのだ。
『嘉音くん……』
『他の男性に見せてはいけませんよ、朱志香』
『あ……で、でも……撮影だし……』
『コスチュームの変更を申し出てきましょうか?』
そう問いかけると朱志香は耳まで赤くして恥ずかしそうに頷いた。
『その……私、嘉音くんに見られたり、触られたりするのは大丈夫……だから……その』
『よろしいのですか?』
『うん……嘉音くんだったら……いいよ』
羽織らせたばかりのシャツが床に落ちる。そのまま嘉音は朱志香のむき出しの肩をそっと掴んで。
すかっ。どしゃっ。
嘉音は自分を抱きしめる格好で絨毯に強かに口づけた。
「痛い……」
自分の妄想が、ではなく顔面が痛い。絨毯から起きあがり、窓のほうを見ながら呟く。
「いかがでしょうかお館様。僕の朱志香とコスチュームがそこにあるだけで嘉音はこれだけの妄想が可能です……きっと朱志香はちゅーしてくれる」
妄想癖もここまでくると重傷である。
「お待たせ、嘉音くん。どうかな、これ」
嘉音が自主規制も甚だしい妄想をしている間に着替えたらしい朱志香は羽織っていたジャージの前を開けて見せてくれる。ものすごく可愛い。白い肌と黒い衣装のコントラストが素晴らしい。
「とてもよくお似合いです!」
元気のよい返事に朱志香が一瞬戸惑ったような表情になる。
「あ、ありがとな。じゃあ行こうか、2人とも」
「はい」
「はい」
返事をして歩き出してから気が付いた。ちゅーをして貰っていない。しかし今更ちゅーしてください、なんて言えるわけがない。
悶々としていると、前を歩く朱志香のむちむちの太股が目に入った。網タイツに包まれた太股はとても色っぽく見えるのだ。
「まあいいや。……網タイツ最高」
2人に聞こえないように問題発言をしつつ、嘉音は朱志香と紗音とともに浜辺に向かった。
「六軒島にようこそ!六軒島は大都会ではお目に掛かれない綺麗な海と豪華な薔薇庭園の組み合わせがウリだぜ!潮騒の音を聞きながら薔薇庭園でデート、もアリ。家族連れで海水浴、もアリ。疲れたら綺麗なホテルとシェフの美味しい料理で休憩してくれよな!」
なかなか撮影(のリハーサル)は順調である。後は本番(という名のサンプル)を取り終えるだけなのだが、何となくすぐ近くの茂みに隠れている嘉音にはどうしても納得できないことがあった。
「何で戦人様達が来ているんですか!」
「暇で……蔵臼叔父さんが来てくれって言うから」
戦人は朝早かったのだろう、欠伸をしながら答える。譲治はあはは、と笑う。
「蔵臼叔父さんが若者の意見をまた採り入れたいから、って」
「若者なんて僕がいるから充分じゃないですか!」
それにしてもこの嘉音、本気でキレている。いわゆるマジギレ、というやつである。
「あはは、それもそうだよね。……ところで嘉音くん、朱志香ちゃんとはどうなんだい?紗音からは嘉音くんの妄想が激しすぎて破局寸前って聞いたけど」
笑っていた譲治が真剣な顔になって問いかける。勿論嘉音にはそんな覚えは全くない。
「僕の朱志香とはいつでもラブラブです!姉さんが変なデマを吹き込んだようで……」
「お、ついにくっついたのか」
「くっつきました。結婚式は大安吉日です」
しつこいほどに主張しているため聞き慣れている譲治はただ笑っているだけだったが、戦人は素っ頓狂な声を上げて驚く。
「結婚式ぃ!?あの朱志香がか!?」
「はい。僕と朱志香の結婚式です。あの礼拝堂で式を挙げるんです」
「戦人くん、大丈夫?魂抜けてるけど」
「兄貴……男の結婚可能年齢って……」
外野2人を余所に嘉音はうっとりと目を閉じた。
『嘉哉くん……タキシードもよく似合うぜ……』
ウェディングドレスを身に纏った朱志香が照れくさそうに微笑む。嘉音はそれに優しい笑みを見せながら彼女の手を取るのだ。
『朱志香も……ドレス、よくお似合いです』
『嘉哉くん……』
『朱志香……もう放しません』
ぎゅ、と抱きしめて耳元で囁くと、彼女の腕が彼の背に回される。
『うん……ずっと放さないでいてくれよな?』
こちらも囁くような声。
『はい……必ず、幸せにします。プロポーズの誓い通りに』
『わ、私も嘉哉くんを幸せにするからな!』
『朱志香……』
『嘉哉くん……』
互いの唇が近づく。あと5センチ、4……3……2……。
べちゃっ。
「愛しています、朱志香……」
「わっ、か、嘉音くん大丈夫かよ!?砂に埋まってるぜ!?」
ふもふもと茂みを乗り越えて砂に埋まり掛けた状態のままの嘉音は朱志香の声で現実に引き戻される。一瞬で砂から顔を出した彼は下から見上げるアングル故にあらぬ妄想を誘発する光景を目の当たりにする。
「大丈夫です、朱志香様……」
「か、嘉音くん!?ちょ、どうしたんだよ!?」
すらりと伸びる脚。網タイツに包まれたむちむちの太股。身体にぴったりフィットした衣装は下から見上げれば黄金郷である。何より、びっくりして慌てた表情がなにやら自主規制の必要な想像を思い起こさせる。
「……生きててよかった」
「え?え?譲治兄さん、戦人、嘉音くんどうしちゃったんだよ?」
「う~ん、そっとしておいてあげて。それより次の撮影もあるんでしょ?着替えておいでよ」
「兄貴のいうとおりさぁ。……ところで朱志香」
「なんだよ」
「すげぇ良い眺めのカッコじゃねぇか。揉ませろ~い」
どかっ。ばきっ。どすっ。
わきわきと指を軟体動物のように動かしながら朱志香に迫る戦人に、彼女は素手で強かに殴りつけた。次いで嘉音もそこらにあった石ころを握り込んで殴りつける。トドメに譲治が回し蹴りをお見舞いした。
「うぜぇぜ!」
「僕の朱志香に手出ししないでください」
「戦人くん、女の子にそう言うこといっちゃダメっていったよね?」
「……す、すいませんでした……」
砂浜に沈没した戦人を放っておいて、朱志香と2人で屋敷に戻る。またドアの外から、今度は声だけを聞いていた。
「あれ、こんな水着私買ったっけ?」
「あら、この間海にお行きになった時はお持ちじゃなかったですよね?」
「うん……」
どんな水着なのか、とてもとても気になる。
「本当、どうしたんでしょう……奥様ではなさそうですし……」
「父さんでもないと思うぜ?こんな凄いの、卒倒しちまうよ」
「ですよね……」
凄い水着。何が凄いのだろうか。想像するうちに、それは妄想になっていった。
『嘉音くん、こっちこっち!』
『朱志香、待ってくださいよ』
オレンジの地にピンクの花柄のビキニを着た朱志香が砂浜を走る。嘉音も彼女を追いかけて走る。翻るパレオ。揺れる金髪。
『ほら、こっちだぜ!』
『捕まえちゃいますよ?』
『あはは、捕まえてくれよな!』
2人を照らす夕日。ぱしゃぱしゃと水が飛び散る。暫く追いかけっこを楽しむ。恋人達の特権というものだ。
ふとくるんとこちらを向いた朱志香がにこりと笑う。可愛い。振り向いた拍子にぷるんと胸が揺れる。黄金郷ってこれか。
『えいっ』
朱志香の手で掬われた水が嘉音に掛けられる。着ていたパーカーの裾と海パンが僅かに濡れる。掛けられたら掛け返すのが礼儀であるので、嘉音も海水を掬って掛ける。オレンジ色にキラキラ輝く水玉が彼女に掛かる。しかも掛けるたびに腕が上下するのでその動きに合わせて胸がまたぷるんぷるんと揺れる。まさに黄金郷。朱志香のキラキラ輝く笑顔が眩しい。
『わっ、ほら、お返し!……わぁっ!』
ぱしゃん、と水を掛けた瞬間、朱志香はバランスを崩して倒れ込んだ。慌てて駆け寄って支える。
きゅ、と目を瞑ったまま嘉音の腕の中に倒れ込んだ朱志香は、一度瞬きをすると、彼と目があってぱっと赤面した。
『あ……ありがと、嘉音くん』
『朱志香……無事でよかった……っ!?』
ざぁん、と引く波に足を取られて、2人で水に倒れ込む。おかげで着ているものは全部びしょぬれだ。
『びっくりしたぁ……』
すぐ近くに朱志香の身体がある。少し起きあがって、頭を引き寄せて唇を合わせた。
『朱志香……』
『嘉音くん……』
濡れた髪。水の滴る身体。上気した頬。
全てが嘉音の理性をぐらつかせる。
起きあがって、朱志香を抱き寄せる。
『嘉音くん……大好きだぜ……』
『朱志香……愛してます』
もう一度口づけて、水着に手を掛けて。
ごんっ。
「……痛い……」
「……何やってるの?嘉音くん……」
紗音の冷たい視線。水着は前回の撮影と同じもの。
「嘉音くん……大丈夫か?頭打ってただろ」
ちょっと待ってて、と言い残し、朱志香が駆けてゆく。ものの数分で戻ってきた彼女の手には冷却ジェルのパックが握られていた。
「ごめんな、嘉音くん……私が確認しないでドアを開けちゃったから……」
「いえ……」
パーカーを羽織った朱志香の水着はファスナーをぴっちり閉めているせいでどんなものかはわからない。しかし、非常に良い匂いが後ろから漂ってくる。朱志香が冷却ジェルを嘉音の後頭部に当ててくれているのだ。彼女がすぐ近くにいるせいか、何となく柔らかいものが背中にかすかに当たっているような気がする。
「大丈夫?」
「はい。もう大丈夫です。朱志香様がお手当してくれましたから」
「じゃあ行きましょうか。譲治様にお見せしたいんです」
きゃっきゃと笑いながら前を歩く乙女2人。紗音ばっかりずるい、と姉に嫉妬しながら朱志香のほうを見る。
薄く揺れるパレオ。透けて見える水着に包まれたぴちぴちの桃尻。そしてむちむちの太股。
「夏っていいな……」
嘉音、こればっかり。
撮影は順調だった。お嬢様のギリギリショット的な水着姿も見られた。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様……。
僕の煩悩は108ではすまないと思います。もう家具とか正直どうでもよくなってきた。
お嬢様と水着で戯れたかったです。
そんなわけで僕もビデオに撮ってました。ついでに写真も撮ってました。
薄緑色の生地にオレンジの花柄のやけに面積が少ない水着、実は戦人様が買ってきたんだそうです!今度は僕が買ってきますね。
あと確信しました。
灰色だった海は、あなたがいるだけで薔薇色に見えました。綺麗な蒼です。僕の目が映し出す舞台の上には朱志香様だけがいればいい!
愛してます!
「……で、相変わらず姉さんと譲治様を省く、と……」
後ろから聞こえた声にぎくりと振り返る。紗音が鬼の形相で武器をひっさげて立っていた。
「ひぃぃぃぃっ!姉さん、なんで金属バットなんか持って……あれ、譲治様もなんで間合い取ってるんですか?」
紗音の横には譲治。
「紗音の敵は僕の敵。紗代を傷つけるものには報復をするのが僕の信念さ」
「え、それ、毎回僕が瀕死状態なんですけど……って聞いてないし!」
そして、紗音は金属バットを振り上げ、譲治は跳び蹴りをするべくアップを始めた。そう、それはまさしく魔王と……。
「よくも譲治様を大道具にしてくれたわねぇぇぇぇぇっ!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
「紗代は大道具なんかじゃなぁぁぁぁぁぁいっ!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
うみねこのなく頃に、生き残れた嘉音は無し。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
金属バットと跳び蹴りが致命傷。
遺留品のカメラからは朱志香を盗撮した映像と写真が見つかっており、映像には最後に「朱志香は僕の嫁」というメッセージが残されていた。普段の行動が災いを呼んだのかもしれない。盗撮と妄想もほどほどに。
「だからいい加減学習してよ。それと、誰が鬼嫁ですって!?私は譲治様の良妻よ!」(by紗音)
某月某日、雨。
今日は船が出せないのでお嬢様はお屋敷におられる。お勉強が忙しいのは仕方ないが、たまには僕も紗音みたいにお嬢様と遊びたい。
もう家具だからとかそういうことは言っていられない。
だってお嬢様を中心に世界はまわっているのだから!
恋愛少年の妄想事情
「拝啓、右代宮朱志香様
この間の文化祭の夜は心にもないことを申し上げてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
本当はずっと前からお嬢様のことが好きでした。愛しています。結婚してください。指輪も式も最高のものにするとお約束します。
それからその後の人生も絶対幸せにして見せます。
プランはちゃんと立ててあります。今すぐ結婚しても大丈夫です。
具体的にいつからお嬢様が好きだったかというと多分初めて出会ったときから好きでした。あなたの太陽のような微笑みに、明るく優しいご気質に、僕は一目惚れをしてしまったのかもしれません。
そして、文化祭でお嬢様の楽しそうな姿にますます心を奪われました。あの夜、酷いことを言ってしまったのは家具と人間が恋愛などしてはいけないという規範に囚われていた僕の愚かさのせいです。
しかしもう僕も自分の気持ちを偽るのは限界になってしまいました。
もう一度言います。
お嬢様が好きです。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。恋しい恋しいお嬢様。
適当に仕事をさぼってあなたの学校に潜入してしまいたいぐらい愛しています。
お嬢様にふられてしまったら、僕はもう生きていかれません。
本当は四六時中お嬢様との新婚生活を夢見て生きています。たまに紗音に怒られます。
ですから今度僕を学校に招いてくださるときはちゅーしてください。僕もお嬢様に怒られるまでぎゅーしますぅ?……あ~、やっぱやめた。うん、なんでもない」
突如後ろから聞こえた声に、使用人室の机で書き物をしていた嘉音は青筋を立てながら振り返った。声の主は六軒島の魔女ベアトリーチェ。退屈しのぎのためだけに紗音と譲治の恋を取り持ち、ついでに嘉音と朱志香の恋も取り持ってやろうというとんでもない御仁である。
「何ですかベアトリーチェ様。僕のお嬢様へのラブレターにケチでもつけるおつもりですか」
「いや、お前その手紙渡すつもりか?正気か?ふられるぞ」
ベアトリーチェの顔は露骨に引きつっている。嘉音のいうラブレター、とは冒頭でベアトリーチェが読み上げた嘉音が書いていた手紙である。
「何故ですか。僕のお嬢様への恋心があふれんばかりに綴られているのに……」
「恋心なのは良いがな、それはもはやストーカーであろう」
「一体どの辺りがですか。きっとですね、この手紙をお嬢様に渡せば……」
ますます引きつった顔をするベアトリーチェを余所に、嘉音は手紙を渡したときの朱志香の反応を思い描く。
『嘉音くん……これ……』
朱志香は手紙を読み終えると縋るような目で嘉音を見つめる。
『それが僕の気持ちです。もうアヒルでも構いません。お嬢様と一緒に生きていきたいんです!』
彼女の手を両手でぎゅっと握りしめると、目の前の恋しい少女はほんのりと頬を染めて目を潤ませる。
『嬉しい……嬉しいよ、嘉音くん。ありがとう……』
可愛い。きっと彼女は宇宙一可愛い。もう堪えられない。
『愛しています、お嬢様!』
手を離してぎゅっと抱きしめると、彼女も抱きしめ返してくれる。
『私も、私も大好きだぜ、嘉音くん!』
『お嬢様!大好きです!』
「お嬢様……!」
「……おぬし、それどこのギャルゲーだ?妾そんなもの貸した覚えはないぞ?というか朱志香の盗撮写真に思い切りキスするな、痛々しいぞ」
何時の間にやら取り出した朱志香の写真に感無量で口づける嘉音に、ベアトリーチェが制止をかける。愛しい朱志香との逢瀬のイメージトレーニング(だと本人は思っている)を邪魔されて嘉音は面倒くさそうに魔女のほうを向く。
「まだいたんですか。いい加減帰ってください。僕は忙しいんです」
「どこがだ、この暇人め。紗音は真面目に仕事をして、たまの休憩時間だから朱志香と談笑しておるというのに……紗音ぐらい真面目に働いておれば妾も願いを叶えてやろうと張り切るのだがのう」
「姉さんがお嬢様と一緒にいるんですか!?」
どうでもいいところに食いついてくる嘉音に魔女はこの日何度目か分からない「うわぁ」という間抜けな声を出した。椅子まで蹴倒すただならぬ様子にまずは落ち着けと宥める。
「いつものことではないか。紗音も朱志香も楽しそうだぞ?何の不満があるというのだ」
「姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて……」
「聞けよ」
「何で姉さんばっかりお嬢様と仲良くするんですか!僕もお嬢様とお茶が飲みたいです!それでこっそりお嬢様のベッドに僕の髪の毛入りの人形とか置きたい!」
「今度は何を読んだお前は!」
別にこれといって読んだものはない。ただ本屋に入った折に恋のおまじない特集なる雑誌を立ち読みしたら載っていただけだ。
嘉音が右代宮家に勤め始めたときから紗音は朱志香と仲が良かった。彼が家具だという意識を強く持っていた頃はあまり感心しなかったことだが、今となっては紗音が妬ましくて仕方がない。
嘉音だって朱志香の部屋で一緒にお茶を飲みたい。紗音ほどドジを踏まない自信はあるから、きっと朱志香にも満足してもらえるはずだ。
『嘉音くんは何でも出来るんだな!見直したぜ』
『全てお嬢様に喜んでいただくために練習しました』
褒めてくれたら取って置きの笑顔を見せて、彼女の指先に口づける。きっとそれだけでウブな彼女は頬を赤く染めるだろう。そうしたら自分はポケットから彼女のために買った数々のアクセサリー(今回はネックレス)を贈るのだ。
『お嬢様にお似合いになるかと思いまして……』
『ありがとう、嘉音くん!……それで、その……これ、つけるの手伝って欲しいんだ』
『お安いご用です』
ネックレスを受け取ると後ろに回り込み、留め具を掛ける。鏡台から手鏡を持ってきて見せる。
『良くお似合いですよ。お美しいです』
『嘉音くん……へへ、照れるぜ……』
朱志香は頬をもっと赤く染めて照れ笑いをする。その仕草がたまらなく可愛らしい。鼻先で揺れる金髪からは良い香りがする。彼女の言葉も仕草も、声も匂いも全てが嘉音の理性を揺さぶる。つい吸い寄せられるように目の前の少女を抱きしめた。
『か、嘉音くん!?』
『お嬢様……ご存じですか?』
『な、何を……?』
『男性が女性にアクセサリーを贈るのは、独占欲の表れなんです』
熱い吐息と共に耳元で囁いて、赤くなった耳たぶに口付けを落とす。
『ひぁっ……!あ、……やめっ……』
『愛しています、お嬢様……』
そのまま耳朶に舌を這わせながらベッドへと押し倒す。彼女の身体を仰向けにすると、切なげに潤んだ眼差しとぶつかる。半開きになったままの桜色の唇に口づける。舌を差し込めば、朱志香の小さなそれが逃げようと抵抗する。
『ん……』
逃げる舌を捕まえて絡ませる。いったん唇を離すと、朱志香のとろんとした目が見つめてくる。
『お嬢様……よろしいですか?』
『あ……あの……朱志香って……呼んで……』
それは恋を知った乙女のささやかな願い。嘉音が乱したシャツもそのままに、彼女は指を彼のそれに絡めた。
紛れもなくそれは行為の了承の合図。
『朱志香……』
『優しく……してね……?』
『かしこまりました』
優しく微笑んで、嘉音は朱志香の首筋に唇を這わせた。
「お慕いしています……朱志香……」
先ほどの朱志香の写真を抱きしめて感じ入っている嘉音の後ろでは、ベアトリーチェが呆れた顔をしてちょうど入ってきた紗音に声を掛けていた。
「お、紗音~。この暇人なんとかしろ。妾ではこいつの妄想についていけん」
「あ、ベアトリーチェ様。嘉音くん、前からこうなんです。ほら嘉音くん、お嬢様にお洗濯ものお届けしてきて」
紗音は嘉音の肩をぽんぽんと叩くと、朱志香の写真を取り上げて代わりに洗濯物一式を持たせた。嘉音はしばし洗濯物と見つめ合った後、こくんと素直に頷く。
「これ、全部お嬢様の……?」
「そうよ」
「量が多いようには見えんが?」
「じゃあこれ、お嬢様のハンカチ?」
「そうよ」
「そっち!?」
魔女のツッコミを無視して、嘉音は洗濯物に頬ずりをする。それから鼻の下がのびているだらしない表情をきりりと引き締めると、使用人室を出た。
なんと言ってもこれから朱志香の部屋に行くのだ。だらしない顔をして会うわけにはいかない。いつも通りクールに、かつ紳士的に振る舞うのだ。
こんこん、とドアをノックする。
「は~い。入って良いよ」
中から朱志香の元気の良い声が聞こえる。入って良いとのことなのでドアをあけて入る。
「お嬢様。お洗濯ものをお届けに上がりました」
「わ、か、嘉音くん!?」
彼女は入ってきたのが嘉音だと分かるとわたわたとそこらのものを片づけ始めた。もともと散らかっているわけでもないので片づけものはすぐ終わり、その辺に座っているように指示される。
「ごめんな、この問題だけ終わらせちゃうからちょっと待って」
「はい」
朱志香が問題集に向き直っている間に、嘉音はベッドに座って部屋の中を見回す。彼は男性だからこの部屋に入る頻度はそう多くない。そもそも女性の部屋に入る頻度自体が少ないのだが、朱志香の部屋は右代宮本家の令嬢らしい気品があると思う。
その部屋の主も普段は男勝りで言葉遣いこそ荒いが、正式な社交の場などでは気品あふれる令嬢の振る舞いをしているのではないか。彼はそういう場所に行ったことがないけれど、パーティーから帰ってきたときに夏妃が彼女に小言を言うことは滅多にない。強いて言えば男性への対処の仕方ぐらいか。
--お嬢様が男という名の危険な狼に誑かされないように……お嬢様は僕が守る!
どう考えても一番危険な狼は嘉音なのだが、彼は全く気付かない。ついでに言えば、朱志香も嘉音が自分を誑かそうとしている狼だとは気付いていなかった。
そうこうするうちに問題が解けたのか、彼女はぱたんと問題集を閉じるとこちらに向き直った。
「悪い悪い、ちょっと手が放せなかったもんだからさ……それで、ええと、せ、洗濯物だっけ?」
「はい。お届けに上がりました」
「届けに来てくれただけなのにごめんな……悪いことしちゃったぜ」
届けに来ただけだと思ったのか、朱志香は気まずそうに笑う。文化祭のことをもしかしたら引きずっているのかもしれない。
繊細な彼女のことだ。嘉音に迷惑を掛けてしまったとか、気まずくなってしまったとか後ろめたい想いも抱えているのだろう。
「いえ、僕はおじょ……じゃなかった、家具ですから」
本音を言いかけて、慌ててお決まりの台詞で繕う。朱志香がまた傷つくことに罪悪感を覚えながら、彼はそれ以外にどうすることも出来なかった。
いや、彼にもう少し勇気があれば本音を言えたのかもしれない。けれど、一度手酷く拒絶しておきながら恋心を告げることが彼女にどう思われるかが気になって、なかなか喉の奥から出すことが出来ない。
目の前の少女はいつもの太陽のような微笑みではなく、少し悲しげな微笑みを浮かべた。ずきりと胸が痛むのを感じる。
「……もう、家具ですから、ってところには何も言わない。……でも、一つだけ教えて」
「はい」
「家具ですから、の前。なんて言おうとしたの?」
真剣な瞳。その光に囚われて、逃げ道を失ってしまいそうだ。いや、逃げ道など本当はないのだ。
彼にあるのはただ、その思いを告げるのみ。
「お嬢様と……」
「……私と?」
「お嬢様と一秒でも長く一緒にいたいですから、と」
「……え?」
朱志香が呆気にとられたような顔になる。次いで、その可愛らしい顔がほのかに赤く染まった。
--そうだ、ここであのラブレターをお渡しして……あれ、無い!使用人室に忘れてきた!?
使用人室で先ほどまで書いてきたラブレターはどうやら忘れてきてしまったようだ。あれを渡しても嘉音の恋が実るかは怪しいところなのだが、彼はそんなことはお構いなしにどうしようと考える。
--どうしよう……僕が言葉で言うしかないのか?そうだ、言葉で言うしかない!
「……嘉音くん?」
「お嬢様!」
おずおずと嘉音の額に手を伸ばしてきた朱志香の肩を掴んで叫ぶ。
「は、はいぃっ!」
「す……すっ……」
「す?」
「す、好きです!」
その瞬間、朱志香の頬がまるでぽん、と音がしたかのように真っ赤に染まった。
「え……え!?す、好きって……その……友達としてとか、雇用者としてとか、そういう……意味……だよな……きっと」
真っ赤に染まった頬を鎮めるためなのか、彼女はきゅっと目を瞑ってふるふると首を横に振る。
「違います。お嬢様を……朱志香様を1人の女性としてお慕いしています!」
暫く呆然としていた朱志香の瞳が潤む。
「お気に障ったのならすみません……ですが僕はもう家具ではいられないんです!お嬢様のことを想うたびに人間になりたくなる、お嬢様と心おきなく愛し合いたいんです!」
「嘉音……くん……ありがと……私も……私も大好きだぜ!」
ぎゅっと抱きついてくる彼女の温かさに、彼は密かに言って良かった、と小さくガッツポーズをした。要するに感無量。
もうこの先、どんな魔女(ベアトリーチェ含む)が出てこようと、どんな悪魔が2人を引き裂かんとしようと、嘉音はずっと朱志香の傍にいる。それが2人の幸せへの近道なのだから。
このことが妄想ではなく事実だという幸せをかみしめながら。
洗濯物を無事に朱志香のクローゼット(少し中に入りたい、と思った)に仕舞い、使用人室に戻ってきた嘉音はゆっくりとドアを閉めた。
あたりに郷田やら郷田やら郷田がいないことを確認して叫ぶ。
「ぃやったぁぁぁぁぁぁ!」
「なんだ、騒々しい……」
「嘉音くん、どうしたの?お嬢様のお部屋の良い匂いにとうとう理性の糸でも切れちゃったの?」
なんだなんだとこちらに寄ってくる魔女と姉に早速報告してみる。
「お嬢様と結婚します」
「は?」
魔女はぽかんとして聞き返し、姉はあらあらと笑った。
「お嬢様に告白してきました。もう僕たちは夫婦も同然、式は大安吉日です!」
「プロポーズしたの?」
「え?」
「結婚してください、って言ったの?」
「え、姉さん、つき合うことになったらイコール結婚じゃないの?」
紗音は夏妃の機嫌の悪いときのように頭に手を当てると、ふぅ、と大きく溜息を吐いた。
「……あのね、嘉音くん。結婚するのは指輪をあげて結婚してください、って言わなきゃいけないのよ」
「お嬢様に、指輪……」
「嘉音くん?聞いてる?ちょっと、涎垂らさないで!もう!」
紗音の怒声をバックミュージックに、彼は朱志香にプロポーズする様を想像した。勿論紗音が譲治から受けたプロポーズを参考にしている。
『お嬢様……結婚してください』
薔薇園の東屋で朱志香にダイヤモンドの指輪を渡す。ベルベット地の箱の中に鎮座する美しい指輪に、彼女は瞳を潤ませた。
『嘉音くん……でも、その……いいの?』
『はい。これはお嬢様のお気持ちだけが頼りになりますから……それと、今ひとつ約束違反がありましたよ?』
優しくその大きな瞳をのぞき込むと、朱志香はぽん、と顔を赤くした。
『あ……』
『僕も2人きりの時は朱志香とお呼びします。ですから……』
きっとどこかで告げられるであろう彼の本名を、彼女は照れながらもしかし確実に紡いでくれる。
『よ……嘉哉くん……って呼ぶよ……わっ』
顔を赤く染めながらはにかむ恋人を抱きしめる。あまりにも可愛らしくて理性をつなぎ止めるのにも一苦労だ。
朱志香が愛おしい。
朱志香と共に生きていきたい。
もう自分が家具だからなんて関係ない。
きっとこの命は朱志香を愛するために生まれてきたのだから!
『愛しています。一生朱志香を大切にします。ですから、一晩良くお考えになって、明日の朝までに朱志香の返事を聞かせてください』
『嘉哉くん……』
『今僕がここであなたの左手の薬指に指輪を通すことも出来ます。しかしそれは朱志香の意思じゃない』
一度体を離して見つめ合う。耳まで赤く染まった顔に潤んだ瞳の朱志香が可愛らしい。彼女は切なそうに眉を寄せて嘉音の次の言葉を待つ。だから、彼は告げる。
『もし僕の求婚を受けてくださるのなら、この指輪をお好きな指に着けてください』
『う、うん……』
おずおずと朱志香は指輪に手を伸ばし、ゆっくりと彼女の左手の薬指に通した。それは間違いなく求婚を受け入れる合図。
『私も……嘉哉くんを幸せにする……ぜ……えへへ』
その照れた笑顔に愛しさを感じる。やっと手に入れられる彼の太陽を、嘉音は思い切り抱きしめた。
『朱志香……ありがとう……』
「……のう嘉音。お主それ、どこから出した?」
「……まだいたんですか。常に携帯していますよ」
自主規制が必要な妄想に浸っていた嘉音が出して抱きしめていたのは朱志香がプリントされたピローカバーだった。ビキニタイプの白い水着が良く映える素肌が眩しい。
「去年の某夏の祭典で買ってきたんですよ。私も譲治様のピローカバーを三枚ほど持っているんです」
嘉音の涎を綺麗に拭いていた紗音がにこにこととんでもないことを暴露する。そう、このピローカバー、譲治の友人や朱志香の同級生が自主的に作って売っていたものなのである。
嘉音と紗音は何回も一部の間からは祭典と呼ばれる盆と年末に開催される同人イベントに出ている。その形態は本(同人誌)を売るサークル参加と買い手にまわる一般参加と時によって違うが、毎回参加していることに代わりはない。
カタログを買って朱志香や譲治が描かれた本を探し、当日は始発で会場に行って目当てのものを買う。それは常に思いを確かめ合えない彼らがたどり着いた年に二回の癒しの時だった。
「……で、お主らはこのような本を書いていた、と……」
ベアトリーチェはじとりとした目になって二冊の本を取り出す。一冊はソファーで寝ている譲治に寄り添う紗音が描かれた本、もう一冊はピンク色の浴衣をしどけなくはだけて赤い顔をした朱志香が描かれた本。
「それ、私の『眠るあなたに愛を込めて』!」
「それ、僕の『お嬢様とらぶらぶ☆夏祭り』!」
2人がそれぞれの本のタイトルを叫ぶと、魔女は露骨にげんなりとした顔になった。
「……紗音はともかく、嘉音、そのタイトルはどうなんだ?ん?朱志香にこれを見せたらなんて言うかの」
「もっと僕を好きになってくれます!」
この同人誌を読んで、朱志香が嘉音に幻滅するはずはないと彼は確信している。どんなに痛々しくてもそれは彼の想像上の真実であり、魔女にも現実を告げることは出来なかった。
「妄想もほどほどにの」
休憩時間中、朱志香に会いに行くとそこには先客がいた。
「なんでいるんですか、ベアトリーチェ様」
「あ?妾がどこにいようが勝手であろう」
ベアトリーチェは至極面倒くさそうに吐き捨てると、それより、とベッドに座る朱志香に向き直る。彼女は困ったような顔をして、嘉音くんもこっちにおいでよと手招きした。可愛い。
「朱志香、お主、本当に嘉音でよいのか?」
「へ?え、な、なにが……?」
「人の恋路に介入するな!この詐欺師!」
魔女の質問によく分からないといった風に狼狽える朱志香。おろおろする彼女は十分に可愛いが、問題発言をして人の恋路を掻き回す魔女には抗議をするべきだ。
「くっつけてやろうと思った張本人の妾が言うのもなんだがな、こやつはとんだ変態だぞ」
「か、嘉音くんが変態って、どうしてまた……?」
「お嬢様、こんな詐欺師の言うことを聞いてはいけません!」
朱志香の耳を両手でふさぐと、彼女はまた不可解そうに首をかしげた。ところがベアトリーチェはぱちんと指を鳴らすと執事を呼び出す。
「お呼びでしょうか、ベアトリーチェ様」
「嘉音を縛っておけ。妾はこれから朱志香とガールズトークをするのだ」
「ガールズって年齢か!?」
「年齢に決まっておろうが!」
そうは見えないぞこの魔女が、と叫んだところで嘉音の意識は途絶えた。
次に目が覚めたとき、彼は柔らかで張りのある暖かなものを枕にしていた。それにそっと触れると、上の方からひゃあ、と小さな悲鳴が聞こえる。
「朱志香様……?」
「大丈夫?嘉音くん」
もう一度触れる。
「わっ……くすぐったいからよしてくれよ」
明るい笑い声。嘉音が枕にしていたのは朱志香の太股だったのである。
「も、申し訳ございません!……って、あれ、じぇ、朱志香様……そ、それは……」
彼女に向き合った彼は絶句した。なぜなら今の朱志香の格好はいつものブレザーにミニスカートではなかったからである。
彼女の美しい肢体を覆うのは紺色の伸縮性のある布。肩から先と脚が惜しげもなく晒され、胸元には『じぇしか』と書かれた白地の布が縫いつけてある衣装、つまりスクール水着である。いつものハイソックスはフリルの付いたニーソックスへと変貌を遂げている。ニーソックスにはガーターベルトが取り付けられ、水着の腰の辺りに装着されていた。それより何より目を引くのは、朱志香の頭から生えている白の猫耳と尻の辺りで揺れる同色の尻尾だった。彼女は顔を赤らめてはにかむ。
「ベアトリーチェが、嘉音くんの日頃の疲れはこうすれば癒せる、っていうから……」
「朱志香様……」
スタイルの良い朱志香の胸元はボディラインが丸見えになる水着によってその曲線美がさらに強調されており、ゼッケンに書かれた『じぇしか』の文字もゆがんで見える。さらに少々きついらしく生地の食い込みに顔をゆがめる様も扇情的に映る。まじまじと見つめられて恥ずかしいのだろう、彼女の頬は真っ赤に染まり、そろそろと腕を上げ掛けてはしかし嘉音を癒したいという願望故か降ろすことを繰り返している。
「で、でも、この水着、ちょっときついんだよね……はは……」
「その猫耳と尻尾は……」
「魔女様が魔法で……なんか癒されたら戻るらしいぜ」
照れたようにぴょこぴょこと動く耳。ゆらゆらと揺れる尻尾。触りたい。撫でたい。
「朱志香様……」
「ん?」
「良くお似合いです」
「あ、ありがとな……」
ふらふらと手が耳に触れる。ふにふにと触っていると、朱志香が照れたように笑う。
「そんなに触られるとくすぐったいよ」
「気持ちいいですか?」
「ん……どうだろう……気持ちいい、のかな……?」
「では、こちらはどうですか?」
耳から手を離して尻尾を握る。
「にゃうんっ!……え!?」
彼女はびっくりしたのか猫のような悲鳴を上げる。そして、一瞬後に何を口走ったのかと唖然とした。
「お可愛らしいです」
そう言いながら尻尾を撫でさすってみる。この間の祭典で買い込んだ朱志香に猫耳と尻尾が生えた本(勿論年齢制限付きだったのでたまたま同行していた譲治に頼みこんで買ってきてもらった)では尻尾を握ったり撫でたりすると、彼女が可愛らしく鳴いたシーンがあった。が、嘉音が期待していたような自主規制が必要な反応はなく、朱志香は困ったように尻尾と嘉音を見比べているだけだった。
「朱志香様?」
「あ、あぁ、ごめん……尻尾、そんなに気持ちいい?」
「え?」
確かに触った感じはとても柔らかな毛並みで、ふわふわしていて気持ちが良い。しかし朱志香は小刻みに震えており、見せておく必要の無くなった二の腕をさすっていた。
「朱志香様……もしかしてお寒いのですか?」
「あ、あはは……ちょっと、この季節にこれは……くしゅん!」
現在は夏も終わりに近づいた季節である。まだ水着の出番は終わっていないと主張すればそれまでだが、さすがに夕方にこれは寒いだろう。くわえて冷房の効いた部屋である。このままでは風邪を引くのも時間の問題だろう。上着を着せなければとブレザーを探すが見あたらない。
「朱志香様、あの、今日のお召し物は……?」
「あ……ベアトリーチェに魔法で変えられたから……持って行かれた、かも」
あの変人魔女、と嘉音は心の中で毒づく。しかし優先すべきは朱志香を暖めることだ。クローゼットから出しても良いが、冷えた上着を着せるわけにはいかない。そのとき、嘉音の頭の中で電球が光ったような気がした。
「失礼します」
「え……え!?」
ぎゅっと抱きしめて、ベッドにそっと押し倒す。何度も何度も夢を見て、イメージトレーニング(という名の妄想)してきたことだ。
朱志香はわたわたと顔を赤くして慌てている。その仕草もまた可愛い。
「お体が暖まるまで、僕があなたの布団になります」
「ええええ!?」
だがしかし、布団になりきれるかどうかは不安があった。しつこいようだが現在の朱志香はサイズの合わないスクール水着姿。ボディラインが強調され、向かい合わせに抱きしめて押し倒す体勢だと胸が自然と当たってしまうのである。加えて彼女の髪から漂う良い匂いが嘉音を酔わせる。朱志香もそれに気付いたらしく、自らの手のひらで胸の辺りを覆う仕草をして真っ赤になった顔を背けた。
「か、嘉音くん……ダメだよ、そんな……嘉音くんが風邪、引いちゃう」
「大丈夫です。朱志香様がお風邪を召されたら、僕は心配で仕事が手に付きません」
「あ……そ、そんな……」
2人の視線が絡み合う。潤んでかすかに揺らめく瞳。その瞳に魅せられて、つい顔を近づける。
「か、嘉音、くん……?」
「朱志香様……」
そして、唇が近づいて。
「失礼します。お食事のご用意が整いました……って……」
ノックの後にドアが開かれた。ぱっと2人同時に離れて振り向けば紗音がいる。
「ね、ねねねねねね姉さん!?」
「しゃ、紗音!?」
「え~と……うん、嘉音くん、私お嬢様のお着替えを手伝ってから行くから先に行ってて」
少し固まった後、紗音はにっこり笑って食堂のほうを示す。
「ぼ、僕がお嬢様にお着替えさせるから!」
「だめ。お嬢様がお着替えできなくなっちゃうでしょ?」
「しゃ、紗音」
「はい、お嬢様」
「あの、ベアトリーチェが、その、嘉音くんが変態だとかなんだとか言ってたんだけど……それと私が着替えられなくなるのと、何か理由があるのか?」
胸元を押さえた朱志香が尋ねる。
「はい。お嬢様のお着替えがお着替えにならなくなります。例えばですね……」
紗音は朱志香の耳元に何かを囁いた。途端に彼女が真っ赤になる。
「え、で、でも、その……嘉音くんは、もっと紳士だったぜ?」
「いいえお嬢様、騙されてはいけません」
紳士、という単語からおそらく嘉音についてまともな情報が伝わっていないことを悟る。さらに朱志香に変なことを吹き込むつもりの姉に嘉音は怒鳴った。
「姉さん!どうしてそう僕を変質者扱いするの!?」
「だって本当のことじゃない。お嬢様のシャツの匂い、嗅いでたでしょ?それに嘉音くん、この間の使用人の自室を含む使用人室の総点検の時に嘉音くんの部屋からお嬢様の下着が出てきたよね?」
「か、嘉音くん……あの、わ、私……その……」
耳はぴょこぴょこ、尻尾はゆらゆら。困ったような真っ赤な顔で、朱志香はこちらを見つめてくる。なんて可愛らしい。だが、その視線はもしかしたら嘉音を責めるものなのかもしれない。あるいは、彼と恋人になったことを後悔しているのか。絶望的な気分で朱志香に縋る。
「じぇ、朱志香様、あの、その、違うんです、これは……」
「えっと……嘉音くんが、望むんなら……いいよ?ちゃんと返してくれれば……」
真っ赤な頬で、困ったような顔で、蚊の鳴くような声で囁かれた言葉は、しっかりと嘉音の耳に届いた。後光が見える。可愛い。
「朱志香様!」
思いあまって彼女の身体を抱きしめる。これからはちゃんと返そうと嘉音は心に誓った。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。
僕はあなたのことを愛しています。世界で一番大事な人。
例え茨の道が待っていようと、必ずや幸せにして見せます!
だってこの世界はお嬢様を中心にまわっている。
「お嬢様の前では万物が背景になってもぶっ!」
ごん、と鈍い音がして振り向けば、紗音が六法全書と書かれた分厚い本を持って笑顔で立っていた。
「ね、姉さん……?」
「嘉音くん?万物に譲治様や私は含まれるのかなぁ?」
「え、当たり前じゃn……」
紗音の顔が一瞬にして恐ろしい顔へと変わる。そう、それはまるで文化祭で入ったお化け屋敷の……。
「よくも私たちを背景扱いしてくれたわねぇぇぇぇぇぇぇ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
死因は不明。おそらく傍に落ちていた六法全書を受けてのものだと思われる。
ダイイング・メッセージによると「朱志香様、結婚してください」とのこと。
「誰が鬼の形相ですって?」(by紗音)
今日は船が出せないのでお嬢様はお屋敷におられる。お勉強が忙しいのは仕方ないが、たまには僕も紗音みたいにお嬢様と遊びたい。
もう家具だからとかそういうことは言っていられない。
だってお嬢様を中心に世界はまわっているのだから!
恋愛少年の妄想事情
「拝啓、右代宮朱志香様
この間の文化祭の夜は心にもないことを申し上げてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
本当はずっと前からお嬢様のことが好きでした。愛しています。結婚してください。指輪も式も最高のものにするとお約束します。
それからその後の人生も絶対幸せにして見せます。
プランはちゃんと立ててあります。今すぐ結婚しても大丈夫です。
具体的にいつからお嬢様が好きだったかというと多分初めて出会ったときから好きでした。あなたの太陽のような微笑みに、明るく優しいご気質に、僕は一目惚れをしてしまったのかもしれません。
そして、文化祭でお嬢様の楽しそうな姿にますます心を奪われました。あの夜、酷いことを言ってしまったのは家具と人間が恋愛などしてはいけないという規範に囚われていた僕の愚かさのせいです。
しかしもう僕も自分の気持ちを偽るのは限界になってしまいました。
もう一度言います。
お嬢様が好きです。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。恋しい恋しいお嬢様。
適当に仕事をさぼってあなたの学校に潜入してしまいたいぐらい愛しています。
お嬢様にふられてしまったら、僕はもう生きていかれません。
本当は四六時中お嬢様との新婚生活を夢見て生きています。たまに紗音に怒られます。
ですから今度僕を学校に招いてくださるときはちゅーしてください。僕もお嬢様に怒られるまでぎゅーしますぅ?……あ~、やっぱやめた。うん、なんでもない」
突如後ろから聞こえた声に、使用人室の机で書き物をしていた嘉音は青筋を立てながら振り返った。声の主は六軒島の魔女ベアトリーチェ。退屈しのぎのためだけに紗音と譲治の恋を取り持ち、ついでに嘉音と朱志香の恋も取り持ってやろうというとんでもない御仁である。
「何ですかベアトリーチェ様。僕のお嬢様へのラブレターにケチでもつけるおつもりですか」
「いや、お前その手紙渡すつもりか?正気か?ふられるぞ」
ベアトリーチェの顔は露骨に引きつっている。嘉音のいうラブレター、とは冒頭でベアトリーチェが読み上げた嘉音が書いていた手紙である。
「何故ですか。僕のお嬢様への恋心があふれんばかりに綴られているのに……」
「恋心なのは良いがな、それはもはやストーカーであろう」
「一体どの辺りがですか。きっとですね、この手紙をお嬢様に渡せば……」
ますます引きつった顔をするベアトリーチェを余所に、嘉音は手紙を渡したときの朱志香の反応を思い描く。
『嘉音くん……これ……』
朱志香は手紙を読み終えると縋るような目で嘉音を見つめる。
『それが僕の気持ちです。もうアヒルでも構いません。お嬢様と一緒に生きていきたいんです!』
彼女の手を両手でぎゅっと握りしめると、目の前の恋しい少女はほんのりと頬を染めて目を潤ませる。
『嬉しい……嬉しいよ、嘉音くん。ありがとう……』
可愛い。きっと彼女は宇宙一可愛い。もう堪えられない。
『愛しています、お嬢様!』
手を離してぎゅっと抱きしめると、彼女も抱きしめ返してくれる。
『私も、私も大好きだぜ、嘉音くん!』
『お嬢様!大好きです!』
「お嬢様……!」
「……おぬし、それどこのギャルゲーだ?妾そんなもの貸した覚えはないぞ?というか朱志香の盗撮写真に思い切りキスするな、痛々しいぞ」
何時の間にやら取り出した朱志香の写真に感無量で口づける嘉音に、ベアトリーチェが制止をかける。愛しい朱志香との逢瀬のイメージトレーニング(だと本人は思っている)を邪魔されて嘉音は面倒くさそうに魔女のほうを向く。
「まだいたんですか。いい加減帰ってください。僕は忙しいんです」
「どこがだ、この暇人め。紗音は真面目に仕事をして、たまの休憩時間だから朱志香と談笑しておるというのに……紗音ぐらい真面目に働いておれば妾も願いを叶えてやろうと張り切るのだがのう」
「姉さんがお嬢様と一緒にいるんですか!?」
どうでもいいところに食いついてくる嘉音に魔女はこの日何度目か分からない「うわぁ」という間抜けな声を出した。椅子まで蹴倒すただならぬ様子にまずは落ち着けと宥める。
「いつものことではないか。紗音も朱志香も楽しそうだぞ?何の不満があるというのだ」
「姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて……」
「聞けよ」
「何で姉さんばっかりお嬢様と仲良くするんですか!僕もお嬢様とお茶が飲みたいです!それでこっそりお嬢様のベッドに僕の髪の毛入りの人形とか置きたい!」
「今度は何を読んだお前は!」
別にこれといって読んだものはない。ただ本屋に入った折に恋のおまじない特集なる雑誌を立ち読みしたら載っていただけだ。
嘉音が右代宮家に勤め始めたときから紗音は朱志香と仲が良かった。彼が家具だという意識を強く持っていた頃はあまり感心しなかったことだが、今となっては紗音が妬ましくて仕方がない。
嘉音だって朱志香の部屋で一緒にお茶を飲みたい。紗音ほどドジを踏まない自信はあるから、きっと朱志香にも満足してもらえるはずだ。
『嘉音くんは何でも出来るんだな!見直したぜ』
『全てお嬢様に喜んでいただくために練習しました』
褒めてくれたら取って置きの笑顔を見せて、彼女の指先に口づける。きっとそれだけでウブな彼女は頬を赤く染めるだろう。そうしたら自分はポケットから彼女のために買った数々のアクセサリー(今回はネックレス)を贈るのだ。
『お嬢様にお似合いになるかと思いまして……』
『ありがとう、嘉音くん!……それで、その……これ、つけるの手伝って欲しいんだ』
『お安いご用です』
ネックレスを受け取ると後ろに回り込み、留め具を掛ける。鏡台から手鏡を持ってきて見せる。
『良くお似合いですよ。お美しいです』
『嘉音くん……へへ、照れるぜ……』
朱志香は頬をもっと赤く染めて照れ笑いをする。その仕草がたまらなく可愛らしい。鼻先で揺れる金髪からは良い香りがする。彼女の言葉も仕草も、声も匂いも全てが嘉音の理性を揺さぶる。つい吸い寄せられるように目の前の少女を抱きしめた。
『か、嘉音くん!?』
『お嬢様……ご存じですか?』
『な、何を……?』
『男性が女性にアクセサリーを贈るのは、独占欲の表れなんです』
熱い吐息と共に耳元で囁いて、赤くなった耳たぶに口付けを落とす。
『ひぁっ……!あ、……やめっ……』
『愛しています、お嬢様……』
そのまま耳朶に舌を這わせながらベッドへと押し倒す。彼女の身体を仰向けにすると、切なげに潤んだ眼差しとぶつかる。半開きになったままの桜色の唇に口づける。舌を差し込めば、朱志香の小さなそれが逃げようと抵抗する。
『ん……』
逃げる舌を捕まえて絡ませる。いったん唇を離すと、朱志香のとろんとした目が見つめてくる。
『お嬢様……よろしいですか?』
『あ……あの……朱志香って……呼んで……』
それは恋を知った乙女のささやかな願い。嘉音が乱したシャツもそのままに、彼女は指を彼のそれに絡めた。
紛れもなくそれは行為の了承の合図。
『朱志香……』
『優しく……してね……?』
『かしこまりました』
優しく微笑んで、嘉音は朱志香の首筋に唇を這わせた。
「お慕いしています……朱志香……」
先ほどの朱志香の写真を抱きしめて感じ入っている嘉音の後ろでは、ベアトリーチェが呆れた顔をしてちょうど入ってきた紗音に声を掛けていた。
「お、紗音~。この暇人なんとかしろ。妾ではこいつの妄想についていけん」
「あ、ベアトリーチェ様。嘉音くん、前からこうなんです。ほら嘉音くん、お嬢様にお洗濯ものお届けしてきて」
紗音は嘉音の肩をぽんぽんと叩くと、朱志香の写真を取り上げて代わりに洗濯物一式を持たせた。嘉音はしばし洗濯物と見つめ合った後、こくんと素直に頷く。
「これ、全部お嬢様の……?」
「そうよ」
「量が多いようには見えんが?」
「じゃあこれ、お嬢様のハンカチ?」
「そうよ」
「そっち!?」
魔女のツッコミを無視して、嘉音は洗濯物に頬ずりをする。それから鼻の下がのびているだらしない表情をきりりと引き締めると、使用人室を出た。
なんと言ってもこれから朱志香の部屋に行くのだ。だらしない顔をして会うわけにはいかない。いつも通りクールに、かつ紳士的に振る舞うのだ。
こんこん、とドアをノックする。
「は~い。入って良いよ」
中から朱志香の元気の良い声が聞こえる。入って良いとのことなのでドアをあけて入る。
「お嬢様。お洗濯ものをお届けに上がりました」
「わ、か、嘉音くん!?」
彼女は入ってきたのが嘉音だと分かるとわたわたとそこらのものを片づけ始めた。もともと散らかっているわけでもないので片づけものはすぐ終わり、その辺に座っているように指示される。
「ごめんな、この問題だけ終わらせちゃうからちょっと待って」
「はい」
朱志香が問題集に向き直っている間に、嘉音はベッドに座って部屋の中を見回す。彼は男性だからこの部屋に入る頻度はそう多くない。そもそも女性の部屋に入る頻度自体が少ないのだが、朱志香の部屋は右代宮本家の令嬢らしい気品があると思う。
その部屋の主も普段は男勝りで言葉遣いこそ荒いが、正式な社交の場などでは気品あふれる令嬢の振る舞いをしているのではないか。彼はそういう場所に行ったことがないけれど、パーティーから帰ってきたときに夏妃が彼女に小言を言うことは滅多にない。強いて言えば男性への対処の仕方ぐらいか。
--お嬢様が男という名の危険な狼に誑かされないように……お嬢様は僕が守る!
どう考えても一番危険な狼は嘉音なのだが、彼は全く気付かない。ついでに言えば、朱志香も嘉音が自分を誑かそうとしている狼だとは気付いていなかった。
そうこうするうちに問題が解けたのか、彼女はぱたんと問題集を閉じるとこちらに向き直った。
「悪い悪い、ちょっと手が放せなかったもんだからさ……それで、ええと、せ、洗濯物だっけ?」
「はい。お届けに上がりました」
「届けに来てくれただけなのにごめんな……悪いことしちゃったぜ」
届けに来ただけだと思ったのか、朱志香は気まずそうに笑う。文化祭のことをもしかしたら引きずっているのかもしれない。
繊細な彼女のことだ。嘉音に迷惑を掛けてしまったとか、気まずくなってしまったとか後ろめたい想いも抱えているのだろう。
「いえ、僕はおじょ……じゃなかった、家具ですから」
本音を言いかけて、慌ててお決まりの台詞で繕う。朱志香がまた傷つくことに罪悪感を覚えながら、彼はそれ以外にどうすることも出来なかった。
いや、彼にもう少し勇気があれば本音を言えたのかもしれない。けれど、一度手酷く拒絶しておきながら恋心を告げることが彼女にどう思われるかが気になって、なかなか喉の奥から出すことが出来ない。
目の前の少女はいつもの太陽のような微笑みではなく、少し悲しげな微笑みを浮かべた。ずきりと胸が痛むのを感じる。
「……もう、家具ですから、ってところには何も言わない。……でも、一つだけ教えて」
「はい」
「家具ですから、の前。なんて言おうとしたの?」
真剣な瞳。その光に囚われて、逃げ道を失ってしまいそうだ。いや、逃げ道など本当はないのだ。
彼にあるのはただ、その思いを告げるのみ。
「お嬢様と……」
「……私と?」
「お嬢様と一秒でも長く一緒にいたいですから、と」
「……え?」
朱志香が呆気にとられたような顔になる。次いで、その可愛らしい顔がほのかに赤く染まった。
--そうだ、ここであのラブレターをお渡しして……あれ、無い!使用人室に忘れてきた!?
使用人室で先ほどまで書いてきたラブレターはどうやら忘れてきてしまったようだ。あれを渡しても嘉音の恋が実るかは怪しいところなのだが、彼はそんなことはお構いなしにどうしようと考える。
--どうしよう……僕が言葉で言うしかないのか?そうだ、言葉で言うしかない!
「……嘉音くん?」
「お嬢様!」
おずおずと嘉音の額に手を伸ばしてきた朱志香の肩を掴んで叫ぶ。
「は、はいぃっ!」
「す……すっ……」
「す?」
「す、好きです!」
その瞬間、朱志香の頬がまるでぽん、と音がしたかのように真っ赤に染まった。
「え……え!?す、好きって……その……友達としてとか、雇用者としてとか、そういう……意味……だよな……きっと」
真っ赤に染まった頬を鎮めるためなのか、彼女はきゅっと目を瞑ってふるふると首を横に振る。
「違います。お嬢様を……朱志香様を1人の女性としてお慕いしています!」
暫く呆然としていた朱志香の瞳が潤む。
「お気に障ったのならすみません……ですが僕はもう家具ではいられないんです!お嬢様のことを想うたびに人間になりたくなる、お嬢様と心おきなく愛し合いたいんです!」
「嘉音……くん……ありがと……私も……私も大好きだぜ!」
ぎゅっと抱きついてくる彼女の温かさに、彼は密かに言って良かった、と小さくガッツポーズをした。要するに感無量。
もうこの先、どんな魔女(ベアトリーチェ含む)が出てこようと、どんな悪魔が2人を引き裂かんとしようと、嘉音はずっと朱志香の傍にいる。それが2人の幸せへの近道なのだから。
このことが妄想ではなく事実だという幸せをかみしめながら。
洗濯物を無事に朱志香のクローゼット(少し中に入りたい、と思った)に仕舞い、使用人室に戻ってきた嘉音はゆっくりとドアを閉めた。
あたりに郷田やら郷田やら郷田がいないことを確認して叫ぶ。
「ぃやったぁぁぁぁぁぁ!」
「なんだ、騒々しい……」
「嘉音くん、どうしたの?お嬢様のお部屋の良い匂いにとうとう理性の糸でも切れちゃったの?」
なんだなんだとこちらに寄ってくる魔女と姉に早速報告してみる。
「お嬢様と結婚します」
「は?」
魔女はぽかんとして聞き返し、姉はあらあらと笑った。
「お嬢様に告白してきました。もう僕たちは夫婦も同然、式は大安吉日です!」
「プロポーズしたの?」
「え?」
「結婚してください、って言ったの?」
「え、姉さん、つき合うことになったらイコール結婚じゃないの?」
紗音は夏妃の機嫌の悪いときのように頭に手を当てると、ふぅ、と大きく溜息を吐いた。
「……あのね、嘉音くん。結婚するのは指輪をあげて結婚してください、って言わなきゃいけないのよ」
「お嬢様に、指輪……」
「嘉音くん?聞いてる?ちょっと、涎垂らさないで!もう!」
紗音の怒声をバックミュージックに、彼は朱志香にプロポーズする様を想像した。勿論紗音が譲治から受けたプロポーズを参考にしている。
『お嬢様……結婚してください』
薔薇園の東屋で朱志香にダイヤモンドの指輪を渡す。ベルベット地の箱の中に鎮座する美しい指輪に、彼女は瞳を潤ませた。
『嘉音くん……でも、その……いいの?』
『はい。これはお嬢様のお気持ちだけが頼りになりますから……それと、今ひとつ約束違反がありましたよ?』
優しくその大きな瞳をのぞき込むと、朱志香はぽん、と顔を赤くした。
『あ……』
『僕も2人きりの時は朱志香とお呼びします。ですから……』
きっとどこかで告げられるであろう彼の本名を、彼女は照れながらもしかし確実に紡いでくれる。
『よ……嘉哉くん……って呼ぶよ……わっ』
顔を赤く染めながらはにかむ恋人を抱きしめる。あまりにも可愛らしくて理性をつなぎ止めるのにも一苦労だ。
朱志香が愛おしい。
朱志香と共に生きていきたい。
もう自分が家具だからなんて関係ない。
きっとこの命は朱志香を愛するために生まれてきたのだから!
『愛しています。一生朱志香を大切にします。ですから、一晩良くお考えになって、明日の朝までに朱志香の返事を聞かせてください』
『嘉哉くん……』
『今僕がここであなたの左手の薬指に指輪を通すことも出来ます。しかしそれは朱志香の意思じゃない』
一度体を離して見つめ合う。耳まで赤く染まった顔に潤んだ瞳の朱志香が可愛らしい。彼女は切なそうに眉を寄せて嘉音の次の言葉を待つ。だから、彼は告げる。
『もし僕の求婚を受けてくださるのなら、この指輪をお好きな指に着けてください』
『う、うん……』
おずおずと朱志香は指輪に手を伸ばし、ゆっくりと彼女の左手の薬指に通した。それは間違いなく求婚を受け入れる合図。
『私も……嘉哉くんを幸せにする……ぜ……えへへ』
その照れた笑顔に愛しさを感じる。やっと手に入れられる彼の太陽を、嘉音は思い切り抱きしめた。
『朱志香……ありがとう……』
「……のう嘉音。お主それ、どこから出した?」
「……まだいたんですか。常に携帯していますよ」
自主規制が必要な妄想に浸っていた嘉音が出して抱きしめていたのは朱志香がプリントされたピローカバーだった。ビキニタイプの白い水着が良く映える素肌が眩しい。
「去年の某夏の祭典で買ってきたんですよ。私も譲治様のピローカバーを三枚ほど持っているんです」
嘉音の涎を綺麗に拭いていた紗音がにこにこととんでもないことを暴露する。そう、このピローカバー、譲治の友人や朱志香の同級生が自主的に作って売っていたものなのである。
嘉音と紗音は何回も一部の間からは祭典と呼ばれる盆と年末に開催される同人イベントに出ている。その形態は本(同人誌)を売るサークル参加と買い手にまわる一般参加と時によって違うが、毎回参加していることに代わりはない。
カタログを買って朱志香や譲治が描かれた本を探し、当日は始発で会場に行って目当てのものを買う。それは常に思いを確かめ合えない彼らがたどり着いた年に二回の癒しの時だった。
「……で、お主らはこのような本を書いていた、と……」
ベアトリーチェはじとりとした目になって二冊の本を取り出す。一冊はソファーで寝ている譲治に寄り添う紗音が描かれた本、もう一冊はピンク色の浴衣をしどけなくはだけて赤い顔をした朱志香が描かれた本。
「それ、私の『眠るあなたに愛を込めて』!」
「それ、僕の『お嬢様とらぶらぶ☆夏祭り』!」
2人がそれぞれの本のタイトルを叫ぶと、魔女は露骨にげんなりとした顔になった。
「……紗音はともかく、嘉音、そのタイトルはどうなんだ?ん?朱志香にこれを見せたらなんて言うかの」
「もっと僕を好きになってくれます!」
この同人誌を読んで、朱志香が嘉音に幻滅するはずはないと彼は確信している。どんなに痛々しくてもそれは彼の想像上の真実であり、魔女にも現実を告げることは出来なかった。
「妄想もほどほどにの」
休憩時間中、朱志香に会いに行くとそこには先客がいた。
「なんでいるんですか、ベアトリーチェ様」
「あ?妾がどこにいようが勝手であろう」
ベアトリーチェは至極面倒くさそうに吐き捨てると、それより、とベッドに座る朱志香に向き直る。彼女は困ったような顔をして、嘉音くんもこっちにおいでよと手招きした。可愛い。
「朱志香、お主、本当に嘉音でよいのか?」
「へ?え、な、なにが……?」
「人の恋路に介入するな!この詐欺師!」
魔女の質問によく分からないといった風に狼狽える朱志香。おろおろする彼女は十分に可愛いが、問題発言をして人の恋路を掻き回す魔女には抗議をするべきだ。
「くっつけてやろうと思った張本人の妾が言うのもなんだがな、こやつはとんだ変態だぞ」
「か、嘉音くんが変態って、どうしてまた……?」
「お嬢様、こんな詐欺師の言うことを聞いてはいけません!」
朱志香の耳を両手でふさぐと、彼女はまた不可解そうに首をかしげた。ところがベアトリーチェはぱちんと指を鳴らすと執事を呼び出す。
「お呼びでしょうか、ベアトリーチェ様」
「嘉音を縛っておけ。妾はこれから朱志香とガールズトークをするのだ」
「ガールズって年齢か!?」
「年齢に決まっておろうが!」
そうは見えないぞこの魔女が、と叫んだところで嘉音の意識は途絶えた。
次に目が覚めたとき、彼は柔らかで張りのある暖かなものを枕にしていた。それにそっと触れると、上の方からひゃあ、と小さな悲鳴が聞こえる。
「朱志香様……?」
「大丈夫?嘉音くん」
もう一度触れる。
「わっ……くすぐったいからよしてくれよ」
明るい笑い声。嘉音が枕にしていたのは朱志香の太股だったのである。
「も、申し訳ございません!……って、あれ、じぇ、朱志香様……そ、それは……」
彼女に向き合った彼は絶句した。なぜなら今の朱志香の格好はいつものブレザーにミニスカートではなかったからである。
彼女の美しい肢体を覆うのは紺色の伸縮性のある布。肩から先と脚が惜しげもなく晒され、胸元には『じぇしか』と書かれた白地の布が縫いつけてある衣装、つまりスクール水着である。いつものハイソックスはフリルの付いたニーソックスへと変貌を遂げている。ニーソックスにはガーターベルトが取り付けられ、水着の腰の辺りに装着されていた。それより何より目を引くのは、朱志香の頭から生えている白の猫耳と尻の辺りで揺れる同色の尻尾だった。彼女は顔を赤らめてはにかむ。
「ベアトリーチェが、嘉音くんの日頃の疲れはこうすれば癒せる、っていうから……」
「朱志香様……」
スタイルの良い朱志香の胸元はボディラインが丸見えになる水着によってその曲線美がさらに強調されており、ゼッケンに書かれた『じぇしか』の文字もゆがんで見える。さらに少々きついらしく生地の食い込みに顔をゆがめる様も扇情的に映る。まじまじと見つめられて恥ずかしいのだろう、彼女の頬は真っ赤に染まり、そろそろと腕を上げ掛けてはしかし嘉音を癒したいという願望故か降ろすことを繰り返している。
「で、でも、この水着、ちょっときついんだよね……はは……」
「その猫耳と尻尾は……」
「魔女様が魔法で……なんか癒されたら戻るらしいぜ」
照れたようにぴょこぴょこと動く耳。ゆらゆらと揺れる尻尾。触りたい。撫でたい。
「朱志香様……」
「ん?」
「良くお似合いです」
「あ、ありがとな……」
ふらふらと手が耳に触れる。ふにふにと触っていると、朱志香が照れたように笑う。
「そんなに触られるとくすぐったいよ」
「気持ちいいですか?」
「ん……どうだろう……気持ちいい、のかな……?」
「では、こちらはどうですか?」
耳から手を離して尻尾を握る。
「にゃうんっ!……え!?」
彼女はびっくりしたのか猫のような悲鳴を上げる。そして、一瞬後に何を口走ったのかと唖然とした。
「お可愛らしいです」
そう言いながら尻尾を撫でさすってみる。この間の祭典で買い込んだ朱志香に猫耳と尻尾が生えた本(勿論年齢制限付きだったのでたまたま同行していた譲治に頼みこんで買ってきてもらった)では尻尾を握ったり撫でたりすると、彼女が可愛らしく鳴いたシーンがあった。が、嘉音が期待していたような自主規制が必要な反応はなく、朱志香は困ったように尻尾と嘉音を見比べているだけだった。
「朱志香様?」
「あ、あぁ、ごめん……尻尾、そんなに気持ちいい?」
「え?」
確かに触った感じはとても柔らかな毛並みで、ふわふわしていて気持ちが良い。しかし朱志香は小刻みに震えており、見せておく必要の無くなった二の腕をさすっていた。
「朱志香様……もしかしてお寒いのですか?」
「あ、あはは……ちょっと、この季節にこれは……くしゅん!」
現在は夏も終わりに近づいた季節である。まだ水着の出番は終わっていないと主張すればそれまでだが、さすがに夕方にこれは寒いだろう。くわえて冷房の効いた部屋である。このままでは風邪を引くのも時間の問題だろう。上着を着せなければとブレザーを探すが見あたらない。
「朱志香様、あの、今日のお召し物は……?」
「あ……ベアトリーチェに魔法で変えられたから……持って行かれた、かも」
あの変人魔女、と嘉音は心の中で毒づく。しかし優先すべきは朱志香を暖めることだ。クローゼットから出しても良いが、冷えた上着を着せるわけにはいかない。そのとき、嘉音の頭の中で電球が光ったような気がした。
「失礼します」
「え……え!?」
ぎゅっと抱きしめて、ベッドにそっと押し倒す。何度も何度も夢を見て、イメージトレーニング(という名の妄想)してきたことだ。
朱志香はわたわたと顔を赤くして慌てている。その仕草もまた可愛い。
「お体が暖まるまで、僕があなたの布団になります」
「ええええ!?」
だがしかし、布団になりきれるかどうかは不安があった。しつこいようだが現在の朱志香はサイズの合わないスクール水着姿。ボディラインが強調され、向かい合わせに抱きしめて押し倒す体勢だと胸が自然と当たってしまうのである。加えて彼女の髪から漂う良い匂いが嘉音を酔わせる。朱志香もそれに気付いたらしく、自らの手のひらで胸の辺りを覆う仕草をして真っ赤になった顔を背けた。
「か、嘉音くん……ダメだよ、そんな……嘉音くんが風邪、引いちゃう」
「大丈夫です。朱志香様がお風邪を召されたら、僕は心配で仕事が手に付きません」
「あ……そ、そんな……」
2人の視線が絡み合う。潤んでかすかに揺らめく瞳。その瞳に魅せられて、つい顔を近づける。
「か、嘉音、くん……?」
「朱志香様……」
そして、唇が近づいて。
「失礼します。お食事のご用意が整いました……って……」
ノックの後にドアが開かれた。ぱっと2人同時に離れて振り向けば紗音がいる。
「ね、ねねねねねね姉さん!?」
「しゃ、紗音!?」
「え~と……うん、嘉音くん、私お嬢様のお着替えを手伝ってから行くから先に行ってて」
少し固まった後、紗音はにっこり笑って食堂のほうを示す。
「ぼ、僕がお嬢様にお着替えさせるから!」
「だめ。お嬢様がお着替えできなくなっちゃうでしょ?」
「しゃ、紗音」
「はい、お嬢様」
「あの、ベアトリーチェが、その、嘉音くんが変態だとかなんだとか言ってたんだけど……それと私が着替えられなくなるのと、何か理由があるのか?」
胸元を押さえた朱志香が尋ねる。
「はい。お嬢様のお着替えがお着替えにならなくなります。例えばですね……」
紗音は朱志香の耳元に何かを囁いた。途端に彼女が真っ赤になる。
「え、で、でも、その……嘉音くんは、もっと紳士だったぜ?」
「いいえお嬢様、騙されてはいけません」
紳士、という単語からおそらく嘉音についてまともな情報が伝わっていないことを悟る。さらに朱志香に変なことを吹き込むつもりの姉に嘉音は怒鳴った。
「姉さん!どうしてそう僕を変質者扱いするの!?」
「だって本当のことじゃない。お嬢様のシャツの匂い、嗅いでたでしょ?それに嘉音くん、この間の使用人の自室を含む使用人室の総点検の時に嘉音くんの部屋からお嬢様の下着が出てきたよね?」
「か、嘉音くん……あの、わ、私……その……」
耳はぴょこぴょこ、尻尾はゆらゆら。困ったような真っ赤な顔で、朱志香はこちらを見つめてくる。なんて可愛らしい。だが、その視線はもしかしたら嘉音を責めるものなのかもしれない。あるいは、彼と恋人になったことを後悔しているのか。絶望的な気分で朱志香に縋る。
「じぇ、朱志香様、あの、その、違うんです、これは……」
「えっと……嘉音くんが、望むんなら……いいよ?ちゃんと返してくれれば……」
真っ赤な頬で、困ったような顔で、蚊の鳴くような声で囁かれた言葉は、しっかりと嘉音の耳に届いた。後光が見える。可愛い。
「朱志香様!」
思いあまって彼女の身体を抱きしめる。これからはちゃんと返そうと嘉音は心に誓った。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。
僕はあなたのことを愛しています。世界で一番大事な人。
例え茨の道が待っていようと、必ずや幸せにして見せます!
だってこの世界はお嬢様を中心にまわっている。
「お嬢様の前では万物が背景になってもぶっ!」
ごん、と鈍い音がして振り向けば、紗音が六法全書と書かれた分厚い本を持って笑顔で立っていた。
「ね、姉さん……?」
「嘉音くん?万物に譲治様や私は含まれるのかなぁ?」
「え、当たり前じゃn……」
紗音の顔が一瞬にして恐ろしい顔へと変わる。そう、それはまるで文化祭で入ったお化け屋敷の……。
「よくも私たちを背景扱いしてくれたわねぇぇぇぇぇぇぇ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
死因は不明。おそらく傍に落ちていた六法全書を受けてのものだと思われる。
ダイイング・メッセージによると「朱志香様、結婚してください」とのこと。
「誰が鬼の形相ですって?」(by紗音)
最後です。
!諸注意!
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
・ついでにR15くらいです。
・EP6のネタばれらしきものも混じっています(主に嘉音の本名)。
それではどうぞ。
!諸注意!
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
・ついでにR15くらいです。
・EP6のネタばれらしきものも混じっています(主に嘉音の本名)。
それではどうぞ。
それがこんな事件に発展するなんて思わなかった。
戦人に魔法はあったと信じさせるために、そして蔵臼の事業を助けるために企画した狂言殺人。
そのシナリオの中に、朱志香が読んだ手紙なんて無かった。
思えば嘉音が渡してきた伝説の魔女ベアトリーチェからの手紙が全ての始まりだったのかもしれない。真里亞が楼座に引っぱたかれ、カボチャのマシュマロを壊されるのを見た朱志香に、嘉音が渡した手紙。
おそらく楼座に渡した手紙には親族会議を中座するように指示が為されていたに違いない。
本来のシナリオでは食堂に集まった親たちに事情を話し、協力を仰ぐ予定だった。
嘉音がインゴットを取りに行くと言ったのも、その一部だったはずなのに。
昨晩彼女が紗音の案内で屋敷に行くと親族は誰もいなかった。
『どういうことだ……?』
『どうしたんでしょう……郷田さんが使用人室にいるはずですが……』
『……行ってみよう。紗音、悪いな』
『いえ。お嬢様が旦那様や奥様を思うお気持ち、きっと伝わるはずです』
『ありがとう』
郷田に聞いても、親族の行方は杳としてしれなかった。探しに行きましょうかという郷田に、手をひらひらと振って断った。
『いや、いいんだ。ただ、このことは他言しないでくれ。戦人に狂言だって知られたら、事業がうまくいかなくなるかもしれないし』
『承知しました。お嬢様は……本当に当主様になられたのですね』
そう言ってしみじみと感心する郷田に、朱志香は微笑んだ。
今回の二日間はミステリーナイトを模したもの。
このような事件があったが、犯人は誰かと問い、ゲストハウスを探って貰う。
さらにボトルメールを流しておけばミステリー好きの好奇心をくすぐるだろう。
それをリゾートの時期に二日間にわたって企画し、2日目の回答編には、私が犯人だとベアトリーチェの衣装を着た朱志香が現れる、そういう寸法だった。
しかし、いないものは仕方がない。もう一度行くしかない。
使用人室からの帰り道、朱志香はシナリオを確認した。
『第一の晩に母さん以外の六人、第二の晩に紗音と嘉音くん、第三の晩を飛ばして第四の晩から第八の晩までが南條先生、源次さん、熊沢さん、郷田さん、祖父さま。第九の晩は飛ばして第十の晩に祖父さまの書斎に行って、みんなで戦人をびっくりさせる。終わったら書斎に集合』
『ええ。きっと戦人様、びっくりされると思いますよ……ふふ』
『でも、悪いな。第二の晩、譲治兄さんとのほうがよかっただろ?』
そう問いかけると、紗音は顔を赤くしてはにかんだ。
『いえ、その……あぅ。……でも、特別な場面指定がある訳じゃないですし、明日の晩には譲治様と再会できますし』
そんなやり取りをして、笑いあって、ゲストハウスに帰ったのだ。
その夜、数度にわたって屋敷に行ったのに、親族はいなかった。
だから翌朝、つまり今日1986年の10月4日の朝、礼拝堂で見つかった両親と叔母達が死んでいるとすぐに分かってしまった。
この時点で狂言は出来なくなってしまった。
とっさにベアトリーチェがやったと口走ったのは、戦人や譲治への贖罪もあった。シナリオでも予定していたけれど、本心から叫ぶとは思っていなかった。
--私が……殺したようなもんか……?ごめんな……譲治兄さん、戦人……。
朱志香は椅子の上で身体を丸める。そして、回想を続ける。
両親が殺されて、怒りの炎が燃え上がるままに貴賓室のものを壊してしまった。
金蔵にまた怒られてしまうだろうか。
金蔵が死んだのを知ったのは少し前だった。朱志香が新しいベアトリーチェだと知ってから、彼女は祖父に魔術を教えられた。碑文を解いたと知らせると、金蔵は彼のベアトリーチェの想い出を教えてくれた。
だから、金蔵が死んだと知ったとき、どうすればいいか分からなかった。どうすればいいか分からなくて、祖父の魔女と祖父が黄金郷で愛し合っていることを信じた。
黄金郷に行けば願いが叶う。
魔女も魔術師も関係ない。金蔵の愛したベアトリーチェと、金蔵は黄金郷で幸せになれる。
だから、両親と使用人がぐるになった死亡隠蔽も見て見ぬふりをした。ただ死んだと判明してしまったら、その幻想は崩れてしまうから。
同時に、母の優しい金蔵という魔法でさえも解けてしまうから。
だから、第十の晩までに金蔵は10月3日に死んだと嘘をつきたかったのに。
--どうして、嘉音くん……どうして……!
朱志香は嘉音のことが好きだった。一目惚れ、というわけにはいかないが、とにかく好きだった。6年前に失った「カノン」と同じ名前で、同じぐらい仕事に真面目。
金蔵のベアトリーチェが現在のジェシカ・ベアトリーチェを哀れんで「カノン」を人間に生まれ変わらせてくれたのかと思うほどに、嘉音は朱志香の側にいた。
恋をしたい、と思ったときに真っ先に浮かんだのは嘉音だった。
彼は恋をしたことがあるのだろうか、そう思った。
外の世界を知って欲しかった。彼の世界は六軒島だけじゃない、そう教えたかった。
だから文化祭に誘った。
一番大好きなことをしていられる「朱志香」を教えた。
けれど彼は、人間と家具に恋など出来ないとはねつけた。朱志香の思いに応えられないと言った。
恋心が砕かれて、彼女はこれ以上嘉音の前にいられなくて、部屋に帰ってしまったが、嘉音はあのあとどうしたのだろうか。
その後、いつからか嘉音の目に宿る光が違うような感じがした。
そう、確か戦人が来るという話を聞いた後からだったか。朱志香に何かを訴えるような光。
『嘉音くん……あの、何かあったら、私に話して良いから……』
『ありがとうございます、お嬢様。ですが、僕は……家具ですから』
家具ではないと叫んでも、彼女の言葉は嘉音には届かない。
だから、自分の想いを叶えることは諦めていたのに。
『ずっと、ずっと好きでした』
その言葉に、朱志香は何故だか背筋が震えるのを感じた。
嘉音は緊急事態なのに、その瞳に情欲の炎をちらつかせて朱志香に愛を迫った。
『すべて、僕がやりました』
『仕方なかったのです』
朱志香と結ばれるためには殺人さえいとわないという嘉音。
何がなんだか、朱志香にはさっぱり分からない。
ただ、彼女が出演料兼迷惑料として使用人や親族のそれぞれの家族に贈った1億円がどうやら慰謝料になりそうだという予感がした。
嘉音が恐ろしい。
朱志香に掴みかかられてもなお、彼女の愛を求め、彼女と愛し合うためなら殺人すら厭わない彼が、恐ろしい。
嘉音が愛しい。
家具と念じる気持ちの向こう側で、彼女を求める彼が愛おしい。
二つの心の狭間で前者に少しだけ寄り添って揺れながら、朱志香はゆっくりと瞳を閉じた。
何人殺そうと、嘉音は朱志香を求め続ける。
彼の思いを拒絶しようと無理だと、南條と熊沢が殺されたときに思い知った。
それから、当主の指輪が消えたことも。
強引な口移しによる昼食を終え、ベッドに再び移された後、彼女は自分がドレスに着替えていることを知る。
母が少し前の誕生日プレゼントにくれたドレス。ピンクと白が基調のそれは朱志香が着ると少し甘すぎる色合いだったが、それでも彼女はこれが気に入っていた。
左腕の辺りに刻まれた片翼の鷲が貰ったときに少しだけ苦しかったのを思い出す。
足下はおそらくタイツだろう。朱志香が睡眠薬で眠らされている間に嘉音がやったに違いない。
「朱志香様……」
「こんなことして……満足なのかよ……?」
彼は優しい笑みを浮かべて頷く。けれど、それは朱志香には狂気の笑みに見えた。
「満足です……これで、朱志香様と二人きりになれたのですから」
「ふたり……きり……?まさかっ……!」
「紗音と譲治様と、郷田が最後の生け贄です」
「郷田さん……譲治兄さん……紗音……!!」
「朱志香……僕が死んでも、そんな風に泣いてくれましたか……?」
--あの文化祭の夜も、あなたは泣いてくれましたか?
朱志香は嘉音の肩口に顔を埋めて泣いた。
「何言ってるんだよ……!泣くに決まってるだろ……文化祭の時も……泣いたよ……!」
「……僕を愛してくれますか?」
「……っ」
苦しいほどに愛情で拘束され、今更ながら自分に逃げ場がないということを思い知った。答えられずにいると、嘉音は彼女を抱きしめたまま語り出した。
「……僕は紗音が憎らしかった。僕の朱志香への恋心を玩具にして、陰で叶わぬ恋に落ちた愚か者と笑っていたから……あんな蝶のブローチで恋が叶うなんて言って……騙して……」
「違う……違うよ……嘉音くん……」
朱志香はゆっくりと首を横に振る。
「あの蝶のブローチは……私がお守りにあげたんだ。私は物語に出てくるような魔女じゃないから本物の魔法のブローチをあげることは出来なかったけど……信じれば奇跡は起こるって……だから紗音は信じて、譲治兄さんに想いを伝えたんだ。……嘉音くんがこんなに苦しむなら、あのとき……紗音がブローチを返してきたとき、貰っておけば良かった」
それは去年のこと。譲治への恋煩いに悩む紗音を幸せにしたくて贈った、祖父から貰った伝説の魔女の形見。代わりに紗音に頼んだのは全てを跳ね返す鏡の破壊。それがこんなことになるとは朱志香にも分からなかった。
ブローチの返却を受け付けなかったのは、それが2人を永遠に結びつけて欲しいと願ったからだったのに。
鏡を割って貰ったのは親族みんなに幸せになって欲しかったからだったのに。
嘉音はもしかしたらその言葉に気分を害したのかもしれない。一瞬だけ仕舞った、という表情をした後で朱志香をさらに抱きしめた。
「では、紗音の代わりでもいいから……僕を幸せにしてください」
柔らかな檻の中に押し倒され、朱志香は自分の血の気が引いた音を聞いた。
彼の目に宿るのはどんな手を使っても彼女を手に入れたいという渇望の昏い焔。
肥料袋一つ持ち上げられなかったはずの嘉音の腕は、今は信じられないほど強い力で朱志香を押さえつける。
「か、嘉音くん……嫌だっ!やめて!離してっ!」
「僕だけを見てください……僕だけを愛してください……朱志香……っ」
互いの服を隔てて肌と肌が触れ合う感触で、今更ながら彼女は下着をつけていないことを知った。腰で締めてあるリボンを解かれ、装飾品が何もない胸元を遠慮のない指が這う。
「ずっと、ずっと愛しています……朱志香……」
その熱の籠もった声すら自分を凌辱していくようで、こんな形で抱かれるのを嫌悪していたはずなのに、朱志香は快楽の淵に沈む錯覚を覚えてしまう。目の前の少年に手を伸ばそうとも、6年前に『殺された』家具の少年に助けを求めようとも、救いを求める腕は拘束されて動かない。もし彼女に本当の魔法が備わっていたならば。その想いが、かつての魔女同盟の仲間の名を叫ばせた。
「嫌っ……嫌ぁっ……助けてっ……戦人ぁっ!」
悲鳴を上げた瞬間に胸元を強く握り込まれ、そこに痛みが走る。いつのまにやら嘉音の片手は朱志香の背中を下りて腰の辺りで好き放題に暴れていた。彼の瞳に宿るのが負の感情を燃やした炎ということしか彼女には分からない。
ただ、彼女は錯覚しそうになる。
これが嘉音の望みならば、それを叶えてやりたいと思ってしまう。
ずっと待っていた白馬の王子様は6年前に罪を犯した戦人ではなく、今朱志香を犯そうとしている嘉音なのだと思いそうになる。
白馬の王子は朱志香にとってその文字通り、もう一度ジェシカ・ベアトリーチェを白き魔女に導いてくれる存在だった。けれど、その定義が崩れ落ちそうになる。嘉音が鳥籠に閉じこめておこうとするのはジェシカ・ベアトリーチェであり、右代宮朱志香だ。そこにはおそらく導くという概念はない。それでも、嘉音に囚われてもいいと思う自分がいることに朱志香は困惑する。
「朱志香……っ」
無理矢理の口付けにも、もう抵抗できない。彼がそうしたいのならそうすればいいと諦めたとき、彼女は自分が抱えていた白馬の王子の概念が崩れ去るのを感じる。戦人が好きだったのかは分からない。けれど今は嘉音が好きなのだから、全て彼の望むままに蹂躙されてしまえばいいと自分の純潔の花を諦めた。
ノックが響いたのはそのときだった。
「やっ……誰か、来たから、やめて……っ」
純潔の花を散らされるところを誰にも見られたくないという矜持から来る朱志香の懇願も来訪者には聞こえない。ノックにいらだってか嘉音は小さく舌打ちして、タイツに掛けていた手を離す。そして彼女を横抱きにして金蔵の椅子に再び拘束した。
「失礼致します」
入ってきたのは、今現在生き残っている全員だった。楼座、真里亞、源次、そして、戦人。リボンがほどけたまま力無く椅子に座る朱志香に、源次以外が驚きの表情をつくる。
「朱志香……嘉音くん……生きてたのか!?」
「最初から殺されてなどおりません」
戦人の驚愕の声に、嘉音は素っ気なく答えた。銃を構える楼座の横をすり抜けて、真里亞がこちらに近づく。
「う~、朱志香お姉ちゃん……ベアトリーチェ。どうして泣いてるの?」
「ま……真里亞……」
「朱志香ちゃんが……ベアトリーチェ!?」
「……朱志香がベアトリーチェってことは……」
楼座と戦人の顔が険しくなる。六軒島の魔女ベアトリーチェ。それは大人達が密かに噂した祖父の妾の名であり、マリアージュ・ソルシエールにおける朱志香の名前だった。
戦人が驚いたことに、少し寂しくなる。彼はきっと、「カノン」を「殺した」ことを忘れてしまったのだろう。
もうそれでもいい。
朱志香が為し得なかったことを彼はやってのけたのだから、後はもう、彼女が赦してしまえばいい。
「朱志香様が右代宮家の当主です」
全てを赦すことが魔法なのだから。
けれどそのことが新しい惨劇のトリガーになってしまったことは否めなかった。だから、こらえきれない涙を必死で押さえながら囁く。
「……真里亞の……マシュマロをなおしたのは、私……暗号を解いたのも、私……っ」
霧江の前に魔女ベアトリーチェとして現れたのも朱志香だった。全てミステリーナイトのための余興のつもりだった。
真里亞のマシュマロだって、楼座に折檻される彼女を元気づけたかったから、貰ったばかりのマシュマロをもう一度渡したのだ。楼座が真里亞のために買った、たった一つのマシュマロだと信じて。
それが白き魔女として、いつか最初の「ともだち」と交わした約束なのだから。
「楼座叔母さん、朱志香は犯人なんかじゃねえ」
「根拠は?」
あの手紙を渡した朱志香をまだ疑っているらしく冷たい声の叔母に、戦人は黙って少女を戒める手錠を指さした。
「朱志香が拘束されている以上、朱志香にみんなを殺すことは出来ねえ。それにこいつは、昨日の夜俺たちと一緒にいた。犯行は無理だ」
「それもそうね……朱志香ちゃん、知っているんでしょう?兄さん達を殺したのは誰?」
問いつめる楼座に、朱志香は答えられない。答えてしまえば嘉音がどうなるか分からなかった。
「朱志香、答えてくれ!」
戦人の懇願。自分が殺した、と言えればどんなに楽か。けれど、彼女は魔女であっても犯人ではなかった。
「……っ、それ、は……」
朱志香は怯えるように嘉音のほうを見る。彼は朱志香に歩み寄り、彼女を抱きしめた。
「僕がやりました」
「ほら、言ったじゃない……嘉音くんが狼だって!」
楼座の勝ち誇ったような台詞を遮って、戦人が叫ぶ。
「何でやったんだよ!親父達を、紗音ちゃん達を殺して……何が望みだったんだ!」
「お嬢様と幸せになるためです」
その台詞を聞くのは今日何度目だろう。朱志香と幸せになるために、彼女を閉じこめるために、彼はその手を血に染めた。
「なんだよそれ!好きなら好きって、そう言やあ良いじゃねえかよ!どこにみんなを殺す必要があった!?」
「戦人様には分からないでしょう……こうでもしなければ愛する人と幸せに……結ばれない家具の気持ちなんて!分からないでしょう!」
「わかんねえよ!今の朱志香を見て、嘉音くんはこいつが幸せだと思えるのか!?」
嘉音は彼女を真っ直ぐに見つめた。きっと今、彼女の顔は涙で酷い有様になっているだろう。それなのに彼は嬉しそうに口元を緩める。
「今は幸せでは無いかもしれませんが、僕たちはもうすぐ幸せになれるのです」
確かに、朱志香は今幸せではない、はずだった。それなのに、断定できない。魔法で幸せになろうと思っているわけではないのに、不幸せだとも幸せだとも断定が出来ない。
抱きしめられたまま髪を梳かれて懐柔されているわけでもない。
あの文化祭の日に諦めたはずの恋が叶ったことが嬉しいわけでもない。
けれど、両親を殺されて、親族を殺されて、親友までも殺されて、悲しくて悔しくて怒りの炎で身を焼かれてしまいそうなのに。
それなのに、目の前で自分を抱きしめている犯人に復讐する気が失せてしまった。嘉音を責める気持ちが萎えてしまった。
「僕は朱志香を愛しています。あのままではいずれ朱志香は旦那様達に従って他の男の元に嫁いでしまう。ならば僕が朱志香の鳥籠を解放するまでです。もうすぐ……もうすぐ朱志香を幸せに出来る!こんなところよりも遙かに広い僕の鳥籠に朱志香を永遠に閉じこめることが出来る……!もう誰にも邪魔はさせない」
「……何を言っているの?」
けれど、朱志香がその心を無くしたからと言って、他の親族も同じわけもない。楼座の怒りを纏った嘲笑の言葉が嘉音の熱に浮かされた言葉を遮る。
「あんたと結婚したって、朱志香ちゃんが幸せになれるわけ無いじゃない」
「ろ……楼座叔母さん!?」
戦人の狼狽えた声。嘉音の鼓動は一定のリズムを刻み続けるが、彼の息が少し乱れた、ような気がした。
「あんたみたいな使用人で義務教育に行かせてやった恩も忘れて主人を殺すようなやつに、朱志香ちゃんが喜んで嫁げるとでも思ってるの?私がそんなやつと姪を一緒にさせるとでも思ってるの?」
「う~……ママ?」
「ま……真里亞、聞くな……耳をふさいで、小さな声で……私に歌を聴かせてくれ。そうすれば真里亞には……何も見えない、聞こえない……!」
朱志香が掠れた声でそう頼めば、真里亞は椅子と背を向けあう形で立って、歌い出す。
それは楼座との幸せの想い出の歌。愛の無い視点で見ればただの古くさい童謡だけれども、真里亞にとっては楼座との数少ない想い出の歌。
幸せの呪文の、母とずっとずっと仲良しでいられる魔法の、最初の原点。
楼座は忘れてしまったのだろうか。
真里亞とあんなにも笑いあった日々を。
その間も楼座は嘉音を罵倒する。
けれど、真里亞には何も見えない、聞こえない、分からない。それだけが朱志香の救いだった。
黒き魔女へと足を踏み入れてしまった原始の魔女に、最後だけは幸せの白き魔法を授けたかった。
「どうせそこにいる源次さんも共犯でしょう?最初から信用なんてしてなかったわよ、この家具どもが!……真里亞、その椅子から離れなさい。離れなさいって言ってるでしょうっ!」
「真里亞……私の……ベアトリーチェの、最後の贈り物だ……歌、ありがとう。楼座叔母さんのところに行って、絶対に離れるなよ……」
「う~……」
それでも、もう限界だ。もしかしたら嘉音はここで殺人劇のフィナーレを飾るつもりかもしれない。だから、せめて最後だけは真里亞を母親と引き離すことはしたくなかった。どうせ皆殺されるのならば、真里亞と楼座を一緒にさくたろうたちとあわせてやりたかった。
顔は見られなかったが、真里亞は歌をやめると、素直に楼座のところへ歩いて行き、衣服にぎゅっとしがみついた。
「楼座叔母さん……何を!?」
銃を構え直す音が響く。おそらく楼座だ。
「家具どもを殺すのよ」
「なっ……!?」
「このまま恩知らずの家具どもと一緒に明日の朝までいっしょにいることなんか出来やしない。ならここで殺すしかないでしょ?」
「た……確かにそうだけどよ……ここで撃ったら朱志香だって危ないんだぞ!?」
狼狽えて楼座を止めようとする戦人に、朱志香は嘉音の身体越しに疲れたような声で呼びかけた。
「戦人……もう、良いんだ……私が悪いんだ……私が……っ!だから……叔母さん、私も……殺して……!」
朱志香ちゃん、と楼座が小さな声で呟くのが聞こえる。
嘉音と戦人は悪いのは朱志香ではない、と静かに否定する。けれど。
「私が……嘉音くんの想いに応えなかったから……」
もしもこの部屋で過ごしているどこかのタイミングで彼に愛を告げられたなら。
自室で薬を盛られる前に、嘉音の愛を受け入れられたなら。
切望の眼差しを向け、それでも家具ですからという彼に、想いを伝えることが出来たなら。
今日までのどこかで、諦めずに愛していると言えたなら。
文化祭の時、朱志香がはっきりと嘉音に愛している、と言ったなら。
「私が嘉音くんに告白していれば……こんなことにはならなかった……っ!」
「朱志香……」
嘉音の腕が一層強く朱志香を抱きしめる。
「朱志香ちゃん、騙されちゃダメよ。こんな家具の気持ちに応えて、だから何だっての?遊びにしかならないじゃない!」
それはとても正論かもしれない。楼座から見れば例え嘉音が本気でも、決して朱志香が本気になることを許されない遊びの恋なのだろう。いや、使用人と恋に落ちること自体が間違いなのかもしれない。
それでも、朱志香は楼座の言葉に反応することが出来なかった。
「やめろよ、楼座叔母さん!別の部屋に隔離すればいいだろ!」
「戦人くんは黙ってて!」
ヒステリックな応酬が続く。
使用人を殺す気であるのは確実で、まず楼座が狙うのは、間違いなく嘉音だろう。
いっそのこと自分も共に殺して欲しい、と朱志香はぼんやりと思う。けれど、きっと嘉音はそれを許してはくれないだろう。
「家具なんかと一緒にいられるもんですか!死ねぇっ、家具どもがぁぁぁぁ……」
ぱしゅん。
静かに弾が躍り出る音がした。聞こえるはずの楼座の銃声は聞こえない。
ぱしゅん。
ぱしゅんぱしゅんぱしゅん。
「か……嘉音、くん……!?」
「楼座叔母さん!!」
「ママ、ママぁっ……!ママぁぁぁっ!う~!う~!う~う~う~!!!!」
顔を嘉音の胸に押しつける形になっている朱志香は分からない。ただ、真里亞の母を呼ぶ悲痛な叫びが部屋の中にこだまするだけだ。
「楼座様が、死にました」
「なっ……」
「てめえ、他人事みたいに……!」
怒りに任せて吼える戦人を、源次が制す。
「戦人様、お静かに」
「でもよ、源次さん!」
「お静かに」
有無を言わさぬ、威厳のある声。戦人が黙ってから、嘉音はもう一度、繰り返し同じことを聞いた。
「朱志香……僕を愛してくれますか?」
「愛す……愛すよ……嘉音くんを……愛すよ……だからっ……だからもう、これ以上は……!」
これ以上は人を殺さないで?これ以上は無茶をしないで?どちらの意味で言いたいのか、朱志香には分からない。彼女に分かるのは唯一つ、さっさと彼にこの身も心もすべて捧げてしまえばよかったという後悔の気持ちだけだ。
「ありがとうございます……朱志香」
「うわあぁぁぁぁ……ママぁぁぁ……っ!」
真里亞の大泣きする声が聞こえる。戦人の慌てたような声が聞こえたから、楼座のそばに行ったのかもしれない。
--真里亞。真里亞が作った物語の中では楼座叔母さんは生き返ることが出来た。けれど、もう生き返らない……それが、無限の魔法の弱点。私は叔母さんを生き返らせることが出来ない……ごめん……ごめんな……真里亞……。
心の中でマリアに謝っていると、また静かに弾が出る音が聞こえた。
ぱしゅん。
「ぐああぁぁっ!?」
「戦人っ……!?」
ぱしゅん。
戦人の悲鳴。嘉音という檻に囚われた朱志香には何が起こっているのかわからない。
「さあ、朱志香」
彼が腕を解き、初めて書斎の状況を知った。
血を流して倒れ伏す息絶えた楼座。
楼座に駆け寄って母を呼びながら泣きじゃくる真里亞。
静かに傍に佇む源次。
そして、真里亞の傍で両足のアキレス腱から血を流して蹲る、戦人。
「戦人っ……それっ……」
この瞬間、朱志香はただの「人間」だったのかもしれない。純粋に彼の足が心配だった。
「朱志香……すまねぇな……お前のこと、助け出してやれなくて」
額に脂汗を浮かべながらも苦く笑う戦人が、純粋に愛おしかった。かつての白馬の王子様は、今はただの青年に見えた。出来ることならば今すぐ駆け寄って、手当をしてやりたかった。けれど手足の拘束がそれを許さない。源次に手当を懇願したものの、それは淡白に退けられた。老執事の眉間に、嘉音が片手で持っている銃の照準が合わせられていた。
「源次さん……!」
「お嬢様……昨日までの日々、楽しゅうございました。……ありがとうございます。では……先にお暇を頂きます」
「源次さん!?止めてっ、嘉音くん!!」
ぱしゅん。
ぱしゅん。
「源次さん!」
ゆっくりと頽れていく源次を目の当たりにして、朱志香と戦人が叫んだ。
「やめて……やめて!嘉音くん!もう、こんなことしないで!」
拘束された両手で必死に縋り付く彼女に、嘉音は優しく笑いかける。どうしてその手を血に染めながらこんなにも優しく笑いかけられるのか。けれど、その双眸には昏い昏い劣情の炎が宿っている。
こんなにあなたを愛しているのは自分だけなのに。あなたのためなら何でも出来るのに。
そう物語る瞳に囚われそうになる。
「朱志香……僕だけを、僕だけを見てください。僕だけを愛してください。その瞳に、僕以外の者を映さないでください」
囚われてはいけない。けれど囚われたい。相反する意思を押し込めて、朱志香はがくがくと頷いた。
どうせ、六軒島から出たところで行く当てなど無い。
右代宮という鳥籠から解放されたところで嘉音に愛され続ける永遠の鳥籠に囚われるだけだ。
それならもう、囚われてしまった方が楽かもしれない。
彼女の心はもう、嘉音への恋の炎を消すことなど叶わないのだから。
「ありがとうございます……さあ、朱志香。この鳥籠から、共に出ましょう。ずっと一緒にいましょう」
「朱志香っ!」
鋭く彼女を呼び止める声。力強く差し伸べられた腕。戦人だった。お前は幸せの白き魔女ベアトリーチェだろう、そう語るような表情。
朱志香には、もうそれだけで十分だった。
覚えていてくれただけで、もう良かった。
「戦人……ごめんな、ありがとう」
戦人の目が驚愕に見開かれる。
「朱志香っ!お前……!」
「ありがとう……覚えていてくれて……」
「朱志香……」
「私はやっぱり、無限の魔女じゃ、なかったのかな……」
それを面白くなさそうに眺めていた嘉音が語り出す。
「……戦人様。僕はあなたを一番殺したかった」
「嘉音くん!?」
「朱志香の魔法を否定したあなたが許せなかった。朱志香を傷つけて、のうのうとこの島に帰ってきたあなたが憎かった」
「ちょっと待てよ!俺はのうのうと帰ってきた訳じゃ……」
「いいえ。右代宮家を捨て、朱志香を裏切り、傷つけて……そこにいかなる理由があろうとも、それは言い訳にしかなりません。それなのに、帰ってくると聞いただけで朱志香は笑顔になられた。戦人様は朱志香を裏切った罪人なのに、朱志香様はどうして笑っていらっしゃったのか、姉さんに聞きました。許すつもりか、魔法を認めることを願っておられるかだと聞きました。ですが!」
明かされた真実。
嘉音だけの真実。
確かに右代宮戦人には罪があった。
嘉音の言うとおり、許すつもりだった。
「僕は、あなたを裏切った罪人を、あなたの鳥籠となった裏切り者を、どうしても許すことが出来ませんでした、朱志香」
「もう……いいよ、もういいよ、嘉音くん……!」
「その後はあなたに愛して貰うために、親族の皆様を手に掛けました。真里亞様の封筒を二度すり替え、礼拝堂の鍵を手に入れました」
「あれは……そんなものだったのかよ!?伝説の魔女様からの真里亞と楼座叔母さんへの幸せの贈り物じゃなかったのかよ!?二人の黄金郷への……招待状じゃなかったのかよ……!?」
嘘だと言って欲しくて、彼の腕に縋り付く。けれど彼はただ彼女の髪を梳くだけだった。
「騙して申し訳ありませんでした。けれど、僕はあなたを手に入れたかった。あなたに愛して欲しかった。そして、右代宮戦人が苦しんで死ねばいいと思いました。それからは朱志香の知っているとおりです」
戦人は何も言わない。
「……真里亞様。あなたがジェシカ・ベアトリーチェ様とお約束なさった黄金郷、僕が差し上げましょう」
真里亞が振り向き、まだ何も言わないうちに嘉音は銃弾を撃ち込んだ。
「真里亞ぁぁぁぁっ!」
「朱志香……あなたが僕だけを見てくださらなければ、」
足下の鎖が砕かれる。戦人の傍に駆け寄ることも可能。
「戦人様を殺します」
けれど、もう彼に人を殺して欲しくなかった。
「……っ、嘉音くんだけ、見てるから……」
嘉音の瞳の中に渦巻く哀しみを見てしまったから。嘉音が愛しかったから。泣かないで欲しかったから。
「だから……泣かないで、嘉音くん……」
ゆっくりと嘉音の胸に身体を預ける。もうここで蹂躙されてもいいと思うほど、朱志香は嘉音が愛しかった。
「ずっと前から……私も好きだったのに……ごめんな……」
「僕は……泣いているのですか?」
「私の知ってる嘉音くんは……こんなこと出来る人じゃない。本当の君は……多分泣いているんじゃないかな……」
手錠の填められた両手で嘉音の頬に触れる。
「大好きだよ……嘉音くん」
「朱志香……!」
朱志香、朱志香と繰り返し名を呼びながら、嘉音は彼女を抱きしめる。
それはなんて強い力。
手錠の外された腕は迷わず彼の背に回した。
「愛しています、ずっと愛しています!朱志香……!だから……だからっ」
「私も……ずっと愛してるぜ……嘉音くん……君の本当の名前、聞きたかった……」
「僕の、本当の名前は……」
彼がこの世に生まれ出でたときに付けられた名前を囁かれる。ずっと聞きたかった、嘉音の本名。
家具ではない嘉音に、本当の名前を添えて愛している、と囁き返す。
「大好きです、愛しています、僕の朱志香……!」
もうすぐ時計の針が零時を示す。時刻になってしまえばこの島中に仕込んだ爆薬が火を噴く、と彼は言った。
かつて金蔵が黄金の魔女を囲っていた九羽鳥庵に逃げ込めば、3人は助かるかもしれない。ああ、けれど、もうその時間はきっと残されていない。それでもいい。ほんの一瞬でも心を通わせることが出来たのは僥倖と言うべきなのだから。
彼女にとっては嘉音と一緒に死ねるのならば、本望だった。
「朱志香……未来を、与えられなくて申し訳ございません」
「いいんだ……もう、私は……」
二人で戦人のほうを見ると、彼はもう虫の息だった。これ以上苦しめたくない。安らかに眠らせてやりたかった。
銃を向ける嘉音の腕を押さえ、やんわりと銃を奪う。
「朱志香……?」
「最後ぐらい、私がやるよ……私を心配してくれて、ありがとうな、戦人。そして……さよなら」
ぱしゅん!
放たれた弾丸は戦人の心臓に着弾し、彼はこれ以上苦しむことなくこの世に別れを告げた。
最期の時に、彼が安らかな顔をしていたのがせめてもの救いだった。
それから朱志香は嘉音に抱きかかえられてもう一度ベッドへともどる。本当の愛を込めて、優しく甘い口付けを交わす。
「嘉音くん……」
「嘉哉と呼んでください……」
「嘉哉くん……っ……」
戦人達が来る直前にしていた行為を再びしているだけなのに、そこには快楽や恐怖との葛藤はなかった。ただただ暖かな肌を触れ合わせ、甘やかに愛を交わす。朱志香の中に広がるのは、愛する者と一つになれる歓びと、体温を分け合う安堵感から来る官能のみ。あれほど彼女を凌辱した指先は今は暖かな愛を持って彼女に愛の歓びを教える。
一つになる痛みすら、今は愛おしかった。
たとえ愛欲の淵で果てる前に彼女たちの生命の火が消えたとしても、悔いはなかった。
そして、零時の鐘が鳴った。狂気の宴は終わりを告げたのだ。
その後、六軒島大量殺人事件の真相は闇に葬られたままである。
だから誰も知ることはない。
幸せの白き魔女が愛し、愛された騎士の狂おしい愛の物語を。
戦人に魔法はあったと信じさせるために、そして蔵臼の事業を助けるために企画した狂言殺人。
そのシナリオの中に、朱志香が読んだ手紙なんて無かった。
思えば嘉音が渡してきた伝説の魔女ベアトリーチェからの手紙が全ての始まりだったのかもしれない。真里亞が楼座に引っぱたかれ、カボチャのマシュマロを壊されるのを見た朱志香に、嘉音が渡した手紙。
おそらく楼座に渡した手紙には親族会議を中座するように指示が為されていたに違いない。
本来のシナリオでは食堂に集まった親たちに事情を話し、協力を仰ぐ予定だった。
嘉音がインゴットを取りに行くと言ったのも、その一部だったはずなのに。
昨晩彼女が紗音の案内で屋敷に行くと親族は誰もいなかった。
『どういうことだ……?』
『どうしたんでしょう……郷田さんが使用人室にいるはずですが……』
『……行ってみよう。紗音、悪いな』
『いえ。お嬢様が旦那様や奥様を思うお気持ち、きっと伝わるはずです』
『ありがとう』
郷田に聞いても、親族の行方は杳としてしれなかった。探しに行きましょうかという郷田に、手をひらひらと振って断った。
『いや、いいんだ。ただ、このことは他言しないでくれ。戦人に狂言だって知られたら、事業がうまくいかなくなるかもしれないし』
『承知しました。お嬢様は……本当に当主様になられたのですね』
そう言ってしみじみと感心する郷田に、朱志香は微笑んだ。
今回の二日間はミステリーナイトを模したもの。
このような事件があったが、犯人は誰かと問い、ゲストハウスを探って貰う。
さらにボトルメールを流しておけばミステリー好きの好奇心をくすぐるだろう。
それをリゾートの時期に二日間にわたって企画し、2日目の回答編には、私が犯人だとベアトリーチェの衣装を着た朱志香が現れる、そういう寸法だった。
しかし、いないものは仕方がない。もう一度行くしかない。
使用人室からの帰り道、朱志香はシナリオを確認した。
『第一の晩に母さん以外の六人、第二の晩に紗音と嘉音くん、第三の晩を飛ばして第四の晩から第八の晩までが南條先生、源次さん、熊沢さん、郷田さん、祖父さま。第九の晩は飛ばして第十の晩に祖父さまの書斎に行って、みんなで戦人をびっくりさせる。終わったら書斎に集合』
『ええ。きっと戦人様、びっくりされると思いますよ……ふふ』
『でも、悪いな。第二の晩、譲治兄さんとのほうがよかっただろ?』
そう問いかけると、紗音は顔を赤くしてはにかんだ。
『いえ、その……あぅ。……でも、特別な場面指定がある訳じゃないですし、明日の晩には譲治様と再会できますし』
そんなやり取りをして、笑いあって、ゲストハウスに帰ったのだ。
その夜、数度にわたって屋敷に行ったのに、親族はいなかった。
だから翌朝、つまり今日1986年の10月4日の朝、礼拝堂で見つかった両親と叔母達が死んでいるとすぐに分かってしまった。
この時点で狂言は出来なくなってしまった。
とっさにベアトリーチェがやったと口走ったのは、戦人や譲治への贖罪もあった。シナリオでも予定していたけれど、本心から叫ぶとは思っていなかった。
--私が……殺したようなもんか……?ごめんな……譲治兄さん、戦人……。
朱志香は椅子の上で身体を丸める。そして、回想を続ける。
両親が殺されて、怒りの炎が燃え上がるままに貴賓室のものを壊してしまった。
金蔵にまた怒られてしまうだろうか。
金蔵が死んだのを知ったのは少し前だった。朱志香が新しいベアトリーチェだと知ってから、彼女は祖父に魔術を教えられた。碑文を解いたと知らせると、金蔵は彼のベアトリーチェの想い出を教えてくれた。
だから、金蔵が死んだと知ったとき、どうすればいいか分からなかった。どうすればいいか分からなくて、祖父の魔女と祖父が黄金郷で愛し合っていることを信じた。
黄金郷に行けば願いが叶う。
魔女も魔術師も関係ない。金蔵の愛したベアトリーチェと、金蔵は黄金郷で幸せになれる。
だから、両親と使用人がぐるになった死亡隠蔽も見て見ぬふりをした。ただ死んだと判明してしまったら、その幻想は崩れてしまうから。
同時に、母の優しい金蔵という魔法でさえも解けてしまうから。
だから、第十の晩までに金蔵は10月3日に死んだと嘘をつきたかったのに。
--どうして、嘉音くん……どうして……!
朱志香は嘉音のことが好きだった。一目惚れ、というわけにはいかないが、とにかく好きだった。6年前に失った「カノン」と同じ名前で、同じぐらい仕事に真面目。
金蔵のベアトリーチェが現在のジェシカ・ベアトリーチェを哀れんで「カノン」を人間に生まれ変わらせてくれたのかと思うほどに、嘉音は朱志香の側にいた。
恋をしたい、と思ったときに真っ先に浮かんだのは嘉音だった。
彼は恋をしたことがあるのだろうか、そう思った。
外の世界を知って欲しかった。彼の世界は六軒島だけじゃない、そう教えたかった。
だから文化祭に誘った。
一番大好きなことをしていられる「朱志香」を教えた。
けれど彼は、人間と家具に恋など出来ないとはねつけた。朱志香の思いに応えられないと言った。
恋心が砕かれて、彼女はこれ以上嘉音の前にいられなくて、部屋に帰ってしまったが、嘉音はあのあとどうしたのだろうか。
その後、いつからか嘉音の目に宿る光が違うような感じがした。
そう、確か戦人が来るという話を聞いた後からだったか。朱志香に何かを訴えるような光。
『嘉音くん……あの、何かあったら、私に話して良いから……』
『ありがとうございます、お嬢様。ですが、僕は……家具ですから』
家具ではないと叫んでも、彼女の言葉は嘉音には届かない。
だから、自分の想いを叶えることは諦めていたのに。
『ずっと、ずっと好きでした』
その言葉に、朱志香は何故だか背筋が震えるのを感じた。
嘉音は緊急事態なのに、その瞳に情欲の炎をちらつかせて朱志香に愛を迫った。
『すべて、僕がやりました』
『仕方なかったのです』
朱志香と結ばれるためには殺人さえいとわないという嘉音。
何がなんだか、朱志香にはさっぱり分からない。
ただ、彼女が出演料兼迷惑料として使用人や親族のそれぞれの家族に贈った1億円がどうやら慰謝料になりそうだという予感がした。
嘉音が恐ろしい。
朱志香に掴みかかられてもなお、彼女の愛を求め、彼女と愛し合うためなら殺人すら厭わない彼が、恐ろしい。
嘉音が愛しい。
家具と念じる気持ちの向こう側で、彼女を求める彼が愛おしい。
二つの心の狭間で前者に少しだけ寄り添って揺れながら、朱志香はゆっくりと瞳を閉じた。
何人殺そうと、嘉音は朱志香を求め続ける。
彼の思いを拒絶しようと無理だと、南條と熊沢が殺されたときに思い知った。
それから、当主の指輪が消えたことも。
強引な口移しによる昼食を終え、ベッドに再び移された後、彼女は自分がドレスに着替えていることを知る。
母が少し前の誕生日プレゼントにくれたドレス。ピンクと白が基調のそれは朱志香が着ると少し甘すぎる色合いだったが、それでも彼女はこれが気に入っていた。
左腕の辺りに刻まれた片翼の鷲が貰ったときに少しだけ苦しかったのを思い出す。
足下はおそらくタイツだろう。朱志香が睡眠薬で眠らされている間に嘉音がやったに違いない。
「朱志香様……」
「こんなことして……満足なのかよ……?」
彼は優しい笑みを浮かべて頷く。けれど、それは朱志香には狂気の笑みに見えた。
「満足です……これで、朱志香様と二人きりになれたのですから」
「ふたり……きり……?まさかっ……!」
「紗音と譲治様と、郷田が最後の生け贄です」
「郷田さん……譲治兄さん……紗音……!!」
「朱志香……僕が死んでも、そんな風に泣いてくれましたか……?」
--あの文化祭の夜も、あなたは泣いてくれましたか?
朱志香は嘉音の肩口に顔を埋めて泣いた。
「何言ってるんだよ……!泣くに決まってるだろ……文化祭の時も……泣いたよ……!」
「……僕を愛してくれますか?」
「……っ」
苦しいほどに愛情で拘束され、今更ながら自分に逃げ場がないということを思い知った。答えられずにいると、嘉音は彼女を抱きしめたまま語り出した。
「……僕は紗音が憎らしかった。僕の朱志香への恋心を玩具にして、陰で叶わぬ恋に落ちた愚か者と笑っていたから……あんな蝶のブローチで恋が叶うなんて言って……騙して……」
「違う……違うよ……嘉音くん……」
朱志香はゆっくりと首を横に振る。
「あの蝶のブローチは……私がお守りにあげたんだ。私は物語に出てくるような魔女じゃないから本物の魔法のブローチをあげることは出来なかったけど……信じれば奇跡は起こるって……だから紗音は信じて、譲治兄さんに想いを伝えたんだ。……嘉音くんがこんなに苦しむなら、あのとき……紗音がブローチを返してきたとき、貰っておけば良かった」
それは去年のこと。譲治への恋煩いに悩む紗音を幸せにしたくて贈った、祖父から貰った伝説の魔女の形見。代わりに紗音に頼んだのは全てを跳ね返す鏡の破壊。それがこんなことになるとは朱志香にも分からなかった。
ブローチの返却を受け付けなかったのは、それが2人を永遠に結びつけて欲しいと願ったからだったのに。
鏡を割って貰ったのは親族みんなに幸せになって欲しかったからだったのに。
嘉音はもしかしたらその言葉に気分を害したのかもしれない。一瞬だけ仕舞った、という表情をした後で朱志香をさらに抱きしめた。
「では、紗音の代わりでもいいから……僕を幸せにしてください」
柔らかな檻の中に押し倒され、朱志香は自分の血の気が引いた音を聞いた。
彼の目に宿るのはどんな手を使っても彼女を手に入れたいという渇望の昏い焔。
肥料袋一つ持ち上げられなかったはずの嘉音の腕は、今は信じられないほど強い力で朱志香を押さえつける。
「か、嘉音くん……嫌だっ!やめて!離してっ!」
「僕だけを見てください……僕だけを愛してください……朱志香……っ」
互いの服を隔てて肌と肌が触れ合う感触で、今更ながら彼女は下着をつけていないことを知った。腰で締めてあるリボンを解かれ、装飾品が何もない胸元を遠慮のない指が這う。
「ずっと、ずっと愛しています……朱志香……」
その熱の籠もった声すら自分を凌辱していくようで、こんな形で抱かれるのを嫌悪していたはずなのに、朱志香は快楽の淵に沈む錯覚を覚えてしまう。目の前の少年に手を伸ばそうとも、6年前に『殺された』家具の少年に助けを求めようとも、救いを求める腕は拘束されて動かない。もし彼女に本当の魔法が備わっていたならば。その想いが、かつての魔女同盟の仲間の名を叫ばせた。
「嫌っ……嫌ぁっ……助けてっ……戦人ぁっ!」
悲鳴を上げた瞬間に胸元を強く握り込まれ、そこに痛みが走る。いつのまにやら嘉音の片手は朱志香の背中を下りて腰の辺りで好き放題に暴れていた。彼の瞳に宿るのが負の感情を燃やした炎ということしか彼女には分からない。
ただ、彼女は錯覚しそうになる。
これが嘉音の望みならば、それを叶えてやりたいと思ってしまう。
ずっと待っていた白馬の王子様は6年前に罪を犯した戦人ではなく、今朱志香を犯そうとしている嘉音なのだと思いそうになる。
白馬の王子は朱志香にとってその文字通り、もう一度ジェシカ・ベアトリーチェを白き魔女に導いてくれる存在だった。けれど、その定義が崩れ落ちそうになる。嘉音が鳥籠に閉じこめておこうとするのはジェシカ・ベアトリーチェであり、右代宮朱志香だ。そこにはおそらく導くという概念はない。それでも、嘉音に囚われてもいいと思う自分がいることに朱志香は困惑する。
「朱志香……っ」
無理矢理の口付けにも、もう抵抗できない。彼がそうしたいのならそうすればいいと諦めたとき、彼女は自分が抱えていた白馬の王子の概念が崩れ去るのを感じる。戦人が好きだったのかは分からない。けれど今は嘉音が好きなのだから、全て彼の望むままに蹂躙されてしまえばいいと自分の純潔の花を諦めた。
ノックが響いたのはそのときだった。
「やっ……誰か、来たから、やめて……っ」
純潔の花を散らされるところを誰にも見られたくないという矜持から来る朱志香の懇願も来訪者には聞こえない。ノックにいらだってか嘉音は小さく舌打ちして、タイツに掛けていた手を離す。そして彼女を横抱きにして金蔵の椅子に再び拘束した。
「失礼致します」
入ってきたのは、今現在生き残っている全員だった。楼座、真里亞、源次、そして、戦人。リボンがほどけたまま力無く椅子に座る朱志香に、源次以外が驚きの表情をつくる。
「朱志香……嘉音くん……生きてたのか!?」
「最初から殺されてなどおりません」
戦人の驚愕の声に、嘉音は素っ気なく答えた。銃を構える楼座の横をすり抜けて、真里亞がこちらに近づく。
「う~、朱志香お姉ちゃん……ベアトリーチェ。どうして泣いてるの?」
「ま……真里亞……」
「朱志香ちゃんが……ベアトリーチェ!?」
「……朱志香がベアトリーチェってことは……」
楼座と戦人の顔が険しくなる。六軒島の魔女ベアトリーチェ。それは大人達が密かに噂した祖父の妾の名であり、マリアージュ・ソルシエールにおける朱志香の名前だった。
戦人が驚いたことに、少し寂しくなる。彼はきっと、「カノン」を「殺した」ことを忘れてしまったのだろう。
もうそれでもいい。
朱志香が為し得なかったことを彼はやってのけたのだから、後はもう、彼女が赦してしまえばいい。
「朱志香様が右代宮家の当主です」
全てを赦すことが魔法なのだから。
けれどそのことが新しい惨劇のトリガーになってしまったことは否めなかった。だから、こらえきれない涙を必死で押さえながら囁く。
「……真里亞の……マシュマロをなおしたのは、私……暗号を解いたのも、私……っ」
霧江の前に魔女ベアトリーチェとして現れたのも朱志香だった。全てミステリーナイトのための余興のつもりだった。
真里亞のマシュマロだって、楼座に折檻される彼女を元気づけたかったから、貰ったばかりのマシュマロをもう一度渡したのだ。楼座が真里亞のために買った、たった一つのマシュマロだと信じて。
それが白き魔女として、いつか最初の「ともだち」と交わした約束なのだから。
「楼座叔母さん、朱志香は犯人なんかじゃねえ」
「根拠は?」
あの手紙を渡した朱志香をまだ疑っているらしく冷たい声の叔母に、戦人は黙って少女を戒める手錠を指さした。
「朱志香が拘束されている以上、朱志香にみんなを殺すことは出来ねえ。それにこいつは、昨日の夜俺たちと一緒にいた。犯行は無理だ」
「それもそうね……朱志香ちゃん、知っているんでしょう?兄さん達を殺したのは誰?」
問いつめる楼座に、朱志香は答えられない。答えてしまえば嘉音がどうなるか分からなかった。
「朱志香、答えてくれ!」
戦人の懇願。自分が殺した、と言えればどんなに楽か。けれど、彼女は魔女であっても犯人ではなかった。
「……っ、それ、は……」
朱志香は怯えるように嘉音のほうを見る。彼は朱志香に歩み寄り、彼女を抱きしめた。
「僕がやりました」
「ほら、言ったじゃない……嘉音くんが狼だって!」
楼座の勝ち誇ったような台詞を遮って、戦人が叫ぶ。
「何でやったんだよ!親父達を、紗音ちゃん達を殺して……何が望みだったんだ!」
「お嬢様と幸せになるためです」
その台詞を聞くのは今日何度目だろう。朱志香と幸せになるために、彼女を閉じこめるために、彼はその手を血に染めた。
「なんだよそれ!好きなら好きって、そう言やあ良いじゃねえかよ!どこにみんなを殺す必要があった!?」
「戦人様には分からないでしょう……こうでもしなければ愛する人と幸せに……結ばれない家具の気持ちなんて!分からないでしょう!」
「わかんねえよ!今の朱志香を見て、嘉音くんはこいつが幸せだと思えるのか!?」
嘉音は彼女を真っ直ぐに見つめた。きっと今、彼女の顔は涙で酷い有様になっているだろう。それなのに彼は嬉しそうに口元を緩める。
「今は幸せでは無いかもしれませんが、僕たちはもうすぐ幸せになれるのです」
確かに、朱志香は今幸せではない、はずだった。それなのに、断定できない。魔法で幸せになろうと思っているわけではないのに、不幸せだとも幸せだとも断定が出来ない。
抱きしめられたまま髪を梳かれて懐柔されているわけでもない。
あの文化祭の日に諦めたはずの恋が叶ったことが嬉しいわけでもない。
けれど、両親を殺されて、親族を殺されて、親友までも殺されて、悲しくて悔しくて怒りの炎で身を焼かれてしまいそうなのに。
それなのに、目の前で自分を抱きしめている犯人に復讐する気が失せてしまった。嘉音を責める気持ちが萎えてしまった。
「僕は朱志香を愛しています。あのままではいずれ朱志香は旦那様達に従って他の男の元に嫁いでしまう。ならば僕が朱志香の鳥籠を解放するまでです。もうすぐ……もうすぐ朱志香を幸せに出来る!こんなところよりも遙かに広い僕の鳥籠に朱志香を永遠に閉じこめることが出来る……!もう誰にも邪魔はさせない」
「……何を言っているの?」
けれど、朱志香がその心を無くしたからと言って、他の親族も同じわけもない。楼座の怒りを纏った嘲笑の言葉が嘉音の熱に浮かされた言葉を遮る。
「あんたと結婚したって、朱志香ちゃんが幸せになれるわけ無いじゃない」
「ろ……楼座叔母さん!?」
戦人の狼狽えた声。嘉音の鼓動は一定のリズムを刻み続けるが、彼の息が少し乱れた、ような気がした。
「あんたみたいな使用人で義務教育に行かせてやった恩も忘れて主人を殺すようなやつに、朱志香ちゃんが喜んで嫁げるとでも思ってるの?私がそんなやつと姪を一緒にさせるとでも思ってるの?」
「う~……ママ?」
「ま……真里亞、聞くな……耳をふさいで、小さな声で……私に歌を聴かせてくれ。そうすれば真里亞には……何も見えない、聞こえない……!」
朱志香が掠れた声でそう頼めば、真里亞は椅子と背を向けあう形で立って、歌い出す。
それは楼座との幸せの想い出の歌。愛の無い視点で見ればただの古くさい童謡だけれども、真里亞にとっては楼座との数少ない想い出の歌。
幸せの呪文の、母とずっとずっと仲良しでいられる魔法の、最初の原点。
楼座は忘れてしまったのだろうか。
真里亞とあんなにも笑いあった日々を。
その間も楼座は嘉音を罵倒する。
けれど、真里亞には何も見えない、聞こえない、分からない。それだけが朱志香の救いだった。
黒き魔女へと足を踏み入れてしまった原始の魔女に、最後だけは幸せの白き魔法を授けたかった。
「どうせそこにいる源次さんも共犯でしょう?最初から信用なんてしてなかったわよ、この家具どもが!……真里亞、その椅子から離れなさい。離れなさいって言ってるでしょうっ!」
「真里亞……私の……ベアトリーチェの、最後の贈り物だ……歌、ありがとう。楼座叔母さんのところに行って、絶対に離れるなよ……」
「う~……」
それでも、もう限界だ。もしかしたら嘉音はここで殺人劇のフィナーレを飾るつもりかもしれない。だから、せめて最後だけは真里亞を母親と引き離すことはしたくなかった。どうせ皆殺されるのならば、真里亞と楼座を一緒にさくたろうたちとあわせてやりたかった。
顔は見られなかったが、真里亞は歌をやめると、素直に楼座のところへ歩いて行き、衣服にぎゅっとしがみついた。
「楼座叔母さん……何を!?」
銃を構え直す音が響く。おそらく楼座だ。
「家具どもを殺すのよ」
「なっ……!?」
「このまま恩知らずの家具どもと一緒に明日の朝までいっしょにいることなんか出来やしない。ならここで殺すしかないでしょ?」
「た……確かにそうだけどよ……ここで撃ったら朱志香だって危ないんだぞ!?」
狼狽えて楼座を止めようとする戦人に、朱志香は嘉音の身体越しに疲れたような声で呼びかけた。
「戦人……もう、良いんだ……私が悪いんだ……私が……っ!だから……叔母さん、私も……殺して……!」
朱志香ちゃん、と楼座が小さな声で呟くのが聞こえる。
嘉音と戦人は悪いのは朱志香ではない、と静かに否定する。けれど。
「私が……嘉音くんの想いに応えなかったから……」
もしもこの部屋で過ごしているどこかのタイミングで彼に愛を告げられたなら。
自室で薬を盛られる前に、嘉音の愛を受け入れられたなら。
切望の眼差しを向け、それでも家具ですからという彼に、想いを伝えることが出来たなら。
今日までのどこかで、諦めずに愛していると言えたなら。
文化祭の時、朱志香がはっきりと嘉音に愛している、と言ったなら。
「私が嘉音くんに告白していれば……こんなことにはならなかった……っ!」
「朱志香……」
嘉音の腕が一層強く朱志香を抱きしめる。
「朱志香ちゃん、騙されちゃダメよ。こんな家具の気持ちに応えて、だから何だっての?遊びにしかならないじゃない!」
それはとても正論かもしれない。楼座から見れば例え嘉音が本気でも、決して朱志香が本気になることを許されない遊びの恋なのだろう。いや、使用人と恋に落ちること自体が間違いなのかもしれない。
それでも、朱志香は楼座の言葉に反応することが出来なかった。
「やめろよ、楼座叔母さん!別の部屋に隔離すればいいだろ!」
「戦人くんは黙ってて!」
ヒステリックな応酬が続く。
使用人を殺す気であるのは確実で、まず楼座が狙うのは、間違いなく嘉音だろう。
いっそのこと自分も共に殺して欲しい、と朱志香はぼんやりと思う。けれど、きっと嘉音はそれを許してはくれないだろう。
「家具なんかと一緒にいられるもんですか!死ねぇっ、家具どもがぁぁぁぁ……」
ぱしゅん。
静かに弾が躍り出る音がした。聞こえるはずの楼座の銃声は聞こえない。
ぱしゅん。
ぱしゅんぱしゅんぱしゅん。
「か……嘉音、くん……!?」
「楼座叔母さん!!」
「ママ、ママぁっ……!ママぁぁぁっ!う~!う~!う~う~う~!!!!」
顔を嘉音の胸に押しつける形になっている朱志香は分からない。ただ、真里亞の母を呼ぶ悲痛な叫びが部屋の中にこだまするだけだ。
「楼座様が、死にました」
「なっ……」
「てめえ、他人事みたいに……!」
怒りに任せて吼える戦人を、源次が制す。
「戦人様、お静かに」
「でもよ、源次さん!」
「お静かに」
有無を言わさぬ、威厳のある声。戦人が黙ってから、嘉音はもう一度、繰り返し同じことを聞いた。
「朱志香……僕を愛してくれますか?」
「愛す……愛すよ……嘉音くんを……愛すよ……だからっ……だからもう、これ以上は……!」
これ以上は人を殺さないで?これ以上は無茶をしないで?どちらの意味で言いたいのか、朱志香には分からない。彼女に分かるのは唯一つ、さっさと彼にこの身も心もすべて捧げてしまえばよかったという後悔の気持ちだけだ。
「ありがとうございます……朱志香」
「うわあぁぁぁぁ……ママぁぁぁ……っ!」
真里亞の大泣きする声が聞こえる。戦人の慌てたような声が聞こえたから、楼座のそばに行ったのかもしれない。
--真里亞。真里亞が作った物語の中では楼座叔母さんは生き返ることが出来た。けれど、もう生き返らない……それが、無限の魔法の弱点。私は叔母さんを生き返らせることが出来ない……ごめん……ごめんな……真里亞……。
心の中でマリアに謝っていると、また静かに弾が出る音が聞こえた。
ぱしゅん。
「ぐああぁぁっ!?」
「戦人っ……!?」
ぱしゅん。
戦人の悲鳴。嘉音という檻に囚われた朱志香には何が起こっているのかわからない。
「さあ、朱志香」
彼が腕を解き、初めて書斎の状況を知った。
血を流して倒れ伏す息絶えた楼座。
楼座に駆け寄って母を呼びながら泣きじゃくる真里亞。
静かに傍に佇む源次。
そして、真里亞の傍で両足のアキレス腱から血を流して蹲る、戦人。
「戦人っ……それっ……」
この瞬間、朱志香はただの「人間」だったのかもしれない。純粋に彼の足が心配だった。
「朱志香……すまねぇな……お前のこと、助け出してやれなくて」
額に脂汗を浮かべながらも苦く笑う戦人が、純粋に愛おしかった。かつての白馬の王子様は、今はただの青年に見えた。出来ることならば今すぐ駆け寄って、手当をしてやりたかった。けれど手足の拘束がそれを許さない。源次に手当を懇願したものの、それは淡白に退けられた。老執事の眉間に、嘉音が片手で持っている銃の照準が合わせられていた。
「源次さん……!」
「お嬢様……昨日までの日々、楽しゅうございました。……ありがとうございます。では……先にお暇を頂きます」
「源次さん!?止めてっ、嘉音くん!!」
ぱしゅん。
ぱしゅん。
「源次さん!」
ゆっくりと頽れていく源次を目の当たりにして、朱志香と戦人が叫んだ。
「やめて……やめて!嘉音くん!もう、こんなことしないで!」
拘束された両手で必死に縋り付く彼女に、嘉音は優しく笑いかける。どうしてその手を血に染めながらこんなにも優しく笑いかけられるのか。けれど、その双眸には昏い昏い劣情の炎が宿っている。
こんなにあなたを愛しているのは自分だけなのに。あなたのためなら何でも出来るのに。
そう物語る瞳に囚われそうになる。
「朱志香……僕だけを、僕だけを見てください。僕だけを愛してください。その瞳に、僕以外の者を映さないでください」
囚われてはいけない。けれど囚われたい。相反する意思を押し込めて、朱志香はがくがくと頷いた。
どうせ、六軒島から出たところで行く当てなど無い。
右代宮という鳥籠から解放されたところで嘉音に愛され続ける永遠の鳥籠に囚われるだけだ。
それならもう、囚われてしまった方が楽かもしれない。
彼女の心はもう、嘉音への恋の炎を消すことなど叶わないのだから。
「ありがとうございます……さあ、朱志香。この鳥籠から、共に出ましょう。ずっと一緒にいましょう」
「朱志香っ!」
鋭く彼女を呼び止める声。力強く差し伸べられた腕。戦人だった。お前は幸せの白き魔女ベアトリーチェだろう、そう語るような表情。
朱志香には、もうそれだけで十分だった。
覚えていてくれただけで、もう良かった。
「戦人……ごめんな、ありがとう」
戦人の目が驚愕に見開かれる。
「朱志香っ!お前……!」
「ありがとう……覚えていてくれて……」
「朱志香……」
「私はやっぱり、無限の魔女じゃ、なかったのかな……」
それを面白くなさそうに眺めていた嘉音が語り出す。
「……戦人様。僕はあなたを一番殺したかった」
「嘉音くん!?」
「朱志香の魔法を否定したあなたが許せなかった。朱志香を傷つけて、のうのうとこの島に帰ってきたあなたが憎かった」
「ちょっと待てよ!俺はのうのうと帰ってきた訳じゃ……」
「いいえ。右代宮家を捨て、朱志香を裏切り、傷つけて……そこにいかなる理由があろうとも、それは言い訳にしかなりません。それなのに、帰ってくると聞いただけで朱志香は笑顔になられた。戦人様は朱志香を裏切った罪人なのに、朱志香様はどうして笑っていらっしゃったのか、姉さんに聞きました。許すつもりか、魔法を認めることを願っておられるかだと聞きました。ですが!」
明かされた真実。
嘉音だけの真実。
確かに右代宮戦人には罪があった。
嘉音の言うとおり、許すつもりだった。
「僕は、あなたを裏切った罪人を、あなたの鳥籠となった裏切り者を、どうしても許すことが出来ませんでした、朱志香」
「もう……いいよ、もういいよ、嘉音くん……!」
「その後はあなたに愛して貰うために、親族の皆様を手に掛けました。真里亞様の封筒を二度すり替え、礼拝堂の鍵を手に入れました」
「あれは……そんなものだったのかよ!?伝説の魔女様からの真里亞と楼座叔母さんへの幸せの贈り物じゃなかったのかよ!?二人の黄金郷への……招待状じゃなかったのかよ……!?」
嘘だと言って欲しくて、彼の腕に縋り付く。けれど彼はただ彼女の髪を梳くだけだった。
「騙して申し訳ありませんでした。けれど、僕はあなたを手に入れたかった。あなたに愛して欲しかった。そして、右代宮戦人が苦しんで死ねばいいと思いました。それからは朱志香の知っているとおりです」
戦人は何も言わない。
「……真里亞様。あなたがジェシカ・ベアトリーチェ様とお約束なさった黄金郷、僕が差し上げましょう」
真里亞が振り向き、まだ何も言わないうちに嘉音は銃弾を撃ち込んだ。
「真里亞ぁぁぁぁっ!」
「朱志香……あなたが僕だけを見てくださらなければ、」
足下の鎖が砕かれる。戦人の傍に駆け寄ることも可能。
「戦人様を殺します」
けれど、もう彼に人を殺して欲しくなかった。
「……っ、嘉音くんだけ、見てるから……」
嘉音の瞳の中に渦巻く哀しみを見てしまったから。嘉音が愛しかったから。泣かないで欲しかったから。
「だから……泣かないで、嘉音くん……」
ゆっくりと嘉音の胸に身体を預ける。もうここで蹂躙されてもいいと思うほど、朱志香は嘉音が愛しかった。
「ずっと前から……私も好きだったのに……ごめんな……」
「僕は……泣いているのですか?」
「私の知ってる嘉音くんは……こんなこと出来る人じゃない。本当の君は……多分泣いているんじゃないかな……」
手錠の填められた両手で嘉音の頬に触れる。
「大好きだよ……嘉音くん」
「朱志香……!」
朱志香、朱志香と繰り返し名を呼びながら、嘉音は彼女を抱きしめる。
それはなんて強い力。
手錠の外された腕は迷わず彼の背に回した。
「愛しています、ずっと愛しています!朱志香……!だから……だからっ」
「私も……ずっと愛してるぜ……嘉音くん……君の本当の名前、聞きたかった……」
「僕の、本当の名前は……」
彼がこの世に生まれ出でたときに付けられた名前を囁かれる。ずっと聞きたかった、嘉音の本名。
家具ではない嘉音に、本当の名前を添えて愛している、と囁き返す。
「大好きです、愛しています、僕の朱志香……!」
もうすぐ時計の針が零時を示す。時刻になってしまえばこの島中に仕込んだ爆薬が火を噴く、と彼は言った。
かつて金蔵が黄金の魔女を囲っていた九羽鳥庵に逃げ込めば、3人は助かるかもしれない。ああ、けれど、もうその時間はきっと残されていない。それでもいい。ほんの一瞬でも心を通わせることが出来たのは僥倖と言うべきなのだから。
彼女にとっては嘉音と一緒に死ねるのならば、本望だった。
「朱志香……未来を、与えられなくて申し訳ございません」
「いいんだ……もう、私は……」
二人で戦人のほうを見ると、彼はもう虫の息だった。これ以上苦しめたくない。安らかに眠らせてやりたかった。
銃を向ける嘉音の腕を押さえ、やんわりと銃を奪う。
「朱志香……?」
「最後ぐらい、私がやるよ……私を心配してくれて、ありがとうな、戦人。そして……さよなら」
ぱしゅん!
放たれた弾丸は戦人の心臓に着弾し、彼はこれ以上苦しむことなくこの世に別れを告げた。
最期の時に、彼が安らかな顔をしていたのがせめてもの救いだった。
それから朱志香は嘉音に抱きかかえられてもう一度ベッドへともどる。本当の愛を込めて、優しく甘い口付けを交わす。
「嘉音くん……」
「嘉哉と呼んでください……」
「嘉哉くん……っ……」
戦人達が来る直前にしていた行為を再びしているだけなのに、そこには快楽や恐怖との葛藤はなかった。ただただ暖かな肌を触れ合わせ、甘やかに愛を交わす。朱志香の中に広がるのは、愛する者と一つになれる歓びと、体温を分け合う安堵感から来る官能のみ。あれほど彼女を凌辱した指先は今は暖かな愛を持って彼女に愛の歓びを教える。
一つになる痛みすら、今は愛おしかった。
たとえ愛欲の淵で果てる前に彼女たちの生命の火が消えたとしても、悔いはなかった。
そして、零時の鐘が鳴った。狂気の宴は終わりを告げたのだ。
その後、六軒島大量殺人事件の真相は闇に葬られたままである。
だから誰も知ることはない。
幸せの白き魔女が愛し、愛された騎士の狂おしい愛の物語を。
!諸注意!
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
・ついでにR15くらいです。
それではどうぞ。
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
・ついでにR15くらいです。
それではどうぞ。
『熊沢さんはベアトリーチェなの?』
『ほっほっほ、そうでございますよ、お嬢様。この熊沢は実はベアトリーチェだったんですよ』
朱志香がベアトリーチェになったのはほんの小さな頃だった。
そっと触れた壺が割れてしまったことに、彼女は自分を重ね合わせた。
喘息でいつ死ぬかも分からない自分。死ぬときはこんなにあっけないのだと思い知った。
そして、怖くなった。
金蔵の怒りも、夏妃や蔵臼の叱責も怖かったが、何よりも自分の命の散りざまを見た気がして、怖くて怖くて仕方なかった。
泣き叫ぶ彼女を上手く宥めたのは先代ベアトリーチェだった。……熊沢チヨだった。
今考えると、熊沢は接着剤か何かで割ってしまった壺をなおしたのだろう。
それでも幼い日の朱志香にはそれは魔法に映った。
黒猫に壺を割られてしまって結局は壺が蘇ることはなかったのだけれど、朱志香は金蔵に怒られることはなかった。
割れた壺を前にしてあんなに感じていた死の恐怖も、一遍で薄れてしまった。
『ベアトリーチェ!わたしもベアトリーチェみたいな魔女になりたい』
『ほっほっほ、よろしいですよ。でも魔女の修行は鯖のカレー煮を作る以上に厳しゅうございますよ?』
『それでもいい、わたし、魔女になりたい!』
思えば、そんなやり取りがあった気がする。確かその次の日辺りから朱志香の魔女修行は始まったのだから、記憶違いはないだろう。
ただの妄想に過ぎないものを信じ、そこにあるかのように振る舞う『魔法』。
その魔法が楽しくて、彼女は戦人に魔法を授けた。
留弗夫の女癖がどんなに悪くても、全てを許すことの出来る、魔法。
何年か経って、真里亞にも魔法を授けた。
母親としての愛をくれない楼座がどんなに約束を破っても、許してそれを愛に変える、魔法。
そして朱志香自身は、常に蔵臼の娘として右代宮本家令嬢の重圧を背負い、それに捕らわれた彼女には。
好きなことをのびのびと出来る『朱志香』になれる魔法を使った。
それが、魔法同盟「マリアージュ・ソルシエール」だった。
互いの妄想を真実だと信じる魔法の同盟。
それらを裏付けるものが、6年前にジェシカ・ベアトリーチェの側にいた『家具』だった。
紗音と遊んでいるうちに出来た『家具』だった。
母にいじめられる紗音の怒りを代わりに吐露し、朱志香の苦しみを受け止める『家具』として、彼と同名の小さな少年が作り出された。
ジェシカ・ベアトリーチェに仕える『家具』、それが『カノン』という黒猫のような少年だった。
勿論現在朱志香を監禁している嘉音とは違う。
「カノン」は朱志香の苦しみをただ黙って抱きしめた。彼女の歓びを共に分かち合った。
哀しみは半分に。歓びは倍に。
「カノン」はすぐに「マリアージュ・ソルシエール」に顕現することを許された。それが随分前の話。
真里亞が同盟に入る前の話。
原始の魔女はいなかったけれど、無限の魔女と黄金の魔術師がいた。
金蔵の部屋にあった7本の杭を少女に変えて、二人で人格を錬成しながら笑いあった。
幸せな時間だった。
「カノン」が側にいて、紗音と戦人が側にいて、譲治が側にいて、魔法同盟があって。だから朱志香は笑っていられた。
みんなが笑顔になれる魔法を掛けて、幸せの白き魔女、と朱志香はいつしか先代から呼ばれるようになった。
そんな日常が大好きで、この白き魔法がずっと続けばいいのにと思っていた。いや、みんながそこにいる限り、続くと信じていた。
それなのに、幸せな時間は崩れ去ってしまった。
『戦人……』
《留弗夫様もあんなに早く再婚なさることはないでしょうに……》
あの時、留弗夫が再婚したとき、戦人は目を真っ赤に腫らして涙をこらえていた。「カノン」の憤りが朱志香の哀しみを代弁する。
『朱志香……』
だから、すこしでも笑顔にしたかった。いつもの魔法を掛けて、少しでも彼の怒りが和らげばいいと思った。
『きっと……きっと、留弗夫叔父さんは明日夢叔母さんがいなくなって、戦人に寂しい想いをさせないように……』
『黙れ!』
遮ったのは、戦人の鋭い怒鳴り声だった。
《お嬢様、大丈夫ですよ……お嬢様》
「カノン」がびくりと震える彼女の肩を抱きしめる。
『戦人……』
留弗夫は戦人のために霧江と再婚した、と魔法を掛けてやろうとした。
けれど、彼は朱志香の言葉を遮った。
『朱志香、お前、まだわかんねぇのかよ!?』
『な、何を……だよ……?』
《戦人様……?》
『お前も俺も魔女なんかじゃねえんだよ!この世に魔法なんてねえんだよ!』
世界が止まった気がした。
魔法を、魔女を否定する。
胸の奥でじゅう、と何かが焼け付くような感覚に襲われたのをよく覚えている。
これが反魔法の毒か、と思い知ってしまった。
《お嬢様!ジェシカ・ベアトリーチェ様!》
毒で灼かれる痛みに「カノン」が朱志香に縋り付く。
反魔法の毒は魔法の家具を殺す。それは「マリアージュ・ソルシエール」においては約束であり、決して行ってはならない行為だったのに。
『「カノン」……「カノン」君はいるんだ!そんなこと言うな!』
『朱志香!』
痛い。
痛い。
痛い。
毒に灼かれる痛みを、「カノン」が庇う。目をぎゅう、ととじて、必死に痛みに耐える。
『戦人!魔法を否定するな!「カノン」君をこれ以上辛い目に遭わせるな!やめてくれ!』
悲鳴に近い叫びをあげて頽れるジェシカ・ベアトリーチェを、家具の「カノン」は強く抱きしめて守ろうとする。
それを分かっていてか、戦人は薄い笑いを浮かべた。
『「カノン」君がいるならよ……今すぐあの親父を殺して見せろよ』
『なっ……出来るわけ無いだろ!』
『ほら見ろ……朱志香。お前はベアトリーチェなんかじゃない。お前の側には「カノン」君なんか』
やめて。
やめて!
その先を聞きたくなくて、耳をふさぐ。
それなのに、その声は強引に耳に流れ込んだ。
『いねえんだよ』
朱志香が一番聞きたくなかった言葉。魔法を否定する、一番の毒。
《お嬢様ぁっ!》
守りきれなくなった「カノン」がついに膝を付く。彼を抱きしめながら、彼女は最後に、精一杯の抵抗を試みた。
『やめろよ!「カノン」君はここにいるんだ!』
『いねえよ!「カノン」君なんてどこにもいねえじゃねぇか!』
鋭い反魔法の毒の剣が家具の少年を貫いた。
そして、「カノン」は、あれだけジェシカ・ベアトリーチェの側にいて、喜びも悲しみも分かち合った最愛の家具は死んでしまった。
泣き崩れる朱志香を支える者は、いない。
戦人は朱志香の髪を一度だけ撫でて、優しく言った。
『分かっただろ?幸せの魔法なんて……どこにもねえんだよ』
『お嬢様!?戦人様!?どうなされましたか!?』
紗音が泣き声を聞いて慌ててやって来る。その横をすり抜けて、戦人は朱志香の部屋を出た。ドアのところで止まって、一言だけを残す。
『また来るぜ、シーユーアゲイン。きっと白馬に跨って迎えに来るぜ……「人間」の朱志香が待っているならな』
あの時、朱志香の家具の「カノン」は死んでしまったのだ。
それでも、朱志香は信じた。
戦人が「カノン」を殺した。その罪は重い。
けれど、彼がそれを忘れて仕舞いさえすれば、少なくとも彼は誰も「ころして」いないことになる。
だから、彼女は6年前の出来事を忘れようとつとめた。
それなのに、忘れられなかった。
だから二年前に新しい使用人として「嘉音」が来たとき、息が止まりそうなほど驚いた。
朱志香の「カノン」とは似ても似つかない風貌だったけれど、彼は確かに肉体を持ってそこに存在していたのだから。いないと言われただけで死んでしまう家具ではない少年が、そこに存在していたのだから。
それと同時に、「カノン」の声が蘇ってくるような気がした。
だから彼女は魔女のままでいられた。
6年前に真里亞ともう一度作り直した「マリアージュ・ソルシエール」。それは少し前に真里亞のさくたろうが楼座に引き裂かれたことで少しずつ変質した。
『真里亞はママに復讐する……!』
『真里亞……』
それから真里亞は大好きだった楼座を……いや、楼座に取り憑き、さくたろうを「ころした」黒き魔女を引きちぎり、朱志香の魔法で生き返らせ、それをまた無惨に引き裂く物語を語った。
朱志香はそれでもいいと思った。それで真里亞の心が晴れるのならば、楼座を許せるのならば、それが幸せの魔法だから。
けれど、それは同時に朱志香の中にどす黒いドロドロした何かを流し込むのだった。
--私だって、こんな風に復讐して良いんじゃないのか?そもそも「カノン」君が殺されたのは愛のない親族達が私たちを苦しめたからじゃないのか?じゃあ、私はジェシカ・ベアトリーチェとしてみんなに復讐して黄金郷を作り、その中に愛のある親族を住まわせてやれば魔女としての責務を全うできるんじゃないか?
楼座を無限に殺して楽しい、という原始の魔女マリアの黒い側面に、引き込まれていくのを感じた。
--そうだ、私だって……復讐するべきじゃないのか?みんなを殺せば、そして私も死ねば黄金郷に行ける!そうしたら真里亞を苦しめる暴力的な楼座叔母さんじゃなくて真里亞を愛する優しい叔母さんをあげられる!「カノン」君だって生き返ることが出来る!紗音だって絵羽叔母さんに邪魔されることなく譲治兄さんと結婚できるじゃないか!
それは甘美な誘惑。
けれど、それに支払う代償は大きい。
--でも、私に父さんを、母さんを殺せるのか!?
親族を皆殺しにするということは、大好きな両親をもその手に掛けるということ。
その瞬間、朱志香は白き魔女ではいられなくなる。いや、魔女ですらなくなる。
その罪が誰にも知られない間はまだ良いだろう。
けれど、知られてしまえば狂気に陥って妄想の果てに親族を皆殺しにした少女としてみじめな姿を世間に晒すことになる。
--出来ない。……出来ないよ、「カノン」君……真里亞!
《それでよいのです、お嬢様》
「カノン」の声が聞こえたような気がした。
《お嬢様は白き魔女。幸せを呼ぶ魔女であらせられます。だから、僕たちにとってはあなたの魔法こそが黄金郷》
朱志香の魔法が黄金郷。それは、彼女がかつて幸せの白き魔女だった頃に「カノン」が言った台詞だった。
《だから、ジェシカ・ベアトリーチェ様。あなたの魔法で、皆様を黄金郷に導いてください》
『……マリア』
けたけた笑っていた小さな魔女見習いを抱きしめる。
『うー?ベアトリーチェ、どうしたの?』
『マリアを黄金郷に連れて行く……きっと、連れて行く……約束だ』
『ママは、黄金郷に行けばマリアを愛してくれる?叩いたりしない?』
『しない。マリアを、マリアだけをずっと見ていてくれる。父さんも母さんも叔母さん達もずっと仲良くしていられる……』
『みんな一緒、真里亞と一緒?』
『一緒だ。ここからみんなを消してしまうんじゃなくて、あの祖父さまの碑文を解いて、出てきた黄金で金銭問題を解決する。みんなを説得して、仲良くして貰う』
そして、みんなが生まれ変わるまでの軌跡をいくつもの殺人事件に変えて物語に仕立て、海に流してしまおう。
戦人への恨みは、みんなに協力して貰おう。
父の事業をみんなに助けて貰おう。
『だから、真里亞……ちょっとだけ手伝って欲しいんだ』
『ほっほっほ、そうでございますよ、お嬢様。この熊沢は実はベアトリーチェだったんですよ』
朱志香がベアトリーチェになったのはほんの小さな頃だった。
そっと触れた壺が割れてしまったことに、彼女は自分を重ね合わせた。
喘息でいつ死ぬかも分からない自分。死ぬときはこんなにあっけないのだと思い知った。
そして、怖くなった。
金蔵の怒りも、夏妃や蔵臼の叱責も怖かったが、何よりも自分の命の散りざまを見た気がして、怖くて怖くて仕方なかった。
泣き叫ぶ彼女を上手く宥めたのは先代ベアトリーチェだった。……熊沢チヨだった。
今考えると、熊沢は接着剤か何かで割ってしまった壺をなおしたのだろう。
それでも幼い日の朱志香にはそれは魔法に映った。
黒猫に壺を割られてしまって結局は壺が蘇ることはなかったのだけれど、朱志香は金蔵に怒られることはなかった。
割れた壺を前にしてあんなに感じていた死の恐怖も、一遍で薄れてしまった。
『ベアトリーチェ!わたしもベアトリーチェみたいな魔女になりたい』
『ほっほっほ、よろしいですよ。でも魔女の修行は鯖のカレー煮を作る以上に厳しゅうございますよ?』
『それでもいい、わたし、魔女になりたい!』
思えば、そんなやり取りがあった気がする。確かその次の日辺りから朱志香の魔女修行は始まったのだから、記憶違いはないだろう。
ただの妄想に過ぎないものを信じ、そこにあるかのように振る舞う『魔法』。
その魔法が楽しくて、彼女は戦人に魔法を授けた。
留弗夫の女癖がどんなに悪くても、全てを許すことの出来る、魔法。
何年か経って、真里亞にも魔法を授けた。
母親としての愛をくれない楼座がどんなに約束を破っても、許してそれを愛に変える、魔法。
そして朱志香自身は、常に蔵臼の娘として右代宮本家令嬢の重圧を背負い、それに捕らわれた彼女には。
好きなことをのびのびと出来る『朱志香』になれる魔法を使った。
それが、魔法同盟「マリアージュ・ソルシエール」だった。
互いの妄想を真実だと信じる魔法の同盟。
それらを裏付けるものが、6年前にジェシカ・ベアトリーチェの側にいた『家具』だった。
紗音と遊んでいるうちに出来た『家具』だった。
母にいじめられる紗音の怒りを代わりに吐露し、朱志香の苦しみを受け止める『家具』として、彼と同名の小さな少年が作り出された。
ジェシカ・ベアトリーチェに仕える『家具』、それが『カノン』という黒猫のような少年だった。
勿論現在朱志香を監禁している嘉音とは違う。
「カノン」は朱志香の苦しみをただ黙って抱きしめた。彼女の歓びを共に分かち合った。
哀しみは半分に。歓びは倍に。
「カノン」はすぐに「マリアージュ・ソルシエール」に顕現することを許された。それが随分前の話。
真里亞が同盟に入る前の話。
原始の魔女はいなかったけれど、無限の魔女と黄金の魔術師がいた。
金蔵の部屋にあった7本の杭を少女に変えて、二人で人格を錬成しながら笑いあった。
幸せな時間だった。
「カノン」が側にいて、紗音と戦人が側にいて、譲治が側にいて、魔法同盟があって。だから朱志香は笑っていられた。
みんなが笑顔になれる魔法を掛けて、幸せの白き魔女、と朱志香はいつしか先代から呼ばれるようになった。
そんな日常が大好きで、この白き魔法がずっと続けばいいのにと思っていた。いや、みんながそこにいる限り、続くと信じていた。
それなのに、幸せな時間は崩れ去ってしまった。
『戦人……』
《留弗夫様もあんなに早く再婚なさることはないでしょうに……》
あの時、留弗夫が再婚したとき、戦人は目を真っ赤に腫らして涙をこらえていた。「カノン」の憤りが朱志香の哀しみを代弁する。
『朱志香……』
だから、すこしでも笑顔にしたかった。いつもの魔法を掛けて、少しでも彼の怒りが和らげばいいと思った。
『きっと……きっと、留弗夫叔父さんは明日夢叔母さんがいなくなって、戦人に寂しい想いをさせないように……』
『黙れ!』
遮ったのは、戦人の鋭い怒鳴り声だった。
《お嬢様、大丈夫ですよ……お嬢様》
「カノン」がびくりと震える彼女の肩を抱きしめる。
『戦人……』
留弗夫は戦人のために霧江と再婚した、と魔法を掛けてやろうとした。
けれど、彼は朱志香の言葉を遮った。
『朱志香、お前、まだわかんねぇのかよ!?』
『な、何を……だよ……?』
《戦人様……?》
『お前も俺も魔女なんかじゃねえんだよ!この世に魔法なんてねえんだよ!』
世界が止まった気がした。
魔法を、魔女を否定する。
胸の奥でじゅう、と何かが焼け付くような感覚に襲われたのをよく覚えている。
これが反魔法の毒か、と思い知ってしまった。
《お嬢様!ジェシカ・ベアトリーチェ様!》
毒で灼かれる痛みに「カノン」が朱志香に縋り付く。
反魔法の毒は魔法の家具を殺す。それは「マリアージュ・ソルシエール」においては約束であり、決して行ってはならない行為だったのに。
『「カノン」……「カノン」君はいるんだ!そんなこと言うな!』
『朱志香!』
痛い。
痛い。
痛い。
毒に灼かれる痛みを、「カノン」が庇う。目をぎゅう、ととじて、必死に痛みに耐える。
『戦人!魔法を否定するな!「カノン」君をこれ以上辛い目に遭わせるな!やめてくれ!』
悲鳴に近い叫びをあげて頽れるジェシカ・ベアトリーチェを、家具の「カノン」は強く抱きしめて守ろうとする。
それを分かっていてか、戦人は薄い笑いを浮かべた。
『「カノン」君がいるならよ……今すぐあの親父を殺して見せろよ』
『なっ……出来るわけ無いだろ!』
『ほら見ろ……朱志香。お前はベアトリーチェなんかじゃない。お前の側には「カノン」君なんか』
やめて。
やめて!
その先を聞きたくなくて、耳をふさぐ。
それなのに、その声は強引に耳に流れ込んだ。
『いねえんだよ』
朱志香が一番聞きたくなかった言葉。魔法を否定する、一番の毒。
《お嬢様ぁっ!》
守りきれなくなった「カノン」がついに膝を付く。彼を抱きしめながら、彼女は最後に、精一杯の抵抗を試みた。
『やめろよ!「カノン」君はここにいるんだ!』
『いねえよ!「カノン」君なんてどこにもいねえじゃねぇか!』
鋭い反魔法の毒の剣が家具の少年を貫いた。
そして、「カノン」は、あれだけジェシカ・ベアトリーチェの側にいて、喜びも悲しみも分かち合った最愛の家具は死んでしまった。
泣き崩れる朱志香を支える者は、いない。
戦人は朱志香の髪を一度だけ撫でて、優しく言った。
『分かっただろ?幸せの魔法なんて……どこにもねえんだよ』
『お嬢様!?戦人様!?どうなされましたか!?』
紗音が泣き声を聞いて慌ててやって来る。その横をすり抜けて、戦人は朱志香の部屋を出た。ドアのところで止まって、一言だけを残す。
『また来るぜ、シーユーアゲイン。きっと白馬に跨って迎えに来るぜ……「人間」の朱志香が待っているならな』
あの時、朱志香の家具の「カノン」は死んでしまったのだ。
それでも、朱志香は信じた。
戦人が「カノン」を殺した。その罪は重い。
けれど、彼がそれを忘れて仕舞いさえすれば、少なくとも彼は誰も「ころして」いないことになる。
だから、彼女は6年前の出来事を忘れようとつとめた。
それなのに、忘れられなかった。
だから二年前に新しい使用人として「嘉音」が来たとき、息が止まりそうなほど驚いた。
朱志香の「カノン」とは似ても似つかない風貌だったけれど、彼は確かに肉体を持ってそこに存在していたのだから。いないと言われただけで死んでしまう家具ではない少年が、そこに存在していたのだから。
それと同時に、「カノン」の声が蘇ってくるような気がした。
だから彼女は魔女のままでいられた。
6年前に真里亞ともう一度作り直した「マリアージュ・ソルシエール」。それは少し前に真里亞のさくたろうが楼座に引き裂かれたことで少しずつ変質した。
『真里亞はママに復讐する……!』
『真里亞……』
それから真里亞は大好きだった楼座を……いや、楼座に取り憑き、さくたろうを「ころした」黒き魔女を引きちぎり、朱志香の魔法で生き返らせ、それをまた無惨に引き裂く物語を語った。
朱志香はそれでもいいと思った。それで真里亞の心が晴れるのならば、楼座を許せるのならば、それが幸せの魔法だから。
けれど、それは同時に朱志香の中にどす黒いドロドロした何かを流し込むのだった。
--私だって、こんな風に復讐して良いんじゃないのか?そもそも「カノン」君が殺されたのは愛のない親族達が私たちを苦しめたからじゃないのか?じゃあ、私はジェシカ・ベアトリーチェとしてみんなに復讐して黄金郷を作り、その中に愛のある親族を住まわせてやれば魔女としての責務を全うできるんじゃないか?
楼座を無限に殺して楽しい、という原始の魔女マリアの黒い側面に、引き込まれていくのを感じた。
--そうだ、私だって……復讐するべきじゃないのか?みんなを殺せば、そして私も死ねば黄金郷に行ける!そうしたら真里亞を苦しめる暴力的な楼座叔母さんじゃなくて真里亞を愛する優しい叔母さんをあげられる!「カノン」君だって生き返ることが出来る!紗音だって絵羽叔母さんに邪魔されることなく譲治兄さんと結婚できるじゃないか!
それは甘美な誘惑。
けれど、それに支払う代償は大きい。
--でも、私に父さんを、母さんを殺せるのか!?
親族を皆殺しにするということは、大好きな両親をもその手に掛けるということ。
その瞬間、朱志香は白き魔女ではいられなくなる。いや、魔女ですらなくなる。
その罪が誰にも知られない間はまだ良いだろう。
けれど、知られてしまえば狂気に陥って妄想の果てに親族を皆殺しにした少女としてみじめな姿を世間に晒すことになる。
--出来ない。……出来ないよ、「カノン」君……真里亞!
《それでよいのです、お嬢様》
「カノン」の声が聞こえたような気がした。
《お嬢様は白き魔女。幸せを呼ぶ魔女であらせられます。だから、僕たちにとってはあなたの魔法こそが黄金郷》
朱志香の魔法が黄金郷。それは、彼女がかつて幸せの白き魔女だった頃に「カノン」が言った台詞だった。
《だから、ジェシカ・ベアトリーチェ様。あなたの魔法で、皆様を黄金郷に導いてください》
『……マリア』
けたけた笑っていた小さな魔女見習いを抱きしめる。
『うー?ベアトリーチェ、どうしたの?』
『マリアを黄金郷に連れて行く……きっと、連れて行く……約束だ』
『ママは、黄金郷に行けばマリアを愛してくれる?叩いたりしない?』
『しない。マリアを、マリアだけをずっと見ていてくれる。父さんも母さんも叔母さん達もずっと仲良くしていられる……』
『みんな一緒、真里亞と一緒?』
『一緒だ。ここからみんなを消してしまうんじゃなくて、あの祖父さまの碑文を解いて、出てきた黄金で金銭問題を解決する。みんなを説得して、仲良くして貰う』
そして、みんなが生まれ変わるまでの軌跡をいくつもの殺人事件に変えて物語に仕立て、海に流してしまおう。
戦人への恨みは、みんなに協力して貰おう。
父の事業をみんなに助けて貰おう。
『だから、真里亞……ちょっとだけ手伝って欲しいんだ』
この間の「うみねこ」のヤンデレものの朱志香サイドです。
!諸注意!
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
・ついでにR15くらいです。
それではどうぞ。
Romance of stardust
!諸注意!
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
・ついでにR15くらいです。
それではどうぞ。
Romance of stardust
何故こんなことになってしまったのだろう。
自らを拘束する柔らかな檻の中で少女は考え続ける。
両親を、親類を殺されて、彼女が走った先は誰もいない貴賓室だった。
--何で、こんなことになったんだ……。
彼女を拘束した少年の瞳を思い出す。
あんなに澄んだ目をしていたのに、少女に愛を迫ったときはすっかり濁りきった目をしていた。
--どうして、どうしてこんなことしたんだよ……。
枯れかけたと思った涙はまた再び湧き上がり、彼女は小さく嗚咽を漏らす。
あの時、自分は失恋したのではなかったのか。彼は彼女の想いを拒んだのではなかったのか。
それでも、彼女は諦められなかった。自分の想いが叶わなくとも、彼が人間だと自覚して欲しかった。
それなのに、あの時彼女を抱きしめた少年は彼女に愛して欲しいと言った。
それがこんな状況下でなければ、彼女は受け入れたかもしれない。
「だけど……なら、どうしてこんなこと……嘉音くん……」
朱志香は一言少年の名を呟くと、もう一度静かに涙した。
Romance of stardust
朱志香が目覚めると、そこは見慣れた自室ではなかった。
天蓋。柔らかく大きなベッド。鼻腔を侵す甘ったるい異臭。
金蔵の部屋だ。
嘉音に飲まされた薬物のせいか、頭が上手く働かない。仕方なしに首を動かして辺りを見回すと、足下でがしゃん、と何かを填める音がした。
「か……嘉音、くん……?」
「お目覚めになられましたか、朱志香様」
足下で何かをしていた嘉音がこちらにやって来る。朱志香の自室でそうしたように、また唇をいいように弄ぶつもりか。
思わず身を固くして縮こまろうとしたが、手首と足首に違和感を感じる。見れば、じゃらりと重たい鎖と、それがつなぐ二つの輪。
手錠が填められていた。
それに気を取られた隙をついて、嘉音は朱志香を抱き寄せた。
「やっ……」
「朱志香様……愛しています。ずっとあなただけが好きでした」
「……っ」
彼が文化祭の夜にそう言ってくれれば、いや、もう時期はいつでも構わない。こんな状況下、両親も親類も殺されて、それを遂行したのが嘉音でなければ、朱志香は彼の告白が嬉しくてたまらなかっただろう。
失恋したと思っていたのに。
家具と人間は恋愛など出来ないと言い出したのは彼だったのに。
「知っていらっしゃいますか」
「……何を?」
「お館様は朱志香様がお生まれになる前、ベアトリーチェという人間を囲っていらっしゃいました」
「祖父さまが……九羽鳥庵に、か」
「はい。朱志香様からインゴットをお借りした際、九羽鳥庵に行きましたが。僕は鳥籠のようだと思いました」
鳥籠なんかじゃない。
朱志香はそう言い返したかった。
あれは祖父である金蔵と、ベアトリーチェの唯一の愛の証だ。
確かに金蔵は鳥籠のつもりだったのだろう。
ベアトリーチェにも鳥籠に見えたのかもしれない。
それでも、朱志香は思う。
「でも、あれは、さ……祖父さまとベアトリーチェの黄金郷だったんだよ……鳥籠なんて、言うなよ……」
黄金郷は黄金郷だ。九羽鳥庵は、金蔵とベアトリーチェの愛の証、黄金郷だ。
それは紛れもない朱志香にとっての真実。
けれど、朱志香の真実を嘉音が鳥籠だと言ってしまえば、それは愛の証ではなくただの狂気の残骸と成りはてる。
自分の中にある真実を塗り替えられてしまうのが、朱志香には怖かった。
「朱志香様には愛の証に見えたかもしれません。けれど、僕は思ったのです」
「……?」
「この鳥籠に、今のベアトリーチェ様を閉じこめたい、と」
今のベアトリーチェ。
言われなくとも思い出せる。
それは紛れもなく右代宮家序列第六位、右代宮朱志香のことなのだから。
幸せの白き魔女、ジェシカ・ベアトリーチェのことだからだ。
その彼女を彼は閉じこめたいと言う。
「どういうことだよ……」
「あなたを他の男に取られたくない、他の男にほほえみかけて欲しくない、僕以外の男の視界にはいることですら許せないのです……!」
それは、何でもない、ただの男の嫉妬。
恋人を監禁するには妥当だが、仕える主人を監禁するには不遜すぎ、六人も殺すには矮小すぎる理由。
まして、朱志香は嘉音の仕える相手であり、恋人でも何でもない。
「だから……母さん達を殺したって言うのか!?そんなことして、君は幸せになれるのかよ……っ」
湧き上がる怒りをぶつけきる前に、唇を奪われる。
「僕は今……とても幸せです。朱志香様と幸せになるためなら僕は何でもしましょう」
「じゃあ……今すぐこの馬鹿げた事件を止めろよ。楼座叔母さん達をこの部屋に呼んで、全部白状しろよ」
嘉音は首を横に振る。
「……申し上げたでしょう、朱志香様が僕を愛してくださるまで、この儀式は続くと」
朱志香を抱き上げると、彼は金蔵の椅子に彼女を据えた。
額に軽く口付けて嘉音は部屋を出て行った。
何をしに行くのか、朱志香には何となく分かる。
きっと彼が儀式と呼ぶ、あの碑文に沿った殺人劇を遂行しに行くのだ。
だから、彼女は自らの身体を丸めてお師匠様、と言葉を絞り出した。
自らを拘束する柔らかな檻の中で少女は考え続ける。
両親を、親類を殺されて、彼女が走った先は誰もいない貴賓室だった。
--何で、こんなことになったんだ……。
彼女を拘束した少年の瞳を思い出す。
あんなに澄んだ目をしていたのに、少女に愛を迫ったときはすっかり濁りきった目をしていた。
--どうして、どうしてこんなことしたんだよ……。
枯れかけたと思った涙はまた再び湧き上がり、彼女は小さく嗚咽を漏らす。
あの時、自分は失恋したのではなかったのか。彼は彼女の想いを拒んだのではなかったのか。
それでも、彼女は諦められなかった。自分の想いが叶わなくとも、彼が人間だと自覚して欲しかった。
それなのに、あの時彼女を抱きしめた少年は彼女に愛して欲しいと言った。
それがこんな状況下でなければ、彼女は受け入れたかもしれない。
「だけど……なら、どうしてこんなこと……嘉音くん……」
朱志香は一言少年の名を呟くと、もう一度静かに涙した。
Romance of stardust
朱志香が目覚めると、そこは見慣れた自室ではなかった。
天蓋。柔らかく大きなベッド。鼻腔を侵す甘ったるい異臭。
金蔵の部屋だ。
嘉音に飲まされた薬物のせいか、頭が上手く働かない。仕方なしに首を動かして辺りを見回すと、足下でがしゃん、と何かを填める音がした。
「か……嘉音、くん……?」
「お目覚めになられましたか、朱志香様」
足下で何かをしていた嘉音がこちらにやって来る。朱志香の自室でそうしたように、また唇をいいように弄ぶつもりか。
思わず身を固くして縮こまろうとしたが、手首と足首に違和感を感じる。見れば、じゃらりと重たい鎖と、それがつなぐ二つの輪。
手錠が填められていた。
それに気を取られた隙をついて、嘉音は朱志香を抱き寄せた。
「やっ……」
「朱志香様……愛しています。ずっとあなただけが好きでした」
「……っ」
彼が文化祭の夜にそう言ってくれれば、いや、もう時期はいつでも構わない。こんな状況下、両親も親類も殺されて、それを遂行したのが嘉音でなければ、朱志香は彼の告白が嬉しくてたまらなかっただろう。
失恋したと思っていたのに。
家具と人間は恋愛など出来ないと言い出したのは彼だったのに。
「知っていらっしゃいますか」
「……何を?」
「お館様は朱志香様がお生まれになる前、ベアトリーチェという人間を囲っていらっしゃいました」
「祖父さまが……九羽鳥庵に、か」
「はい。朱志香様からインゴットをお借りした際、九羽鳥庵に行きましたが。僕は鳥籠のようだと思いました」
鳥籠なんかじゃない。
朱志香はそう言い返したかった。
あれは祖父である金蔵と、ベアトリーチェの唯一の愛の証だ。
確かに金蔵は鳥籠のつもりだったのだろう。
ベアトリーチェにも鳥籠に見えたのかもしれない。
それでも、朱志香は思う。
「でも、あれは、さ……祖父さまとベアトリーチェの黄金郷だったんだよ……鳥籠なんて、言うなよ……」
黄金郷は黄金郷だ。九羽鳥庵は、金蔵とベアトリーチェの愛の証、黄金郷だ。
それは紛れもない朱志香にとっての真実。
けれど、朱志香の真実を嘉音が鳥籠だと言ってしまえば、それは愛の証ではなくただの狂気の残骸と成りはてる。
自分の中にある真実を塗り替えられてしまうのが、朱志香には怖かった。
「朱志香様には愛の証に見えたかもしれません。けれど、僕は思ったのです」
「……?」
「この鳥籠に、今のベアトリーチェ様を閉じこめたい、と」
今のベアトリーチェ。
言われなくとも思い出せる。
それは紛れもなく右代宮家序列第六位、右代宮朱志香のことなのだから。
幸せの白き魔女、ジェシカ・ベアトリーチェのことだからだ。
その彼女を彼は閉じこめたいと言う。
「どういうことだよ……」
「あなたを他の男に取られたくない、他の男にほほえみかけて欲しくない、僕以外の男の視界にはいることですら許せないのです……!」
それは、何でもない、ただの男の嫉妬。
恋人を監禁するには妥当だが、仕える主人を監禁するには不遜すぎ、六人も殺すには矮小すぎる理由。
まして、朱志香は嘉音の仕える相手であり、恋人でも何でもない。
「だから……母さん達を殺したって言うのか!?そんなことして、君は幸せになれるのかよ……っ」
湧き上がる怒りをぶつけきる前に、唇を奪われる。
「僕は今……とても幸せです。朱志香様と幸せになるためなら僕は何でもしましょう」
「じゃあ……今すぐこの馬鹿げた事件を止めろよ。楼座叔母さん達をこの部屋に呼んで、全部白状しろよ」
嘉音は首を横に振る。
「……申し上げたでしょう、朱志香様が僕を愛してくださるまで、この儀式は続くと」
朱志香を抱き上げると、彼は金蔵の椅子に彼女を据えた。
額に軽く口付けて嘉音は部屋を出て行った。
何をしに行くのか、朱志香には何となく分かる。
きっと彼が儀式と呼ぶ、あの碑文に沿った殺人劇を遂行しに行くのだ。
だから、彼女は自らの身体を丸めてお師匠様、と言葉を絞り出した。
「僕だって……お嬢様のことが好きだった……!お嬢様……!」
それでも、金蔵亡き今、朱志香が当主になるのは時間の問題。
そうなればきっと、嘉音が彼女と結ばれることはないだろう。
--ならば、僕がその障害を取り除きますから……あなたを鳥籠から出しますから……!だから、お嬢様……!
「朱志香様は僕の嫁ぇぇぇぇぇぇ!」
もはやいろいろ台無しだが、朱志香への愛が暴走しきった嘉音は全く気づかない。
「もうちょっと給料溜まったら最高級の婚約指輪買いますぅぅぅぅ!」
彼はまだ16歳なので結婚できないのだが、嘉音はそんなことに微塵も気づかない。ますますデッドヒートしつつある彼の耳に、哀れむような声が飛び込んできた。
「おいたわしや……嘉音さん……」
「……熊沢さん、何やってるんですか」
急に冷めたように振り向くと、東屋の柱から半身を出した熊沢はもういちどおいたわしや、と呟いた。
「この年寄りは何も見ておりません……ああそれでもおいたわしや……」
「いや、ですから」
嘉音の返事も聞かず、熊沢は語り続けた。
「まだ嘉音さんは結婚できない年齢なのに……」
「聞いてたじゃないですか!」
聞いていた。
明らかに聞いていた。
しかし老女はほっほっほ、と笑って首を横に振る。
「ですからこの年寄りは何も見ておりません……ああおいたわしやお嬢様……嘉音さんからの婚約指輪はいつになることやら……」
「最初から聞いてた!?」
再度叫ぶと、熊沢は急にしんみりとした表情になった。
「奥様の警戒も、若いお二人には恋の炎が燃え上がる要因となったのです……」
そう言いながら取り出した一冊の本に、嘉音は戦慄した。
「そ、それ……僕の……!」
「嘉音さん、使用人室の押入の中にこの本が」
「僕の『お嬢様とらぶらぶ☆ティータイム』じゃないですか!」
熊沢が取り出したのはB5サイズの100ページほどの本。この『お嬢様とらぶらぶ☆ティータイム』、いわゆる同人誌と呼ばれるものだが、嘉音はこの本にとても強い愛着を持っていた。
「嘉音さん、あまり右代宮家の内情を脚色しすぎるのはどうかと思いますよ?」
そう、この同人誌、嘉音の著作だったのである。
去年の夏まで3ヶ月間頑張った。
漫画の製作技法も小説の書き方も1人で勉強した。
同人誌の出し方も某夏の大型イベントへの申し込みも紗音に教わりながら頑張った。
「いいんです!僕とお嬢様の甘酸っぱい恋の物語なんですから!」
内容は紗音の検閲が入って、結局は嘉音と朱志香の身分を越えた甘いラヴストーリーになってしまったが、彼は後悔していない。
「右代宮家のことを出し過ぎるのも良くないと思いますよ……ほっほっほ……」
熊沢は嘉音の手に同人誌を置くと傘を差して東屋を去っていった。
「良いじゃないですか……」
実際、嘉音の初めて出した同人誌は売れた。紗音に店番をして貰ったことも功を奏したのかもしれない。
彼が店番の時に売れるのは紗音が譲治との新婚風景を描いた『貴方と私の朝の風景』(こちらも100ページほどの本である)が多かったからだ。一部の客には嘉音の本と彼の顔を見比べて怪訝な顔をする者もいた。
だが、そんなことは些細なことだと思ったのだ。
張り切って新刊を出したその年の冬のイベントも、今年の夏のイベントも二人は満喫した。
しかし、紗音はともかく嘉音の現実は同人誌のようにはいかない。
朱志香と愛を語らいながらお茶を飲み、あまつさえ夏妃に怒られるようなことをすることなど夢のまた夢だ。
だから嘉音はせっせと年二回のイベントに出かけては朱志香の高校の生徒が出している彼女が描かれた本を買いあさり、自室で読みふけるのだった。
「良いじゃないですか……婚約指輪を買うお金を今から貯めていても、結婚式の計画を立てていても……」
たとえ叶わない恋だとしても、嘉音の朱志香への気持ちに嘘はない。だからこそ彼は創作活動でその恋心を存分にアピールし、人間になれた暁には同人誌を一緒に読んで彼のことをもっと好きになって欲しいのだ。
嘉音はそのための努力は惜しまない。仕事を適当にさぼって朱志香の学校へ双眼鏡持参で行ったとしても、朱志香に幻滅されることは決してしない。
「お嬢様は僕の嫁なんですから……」
普段の仏頂面はどこへやら、若干鼻の下がのびた嬉しそうな顔で嘉音は呟くと、同人誌の表紙に書いたメイド服の朱志香に頬ずりした。
完
それでも、金蔵亡き今、朱志香が当主になるのは時間の問題。
そうなればきっと、嘉音が彼女と結ばれることはないだろう。
--ならば、僕がその障害を取り除きますから……あなたを鳥籠から出しますから……!だから、お嬢様……!
「朱志香様は僕の嫁ぇぇぇぇぇぇ!」
もはやいろいろ台無しだが、朱志香への愛が暴走しきった嘉音は全く気づかない。
「もうちょっと給料溜まったら最高級の婚約指輪買いますぅぅぅぅ!」
彼はまだ16歳なので結婚できないのだが、嘉音はそんなことに微塵も気づかない。ますますデッドヒートしつつある彼の耳に、哀れむような声が飛び込んできた。
「おいたわしや……嘉音さん……」
「……熊沢さん、何やってるんですか」
急に冷めたように振り向くと、東屋の柱から半身を出した熊沢はもういちどおいたわしや、と呟いた。
「この年寄りは何も見ておりません……ああそれでもおいたわしや……」
「いや、ですから」
嘉音の返事も聞かず、熊沢は語り続けた。
「まだ嘉音さんは結婚できない年齢なのに……」
「聞いてたじゃないですか!」
聞いていた。
明らかに聞いていた。
しかし老女はほっほっほ、と笑って首を横に振る。
「ですからこの年寄りは何も見ておりません……ああおいたわしやお嬢様……嘉音さんからの婚約指輪はいつになることやら……」
「最初から聞いてた!?」
再度叫ぶと、熊沢は急にしんみりとした表情になった。
「奥様の警戒も、若いお二人には恋の炎が燃え上がる要因となったのです……」
そう言いながら取り出した一冊の本に、嘉音は戦慄した。
「そ、それ……僕の……!」
「嘉音さん、使用人室の押入の中にこの本が」
「僕の『お嬢様とらぶらぶ☆ティータイム』じゃないですか!」
熊沢が取り出したのはB5サイズの100ページほどの本。この『お嬢様とらぶらぶ☆ティータイム』、いわゆる同人誌と呼ばれるものだが、嘉音はこの本にとても強い愛着を持っていた。
「嘉音さん、あまり右代宮家の内情を脚色しすぎるのはどうかと思いますよ?」
そう、この同人誌、嘉音の著作だったのである。
去年の夏まで3ヶ月間頑張った。
漫画の製作技法も小説の書き方も1人で勉強した。
同人誌の出し方も某夏の大型イベントへの申し込みも紗音に教わりながら頑張った。
「いいんです!僕とお嬢様の甘酸っぱい恋の物語なんですから!」
内容は紗音の検閲が入って、結局は嘉音と朱志香の身分を越えた甘いラヴストーリーになってしまったが、彼は後悔していない。
「右代宮家のことを出し過ぎるのも良くないと思いますよ……ほっほっほ……」
熊沢は嘉音の手に同人誌を置くと傘を差して東屋を去っていった。
「良いじゃないですか……」
実際、嘉音の初めて出した同人誌は売れた。紗音に店番をして貰ったことも功を奏したのかもしれない。
彼が店番の時に売れるのは紗音が譲治との新婚風景を描いた『貴方と私の朝の風景』(こちらも100ページほどの本である)が多かったからだ。一部の客には嘉音の本と彼の顔を見比べて怪訝な顔をする者もいた。
だが、そんなことは些細なことだと思ったのだ。
張り切って新刊を出したその年の冬のイベントも、今年の夏のイベントも二人は満喫した。
しかし、紗音はともかく嘉音の現実は同人誌のようにはいかない。
朱志香と愛を語らいながらお茶を飲み、あまつさえ夏妃に怒られるようなことをすることなど夢のまた夢だ。
だから嘉音はせっせと年二回のイベントに出かけては朱志香の高校の生徒が出している彼女が描かれた本を買いあさり、自室で読みふけるのだった。
「良いじゃないですか……婚約指輪を買うお金を今から貯めていても、結婚式の計画を立てていても……」
たとえ叶わない恋だとしても、嘉音の朱志香への気持ちに嘘はない。だからこそ彼は創作活動でその恋心を存分にアピールし、人間になれた暁には同人誌を一緒に読んで彼のことをもっと好きになって欲しいのだ。
嘉音はそのための努力は惜しまない。仕事を適当にさぼって朱志香の学校へ双眼鏡持参で行ったとしても、朱志香に幻滅されることは決してしない。
「お嬢様は僕の嫁なんですから……」
普段の仏頂面はどこへやら、若干鼻の下がのびた嬉しそうな顔で嘉音は呟くと、同人誌の表紙に書いたメイド服の朱志香に頬ずりした。
完
最後です。いやぁ、長かった!もしかしたらNG集UPするかもです。
実はこれ、友人に贈るものなんですよね……こんなんでごめんなさい。
!諸注意!
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
では、どうぞ。
Romance to decadence 後編
実はこれ、友人に贈るものなんですよね……こんなんでごめんなさい。
!諸注意!
・朱志香が碑文を解いて次期当主になっています。
・ついでにベアトリーチェ=朱志香になっています。
・マリアージュ・ソルシエールと戦人の過去に多大なる捏造があります。
では、どうぞ。
Romance to decadence 後編
杭を3人の死体に打ち込んで、部屋を出る。3人も銃で殺したからか、まだ気が高ぶっていた。このまま戻れば、朱志香に今度こそ無体を働いてしまうかもしれない。
それだけは避けたかった。そうすれば彼女は二度と嘉音を見ようとはしてくれないだろうから。
だから、血糊を取り出して手にべったりと付ける。それをドアノブやドアにべたべたと擦り付ける。一通り擦り付けて気が済むと、ハンカチで手を拭って今度こそ書斎に戻った。
朱志香は気を失ったように眠っている。その青白い頬が、シーツを固く握りしめる両の手が、とてもとても愛おしくて、嘉音は布団ごと彼女を抱きしめた。
「ん……」
「朱志香様……」
いやいやと拒絶するように藻掻く身体を捉える。暫くそのままでいると、朱志香の小さな声が聞こえた。
「こんなことして……満足なのかよ……?」
「満足です……これで、朱志香様と二人きりになれたのですから」
「ふたり……きり……?まさかっ……!」
「紗音と譲治様と、郷田が最後の生け贄です」
「郷田さん……譲治兄さん……紗音……!!」
親友と従兄、それに親しい使用人を殺された少女の瞳には怒りやら哀しみやらが綯い交ぜになって、今は絶望が沈んでいた。その瞳から、はらはらと幾筋もの涙が流れる。
「朱志香……僕が死んでも、そんな風に泣いてくれましたか……?」
--あの文化祭の夜も、あなたは泣いてくれましたか?
それが伝わったようで、朱志香は嘉音の肩口に顔を埋めて泣いた。
「何言ってるんだよ……!泣くに決まってるだろ……文化祭の時も……泣いたよ……!」
「……僕を愛してくれますか?」
「……っ」
壊れたカセットテープみたいに何度も繰り返す台詞。たった一度頷いて、心から愛してくれればもう誰も傷つかないですむのに、朱志香は頑なに返事をしなかった。
「……僕は紗音が憎らしかった。僕の朱志香への恋心を玩具にして、陰で叶わぬ恋に落ちた愚か者と笑っていたから……あんな蝶のブローチで恋が叶うなんて言って……騙して……」
「違う……違うよ……嘉音くん……」
1人語りに朱志香が否を唱えた。
「あの蝶のブローチは……私がお守りにあげたんだ。私は物語に出てくるような魔女じゃないから本物の魔法のブローチをあげることは出来なかったけど……信じれば奇跡は起こるって……だから紗音は信じて、譲治兄さんに想いを伝えたんだ。……嘉音くんがこんなに苦しむなら、あのとき……紗音がブローチを返してきたとき、貰っておけば良かった」
「朱志香が……ブローチを……?」
「紗音に幸せになって欲しかったんだ……!」
両手と両足を拘束されたまま、朱志香はそれでも他人を想う。彼女が最初に幸せを願ったのは嘉音ではない。
紗音だ。
冷静に考えれば出会ってまだ3年ほどしか経っていない嘉音よりも、小さな頃から付き合いがある紗音のほうが優先順位が高いのも仕方がないのだが、あいにく嘉音の心は冷静になれるほどの広さが残っていなかった。
「では、紗音の代わりでもいいから……僕を幸せにしてください」
抱きしめたまま、ベッドへと雪崩れ込む。さすがに彼女も子どもではない。自分が今、どんな状況に置かれているのか理解したようで、涙を流し続けながらかたかたと震えだした。
「か、嘉音くん……嫌だっ!やめて!離してっ!」
「僕だけを見てください……僕だけを愛してください……朱志香……っ」
狂おしい恋情に突き動かされてかき抱いた身体は細く頼りなく、必死に抵抗しようとする彼女にますます愛おしさが募る。
「ずっと、ずっと愛しています……朱志香……」
「嫌っ……嫌ぁっ……助けてっ……戦人ぁっ!」
かあっ、と嘉音の胸が熱くなった。この期に及んで、未だ彼女は自分だけを見てくれない。
そう言えば、もうすぐ日付が変わる。南條と熊沢の死体も、紗音達の死体も、とっくに楼座達に発見されている頃だろう。金蔵の死体はボイラー室に放り込んで、もしかの時には燃やそうと思っていた。結局出番はなかったが。
そろそろ源次が戦人達を連れてくる頃だろう。
「朱志香……っ」
無理矢理口づけて、スカートの下のタイツに手を掛ける。
ノックが響いたのはそのときだった。
「やっ……誰か、来たから、やめて……っ」
朱志香の懇願も来訪者には聞こえない。小さく舌打ちして、タイツに掛けていた手を離すと、嘉音は彼女を横抱きにして金蔵の椅子に再び拘束した。
「失礼致します」
入ってきたのは、今現在生き残っている全員だった。楼座、真里亞、源次、そして、戦人。
「朱志香……嘉音くん……生きてたのか!?」
「最初から殺されてなどおりません」
戦人の驚愕の声に、嘉音は素っ気なく答えた。銃を構える楼座の横をすり抜けて、真里亞が金蔵の椅子に近づく。
「う~、朱志香お姉ちゃん……ベアトリーチェ。どうして泣いてるの?」
「ま……真里亞……」
「朱志香ちゃんが……ベアトリーチェ!?」
「……朱志香がベアトリーチェってことは……」
楼座と戦人の顔が険しくなる。当然だ。この殺人は六軒島の魔女・ベアトリーチェが起こした物だと結論づけられているのだから。
「朱志香様が右代宮家の当主です」
「……真里亞の……マシュマロをなおしたのは、私……暗号を解いたのも、私……っ」
か細い声で答える朱志香の頬には涙が伝っている。
「楼座叔母さん、朱志香は犯人なんかじゃねえ。」
戦人が楼座を振り返る。
「根拠は?」
冷たい声の叔母に、彼は黙って少女を戒める手錠を指さした。
「朱志香が拘束されている以上、朱志香にみんなを殺すことは出来ねえ。それにこいつは、昨日の夜俺たちと一緒にいた。反抗は無理だ」
「それもそうね……朱志香ちゃん、知っているんでしょう?兄さん達を殺したのは誰?」
問いつめる楼座に、朱志香はただ涙を流すばかりで、答えない。
「朱志香、答えてくれ!」
「……っ、それ、は……」
朱志香は怯えるように嘉音のほうを見る。彼は朱志香に歩み寄り、彼女を抱きしめた。
「僕がやりました」
「ほら、言ったじゃない……嘉音くんが狼だって!」
「何でやったんだよ!親父達を、紗音ちゃん達を殺して……何が望みだったんだ!」
「お嬢様と幸せになるためです」
戦人は涙を流しながらなんだよそれ、と怒鳴る。
「好きなら好きって、そう言やあ良いじゃねえかよ!どこにみんなを殺す必要があった!?」
「戦人様には分からないでしょう……こうでもしなければ愛する人と幸せに……結ばれない家具の気持ちなんて!分からないでしょう!」
「わかんねえよ!今の朱志香を見て、嘉音くんはこいつが幸せだと思えるのか!?」
朱志香の顔は、涙で酷い有様になっていたが、それでもなお、美しかった。
泣きはらした瞳も、煌めき流れる涙も、けして良くはない顔色も、震える唇も、全てが美しい、愛おしい。
朱志香が幸せでないことなんて、分かっている。
「今は幸せでは無いかもしれませんが、僕たちはもうすぐ幸せになれるのです」
「……何を言っているの?」
少女の髪を梳りながら嘉音は浮かされたように言葉を連ねる。その幸せな心に、楼座が無理矢理冷たい刃を突き刺した。
「あんたと結婚したって、朱志香ちゃんが幸せになれるわけ無いじゃない」
「ろ……楼座叔母さん!?」
ちらりと振り向くと、楼座は怒りによるものか、張り付いたような笑みを浮かべながら言葉を重ねる。
「あんたみたいな使用人で義務教育に行かせてやった恩も忘れて主人を殺すようなやつに、喜んで嫁げるとでも思ってるの?私がそんなやつと姪を一緒にさせるとでも思ってるの?」
「う~……ママ?」
「ま……真里亞、聞くな……耳をふさいで、小さな声で……私に歌を聴かせてくれ。そうすれば真里亞には……何も見えない、聞こえない……!」
朱志香が掠れた声でそう頼めば、真里亞は椅子と背を向けあう形で立って、歌い出した。
その間も楼座は嘉音を罵倒する。
「どうせそこにいる源次さんも共犯でしょう?最初から信用なんてしてなかったわよ、この家具どもが!……真里亞、その椅子から離れなさい。離れなさいって言ってるでしょうっ!」
「真里亞……私の……ベアトリーチェの、最後の贈り物だ……歌、ありがとう。楼座叔母さんのところに行って、絶対に離れるなよ……」
「う~……」
真里亞は歌をやめると、素直に楼座のところへ歩いて行き、衣服にぎゅっとしがみついた。
「楼座叔母さん……何を!?」
「家具どもを殺すのよ」
「なっ……!?」
「このまま恩知らずの家具どもと一緒に明日の朝までいっしょにいることなんか出来やしない。ならここで殺すしかないでしょ?」
「た……確かにそうだけどよ……ここで撃ったら朱志香だって危ないんだぞ!?」
狼狽えて楼座を止めようとする戦人に、朱志香は嘉音の身体越しに疲れたような声で呼びかけた。
「戦人……もう、良いんだ……私が悪いんだ……私が……っ!だから……叔母さん、私も……殺して……!」
「朱志香は悪くありません」
「朱志香は悪くなんかねえよ!」
奇しくも嘉音と戦人は、同じ台詞を吐いていた。悪いのは朱志香じゃない。
「私が……嘉音くんの想いに応えなかったから……」
「朱志香ちゃん、騙されちゃダメよ。こんな家具の気持ちに応えて、だから何だっての?遊びにしかならないじゃない!」
そして、楼座がウィンチェスターを構え直す音が響いた。
「やめろよ、楼座叔母さん!別の部屋に隔離すればいいだろ!」
「戦人くんは黙ってて!」
ヒステリックな応酬。
使用人を殺す気であるのは確実で、まず楼座が狙うのは、間違いなく嘉音だろう。
応酬が続いている間に、少女の頭を片手で抱きしめて、サイレンサー付の銃を取り出し、残り少なくなっていた弾倉を交換する。
「家具なんかと一緒にいられるもんですか!死ねぇっ、家具どもがぁぁぁぁ……」
ぱしゅん。
ウィンチェスターの引き金を楼座が引く前に、彼女の額に銃弾が埋まる。
ぱしゅん。
ぱしゅんぱしゅんぱしゅん。
「か……嘉音、くん……!?」
「楼座叔母さん!!」
「ママ、ママぁっ……!ママぁぁぁっ!う~!う~!う~う~う~!!!!」
顔を嘉音の胸に押しつける形になっている朱志香は分からない。
「楼座様が、死にました」
「なっ……」
「てめえ、他人事みたいに……!」
怒りに任せて吼える戦人を、源次が制す。
「戦人様、お静かに」
「でもよ、源次さん!」
「お静かに」
押し黙る戦人は、人が死んでから初めて涙を流して遺体に縋り付く真里亞を抱きしめる。
「朱志香……僕を愛してくれますか?」
「愛す……愛すよ……嘉音くんを……愛すよ……だからっ……だからもう、これ以上は……!」
涙を流して頷く朱志香の目元に軽く口づける。嘉音は初めて、自分の心が満たされた気がした。
「ありがとうございます……朱志香」
「うわあぁぁぁぁ……ママぁぁぁ……っ!」
真里亞の大泣きする声が聞こえる。戦人の慌てたような声が聞こえたから、楼座のそばにでも行ったのだろう。
真里亞はともかく、戦人は体格が良い。格闘で来られたらまず勝てないだろう。
だから、真里亞ではなく、戦人の足を撃った。
ぱしゅん。
「ぐああぁぁっ!?」
「戦人っ……!?」
ぱしゅん。
両足に一発ずつ打ち込まれ、これで彼は動くことなど出来ないだろう。
「さあ、朱志香」
抱きしめていた少女の身体を解放する。
「戦人っ……それっ……」
「朱志香……すまねぇな……お前のこと、助け出してやれなくて」
「っ……戦人……そんなこと、どうでもいいんだよ……!源次さん、手当てしてやってくれよ!」
しかし彼女の言葉に、源次は首を横に振る。嘉音が銃口を向けているのに気づいたからだろうか。
「お嬢様……昨日までの日々、楽しゅうございました。……ありがとうございます。では……先にお暇を頂きます」
「源次さん!?止めてっ、嘉音くん!!」
ぱしゅん。
ぱしゅん。
「源次さん!」
ゆっくりと頽れていく源次を目の当たりにして、二人が叫んだ。
「やめて……やめて!嘉音くん!もう、こんなことしないで!」
拘束された両手で必死に縋り付く彼女に、嘉音は優しく笑いかける。彼女は人の死んでゆく様を目の当たりにしてなお、戦人と真里亞を守ろうとしている。それが嘉音には面白くない。
いや、ずっと、朱志香が戦人の、他人の話をするのが気にくわなかった。
--こんなに朱志香を愛しているのは僕だけなのに……!
「朱志香……僕だけを、僕だけを見てください。僕だけを愛してください。その瞳に、僕以外の者を映さないでください」
朱志香はがくがくと頷くだけだ。
「ありがとうございます……さあ、朱志香。この鳥籠から、共に出ましょう。ずっと一緒にいましょう」
「朱志香っ!」
呼び声に彼女は戦人のほうを見る。彼は足の動かなくなった身でありながら、六軒島の、今は嘉音の囚われの姫君に力強く手を伸ばしていた。
「戦人……ごめんな、ありがとう」
彼が見たのは、従姉妹で白き魔女だった姫君のはかない笑顔だったのかもしれない。絶望に震えた目をしていたから。
--朱志香は僕のものだ!
ほんの少しの愉悦と、それを大きく上回る憎しみの炎が嘉音を支配する。
「……戦人様。僕はあなたを一番殺したかった」
「嘉音くん!?」
「朱志香の魔法を否定したあなたが許せなかった。朱志香を傷つけて、のうのうとこの島に帰ってきたあなたが憎かった」
「ちょっと待てよ!俺はのうのうと帰ってきた訳じゃ……」
「いいえ。右代宮家を捨て、朱志香を裏切り、傷つけて……そこにいかなる理由があろうとも、それは言い訳にしかなりません。それなのに、帰ってくると聞いただけで朱志香は笑顔になられた。戦人様は朱志香を裏切った罪人なのに、朱志香様はどうして笑っていらっしゃったのか、姉さんに聞きました。許すつもりか、魔法を認めることを願っておられるかだと聞きました。ですが!」
朱志香がびくりと震える。
「僕は、あなたを裏切った罪人を、あなたの鳥籠となった裏切り者を、どうしても許すことが出来ませんでした、朱志香」
「もう……いいよ、もういいよ、嘉音くん……!」
「その後はあなたに愛して貰うために、親族の皆様を手に掛けました。真里亞様の封筒を二度すり替え、礼拝堂の鍵を手に入れました」
「あれは……そんなものだったのかよ!?伝説の魔女様からの真里亞と楼座叔母さんへの幸せの贈り物じゃなかったのかよ!?二人の黄金郷への……招待状じゃなかったのかよ……!?」
「騙して申し訳ありませんでした。けれど、僕はあなたを手に入れたかった。あなたに愛して欲しかった。そして、右代宮戦人が苦しんで死ねばいいと思いました。それからは朱志香の知っているとおりです」
戦人は何も言わない。
「……真里亞様。あなたがジェシカ・ベアトリーチェ様とお約束なさった黄金郷、僕が差し上げましょう」
真里亞が振り向き、まだ何も言わないうちに銃弾を撃ち込んだ。
「真里亞ぁぁぁぁっ!」
「朱志香……あなたが僕だけを見てくださらなければ、」
朱志香の足下に銃を向け、拘束していた鎖を撃ち砕く。次いで戦人に銃を向け、急所にあたらないように数発撃つ。
「戦人様を殺します」
「……っ、嘉音くんだけ、見てるから……」
朱志香の心はもうボロボロだろう。虚ろな瞳に渦巻く絶望は、消せるものではないのかもしれない。
--けれど、僕はあなたに愛して欲しかった。
「だから……泣かないで、嘉音くん……」
椅子の背もたれに寄りかかっていた彼女が嘉音の胸に身体を預ける。
「ずっと前から……私も好きだったのに……ごめんな……」
「僕は……泣いているのですか?」
「私の知ってる嘉音くんは……こんなこと出来る人じゃない。本当の君は……多分泣いているんじゃないかな……」
手錠の填められた白い両手が嘉音の頬に触れる。
「大好きだよ……嘉音くん」
「朱志香……!」
朱志香、朱志香と繰り返し名を呼びながら、嘉音は彼女を抱きしめる。朱志香の手錠を外すと、彼女もおずおずと背中に手を回した。
「愛しています、ずっと愛しています!朱志香……!だから……だからっ」
「私も……ずっと愛してるぜ……嘉音くん……君の本当の名前、聞きたかった……」
「僕の、本当の名前は……」
朱志香の耳元に口を寄せ、彼がこの世に生まれ出でた本当の名前を告げた。ずっと告げたくて仕方がなかった名前。その名前を呼んで、朱志香は愛していると言ってくれた。ああ、もうこれで思い残すことはない。
戦人を殺したいと燃えさかっていた炎も、今はもう消えた。最初から彼は朱志香だけを求めていたのだから。
もうすぐ時計の針が零時を示す。時刻になってしまえばこの書斎やボイラー室、礼拝堂を中心として島中に仕込んだ爆薬が火を噴くだろう。
九羽鳥庵に逃げ込めば、3人は助かるかもしれない。ああ、けれど、もうその時間は残されていなかった。
「朱志香……未来を、与えられなくて申し訳ございません」
「いいんだ……もう、私は……」
二人で戦人のほうを見ると、彼はもう虫の息だった。これ以上苦しめる必要もないだろう。
銃を向けると、彼女がその手を優しく捉えた。
「最後ぐらい、私がやるよ……私を心配してくれて、ありがとうな、戦人。そして……さよなら」
ぱしゅん!
慈しみの顔で放たれた弾丸は戦人の心臓に着弾し、彼はこれ以上苦しむことなくこの世に別れを告げた。
それから朱志香は銃をテーブルに置き、嘉音を抱きしめた。嘉音も抱きしめ返し、彼女を抱えてベッドに潜り込むと、もう一度、今度は無理矢理ではなく、優しく、啄むだけの口づけからだんだん深く口づける。
そして、零時の鐘が鳴った。狂気の宴は終わりを告げたのだ。
命尽き果てるその瞬間まで、彼らは互いを愛し合った。
朱志香はベアトリーチェとして、南條の息子や縁寿たち遺族に慰謝料を贈っている、と言った。そして、事件を幻想風味に仕立ててボトルメールに記し、海に流したとも言った。
これで嘉音の、いや、朱志香と嘉音の真実は永遠のものとなったのだ。島が吹き飛んだことにより検死も現場検証も出来ないため、事件の真相は誰にも知られることはない。しかし、誰にも知られることのない真実で、二人の愛と嘉音の哀しい狂気は生き続けている。
1986年10月6日の夕刊の一面を飾り、当時母親の実家に預けられていた右代宮戦人の妹・縁寿をはじめとして多くの人々を悲しませた六軒島大量殺人事件。後日、18人全員の葬式が行われ、多くの友人・知人が彼らに別れを告げた。
しかし、この事件の真実は、六軒島が何らかの要因により調査不能となり、今でも明かされていない。
だから、誰も知ることはない。
籠の中の囚われの姫君を狂気に陥るほどに愛した少年と、外の世界を切望しながらも最期は狂おしいほどの愛を受け入れた少女の哀しい恋物語を……。
おわり
それだけは避けたかった。そうすれば彼女は二度と嘉音を見ようとはしてくれないだろうから。
だから、血糊を取り出して手にべったりと付ける。それをドアノブやドアにべたべたと擦り付ける。一通り擦り付けて気が済むと、ハンカチで手を拭って今度こそ書斎に戻った。
朱志香は気を失ったように眠っている。その青白い頬が、シーツを固く握りしめる両の手が、とてもとても愛おしくて、嘉音は布団ごと彼女を抱きしめた。
「ん……」
「朱志香様……」
いやいやと拒絶するように藻掻く身体を捉える。暫くそのままでいると、朱志香の小さな声が聞こえた。
「こんなことして……満足なのかよ……?」
「満足です……これで、朱志香様と二人きりになれたのですから」
「ふたり……きり……?まさかっ……!」
「紗音と譲治様と、郷田が最後の生け贄です」
「郷田さん……譲治兄さん……紗音……!!」
親友と従兄、それに親しい使用人を殺された少女の瞳には怒りやら哀しみやらが綯い交ぜになって、今は絶望が沈んでいた。その瞳から、はらはらと幾筋もの涙が流れる。
「朱志香……僕が死んでも、そんな風に泣いてくれましたか……?」
--あの文化祭の夜も、あなたは泣いてくれましたか?
それが伝わったようで、朱志香は嘉音の肩口に顔を埋めて泣いた。
「何言ってるんだよ……!泣くに決まってるだろ……文化祭の時も……泣いたよ……!」
「……僕を愛してくれますか?」
「……っ」
壊れたカセットテープみたいに何度も繰り返す台詞。たった一度頷いて、心から愛してくれればもう誰も傷つかないですむのに、朱志香は頑なに返事をしなかった。
「……僕は紗音が憎らしかった。僕の朱志香への恋心を玩具にして、陰で叶わぬ恋に落ちた愚か者と笑っていたから……あんな蝶のブローチで恋が叶うなんて言って……騙して……」
「違う……違うよ……嘉音くん……」
1人語りに朱志香が否を唱えた。
「あの蝶のブローチは……私がお守りにあげたんだ。私は物語に出てくるような魔女じゃないから本物の魔法のブローチをあげることは出来なかったけど……信じれば奇跡は起こるって……だから紗音は信じて、譲治兄さんに想いを伝えたんだ。……嘉音くんがこんなに苦しむなら、あのとき……紗音がブローチを返してきたとき、貰っておけば良かった」
「朱志香が……ブローチを……?」
「紗音に幸せになって欲しかったんだ……!」
両手と両足を拘束されたまま、朱志香はそれでも他人を想う。彼女が最初に幸せを願ったのは嘉音ではない。
紗音だ。
冷静に考えれば出会ってまだ3年ほどしか経っていない嘉音よりも、小さな頃から付き合いがある紗音のほうが優先順位が高いのも仕方がないのだが、あいにく嘉音の心は冷静になれるほどの広さが残っていなかった。
「では、紗音の代わりでもいいから……僕を幸せにしてください」
抱きしめたまま、ベッドへと雪崩れ込む。さすがに彼女も子どもではない。自分が今、どんな状況に置かれているのか理解したようで、涙を流し続けながらかたかたと震えだした。
「か、嘉音くん……嫌だっ!やめて!離してっ!」
「僕だけを見てください……僕だけを愛してください……朱志香……っ」
狂おしい恋情に突き動かされてかき抱いた身体は細く頼りなく、必死に抵抗しようとする彼女にますます愛おしさが募る。
「ずっと、ずっと愛しています……朱志香……」
「嫌っ……嫌ぁっ……助けてっ……戦人ぁっ!」
かあっ、と嘉音の胸が熱くなった。この期に及んで、未だ彼女は自分だけを見てくれない。
そう言えば、もうすぐ日付が変わる。南條と熊沢の死体も、紗音達の死体も、とっくに楼座達に発見されている頃だろう。金蔵の死体はボイラー室に放り込んで、もしかの時には燃やそうと思っていた。結局出番はなかったが。
そろそろ源次が戦人達を連れてくる頃だろう。
「朱志香……っ」
無理矢理口づけて、スカートの下のタイツに手を掛ける。
ノックが響いたのはそのときだった。
「やっ……誰か、来たから、やめて……っ」
朱志香の懇願も来訪者には聞こえない。小さく舌打ちして、タイツに掛けていた手を離すと、嘉音は彼女を横抱きにして金蔵の椅子に再び拘束した。
「失礼致します」
入ってきたのは、今現在生き残っている全員だった。楼座、真里亞、源次、そして、戦人。
「朱志香……嘉音くん……生きてたのか!?」
「最初から殺されてなどおりません」
戦人の驚愕の声に、嘉音は素っ気なく答えた。銃を構える楼座の横をすり抜けて、真里亞が金蔵の椅子に近づく。
「う~、朱志香お姉ちゃん……ベアトリーチェ。どうして泣いてるの?」
「ま……真里亞……」
「朱志香ちゃんが……ベアトリーチェ!?」
「……朱志香がベアトリーチェってことは……」
楼座と戦人の顔が険しくなる。当然だ。この殺人は六軒島の魔女・ベアトリーチェが起こした物だと結論づけられているのだから。
「朱志香様が右代宮家の当主です」
「……真里亞の……マシュマロをなおしたのは、私……暗号を解いたのも、私……っ」
か細い声で答える朱志香の頬には涙が伝っている。
「楼座叔母さん、朱志香は犯人なんかじゃねえ。」
戦人が楼座を振り返る。
「根拠は?」
冷たい声の叔母に、彼は黙って少女を戒める手錠を指さした。
「朱志香が拘束されている以上、朱志香にみんなを殺すことは出来ねえ。それにこいつは、昨日の夜俺たちと一緒にいた。反抗は無理だ」
「それもそうね……朱志香ちゃん、知っているんでしょう?兄さん達を殺したのは誰?」
問いつめる楼座に、朱志香はただ涙を流すばかりで、答えない。
「朱志香、答えてくれ!」
「……っ、それ、は……」
朱志香は怯えるように嘉音のほうを見る。彼は朱志香に歩み寄り、彼女を抱きしめた。
「僕がやりました」
「ほら、言ったじゃない……嘉音くんが狼だって!」
「何でやったんだよ!親父達を、紗音ちゃん達を殺して……何が望みだったんだ!」
「お嬢様と幸せになるためです」
戦人は涙を流しながらなんだよそれ、と怒鳴る。
「好きなら好きって、そう言やあ良いじゃねえかよ!どこにみんなを殺す必要があった!?」
「戦人様には分からないでしょう……こうでもしなければ愛する人と幸せに……結ばれない家具の気持ちなんて!分からないでしょう!」
「わかんねえよ!今の朱志香を見て、嘉音くんはこいつが幸せだと思えるのか!?」
朱志香の顔は、涙で酷い有様になっていたが、それでもなお、美しかった。
泣きはらした瞳も、煌めき流れる涙も、けして良くはない顔色も、震える唇も、全てが美しい、愛おしい。
朱志香が幸せでないことなんて、分かっている。
「今は幸せでは無いかもしれませんが、僕たちはもうすぐ幸せになれるのです」
「……何を言っているの?」
少女の髪を梳りながら嘉音は浮かされたように言葉を連ねる。その幸せな心に、楼座が無理矢理冷たい刃を突き刺した。
「あんたと結婚したって、朱志香ちゃんが幸せになれるわけ無いじゃない」
「ろ……楼座叔母さん!?」
ちらりと振り向くと、楼座は怒りによるものか、張り付いたような笑みを浮かべながら言葉を重ねる。
「あんたみたいな使用人で義務教育に行かせてやった恩も忘れて主人を殺すようなやつに、喜んで嫁げるとでも思ってるの?私がそんなやつと姪を一緒にさせるとでも思ってるの?」
「う~……ママ?」
「ま……真里亞、聞くな……耳をふさいで、小さな声で……私に歌を聴かせてくれ。そうすれば真里亞には……何も見えない、聞こえない……!」
朱志香が掠れた声でそう頼めば、真里亞は椅子と背を向けあう形で立って、歌い出した。
その間も楼座は嘉音を罵倒する。
「どうせそこにいる源次さんも共犯でしょう?最初から信用なんてしてなかったわよ、この家具どもが!……真里亞、その椅子から離れなさい。離れなさいって言ってるでしょうっ!」
「真里亞……私の……ベアトリーチェの、最後の贈り物だ……歌、ありがとう。楼座叔母さんのところに行って、絶対に離れるなよ……」
「う~……」
真里亞は歌をやめると、素直に楼座のところへ歩いて行き、衣服にぎゅっとしがみついた。
「楼座叔母さん……何を!?」
「家具どもを殺すのよ」
「なっ……!?」
「このまま恩知らずの家具どもと一緒に明日の朝までいっしょにいることなんか出来やしない。ならここで殺すしかないでしょ?」
「た……確かにそうだけどよ……ここで撃ったら朱志香だって危ないんだぞ!?」
狼狽えて楼座を止めようとする戦人に、朱志香は嘉音の身体越しに疲れたような声で呼びかけた。
「戦人……もう、良いんだ……私が悪いんだ……私が……っ!だから……叔母さん、私も……殺して……!」
「朱志香は悪くありません」
「朱志香は悪くなんかねえよ!」
奇しくも嘉音と戦人は、同じ台詞を吐いていた。悪いのは朱志香じゃない。
「私が……嘉音くんの想いに応えなかったから……」
「朱志香ちゃん、騙されちゃダメよ。こんな家具の気持ちに応えて、だから何だっての?遊びにしかならないじゃない!」
そして、楼座がウィンチェスターを構え直す音が響いた。
「やめろよ、楼座叔母さん!別の部屋に隔離すればいいだろ!」
「戦人くんは黙ってて!」
ヒステリックな応酬。
使用人を殺す気であるのは確実で、まず楼座が狙うのは、間違いなく嘉音だろう。
応酬が続いている間に、少女の頭を片手で抱きしめて、サイレンサー付の銃を取り出し、残り少なくなっていた弾倉を交換する。
「家具なんかと一緒にいられるもんですか!死ねぇっ、家具どもがぁぁぁぁ……」
ぱしゅん。
ウィンチェスターの引き金を楼座が引く前に、彼女の額に銃弾が埋まる。
ぱしゅん。
ぱしゅんぱしゅんぱしゅん。
「か……嘉音、くん……!?」
「楼座叔母さん!!」
「ママ、ママぁっ……!ママぁぁぁっ!う~!う~!う~う~う~!!!!」
顔を嘉音の胸に押しつける形になっている朱志香は分からない。
「楼座様が、死にました」
「なっ……」
「てめえ、他人事みたいに……!」
怒りに任せて吼える戦人を、源次が制す。
「戦人様、お静かに」
「でもよ、源次さん!」
「お静かに」
押し黙る戦人は、人が死んでから初めて涙を流して遺体に縋り付く真里亞を抱きしめる。
「朱志香……僕を愛してくれますか?」
「愛す……愛すよ……嘉音くんを……愛すよ……だからっ……だからもう、これ以上は……!」
涙を流して頷く朱志香の目元に軽く口づける。嘉音は初めて、自分の心が満たされた気がした。
「ありがとうございます……朱志香」
「うわあぁぁぁぁ……ママぁぁぁ……っ!」
真里亞の大泣きする声が聞こえる。戦人の慌てたような声が聞こえたから、楼座のそばにでも行ったのだろう。
真里亞はともかく、戦人は体格が良い。格闘で来られたらまず勝てないだろう。
だから、真里亞ではなく、戦人の足を撃った。
ぱしゅん。
「ぐああぁぁっ!?」
「戦人っ……!?」
ぱしゅん。
両足に一発ずつ打ち込まれ、これで彼は動くことなど出来ないだろう。
「さあ、朱志香」
抱きしめていた少女の身体を解放する。
「戦人っ……それっ……」
「朱志香……すまねぇな……お前のこと、助け出してやれなくて」
「っ……戦人……そんなこと、どうでもいいんだよ……!源次さん、手当てしてやってくれよ!」
しかし彼女の言葉に、源次は首を横に振る。嘉音が銃口を向けているのに気づいたからだろうか。
「お嬢様……昨日までの日々、楽しゅうございました。……ありがとうございます。では……先にお暇を頂きます」
「源次さん!?止めてっ、嘉音くん!!」
ぱしゅん。
ぱしゅん。
「源次さん!」
ゆっくりと頽れていく源次を目の当たりにして、二人が叫んだ。
「やめて……やめて!嘉音くん!もう、こんなことしないで!」
拘束された両手で必死に縋り付く彼女に、嘉音は優しく笑いかける。彼女は人の死んでゆく様を目の当たりにしてなお、戦人と真里亞を守ろうとしている。それが嘉音には面白くない。
いや、ずっと、朱志香が戦人の、他人の話をするのが気にくわなかった。
--こんなに朱志香を愛しているのは僕だけなのに……!
「朱志香……僕だけを、僕だけを見てください。僕だけを愛してください。その瞳に、僕以外の者を映さないでください」
朱志香はがくがくと頷くだけだ。
「ありがとうございます……さあ、朱志香。この鳥籠から、共に出ましょう。ずっと一緒にいましょう」
「朱志香っ!」
呼び声に彼女は戦人のほうを見る。彼は足の動かなくなった身でありながら、六軒島の、今は嘉音の囚われの姫君に力強く手を伸ばしていた。
「戦人……ごめんな、ありがとう」
彼が見たのは、従姉妹で白き魔女だった姫君のはかない笑顔だったのかもしれない。絶望に震えた目をしていたから。
--朱志香は僕のものだ!
ほんの少しの愉悦と、それを大きく上回る憎しみの炎が嘉音を支配する。
「……戦人様。僕はあなたを一番殺したかった」
「嘉音くん!?」
「朱志香の魔法を否定したあなたが許せなかった。朱志香を傷つけて、のうのうとこの島に帰ってきたあなたが憎かった」
「ちょっと待てよ!俺はのうのうと帰ってきた訳じゃ……」
「いいえ。右代宮家を捨て、朱志香を裏切り、傷つけて……そこにいかなる理由があろうとも、それは言い訳にしかなりません。それなのに、帰ってくると聞いただけで朱志香は笑顔になられた。戦人様は朱志香を裏切った罪人なのに、朱志香様はどうして笑っていらっしゃったのか、姉さんに聞きました。許すつもりか、魔法を認めることを願っておられるかだと聞きました。ですが!」
朱志香がびくりと震える。
「僕は、あなたを裏切った罪人を、あなたの鳥籠となった裏切り者を、どうしても許すことが出来ませんでした、朱志香」
「もう……いいよ、もういいよ、嘉音くん……!」
「その後はあなたに愛して貰うために、親族の皆様を手に掛けました。真里亞様の封筒を二度すり替え、礼拝堂の鍵を手に入れました」
「あれは……そんなものだったのかよ!?伝説の魔女様からの真里亞と楼座叔母さんへの幸せの贈り物じゃなかったのかよ!?二人の黄金郷への……招待状じゃなかったのかよ……!?」
「騙して申し訳ありませんでした。けれど、僕はあなたを手に入れたかった。あなたに愛して欲しかった。そして、右代宮戦人が苦しんで死ねばいいと思いました。それからは朱志香の知っているとおりです」
戦人は何も言わない。
「……真里亞様。あなたがジェシカ・ベアトリーチェ様とお約束なさった黄金郷、僕が差し上げましょう」
真里亞が振り向き、まだ何も言わないうちに銃弾を撃ち込んだ。
「真里亞ぁぁぁぁっ!」
「朱志香……あなたが僕だけを見てくださらなければ、」
朱志香の足下に銃を向け、拘束していた鎖を撃ち砕く。次いで戦人に銃を向け、急所にあたらないように数発撃つ。
「戦人様を殺します」
「……っ、嘉音くんだけ、見てるから……」
朱志香の心はもうボロボロだろう。虚ろな瞳に渦巻く絶望は、消せるものではないのかもしれない。
--けれど、僕はあなたに愛して欲しかった。
「だから……泣かないで、嘉音くん……」
椅子の背もたれに寄りかかっていた彼女が嘉音の胸に身体を預ける。
「ずっと前から……私も好きだったのに……ごめんな……」
「僕は……泣いているのですか?」
「私の知ってる嘉音くんは……こんなこと出来る人じゃない。本当の君は……多分泣いているんじゃないかな……」
手錠の填められた白い両手が嘉音の頬に触れる。
「大好きだよ……嘉音くん」
「朱志香……!」
朱志香、朱志香と繰り返し名を呼びながら、嘉音は彼女を抱きしめる。朱志香の手錠を外すと、彼女もおずおずと背中に手を回した。
「愛しています、ずっと愛しています!朱志香……!だから……だからっ」
「私も……ずっと愛してるぜ……嘉音くん……君の本当の名前、聞きたかった……」
「僕の、本当の名前は……」
朱志香の耳元に口を寄せ、彼がこの世に生まれ出でた本当の名前を告げた。ずっと告げたくて仕方がなかった名前。その名前を呼んで、朱志香は愛していると言ってくれた。ああ、もうこれで思い残すことはない。
戦人を殺したいと燃えさかっていた炎も、今はもう消えた。最初から彼は朱志香だけを求めていたのだから。
もうすぐ時計の針が零時を示す。時刻になってしまえばこの書斎やボイラー室、礼拝堂を中心として島中に仕込んだ爆薬が火を噴くだろう。
九羽鳥庵に逃げ込めば、3人は助かるかもしれない。ああ、けれど、もうその時間は残されていなかった。
「朱志香……未来を、与えられなくて申し訳ございません」
「いいんだ……もう、私は……」
二人で戦人のほうを見ると、彼はもう虫の息だった。これ以上苦しめる必要もないだろう。
銃を向けると、彼女がその手を優しく捉えた。
「最後ぐらい、私がやるよ……私を心配してくれて、ありがとうな、戦人。そして……さよなら」
ぱしゅん!
慈しみの顔で放たれた弾丸は戦人の心臓に着弾し、彼はこれ以上苦しむことなくこの世に別れを告げた。
それから朱志香は銃をテーブルに置き、嘉音を抱きしめた。嘉音も抱きしめ返し、彼女を抱えてベッドに潜り込むと、もう一度、今度は無理矢理ではなく、優しく、啄むだけの口づけからだんだん深く口づける。
そして、零時の鐘が鳴った。狂気の宴は終わりを告げたのだ。
命尽き果てるその瞬間まで、彼らは互いを愛し合った。
朱志香はベアトリーチェとして、南條の息子や縁寿たち遺族に慰謝料を贈っている、と言った。そして、事件を幻想風味に仕立ててボトルメールに記し、海に流したとも言った。
これで嘉音の、いや、朱志香と嘉音の真実は永遠のものとなったのだ。島が吹き飛んだことにより検死も現場検証も出来ないため、事件の真相は誰にも知られることはない。しかし、誰にも知られることのない真実で、二人の愛と嘉音の哀しい狂気は生き続けている。
1986年10月6日の夕刊の一面を飾り、当時母親の実家に預けられていた右代宮戦人の妹・縁寿をはじめとして多くの人々を悲しませた六軒島大量殺人事件。後日、18人全員の葬式が行われ、多くの友人・知人が彼らに別れを告げた。
しかし、この事件の真実は、六軒島が何らかの要因により調査不能となり、今でも明かされていない。
だから、誰も知ることはない。
籠の中の囚われの姫君を狂気に陥るほどに愛した少年と、外の世界を切望しながらも最期は狂おしいほどの愛を受け入れた少女の哀しい恋物語を……。
おわり