2/12のオンリーの無料配布本でした。ヴァレンタインネタということでそこまで部数を持って行けずに申し訳ございませんでした。
考えているときは非常に楽しかったですが、書いているときはまた違った意味で楽しかったです。
では、どうぞ。
エンジェル・キス
ホープ・エストハイムが街角でそれを見つけたのは偶然だった。硝子のショウウィンドウの中に飾られた、美しい箱。光沢を放つ厚紙の箱の中には、プラスティック製のトレイの中に艶々とした色とりどりの塊がいくつも収まっている。
「……ああ、そういえば」
今日だったな、と思い出す。ヴァレンタイン・デイのことだ。きっと家に帰れば薔薇色の髪の恋人が、東国式にチョコレートを用意して待っていてくれるだろう。
「買い物して帰ろう」
一年に一度の恋人たちの日。いつもは小出しにしている溢れんばかりの愛を、今日ばかりは全部差し出したって罰は当たらないだろう。お決まりの薔薇の花束もいいけれど、特別なものを買って渡したい。それが何かはまだ決めていないけれど。
「エクレールさん、喜んでくれるといいな」
マーケットへと続く道を歩く足取りは心なしか軽かった。
マーケットはヴァレンタイン・デイであるということも手伝ってか、特に花屋が混んでいた。何軒も立ち並ぶ花屋の軒先には、何種類もの薔薇の花がバケツに入れて飾ってある。つまるところはこれを買って恋人や家族に渡せ、ということだ。その中の一軒に入れば、この時期には珍しく空いている。客はグレーのスーツを着た恰幅の良い紳士だけだ。その客の注文だろう、ピンク色の薔薇を花束にしている青年がホープにいらっしゃい、と声を張り上げた。いつも贔屓にしている花屋で、エクレールへの贈り物に花を買うとなればこの店に来ているためかすっかり顔を覚えられている。軽く手を上げれば、快活な笑顔が返ってくる。
「繁盛しているみたいですね」
「勿論! 今日はやっぱり薔薇が売れてるよ。ピンクの薔薇は特によく売れるし、早いとこ決めないと売り切れるからね」
言外にさっさと決めろと言ってくるあたり、この青年もなかなか商売がうまい。……とはいえいつも花の種類から色から本数までたっぷり数十分は悩んでいるから、今日ばかりはそんなに時間をかけてくれるなということだろうか。
「今日はもう決めてあるんだ」
「へぇ。……あ、ムッシュ、お待たせしました」
青年が紳士に声を掛ければ、彼はありがとう、と穏やかに笑って花束を受け取る。
「幸せな奥様によろしく」
「ああ、今日は妻が鳥の丸焼きを作っているはずだからね。早く帰らなくては」
くるりと店員に背を向けた紳士は、ふとホープのほうに目を向ける。
「やあ、恋人に贈り物ですか?」
「え、ええ。早く結婚したいんですが、なかなか頷いてもらえなくて。知り合ってから大分になるんですがね」
「ほう」
言っていることは間違っていない。あの夏の日、ファルシ=アニマの遺跡の中で初めて出会ったときから気の遠くなるほど長い時が流れた。実に千年以上だ。運命に抗い、ホープ自身からすべてを奪った絶望に耐えて進み続け、気が付けばブーニベルゼの手駒……かの神が現人神になったときの器となっていた。それでもあの世界の終わりに、ホープの光があった。暗い混沌の淵に沈んでいた魂を掬い上げ、神の呪縛を切り裂いた、眩く輝く一条の閃光。
あの世界の終わりを見届け、そしてこの世界に生れ落ちて実に二十九年の時が経った。もうすぐ三十歳になるホープには今、最愛の人がいる。かつての自分が見たら大層羨むだろう。何せヴァイルピークスでオーディンから守ってくれたあのときからずっと恋をしていた人と……ライトニングと同棲しているのだから。
「嫌われているわけではないと思うんですけどね」
「なるほどなるほど。……私の妻もなかなか結婚には頷いてくれませんでしたよ。ま、親から決められた婚約者など乗り気はしなかったでしょうが、ね」
あなたも? と聞かれて、ホープは首を横に振る。
「僕は、彼女との恋は運命だと思うんです。今も昔も、他の女性に心が動かない。彼女ただ一人が、僕を惑わせるんです。……だから、きっと僕が僕として生まれる前から、彼女は僕の運命の相手だって思うんです」
「ほう。親から決められた相手ではないのですか」
「ええ。……僕が、自分で好きになったんです」
紳士はたっぷりと蓄えられた髭の向こうで笑う。
「それならば、その方とたっぷり話し合うとよいでしょう。私と妻もそうして分かり合ってきました。たまには美味しいカクテルを作ったり、大きな花束を買ってみたり。……そうそう、今日はヴァレンタイン・デイですからね、飛び切り大きな花束を御上げなさい。運命の相手と仰るのですから、神がきっと導いてくれましょう」
「……そう、ですね」
少しだけ口元を綻ばせれば、紳士は穏やかな笑みのまま、では、と言って店を出て行った。あとに残されたのは店主の青年とホープだけだ。同じようにぼんやりと後姿を眺めながら、青年が口を開く。
「あの人、毎年買ってくんだよ。それこそうちの親父の代からね。……で、注文は?」
「一番赤い薔薇を千本」
「そんなに入荷してない。赤いのも人気があるから、いくらお得意さんって言ったってせいぜい百本だな」
百本もあれば十分だろ、と快活に笑う店員に、それもそうですねと頷いてから、ホープはもう一つ注文を付けた。
「青い薔薇も一本包んでください」
「一本でいいのかい? 何なら五本くらいまとめようか? 値は張るけど」
「いや、一本でいいです。また青いのも千本買いに来るから」
「花束にするのが大変だからやめてくれ。じゃ、会計先で。……それで、結婚、まだしてないんだ?」
カードをレジに通し、てきぱきと百と一本の薔薇をバケツから取り出しながら店員が問う。残念ながら、という答えはホープの本心だ。ライトニング……エクレールとはなかなか会えなくて、二年前の初夏に再会したことをきっかけに同棲を始めた。籍を入れていないことを除いてはもう夫婦と変わらない。
「僕は早く結婚したいんですけどね」
「まぁ、まだ若いから。事実婚のカップルだって珍しくないし、子ども出来るまで待ったらいいんじゃないか? ほら、さっきの人だって子どもができてやっと入籍したんだよ」
この国ではホープたちのような事実婚をしているカップルは珍しくない。青年の言うように子どもができてからやっと入籍する、というカップルだって多いくらいだ。でも、とホープは首を振る。
「それじゃあ、駄目なんだ」
「ふぅん? 青いほう、カスミソウもつけとくよ。リボンはいつものピンク?」
「赤いほうは白で」
「はいはい。……で、なんで駄目なんだい」
「どこにも行ってほしくないから」
「さっき運命だって言っただろ」
いつものように見事に包まれていく薔薇の花をぼんやりと見つめながら、ホープは口を開いた。
「昔、彼女が突然いなくなったんです。探して探して、でも結局見つからなかった。……だからかな、ふっと消えてしまいそうな儚さがあって。でも、彼女の傍にいていいのは家族と僕だけだって、確信もあって」
「んじゃあさっさと指輪でも買えばいいだろ」
「指輪はもう買ってあります。ピンクダイヤにプラチナのをオーダーメイドで」
ぶは、となぜか店員が噴き出す。憮然としていれば、たちまち店内に笑い声が響き渡る。
「なんですか」
「気合入りすぎ」
「そりゃあ、今年こそって思うでしょ」
まぁそうだよなぁ、と頷いて、店員は見事に百本の薔薇を花束に包んでくれた。
「ま、カクテルでも飲みに行ったらどうだ? いい店知ってるから教えるよ」
「……いや、自分で作ります」
エクレールと再会する前に、一度だけカクテルのつくり方を勉強したことがある。プロのバーテンダーと同じようには作れないが、それでも分量をきちんと守れば美味しく飲めるものが作れたはずだ。
「作れるの」
「作れますよ。彼女の前では出来ないことも出来るって言いたくなりますけど、これは本当に。少しでもできないことをなくしておきたかったから勉強しました」
「へぇ。……じゃ、これでうまくプロポーズしてくれよ。結婚式のブーケはうちに注文してくれ。専門じゃないがちゃんと作れるからな」
ほら、と渡された花束はずっしりと重い。ニッと笑った顔は髭面でも暑苦しくもないのに、どこか恋人の義弟を思い起こさせる。同じことを相談したら、きっと彼もそういってくれるに違いない。そう思えば自然と笑みがこぼれた。
「きっと頼むよ」
カクテルの材料を買って帰ろう、とふんふん鼻歌を歌いながらホープは店を後にした。
我が家に帰りつくと、電気が点いていた。エクレールが帰っているのだ。嬉しくなって薔薇の花束とカクテルの材料を抱えなおしてドアベルを鳴らす。
「はい……どうしたホープ」
がちゃりとドアを開けてくれた恋人は、ホープの大荷物に眉を顰める。
「いやだって今日バレンタインですよ」
「それは知っているが」
「僕なりに頑張ってみようと思いまして」
「それでこの大荷物か」
「そうです」
全く、とエクレールは溜息を吐く。それでも花束からは目が離せないらしく、じっと見つめる眼差しにはどこか期待の色が滲んでいる。
「これですか?」
「え、あ、いや」
慌てて視線を逸らそうとする彼女の腕に、ずっしりと重い花束を乗せる。アクアブルーの瞳が、ぱちりと見開かれた。
「本当は千本ぐらい包んでほしかったですけど、今日のところはこれで。それと、これも」
「……千本も包んでもらったら、花瓶が足りなくなるだろう」
駄目押しのように抱かせた青い薔薇の花束も一緒にぎゅっと抱きしめて、それでもエクレールは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、ホープ」
「ふふ、よかった」
嬉しくなってにこにこと笑っていれば、彼女はくるりと踵を返してリビングへと向かう。あとに続けば、豪勢なディナーが待っていた。たった今焼き上げたばかりのような鳥の丸焼きが大皿で湯気を立てており、その周りにはパンに魚介たっぷりのブイヤベース、色とりどりの野菜が乗ったサラダが用意されている。食器はホープの記憶に間違いがなければ同棲を始めたときにかつての仲間たちから贈られたちょっとお高めのブランドものだったはずだ。
「エクレールさん」
「今日は休みだったから……頑張って、みたんだ」
前の世界、ノウス=パルトゥスにいたときに、確かにエクレールの料理が気になる、という話をしたことがあった。ホープがホープでなくなる前に、一度でいいから食べてみたいという意味合いではあったものの、当時の彼女には中の下だと返されてしまったのをよく覚えている。さすがに同棲してからはもう何度も手料理を食べているけれど、大抵ホープも彼女に自分の料理を食べてほしくて一品は作っていた。だからすべてのメニューを作ってもらうのは初めてなのだ。
「嬉しい」
「デザートはちゃんとチョコレート、用意してあるからな」
「嬉しいです!」
早くご飯食べましょ、と自分の部屋にコートを放り投げてローテーブルのソファーに腰かける。ふとワイングラスを見て、作りたいものがあることを思い出した。
「ね、エクレールさん。カクテル、作ってもいいですか」
「カクテル? 作れるのか」
本当になんでもできるな、と溜息を吐きながら、それでも彼女は快諾してくれた。よぉし、と袖を捲り上げて紙袋の中から材料を取り出す。キッチンの棚からチューリップ型のシェリーグラスを二つ取り出し、グラスの半分より少し上までクレーム・ド・カカオ(カカオリキュール)を注ぎ入れる。それから静かに生クリームを注ぎ、赤く透き通ったマラスキーノチェリーを細長いピンに刺してグラスの上に乗せる。ピンが転がり落ちないように注意しながら運んで、とんとエクレールの目の前に置いた。
「エンジェル・キスです」
「お前な」
「カルアミルクのほうがお好きですか?」
顔を覗き込んで微笑むと、エクレールの頬が赤く染まる。きっと眉を吊り上げて睨まれても、可愛らしくて頬が緩んでしまう。
「そういう女を口説くようなカクテルを作りおって。この間一緒に飲みに行ったときもそういうものを頼むし、大分慣れてるだろ」
「こういうのはエクレールさんだけに、ですよ。誰にもしません」
さっと視線を逸らすさまも可愛らしくてたまらない。昔はしなやかなばねをもつ猫科の動物を思い起こさせるところがあったが、今こうして共に過ごしてみれば、可愛らしい子猫のようだ。猫耳としっぽが印象的なミコッテの衣装がよく似合っていたのも頷ける。
「せっかくエクレールさんが作ってくれたご飯、食べましょう」
乾杯、とグラスを合わせて、ピンに刺さったチェリーをグラスの淵を使って先端に寄せる。
「これ、いったん底までチェリーを入れるんですって」
「あぁ、知ってる。……引き上げると模様が浮かぶんだろ?」
何で知っているんですかと声に出せば、大学の友達に聞いた、と彼女は答えた。
「たまに飲み会にも顔を出していたからな。そういうネタはよく聞いていたよ」
「なんですって」
そんな話は今初めて聞いた。
「二次会は安いバーだぞ? まぁ、酔っ払いに絡まれる前に逃げていたから何もなかったがな」
「む……今度からは、僕が作りますからね」
エクレールは一瞬ぽかんとホープを見つめたが、すぐにふいと視線を逸らしてしまった。
「……期待、している」
「はい! 任せてくださいね」
グラスの底に沈めたピンをゆっくりと引き上げれば、生クリームの層にカカオリキュールが模様を作った。
「あ、僕のは薔薇です。エクレールさんは?」
「私のも薔薇だ。……結構甘いカクテルだよな、これ」
「甘いですね」
「……ディナーには会うかわからんな」
もう、と呆れたような声に笑顔で返して、甘いチョコレートのカクテルを口に含む。甘くてまろやかな液体を飲み下せば、一口飲んだエクレールが、それでも幸せそうにくすりと笑った。
「甘い」
「甘いです」
「次はミント系のカクテルがいい」
「ちゃんと材料も買ってありますよ」
でもその前に、とグラスを置いて、チェリーと同じ色をした唇に己のそれを押し当てる。エクレールも心得たようにグラスを置いてくれるのが嬉しい。
「ん……」
唇を割って舌を差し入れて、彼女のそれと絡めれば、口の中で温められたアルコールとチョコレートの香りがする。
「ん……っ、ふ、ぁ」
ぴちゃりと鳴る水音が、早くベッドへ行きたいという本能を刺激する。思う存分絡めあい、唇を解放すれば、息も絶え絶えといった風なエクレールが、うるんだ瞳でホープを睨んだ。
「お前は」
「すみません、つい」
「ついじゃない……まったく、食事にするんじゃないのか」
赤く染まった頬で、艶やかに笑うその表情に、ホープはしばし見惚れた。この上なく情欲を煽る表情でありながら、限りなく清らかなこの女神に、自分は何度でも恋に落ちる。そう確信すれば、唇から何度目かのプロポーズがこぼれ落ちた。
「ね、結婚しましょう。あなたの一生を、僕に欲しいんです」
薔薇色の髪の麗しい天使が微笑んで、唇への短いキスが返ってきた。
「その言葉が、欲しかった。……愛してる」
おわり
本書をお手に取ってくださりありがとうございました。
「エンジェル・キス」のカクテル言葉は、「あなたに見惚れて」です。
参考文献(敬称略)
・カクテル言葉:http://cocktailkotoba.nomaki.jp/recipe/angelkiss.html
・Wekey TOYAMA 特集『本命と飲みたい!クリスマスにぴったりなカクテル特集』:http://toyama.wekey.be/static/sp/christmascocktail
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
「これで二日分くらいか?」
どさりと重たい紙袋をテーブルの上に置いてエクレールが問う。普段一人暮らしだから、二人とも二人分の感覚が掴めない。
「そうですね、また買出しに行かないと」
「……悪いな。泊り込みにしなければよかったか」
その声がなんだか気まずそうで、思わず苦笑いをこぼす。
「大丈夫ですよ。……あなたがここにいてくれるなら、食料の買出しぐらい朝飯前ですよ」
「食材ぐらい私の家からもってきてもよかったのに。……調味料とか」
足の早い食材があるなら、と思わなかったわけではない。そうしなかったのはひとえに、二人の生活がよく似ていて、エクレールの家の冷蔵庫に調味料ぐらいしかないという自己申告があったからである。職場が同じだから買出しのサイクルはどうあがいても同じになる。おまけにワーカーホリックの気があるホープに合わせて出勤していれば、たまの休みにしか料理をする機会がないのだろう。
その自己申告に申し訳ないとは思いながら、調味料は彼女の二週間後の生活のためにとって置いてもらうことにした。
「生物は入っていないんでしょう? それに……僕たち、恋人じゃないですか。本当は今すぐ結婚したいくらいなんですから、遠慮しないで」
「……そうか」
ふいと紙袋の中のレモンに視線を移した彼女の横顔が、うっすらと染まっていた。こういう瞬間に、愛されていると実感する。心の底から温かくなる幸せを噛み締めながら、次の買出しを促した。
「エクレールさんの、買いに行きましょうか」
「……ああ」
家を出て、今度はマーケットに向かう道を逸れて日用品を売っている店に入る。必要なものを買った後は、隣のブティックで白いワンピースを一着購入する。ついでその隣にあるランジェリーショップの前で、二人は足を止めた。入りますか、と聞けば、彼女は「私はな」と頷く。
「女物の下着しかないから、外で待っていればいいんじゃないか?」
「一人で待てというんですか」
そんなの絶対に嫌です、と駄々をこねていると、視界の端に一組の男女が写り込む。手に持っているのはハンドバッグ一つの女性のあとを大きな紙袋をいくつも持った男性がよろよろとついていくといった様子だが、おそらく女王様と憐れな下僕の図ではなく、いたって健全なカップルだろう。
「ほら、さっさと歩きなさいよ」
「こんなに荷物があったら無理だよ……」
理不尽ともいえる遣り取りをしながら、女性は二人の傍をすり抜けてランジェリーショップの前で立ち止まる。
「んもう、はーやーく!」
「まだ買うの!?」
当たり前でしょ、と店の中に入っていく女性に続いて、男性もそれが当然というように入店する。それをたっぷり見届けて、エクレールのほうを見る。
「……」
「……あの」
「なんだ」
「僕も入っていいですか?」
「……」
エクレールは渋い顔をしてたっぷり悩んだ後、一言仕方ない、とため息をついた。
「行くぞ」
彼女の後についてドアをくぐると、やたらピンク色の目立つ内装が目に飛び込んでくる。ファンシーな模様で彩られた壁にはもちろん色とりどりの下着が陳列されていて、客である女性たちが物色していた。
「あんまりきょろきょろするなよ」
エクレールの忠告にはい、とよいこの返事をして、彼女のほうにある下着に目をやった。そういう店だけあってさすがにデザインも色もたくさんある。普段エクレールが着用している下着に関しては、ホープが手縫いしたものをプレゼントしたって罰は当たらないのではないかと常々思ってはいるのだが、こうして専門店で見てみると、市販のものも悪くないと思えてくる。
(でもこれなら多分、僕も作れると思うんだけど)
ということは、今は言わないことにする。代わりにちょっと可愛いなと思ったセットを手に取った。黒の総レース下着で、肩紐とブラカップやとても面積の小さいいわゆるTバックと呼ばれているショーツの周りにふんだんに細かなフリルがあしらわれている。どうしてこれがただのランジェリーショップにあるのか首を傾げたいところではあるが、似合いそうだ。フリル付きのガーターベルトがついているのがなお良い。
「僕、これとかいいと思うんですよ」
「却下」
「何でですか!」
「当たり前だろ! そんな紐みたいな下着、絶対着ないからな!」
紐みたいとは言うが、紐よりはずっと布面積があるはずだ。だが絶対に着ないといわれてしまっては仕方がないと棚に戻す。その代わりといってはなんだが、くるりと見回して目に付いた下着を手に取る。
「これはどうですか? 似合うと思うんですが」
「……おまえな」
こちらは白のシルク製の上品な下着だ。よく見るような布面積のブラジャーにも、サイドリボンのショーツにも、ついでにガーターベルトにも可愛らしいレースと細かなフリルがふんだんに使われた一品である。布面積もさっきのものよりもたくさんあり、肌触りもいいはずだ。
「駄目ですか?」
「何でお前が選んでいるんだ。私の下着なんだから好きに選ばせろ」
「そんなぁ……」
そんな風に駄々をこねていると、不意に女性たちの声が耳に飛び込んできた。
「ねぇ、あれ、エストハイムさんじゃない?」
「えぇ、誰それ? あの人、カッコいいけど」
「あんた知らないの? ほら、この間月刊レムリアの表紙にグラビア載ってたじゃない」
「ああ、あの人が……。ちゃんと名前なんか見てないから覚えているわけないでしょ。でもなんでこんなところに?」
どうやら月刊レムリア……先月表紙を飾り、巻頭に論文を寄稿した社会人類学系の雑誌の読者らしい。まぁ、確かにホープ一人だったら女性物の下着屋なんかに入ったりしないだろう。
いいでしょう、僕の恋人とデートなんですよ~、とホープは下着を持ったまま一人で浮かれていたが、次に聞こえてきた言葉に眉間に皺を寄せた。
「っていうか、女連れ? ほら、 あれ」
「えぇ、本当? やだあれ誰?」
「私エストハイムさんが勤めてるの近くの研究所だって言うからちょっと狙ってたのにぃ」
「あんたこの間も銀行マンにおんなじようなこと言ってたでしょ。……でもまぁ、あの人も美人かもしれないけどさ、こういうとこに連れてきて見せびらかすとか、ちょっとないよね」
その心無い、大して隠した音量でもない密談は、当然エクレールの耳にも届いていたらしい。形のよい眉を少し顰めて何も言わずに下着を選び始める。
「……ごめんなさい、エクレールさん」
「気にするな。いつものことだろう」
「いつも、って」
「ホープのことだから隠してはいないのだろう、とは思うんだが、どうも隠していると思われているみたいだ。……もっともここに入って最初の頃はお前を色仕掛けで落とした、なんていわれたこともあったからな。……最近はなんだ、お前の婚約者? って言うのが浸透してきたみたいで週刊誌に売りつける、とか言われることもある。さぞかし高値で売れるんだろうな。なかなか女っ気のない、噂も聞かないスキャンダル知らずのイケメン研究者だから、ってな」
「そんな」
「色仕掛け云々はそうとられてもおかしくはないだろうし、週刊誌は載せられたところでホープの逃げ場がなくなるだけだからな」
淡々とこちらを見ないままに答える彼女は、静かに憤っているようにも見える。確かに自分の下心満載で彼女を就職させたことは否定しないし、確かに週刊誌に書きたてられたところでホープとエクレールは正真正銘の恋人同士なのだから痛くも痒くもない。むしろホープなどは大々的に公表してしまえとさえ思っているのだが、それが伝わらないのが不満といえば不満であるし、ホープ自身に直接言わずにエクレールに言うあたりに、特別腹が立つ。
「とりあえず、そういう人間を排除できる力がないのがつらいところですね」
「手段を選ぶ気のない発言はやめたほうがいいぞ。これからの進退にかかわる」
そんな遣り取りをしている間にも、野次馬の声が耳に障る。
「あれ、でもエストハイムさんって婚約者いなかったっけ? ほら、秘書だか助手だかっていう」
「えぇ、嘘、じゃあ浮気?」
「え、本人じゃなくて?」
「婚約者ならもうちょっと隠すでしょ! えぇ、やだぁ、エストハイムさんそんな人だったなんて、ちょっと幻滅」
婚約者本人ですが何か!? と文句を言いたい気分でいっぱいになっているところに、さらなる追い討ちがかかる。
「それもう週刊誌に売っちゃえば? ほら、週刊センなんとかみたいな」
写真撮って売っちゃえば? なんて面倒くさそうに密談をしている女性たちに、否応にもふつふつと怒りが沸いてくる。
何年この幸せを望んでいたと思っているのか。千年越えだ。自発的に週刊誌に垂れ流すぶんには問題ないのだが、二人のことをまったく知らない人間に垂れ流されれば、事実の歪曲は免れない。色仕掛けとか、週刊誌に売るとか、そんなことを彼女の口から言わせたくなかった。言わせるつもりもなかった。
「……それで、聞きたいんだが。婚約者ってなんだ。まだ私たちはそこまでじゃないだろう? 勝手に言いふらしていたのか」
その問いには堂々と胸を張る。まだ冗談めいたプロポーズしかしていないが、そう遠くない未来にそうなる予定だからである。
「ええ。僕が勝手に言いふらしていました」
「何故だ? ……私に一言も相談せずに」
「どうしても一緒にいたかったから。……僕の婚約者、っていうことにすれば、他の人間に言い寄られることもないでしょう?」
「だが、現にお前は言い寄られているだろう? なんの効果もなければ、無理に嘘をつく必要もないと思うが」
いくらエクレールに言い寄る男がいなくなったとしても、ホープ自身に付き纏う人間がいる限り、安泰とは言いがたい。それをすっかり忘れていた。憤りも怒りも、彼女に言葉の刃を投げつけた人間たちだけに向かうものではない。今彼女に告白されるまで知るすべもなく、外野共にそんな好き勝手な憶測を言わせるままで、有効な対策すら立てられなかった自分に対して向いていた。
「ごめんなさい。僕が知らなければならなかったのに。……こんなに一緒にいるのに」
「私が言わなかっただけだ。……お前の研究を妨げたくないし、もう慣れた。他に婚約者も秘書もいないんだろう?」
「当たり前ですよ! 僕にはあなただけです。あのときから……あの、ヴァイルピークスであなたが守ってくれた時から、ずっと、永遠に」
それは愛が重いな、とエクレールが笑った。その柔らかな身体をぎゅっと抱きしめて、囁く。
「あなたと恋人同士、というものを楽しんでみたかったんです。だから外堀から埋めるようなまねをしたんです。……でも、いっそのこと、週刊誌に僕から垂れ流してしまいましょうか」
それを聞いたエクレールが呆れたように仕方ないなと溜め息を吐く。
「私は玄関先で張り込まれるのはごめんだな。お前の家に張り込ませればいいんじゃないか?」
「そうしたら僕の家でお泊り出来なくなっちゃいますよ」
「じゃあ、うちに来るか? お前の家で出来ないなら、……まぁ大分狭い部屋だが私の家ならまだマシだろう。すぐにはマスコミも気が付かないだろうし。……隣人の声はたまにうるさいがな」
彼女の住むアパートは、この国のアパートにはよくあることだが壁が薄いらしい。騒いでいる声も何もかもが聞こえるため、たまに耳栓を使っている……というのはエクレールの言である。そんなに壁の薄いアパートに住まわせて、ホープとしてはセキュリティやプライバシーが心配で心配でならないのだが、同じ職場の同じ研究室、室長と助手という関係のせいでなかなか同居に持ち込めない。
「……やっぱり一緒に住みましょうよ。それで週刊誌の張り込みが来たら惚気ましょうよ。そういうの夢だったんです」
「だから転職する気はないって言っているだろ」
「転職しないで僕と一緒に住みましょ?」
「それはいろいろうるさいだろ、外野が」
外野なんてどうでもいいです、とさらにぎゅうぎゅうエクレールを抱きしめていると、白い指先が腕をはたいた。
「どうでもよくはないだろ。……それで、結局私はその下着を買わなきゃいけないのか?」
つやつやと光る紅い唇が、まるで誘うようにホープの近くに寄せられる。普段外でこんなことしないのになぁと嬉しく思いつつ顔を寄せると、外野がうそぉ、と悲鳴が上がる。
(こそこそするんなら、もっと隠せばいいのに)
どうせ隠す気もないんだろう、と思いながら唇に触れようとすると、指先で押し返される。
「いいじゃないですか、ほら、あなたは僕の婚約者なんだし」
不届きな外野にも聞こえるようにはっきりと声に出せば、彼女の頬が赤く染まる。そのさまを見るだけで、もう外野の様子などどうでもよくなっていた。
「僕のために、買ってください」
この人は僕のものだ。誰が奪おうとしても、僕たちの絆に立ち入れるはずがない。そんな優越感を覚えながら、ホープはエクレールの額に唇を押し当てる。
「ホープ!」
きっと軽く睨む彼女の蒼の瞳はどこまでも澄んでいて、反射的に青い下着も買ってもらおうと思いついた。原色ではない、澄んだ湖面の色の下着。
「青いのも買いましょうよ。……サックス、っていうんでしたっけ」
「そうだが……話を逸らすんじゃない。女ばっかりいる下着屋でそういうことをするなと言っているんだ。そういうところからマスコミにすっぱ抜かれたりするんだからな? 休暇明けに掛かってくる電話は八割私とお前の長期休暇の内容だからな? 今から私が保証しておいてやる」
実は一度、エクレールとデートしているところにマスコミと鉢合わせたことがある。幸いその記者が二人の知り合い……以前前の世界について話したことのある人間だったから、なんだか妙に輝いた微笑みのまま見逃してくれたのだ。結局その時は写真を取られることもなく、インターネット上に情報が流出することもなく、平穏無事ではあった。だが、いつまでもそうだとは限らない。
「……そうでしょうね」
二週間の休暇。今日がその一日目になるわけだが、二週間家でじっとしている気もない。二人でどこか遊びに行きたい。そうなれば、きっと人の眼は避けて通れないだろうし、件の記者のように見逃してくれるほどすべての記者が甘いわけではない。自分の欲望のままに動けないのは少しばかり悲しくはあるが、それでも二人を守るためだ。
「エクレールさんが僕の為の勝負下着を買ってくれたら約束します」
「……まったく」
仕方がないな、と彼女は溜め息を吐いた。ホープの手の中にある下着を奪い取り、サイズを確かめる。僅かに顔を顰めて、呆れたように口を開く。
「お前、これサイズ違うぞ」
「えっ」
そのサイズで合っていた筈なのに、と首を傾げれば、エクレールがさらに問いかける。
「どこにあった?」
「えと、そこです。……白の、」
「あぁ、これか」
暫くラックをごそごそと漁っていた彼女は、しかし新しい下着を持ち出すことなくホープに手渡す。
「それが私のサイズだ。……間違えるなよ」
「え、は、はい」
反射的に受け取って頷くと、彼女は満足そうにうなずいて、また下着を受け取った。
「エクレールさん、あの」
「カゴ、頼めるか」
「あ、はい」
言われたとおり手近にあるカゴを渡すと、ホープがおねだりした下着がぽんと放り込まれる。
「エクレールさん、蒼いのも」
ついでにおねだりすると、有無を言わせない口調でぴしゃりと言い切られる。
「色違いは買わない」
「じゃあほら、このフリル付きのやつにしましょう。総レースとかじゃないですけど、可愛いでしょう? ほらここ、ぱんつの紐なんてこれシルクのリボンですよ!」
手に取って白い下着の横にあった、デザインが違う下着を勧めるも、エクレールは首を横に振る。
「後は私の趣味で買わせてもらうからな」
「そんなぁ……」
「その代わり、後で着てやるから」
それならまだいいかなと頷いて、ふと首を傾げた。何やら誤魔化された気がする。
「ねぇ、エクレールさん」
「なんだ」
「下着のサイズ、なんですけど」
それだけで彼女は察してくれたらしい。ホープの耳元に唇を寄せて、小さな声で教えてくれた。
「お前に知られていることまで、外野に知られたくない。……ダメか?」
「駄目じゃにゃいです!」
ダイレクトに耳元に吹き込まれる吐息と声に、自分の声が裏返る。格好悪いとは思ったのだが、エクレールはそうは思わなかったらしい。
「なら、良かった」
くすりと小さく笑みを零して、彼女は言う。その笑顔が愛らしくて、ホープもつられて微笑んだ。
「ちゃんとあれ、後で着てくださいね」
仕方ないな、とエクレールがまた笑う。彼女の為なら、下着代ぐらいたっぷり払わせてもらってもばちは当たらないだろう、とにこにこしながら取り出した財布は、他ならぬ彼女自身の手によってホープのカバンの中に逆戻りした。ちょっと悲しかった。
☆ ☆ ☆
その夜のことである。
「エクレールさん、お風呂どうぞ」
自分の寝室にエクレールを呼びに行くと、彼女は下着を袋から出している最中だった。だいたいどんな下着を買ったかは知っているので、部屋に入ったところで彼女も特段怒ることはない。
「ああ、先に入ってくれ」
「だってエクレールさん、今日は疲れたでしょう?」
そうは言ってみたものの、家主が先に入れと言われてしまってはどうしようもない。
「……一緒に入りますか?」
「また今度な」
「じゃあ明日」
食い下がれば今度って言ってるだろ、と怒られてしまう。ちょっと悲しい気分になりながら、ホープはバスルームへととぼとぼ向かった。着ているものを全部脱ぎ捨てて、バスルームに入る。アロマオイルを垂らした湯船に浸かりながら、天井を見上げる。
「今日、エクレールさん……着てくれるかな」
下着のことである。昨晩ぐちゃぐちゃにしてしまったメイド服は洗って、既に乾いている。流石に外に出るときには着てもらえないので、今日は一日普段着でいてもらったことになる。
メイド服だけならばきっと着てくれると思うのだ。問題は下着である。結局あの白い下着以外は彼女の趣味であるらしい淡いパステルカラーの、総レースでもサイドリボンでもない(ホープから言わせれば)シンプルな下着を購入していた。エクレールが選んだ下着だ、どんなものだって彼女が着さえすれば何でも似合うと思うのだが、ホープのよこしまな希望を断るときに言ってくれたのだ。
『後で着てやるから』
エクレールに限って約束を違えることはしないだろうが、おそらく明るい場所では見せてくれまい。今までだって穿いている下着を見せてくれたことがないのだ、そこまでしっかり念を押しておけばよかった、と今さらながら後悔する。
「……」
ぶくぶくとお湯に顔を沈めながら考える。下着が見たいのは、何もよこしまな心からだけではない。彼女の恋人だという特権、優越感をまわりに振り撒きたいというのもあった。
(……エクレールさんのすべてを知っているつもりだった)
趣味嗜好も、生年月日も、身長体重も、スリーサイズも知っている。生活スタイルはおろか夜の事情だって知っているのだから、知らないことなんて全くないと思っていた。
(僕の知らないところであんな目に遭っているなんて……知らなかった)
どうして気づかなかったのだろう。
エクレールがひた隠しにしていたから?
ホープの耳に入らないようにしていたから?
(でも……それなら言ってほしかった。僕は、あなたの恋人なのに……)
今夜は無性に彼女を貪りたくてたまらなかった。
(すき、なのに。全部、僕のものにしたい)
(僕の色に、あなたを染めたい)
自分だけの、女神。いつだって背中を押してくれた。彼女の言葉を支えに、ずっと生きてきた。
(ブーニベルゼがライトさんを欲しがったのは、きっと僕がずっとあの人を欲しかったからかもしれない。……でも、渡さない。誰にも)
執着にも近い恋心を、メイド服を着たエクレールは受け取ってくれるのだろうか。自信を持って受け止めてくれるとは胸を張れないけれど、もしかしたら今ならその愛を受け取って、同じだけ愛情を返してくれるのではないだろうか、と思えた。
続く
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
しゅるしゅるという衣擦れの音を聞きながら、ホープの胸がどきどきと早鐘を打ち鳴らす。絶対に似合っているだろうし、清楚で可憐な様が見られるのは嬉しい。ゆっくり爪先からドレスに足を入れて、するすると白い肌を隠していくさまを、細い指が白いエプロンのリボンを結ぶさまを想像するだけで堪らなくなって、エクレールさぁん、と甘えた声でホープはバスルームのドアに頭を擦り付けた。
「なんだ、ホープ」
何かあったか、と彼女がドアの向こうから問いかけてくる。
「もう待てないです」
「もうちょっとだから……待ってくれ」
その言葉はどうやら嘘ではないらしく、すぐにドアが開く。
「すまなかった、ホープ。待たせたな」
その向こうには、ヴィクトリアンタイプのメイド服を纏ったエクレールが立っていた。
「エクレールさん……」
端的に言えば、想像以上だった。フリルのカチューシャを乗せて艶やかに光る薔薇色の髪も、機能美と可憐さを両立させながらも上半身のラインをあでやかに際立たせている。彼女がドレスの裾を持ち上げると白い素足が露わになった。ぼうっと見とれていると、エクレールはちょっとだけ困ったような表情になって、ふっくらと艶やかな唇がそうか、と動く。ドレスの裾をチョンと摘んだまま、彼女はぺこりとお辞儀をした。
「お待たせいたしました、ご主人様」
真っ白なふくらはぎ。細い足首。もう、耐えられそうにない。突っ立っていないで早く風呂に入れ、という優しい言葉も頭に入らない。
「私は先に寝室で待っている……―――っ!?」
耐えられなくて、その言葉でホープの中で何かが切れた。大股に歩み寄って柔らかい身体を抱き締める。赤く色づいた頬を手のひらで包んで、瑞々しい唇に己のそれを重ねた。
「……!」
必死に塗った口紅ごと舐めとるように甘い香りのするそこを食む。ぬるりと口内に舌を滑らせれば、突然のことに小さな舌が逃げ惑う。捕まえて絡めると、エクレールが鼻から抜けるように甘く、高くて小さなうめき声をあげた。とんと小さく自分の胸を叩かれるのを合図に唇を解放すると、頬を真っ赤に染め上げて潤んだ眼差しで彼女がこちらを睨む。
「我慢、出来ないです」
「おい、ホープ……っ」
問答無用。彼女をひょいと横抱きにして、ホープは一目散に寝室を目指した。可愛らしい抗議の声はきちんと聞こえているが、この際聞かなかったことにする。寝室のドアを開ければ、腕の中のエクレールが僅かに身じろいだ。
「ホープ」
「大丈夫です、優しくします」
そんなことは知ってる! と怒られても、ベッドに向かうホープの歩みは止まらない。
「あ……」
目的地について、衝撃のないように優しくベッドに降ろすと、これからどうなるのか分かっているように彼女は頬を染め上げた。
「寝るって言っただろ」
「だって、興奮しちゃったんです」
ねえ、と柔らかな身体にのし掛かると、縋るように白い指先がホープの胸をなぞる。それからゆっくりと頬を撫でられて……額をぴん、と弾かれた。痛い。
「痛いです……」
「お前、風呂はどうした」
「う……」
すっかり忘れていた。本当は我慢なんて効くはずもないのだが、このままベッドに雪崩れ込みたいと見上げても、彼女は許してくれなかった。
「駄目だ。風呂に入って汗を流してこい。……でないとこのまま寝る」
正直に白状すると、ホープとしてはその方が困る。理性のタガなんてほぼ外れているのに、一晩中お預けなんて食らってしまったら明日は買い出しどころの騒ぎではないだろう。
「本当に待っててくれますか?」
「当たり前だろ。……そのためのメイド服なんだろう?」
前の世界ではまず見られなかったような悪戯っぽい微笑みに、ホープもくすりと微笑み返した。健全に似合うと思ったのは嘘ではないが、確かにそう言った目的が含まれていたことも否定しない。この変なところで聡明な恋人はそのあたりもよく分かって付き合ってくれるのが、本当に嬉しかった。
「……分かりました。急いでお風呂に入ってきますね。寝ちゃったら嫌ですよ」
「寝るもんか」
苦笑交じりの返答に満足して、ホープはいそいそとバスルームに向かった。
「……あ」
風呂から上がった後のことで頭がいっぱいで、着替えるべき下着のこともすっかり忘れて。
☆ ☆ ☆
辛うじてバスルームに置きっぱなしにしていたバスローヴを羽織って、今さらながら赤面して寝室に戻る。ベッドの上で大人しく待っていてくれたエクレールが出迎えてくれた。
「お前、着替え忘れてただろ」
「忘れてました」
てへ、と笑ってみせると、彼女はまったくお前は、と苦く笑う。
「後で穿くんだろうな?」
「もちろんです! そんな、ぱんつ穿かないと落ち着きませんし……」
「ならいい」
頷いた彼女の頬に手のひらを滑らせて、ふっくらした唇にもう一度口付ける。腰を引き寄せてシーツの海に沈めれば、鼻から抜ける甘い声とともにしなやかな腕がホープの背に回された。舌をねじ込んで思う存分口内を堪能して唇を離せば、二人の間に透明な糸が伝う。
「ねぇ、……いい、ですか」
「……ああ」
頬を赤く染めたその言葉が合図だった。メイド服の上から丸く張り出している胸に優しく触れる。そのままゆっくりと撫でさすると、エクレールがくすぐったそうに身を捩った。
「……っ、こら」
「こっちのほうがいいですか?」
指先に力を込めると、彼女が僅かに息を詰める。そのままむにむにと手の動きに合わせて柔らかく形を変えるその場所を思うさま揉み倒す。
「柔らかい、です」
「ん……」
身体を小さく震わせながら、時折はぁ、と息を荒げるのが実に色っぽい。普段の研究者然とした姿からは想像もできない、ホープだけが知っているエクレールの姿だ。ドレスの襟元のボタンに手を掛けて、彼女の耳元で囁く。
「優しく、します」
「……知ってる」
その返事を聞くや否や、ホープは目の前のボタンをぷちりと外した。三つ目までは容易に外せたのだが、その下はエプロンが邪魔で外せない。かといって買ったばかりのメイド服を破いてしまうのも気が引ける。だが脱がすのも……と迷っていると、エクレールがエプロンの中に手を突っ込んで、ぷちぷちと残りのボタンを外してしまった。
「これでどうだ? ……ご主人さま」
「とてもイイ仕事だと思います」
ありがとうございます、とエプロンの下に隠れた双丘に顔を突っ込むと、そのままぎゅっと頭を抱え込まれる。柔らかくて温かくて、何とも幸せな心地がする。
「ほら、このまま寝てしまえ」
「嫌ですよ」
優しい声に優しく返して、エプロン越しにふにゅんと胸を包み込む。手触りからするとどうやらブラジャーを着けているようなので、後ろに手を伸ばしてドレス越しにホックを外してみる。
「あっ」
「ブラジャー、着けてたら寝苦しいんじゃないですか?」
エプロンのリボンを解きながら囁くと、頬を赤く染めたエクレールはぷいとそっぽを向いてしまった。白くて小さな耳がほんのり赤く染まっている。おいしそう、と思ったときにはその可愛らしい耳をぺろりと舐めていた。
「ふ、ん……っ!」
「ご主人様の質問に答えてくれないんですか?」
「誰、が」
「だってエクレールさんがそう言ったんじゃないですか。……ね?」
何の飾り気も傷跡もない、滑らかな耳朶を舐めたり甘噛みしたりしながら囁いていると、もぞりと彼女の足元が動く。
「おしえて、エクレール」
たっぷり吐息を含ませた声を吹き込めば、エクレールは歯を食いしばって大きく震えた。
「ホープ、の……ば、か……っ!」
荒い息を吐きながら抗議する姿は劣情を煽りこそすれ、ホープのそういうやる気を削ぐ効果は何一つない。肩紐を留めているボタンを外せば、あっさりとエプロンは彼女の前を露わにした。もう一度腰のリボンを結んで、露わになった場所に手を伸ばす。何度触れても柔らかい双丘は、しっとりと手に吸い付いてくる。
「やらかい、です」
「あ、ああ」
震える声を漏らす恋人の両の乳房をたっぷりと手のひらで堪能してから、しっかりと主張してくる蕾を指先で弾く。
「……っ!」
「ここ、気持ちいい、ですね?」
「や、ぁっ」
勢いよく首を横に振りながらも甘い声を殺しきれないエクレールを、嘘ばっかり、と責め立てる。
「ここは気持ちいいって言ってますよ?」
きゅっと頂を摘んでやれば、耐えきれないというように背中が反った。もう一度シーツの海に沈めてから、ボタンが外されたドレスの前を肌蹴て、片方の膨らみを出してやる。それから濃いピンク色に主張している蕾に唇を寄せた。
「あ……ホープ……」
悩ましげに弾んだ吐息に腰のあたりがずんと重くなるのを感じる。舌を這わせれば、いやいやと首を横に振りながら嬌声が高く漏れる。甘噛みすれば、きっと彼女は耐えられない。だからちゅうっと強く吸い上げる。ホープの肩に置かれた手は、懸命に押しのけようとしているように見えながら、もう力が入っていない。
「あ、んん……!」
「駄目ですよ、噛んじゃ」
エクレールがきゅっと唇を噛み締める。それを咎めて、唾液に濡れた唇を人差し指で擽る。唇の力が緩んだ隙に、その温かな口内に指を潜り込ませた。それと同時に吸っていた蕾にかり、と歯を立てる。
「あ、ああぁっ!」
細い腰がびくびくと跳ねて、ホープのバスローヴを握る指先に力が籠もる。指に僅かに歯が当たったものの、彼女はすぐに可愛らしい声を聞かせてくれた。
「気持ちよかったですか?」
「……それ、は……」
まだエクレールの中で羞恥心が捨てきれないらしい。唾液に濡れた赤い頂を弾いてやると、ひぅ、と高い声が漏れる。このまま何もわからなくなるぐらいに二人でドロドロに溶けてしまえば、恥ずかしがりやの彼女も素直になってくれるだろうか。なってくれるとは思うのだが、如何せん彼女がそうなる頃には自分も何もわからなくなって、無我夢中で愛を貪っているためによく覚えていないのである。
「じゃあ、気持ちよくなりましょうね」
ついとお腹を撫でると、赤い頬がますます赤くなる。そのまま手は下に。スカートを持ち上げて、淡いクリーム色の下着に口付ける。
「可愛い」
賢明に閉じようとする脚の間にはホープの身体が挟まっている。ぽすぽすと踵で軽く蹴ってくる恋人の太ももをがっちり抱え込んで、右の内腿に口付けた。
「い、やだ……っ」
「嫌、ですか?」
ぺろぺろと舌を這わせながら聞けば、恥ずかしい、と答えが返ってくる。とはいえこういうことを知らない仲ではない。行きつくところへは行っているのだから、彼女の身体は僅かな期待にふるりと震えている。今だってホープに敏感な太ももを舐められながら、びくびくと身体を震わせて耐えているのだ。その我慢している様がやはりどうしようもなくいやらしく見えて、抱えていた片足を肩に乗せると、その指先でショーツのクロッチをなぞった。温かさと、にじみ出る湿り気が指に伝わる。
「濡れて、ますね」
「ぁ……は、ぁ……ほーぷが、あんなこと、するから……あぁっ!」
無我夢中でその場所を弄りながら、ホープは自分の腹の奥からぞくぞくと震えが走るのを感じた。バスローヴの帯を乱暴に解いて脱ぎ捨てると、エクレールに覆い被さって唇を重ねる。
「ん、……ふ、ぁ……」
貪りながら下着を脱がせて、柔らかい尻を揉みしだく。嫌がって逃げ出そうとする身体を捕まえたまま、その奥の泉へと指先を伸ばした。温かい滑りに誘われるようにつぷりと指が沈む。喉の奥でエクレールが声にならない嬌声を揚げた。唇を離せば、彼女は身を捩って逃げようとする。
「逃げないで」
「だ、って……これ、汚れるだろ」
結構高いんだろう、と言われて、それもそうか、と納得してしまう。確かに安くはなかった。元々コスプレ用に売っていたものではなく、急にメイドを雇うことになった家の為に売っていたものだ。したがって生地の材質もいいし、ボタン一つとっても細かい装飾が施されている。本当にメイドを雇う家ならばデザインにもっと細かい指定ができるらしいが、出来合いのものでも十二分に良いものである。
だがしかし、だ。
「駄目です。……だって、僕のこと、監視してくれるんでしょう?」
「だからってこれじゃなくてもいいだろ!?」
「それこそ駄目ですよ。これじゃなきゃ僕、ちゃんと寝ません。……それに、この方が気持ちいいんじゃないですか?」
瞬時にエクレールの頬がリンゴもかくやというほどに染まる。初めての時から今に至るまで彼女は一言もそういうプレイが好きとは言わなかったが、まさか我慢していたのだろうか。
「……あの」
「おまえ、はっ!」
むにににに、と頬を引っ張られて、ホープは堪らず悲鳴を上げた。
「ひゅわあああ、いたいれふ!」
「どうして! 余計なことを! 言うんだ!」
ぶにっと力の限り引っ張られた頬は、解放されたときにはじんじんと小さな痛みが残っていた。素直にごめんなさいと謝れば、そっぽを向かれる。
「エクレールさん?」
「もう、今日は寝る」
「えっ」
ここまで来てお預けなんて酷い、とショックを受ける間もなく、気付けばホープはエクレールに覆い被さっていた。
「駄目ですよ、エクレールさん。……ご主人様の顔を引っ張るなんて、お仕置きが必要、ですよね?」
「まだそのネタを引っ張るのか!?」
「引っ張りますよ? だって、こうすれば今夜は二人きりで仲良くできるでしょ?」
お前、とまた身を捩る彼女の泉に、再び指先を差し入れる。少しなぞれば腰が跳ねて、とろりと蜜が零れてくる。その滑りの力を借りて、差し入れていた指を二本、ぐっと奥まで差し込んだ。
「あ……っ」
「ほら、気持ちよくなりましょう?」
滴る蜜を指先に纏わせてエクレールの一番敏感な芽に親指の腹を這わせると、甘い声は一層高くなる。
「気持ちいいですか?」
耳元で囁くと、僅かに頭がこくりと頷く。それに気をよくして探るように刺激を加えれば、スカートをめくられて露わになった白い腰が誘うように怪しく揺れた。
「ホープ」
涙の膜の揺蕩う蒼い瞳がホープを見つめる。何度も口づけを交わしたせいでグロスの取れかけた唇が、ホープを呼ぶ。
「終わったら、本当に寝るんだろうな……?」
「ちゃんと寝ますよ」
そう言って指を引き抜けば、その指先に名残惜しげに蜜が纏わりつく。彼女の腰を抱いて、入り口に己の怒張を宛がう。
「ね、いい、ですか……?」
「ああ。……いい」
その甘く掠れた声に誘われるようにゆっくりと侵入すると、鋭く息を吐く音と共にエクレールの身体がぐっと弓なりに反った。
「……だいじょうぶ、ですか」
ぎゅうぎゅうと搾り取らんばかりに締め付けてくる彼女の中に、ホープも息を詰めながら問いかける。まるで金魚のように唇をはくはくと動かしながら、それでも頷く恋人がいじらしい。
「……動きますよ」
「ん……」
部屋の中が快適であることに越したことはないと設置したエアコンの稼働も空しく、二人して汗だくになりながら動き出す。上になったり下になったりしながら何度も欲望を吐き出して、結局エクレールが一番高い嬌声を上げてぐったりとシーツに沈み込むころには二人とも疲労困憊の体だった。ホープとしては非常に満足したけれども。
☆ ☆ ☆
気が付けばうとうとと微睡んでいたらしい。ぶにぶにと頬を引っ張られる感触に目を覚ますと、恋人がホープの頬をふくれっ面で引っ張っていた。
「あの、怒ってます……?」
恐る恐るホープが問い掛けると、かすれた声が怒ってない、と返ってくる。水の入ったグラスを差し出せば、エクレールはのろのろと起き上がって飲み干した。唇の端から溢れた水が白い肌をつうと伝う様に、どうしようもなく身体が熱くなる。冷たいものでも食べれば少しは治まるかと部屋を出ようとすると、気だるげにこちらを見つめるエクレールと目があった。
「どうした……?」
「アイスキャンディ、食べますか? 暑すぎて買いだめしてたんです」
持ってきますよ、と微笑みかけると、彼女はこくんと頷いた。その様は先程の乱れ方からは想像もできないくらいにいとけなくて、ますますホープの口許が緩む。何て可愛い人なんだろうと幸せを噛み締めながらキッチンに向かい、冷凍庫を開けると……少し前に買った練乳アイスキャンディの箱が鎮座していた。
「練乳……」
このアイスキャンディを買った日は非常に暑い夜だったのも、あまりに疲れていて甘いものが食べたかったのも認めよう。エクレールさんも練乳好きかな、と思ったのも認めよう。買ったその時は特になにも考えず、甘くて美味しいアイスキャンディが手に入ったことに大喜びだったのだ。決して疚しい想像をして買った訳ではない。……のだが、先程まで彼女と仲良くしていたホープの頭の中では、そういう妄想がぐるぐると繰り広げられていた。ちょっと細めの白いアイスキャンディをくわえる艶々の唇とか、溶け出てきた練乳や手首を伝うアイスの雫が落ちてしまわないように舐めとる小さな舌だとか、齧ったキャンディを呑み込む喉の動きだとか、色んなものがもわもわと脳裏に渦巻いている。ただでさえ先程の余韻が残っているのに更に燃料が投下されて、興奮するなという方が無理というものだ。
「わぁぁあああ!!!」
思わず悲鳴をあげてごんごんと額を冷蔵庫にぶつけ、自分にだけ都合のよい、大分いやらしい妄想を振り払う。自分を沈めるためにアイスキャンディを取りに来たのに、これでは台無しだ。
「早く持ってこう……」
額をさすりながらアイスキャンディを二本取り出して、冷凍庫のドアを閉める。寝室に戻ると、軽く身なりを整えたらしいエクレールがスカートの裾を摘まんで出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
可愛い。
「僕、幸せです」
素直に呟けば、ちらりと軽く睨まれる。
「二週間だけだからな」
勿論構いませんとも。ご主人様とメイドが本職ではないのだから、普段は恋人同士がいい。それが分かっているから、きっと彼女も引き受けてくれたのだろう。
「で、……なんで練乳」
ホープの手にあるものに目を留めたエクレールは、露骨に怪訝そうな顔をする。
「いえあの違うんです! たまたま買ったのが! 練乳だったんです!」
「珍しいな」
いつもはアイスコーヒーで済ませるやつが、と言われて、そういえばそうだと思い当たる。基本的にホープは職場では甘いものは食べない。学生の頃からそうだったが、両親のくれるものや仕事でもらうもの以外は食べ物をもらったことがない。なまじ女性に人気があったからクリスマスには山ほどお誘いが来たし、「もらってください」と女性から綺麗にラッピングされたファッジやチョコレート、クッキーの類を差し出されることも多かった。
それらをすべて受け取らなかったのは、エクレールがこの世界に生きている、という確信があったからだ。いわば一種の願掛けのようなもので、研究室の教授や両親にも「どうしても会いたい人がいるから、甘いものを我慢する」と宣言してなるべく甘味を避けていた。友人には大層心配されたし、モテるからとやっかみを言われたこともあった。
今でも甘いものをあまり食べないのは、その時の癖がまだ残っているのと、単純にエクレールもあまり食べないからである。再会する前のことはあまり教えてくれないが、モデルのバイトをしたことがあるとセラに教えてもらったことがある。おそらくその時の習慣が残っているのだろう。
そのホープがアイスキャンディを買った、というのがどうやら彼女には不思議らしい。これからはもう少し積極的に甘いものを食べるべきかなぁと思いながらも、練乳アイスキャンディを買った理由を口にする。
「一番甘いのが食べたくて」
「それだけ毎日遅くまで仕事をしていればそれは疲れるだろうな」
私も買って帰ればよかった、とぼやくエクレールにアイスキャンディを渡すと、先程までホープと絡めあっていた小さな舌が白くて硬い氷の塊をぺろりと舐めた。これはとんでもないものを渡してしまった。彼女は恐らくそんなつもりで舐めているわけではあるまいに、どうしても先程の下世話な妄想が頭をもたげる。思わずごくりと唾を飲み込むと、青い瞳がちらりとこちらを向く。
「何見てる? ……溶けるぞ」
「わひゃい!」
その言葉にホープも慌ててアイスキャンディを口に運ぶ。冷房が効いていても少しだけ溶けていた。しゃりしゃりと音を立てて食べ進め、練乳の甘さを堪能する。冷えていると甘さは感じにくいが、恋人と食べているからか十分に甘い。しあわせ、なんて感慨に浸っていると、あっ、と焦ったような声が耳に入った。
「エクレールさん?」
「れ、練乳が溶けただけだ、気にするな」
見ればアイスキャンディを持つ彼女の指に、とろりと真っ白い練乳が垂れている。ぱくりと指をくわえて練乳を舐めとった後、彼女は慌てて氷の塊を口に運ぶ。もうそれだけでホープはどうしたらいいか分からなくなって、とにかく自分の分のアイスキャンディを口に運んだ。お腹の中は冷えても、多分別のところは冷えてくれない。何故なら目の前に赤くて小さな舌で白い練乳をぺろぺろと舐めとっているエクレールがいるからである。
「ホープ……?」
何時の間にやらアイスキャンディを食べ終えて、彼女が不思議そうな目でこちらを見ている。
「お前、さっきから変だぞ? そんな据わった眼をして……」
「だ、大丈夫です。ちょっとヨコシマな妄想をしてただけですから」
「ヨコシマな妄想ってお前、まさか」
ぽろりと零した本音に何かを察したのか、エクレールの眼がついとホープの下半身に向く。そういえば下着を穿き忘れていたと目を移せば、興奮したせいか何だか股間が立派なことになっている。
「あの……お前、この後はもう寝るんだよな!? 寝ると言ってくれご主人様」
「これで寝ろと言いますか!? 無理ですよ!」
あまりに真剣な表情でそんなことを言われて思わず訴えかけると、エクレールは頬を真っ赤に染め上げる。そのままじっとホープの眼を見つめて、おずおずと口を開いた。
「どうしたら、寝るんだ……」
「どうしたらって、それは……ですね」
下半身の立派なものが落ち着かない限り寝られないし、このまま放っておいてはどうやったって落ち着かない。かといってエクレールの前で「すみませんトイレで落ち着けてきます」なんていうのは寂しいし格好悪いような気がする。が、彼女の先ほどの言葉を聞く限り、多分今夜はもう寝てほしいのだろう。
「手伝っていただければ……その、多分」
「多分ってなんだ、多分って」
胡散臭そうな目をしながら、それでも彼女はホープの欲望の先端に手を伸ばす。
「……とにかく、落ち着けば寝るんだな?」
「落ち着けば、ですけど」
「わかった。……メイドの仕事には多分含まれていないと思うがな。私はメイドじゃなくてお前の……その、恋人、だから」
「エクレールさん……」
恋人であるというその言葉が、素直に嬉しい。エクレールはきゅっと眉間に皺を寄せて、あのな、と不満げな声を上げる。
「もう私は眠いんだ。落ち着かないと寝れないっていうからやっているだけで、お前が落ち着いたら寝るからな」
「わかってますよぅ」
おそらく本当に眠いのだろう、少し機嫌の悪そうな声に唇を尖らせると、彼女はならいい、とだけ言ってホープのアレを指先でなぞった。
「今日は本当にこれで寝るんだぞ」
☆☆☆
「……ごめんなさい、やり過ぎました?」
「今日だけで……何回目だ……」
その言葉すらもう疲れ切っていて、この情事に彼女の残った体力を使わせてしまったと思い当たる。
「だって、ここのところ、ずっと仲良くしてませんでしたし……研究室は人がいないから、昨日も仮眠室に連れ込みたい衝動と戦っていたんですよ」
そう。エストハイム研究室にはエクレールのほかに職員がいない。就職したいと願い出る者(特に女性が多かった)もいたし、推薦状も山のように届いていたのだが、ホープはエクレールを除いては一度として助手というものを採用したことがない。
何も研究会で知り合った研究者から助手に熱い眼差しを向けられたと愚痴をこぼされたことがあるからではない。単にエクレールを探すという目的に、助手など不要だと思ったからだ。後日件の研究者に恋人を助手にしたと報告したところ、痴情の縺れになりそうな助手などいらないだろうと愚痴られたのだが、確かに一理あると思ったために彼女以外には助手を迎えていないのである。
そんなわけで研究などが長引いたときの為にある仮眠室ではあるが、ホープとエクレール以外は足を踏み入れたことすらない。本当はそこで仲良くしたいな、などと考えてはいたのだが、そうは問屋が卸さない。研究室でも二人きりではあるが、もし仲良くして資料が汚れてしまったら、きっと二人とも後悔する。ならば仮眠室でと企んでいたのだが、そういうわけにもいかない。仮眠室に行くと言えば、エクレールは必然的に電話番をすると言い出すのだ。
故に己の欲望を抑えるのに必死だった、といえば、彼女は気だるげに眼を開けて、そうかという。
「そうですよ。ずっと我慢してたんですから」
「……だからこんなに?」
「そうです。本当は毎日仲良くしたいくらいなのに……」
ぶつぶつと恨みがましくつぶやいていると、けだるげな声が耳を打つ。
「じゃあ、今度泊まるか」
「本当ですか!?」
「……ああ。もっともばれたら大変なことになるだろうがな」
「そんなことは承知の上ですよ!」
「そう、か」
そうですよ! と力説すると、エクレールは嬉しそうにとろりと笑って、眠そうな声でふにゃりと呟く。
「きたい、してる」
「な、な、な」
なんですと!? 期待している!? あまりに嬉しすぎる言葉に一瞬自分の耳を疑った。乱れっぱなしのメイド服に包まれた肩を掴んで揺すって、もう一度言ってほしいと切に願ったが、残念ながら彼女はすでに眠りの淵に落ちていた。規則正しい呼吸を聞きながらホープは自分の口の端が上がるのを感じる。
「がっかりは、絶対にさせませんから」
手放すつもりはない。でも、エクレールが翼を広げて大空を舞う姿が見たい。それは相反する願いだろうか。……なににも囚われない彼女が見たいと願うのに、自分に囚われてほしいと願うのは、果たして罪だろうか。彼女の期待を裏切るつもりなど毛頭ない。それでも、ホープ・エストハイムと結婚などしない方が……彼女は幸せなのだろうか。
「……僕と結婚した方が……幸せですよね?」
一人だけでは答えなど。到底出ようはずもない。それでも、ふとした瞬間に不安と疑念に襲われる。前の世界でホープの前から姿を消した彼女。二十一歳という若さで前の世界でのライトニング……エクレール・ファロンという人生を散らした彼女は、本当はどんな生き方がしたいのだろう。彼女には何が一番必要なのだろう。……それは、ホープに与えられるものだろうか。ホープ自身が持っているものだろうか。
「……なければ、どうなっちゃうのかな」
窓の外では、暗闇の中で木々を渡る風がざわざわと鳴いていた。不安をあおるその音を聞かなかったことにして、彼は無理やり先ほどまでの幸せな気分を思い出す。
「エクレールさんは今ここにいる。……それで、いいじゃないか」
たとえそうでなくとも、今彼女がここにいる現実のほうが重要だ。そう思うことにした。
続く
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
「というわけでですね、気が付いたら買っていたんですよ。……昨日帰ったら届いてました」
「お前本当に疲れてるんだ。帰るぞ」
メイド服を手に取ることもなく、エクレールは机に置いたはずのカバンを手に取る。
「あの、メイド服は」
「研究室はメイド喫茶じゃないだろ」
彼女の答えはにべもない。上目遣いをしたら少しは悩んでくれるかなぁと思ってはみるが、同居を申し出た時の素っ気ない反応からしておそらく芳しい成果は得られないだろう。ちぇ、と唇を尖らせてホープも帰る支度を始める。貴重な研究資料は金庫に入れて、鍵を閉める。本は本棚に、映像資料は専用の箱に入れる。飲みかけのアイスコーヒーを流し込むと、エクレールがグラスを洗いに行った。その間にメイド服はきちんと畳んで袋に入れ、自分のカバンの中にしまう。どうにかして彼女に生活を監視してもらえないだろうか。本音を言えば家でも職場でも一緒にいたいし、彼女と結婚したい。不規則な生活は恋人に心配をかけてしまっているし、負担になっているだろう。
分かってはいるのだが、どうしても彼女のいない生活に耐えられなかったのだ。それはホープの我儘だし、弱さでもある。それでも、どうしてもエクレールが必要だった。
「ホープ、終わったぞ」
「帰りましょうか」
一緒に研究室を出て、鍵を掛ける。総務部に寄って二週間の休暇を取ると申請すれば、特に忙しい仕事もない時期故か「やっとですか、お二人ともですね」という言葉と共にあっさりと受理された。玄関でセキュリティを掛けて門を出ると、どちらからともなく指と指を絡ませる。冷房のせいで少し冷えた指先が心地よい。研究所では恋人同士だということを隠していないけれど、恋人らしいことは人通りのあるところでしたくなるものだ。それがどこか誇らしくて、照れ臭くて、思わず顔を見合わせて微笑みあう。
「帰りにデートするのもいいですね」
「……ああ。マーケットに寄って夕食を買ってもいいし、どこかで食べるのもいいし。そのあとレイトショーなんかにも行くとセラが言っていた。……だが今日は夕食を買ったら帰るぞ」
その嬉しい言葉にあれ、と思わなかったわけではない。だが、それ以上に早く帰ると一緒に食事にも行かれるし、映画も見に行ける、という可能性にホープは浮かれきっていたのだ。だからマーケットでバゲットを買って、普段ならマーケットの手前を左に曲がる彼女がホープと同じ方向に歩き出したとき、あれ、と首を傾げた訳である。
「エクレールさん?」
「なんだ」
「今日、来てくれるんですか」
エクレールはしばしぽかんと呆けた表情を浮かべる。それからつやつやの唇が動いた。
「その、つもりだが」
「あの、本当に、僕を監視しに来てくれるんですか……?」
恐る恐る口に出した問いに、途端に彼女の頬が真っ赤に染まる。勢いよくこちらを向いた、きりりと吊り上がった眉と目尻が可愛らしい。
「お、お前が! 言った……ことだろう……!」
鞄を持って肩をいからせながら耳まで染まった様がまるでコミックでよく見るヒロインのようで、ホープの頬もつられて熱くなった。
☆ ☆ ☆
ホープの家は一軒家である。この研究所に就職するにあたって、隣国に引っ越していった親戚から譲り受けた、小さいがお洒落な家だ。ドアを開けてエクレールの背を押して中に入れる。
「お邪魔、します」
前の世界で十四歳だった頃から好きだった女性が今自分の家の中にいる。たったそれだけのことと言えばそうなのだが、ずっと夢見ていたことだけに嬉しい。いや、それ以上に幸せで……照れ臭い。口元が緩んでいくのを自覚しながら後を追う。
「キッチン、借りるぞ」
テーブルの上にバゲットの入った袋を置いたエクレールがこちらを振り向く。同棲しているみたい、なんて感動を噛み締めながらキッチンに入り、戸棚からグラスとオレンジジュースの入った瓶を取り出す。
「オレンジジュースでいいですか?」
「ああ。……私は構わないが、ホープはコーヒーじゃなくていいのか?」
おそらく前の世界で夜中でもブラックコーヒーをがぶ飲みしていたことをヴァルハラから見ていたのだろう。確かに今でも徹夜はしなくなったとはいえ残業をする時はブラックコーヒーが必需品なのだが、今日ばかりはコーヒーを飲まなくともいいだろう。
「ええ。今日は持って帰った仕事もありませんから、オレンジジュースでいいんです」
ね、と果汁百パーセントの瓶を振って見せると、くすりとエクレールが微笑んだ。
「そうだな。……今日は、徹夜しなくてもいいもんな」
「ええ。……そう、ですね」
徹夜しなくてもいい。そう考えれば楽ではあるのだが、今二人は恋人同士で、一つ屋根の下にいる。しかも家人などはおらず、完全に二人きりという状況である。エクレールはともかく、一つ屋根の下で二人きり、という単語を理解してしまったホープにはとてもとても落ち着かない。
二人とも少ない数ではあるがデートを重ねてきた。休暇日はちょっとお高いホテルのランチを一緒に食べて、そのまま夕方まで一緒にいることが多い。であるからして、二人とも経験済みである。部屋を取ってさえしまえばそういうことに特に支障はないので、珍しく定時に仕事を終えた日などは二人で少し賑やかな町まで出かけて、家には帰らずにホテルに宿泊してそのまま……ということも数はそう多くないがあったりもする。なお、ホープとしてはエクレール以外の女性と付き合うつもりも結婚するつもりもないため、健全なお付き合いだと主張したいところだ。
とにかく、何度か肌を合わせている間柄で、初めて恋人を家に招いた身としては、いろいろと妄想がはかどってしまうのである。休みの日は仕事をしなくても良いように、持って帰った書類は一つもない。メイド服を着てくれるか否かはともかく、意識が覚醒してギンギンの悶々で一晩を過ごす、などということにもなりかねない。
(それはもう実質徹夜だ……)
というよりも悲しい。非常に悲しい。とはいえよからぬことをして嫌がられるのも避けたいところだ。そんなことを悶々と考えていると、エクレールがこちらをじっと覗き込んでいた。
「ふわぁ!?」
思わず飛び退くと、彼女は非常に怪訝そうな表情を浮かべる。
「どうした? ぼうっとして」
「いいいいやですね! エクレールさんが僕の家にいるという幸せを噛み締めていましてですね!」
ギンギンの悶々としていました、というところは省いて事実を説明する。本当か? と首を傾げたあと、一応は納得してくれたらしいエクレールはグラスを取り上げてテーブルに持って行ってしまった。慌てて後を追う。
「ほら、食べるぞ」
「はい」
バゲットをもさもさぱりぱりと食べながらちらりと向かいを見ると、ちらちらとこちらを伺う蒼い瞳とかち合った。にこ、と微笑んでみれば白い頬がうっすらと染まる。
「どうしたんですか?」
「……いや、なんでもない。なんでもない、が……あの、さっきの、本気、か?」
「さっきの?」
首を傾げれば、いやなんでもない、とまた言葉を濁される。が、思い当たる節がちゃんとある。
「メイド服ですか?」
本音を言えば着てほしい。非常に着てほしい。メイド趣味があるわけではないが、きっと着てくれたらこの二週間の休暇は二人にとってより有意義なものになると思うのだ。だが、この世の何よりも彼女の嫌がることはしたくないのだ。もしエクレールが本気でメイド服を着るのが嫌だというのならば、やはり無理強いをするのはよくないと思うのだ。
「……その、気が進まないのなら……あなたの嫌がることはしたくないんです」
だから、と口籠ると、彼女はバゲットを置いてオレンジジュースをあおる。それからゆっくりと頷いた。
「……お前が言ったんだからな? それに私も二週間、お前を監視すると言ってしまったから……後悔、するなよ?」
うっすら染まった頬と、こちらを軽く睨んでくる可愛らしい瞳を前にホープから出てきた言葉といえば、
「幸せだなぁ……」
の一言だけであった。
☆ ☆ ☆
バゲットを食べ終えてからメイド服を差し出すと、エクレールは案の定微妙そうな顔をした。
「……まぁ、スカートが長いから……いいか」
渡したメイド服は研究室でも出した、スカート丈が足首の少し上まである、いわゆるヴィクトリアンメイドである。
「あの、短かったら……」
スカートの短いフレンチメイド型だったらどうなのだろうと興味本位で口に出せば、見事にそっぽを向かれてしまう。
「着てもいいが二週間は絶対に着ない」
「……ですよね」
「というかホープ、お前本当に休暇を取るんだろうな?」
「取りますよ! なんて言ったってエクレールさんとの二週間の休暇! ですからね」
へぇ、と彼女の片眉が跳ねあがった。
「本当だな? 休暇のフリして研究所に行ったりしないな?」
「やりませんってば! というか、そんなのどこで聞いてきたんですか!」
「先月の研究所合同食事会でザイデル女史に」
「なんですと!?」
実のところ、休暇と申請しながら研究所に仕事に行った、というのはエクレールと再会する前にやったことがあるのだ。おそらくそれを粒子科学研究室のアリサ・ザイデル女史に見られていたに違いない。理化学系の棟とエストハイム研究室は意外に近いのである。
だがしかし。
この世で一番大切な恋人が自分の家で休暇を取っているのに、彼女に嘘をついてまで仕事に戻ることなどできようか。いや、出来ない。
「もう、エクレールさんったら。あなたがここにいるんだから、そんなことするわけないですよ」
ね、とエクレールの顔を覗き込めば、しばらく難しい表情をしていたが、ふと口元が緩んだ。
「そう、だな。……信じているぞ、ホープ」
「はい」
ああ、幸せ。その気持ちのままにホープは彼女をまっすぐ見つめて、顔を近づける。もう少し、もう少しで触れ合える……その時、くるりと彼女が後ろを向いた。
「え、エクレールさん……」
「これ、着るのは風呂の後でもいいか?」
「あ、はい」
「わかった。……バスルームは?」
着てくれるんだ、と浮き立った心のまま、ホープはエクレールの手を握ってこっちです、とリビングのドアを開けた。
☆ ☆ ☆
エクレールがお風呂に入っている間に、ホープは寝室の準備をしてしまうことにした。幸いこの家の……もとい、自分の寝室のベッドはダブルサイズだ。一緒に寝たところで何の問題もなかろうと彼女の荷物も一緒に運び込んで、今朝起きたまま放っておいたせいで皺の酔ったシーツを整える。クローゼットから枕をもう一つ取り出して自分の枕の隣に置く。
「明日、エクレールさんの部屋着とか、買いに行かないとな……」
何せ二週間だ。彼女の家から持ってくるのもやぶさかではないが、同居していない以上はこの家に持ち込んだものを休暇が終わると同時に彼女の家まで持って帰らなければならないのだ。当然行きも帰りも荷物持ちはホープがやるとして、持ち込むものを同居するわけでもないのに選ばなければならないのはエクレールにとっても負担だろう。
それならば近くの量販店まで買いに行ったほうが楽というものである。
「いつ泊まってもいいようにいろいろ揃えておこうかな」
今日はありあわせのもので我慢してもらうことになるが……とため息を吐いて、ふと気づいた。
メイド服を着るなら、寝る前とはいえ化粧もしたがるだろうか。
彼女なら化粧などせずともメイド服が似合うとは思うのだが、大分前に立ち読みした雑誌に化粧は女性のマナーとかなんとか書いてあったような気がするから、ありえないとは言い切れない。それに……ホープだってやってみたいことがある。
恋人の美しいかんばせに自分の手で口紅を引きたい、ということだ。たしか大学生の時に見た映画か何かで話の筋は忘れたが、主人公が恋人の唇に細い筆を使って口紅を引くシーンがあって、それがどうしようもなく切なくて官能的だった覚えがあるのだ。
あのふっくらした唇に筆を滑らせたら、どんなに艶やかに色づくのだろう。控えめに漏れる吐息も、軽く閉じられた目も、きっと背筋が震えるほどに美しい光景なのだろう。
しばらく考え込んだ後、彼女のカバンからレモン色のポーチを取り出してバスルームへ向かう。ノックをすると温かな湯気の気配と共に衣擦れの音がする。
「エクレールさん」
「ん、どうしたホープ」
「あの、お化粧品を持ってきたんですが、……入っても?」
暫し逡巡した後、彼女のああ、という戸惑いがちな返事が聞こえた。礼を言って中に入ると、バスローヴ姿のエクレールが迎えてくれた。ホテルに泊まった時によく見る光景ではあるが、やはり自宅のバスルームでも大層可愛らしい。
「すまないな」
「いえ、基礎化粧品はそこにありますから、今日はとりあえずそれで我慢していただけると嬉しいです。明日、必要なものを買いに行きましょうね」
ああ、と彼女は頷いて、ちらりと棚に置かれたメイド服に視線を移す。
「あれは前にボタンがあるタイプ……か」
「ええ。そっちの方が着やすいかなと」
ああ、ともはぁ、ともつかない曖昧な答えを返して、彼女はやはり難しい顔をする。
「あの、ダメでしたか……?」
「そうじゃない。バスルームに入った時から思っていたんだが……お前、何で女物の化粧品なんか置いてあるんだ?」
ちょくちょく帯に手を伸ばしかけていたものの、結局バスローヴ姿のままエクレールが怪訝そうに問いかける。鏡越しにその目線は化粧品の入った小さなボトルに注がれている。彼女がこの家に来たのは初めてだから、化粧品が置いてあるのが不思議なのだろう。
「あ、それ、いつかお泊りしてもらえるように準備していたんです。……もしかして肌に合いませんでした?」
「いや、そういうわけじゃない。……ただ、ビンにつめてあるから」
「どれがいいのか分からなくて、たまたま目に付いたものの試供品をいくつか頂きまして」
小瓶に詰めたのは、単に洗面所の見た目を整えたかっただけである。小さなビニルパックに入っているのだ、不注意で散らばってしまったらちょっと悲しい。それを素直に白状すると、彼女はそうか、と頷く。鏡越しの眼差しがどこか嬉しそうに潤んで見えた。洗面台の前に座ってパタパタと基礎化粧品を肌にはたくと、エクレールはほら、とホープのほうに向き直る。
「メイク、したいんだろ。……とはいえもう寝るんだからフルメイクはやめてくれ。それと、ファンデーションは持ってきているがクリームは持ってきていない。……アイメイクとチークはやらないからな」
「あの、知ってたんですか……?」
「なんとなく、な」
ホープが何を考えているか分かった上で、彼女はこうしてつきあってくれる。もしかしたらそれは前の世界で十四歳だった頃の名残かもしれない。それでも、その上で今のホープのわがままにつきあってくれているのだ。嬉しい、と唇を首筋に滑らせると、無言で頭を押しのけられた。
「もう寝るんだからな」
「……はい」
部屋から持ってきたポーチからルージュとグロスを取り出す。細い筆を使ってオレンジ色のルージュをふっくらした唇に乗せて、滑らせて行く。
「……」
筆越しに伝わる柔らかさに、心の奥底が震える。いつもこの唇に唇で触れているのに、新鮮な感覚だ。控えめに吐き出される息が、動かすまいと震えている唇が、とても健気で可憐に見えた。
「もうちょっとですからね……」
はみ出さないように、塗りムラが出来ないように細心の注意を払って塗った後は、グロスを筆にとってやはり唇に滑らせる。わずかに唇が震えるのは、彼女も緊張しているからだろうか。指先が震えないように細心の注意を払って塗り上げて、ホープはやっと息を吐いた。
「……できました」
筆を下ろすと、さっき塗ったばっかりの唇からほぅと安堵したような吐息が漏れた。鏡を見て、エクレールがその出来栄えに頷く。
「こういうの、美味いな。……慣れてるのか?」
「イメージトレーニングの成果です」
胸を張ってそう言うと、彼女はくすりと笑って立ち上がり、ホープの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「そうか。……さて、着替えるから出てもらっていいか?」
「ふぁい」
着替えるところも見ているのはさすがに駄目だろうか、とエクレールを見つめていると、今度はさすがに駄目だ、と言い渡されてしまった。
「そうだ、明日の朝、一回家に帰って必要なものを持ってきたいんだが」
「……多分、また監視をお願いすると思うので……その、明日買い出しに行きませんか? 必要なものを含めて、ですが」
彼女はじっとホープを見つめたあと、僅かにため息を吐く。
「しょうがないな。……他ならぬ、お前の為だ」
でも今は出ていろ、と結局部屋の外に押し出されてしまった。
つづく
C90新刊のWEB版になります。
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
☆
突然ではあるが、ホープ・エストハイムは研究者である。前の世界……コクーンとかパルスとか、ルシだのファルシだのといったものに翻弄された神話時代の世界からずっと思いを寄せていた可愛い恋人を部下に持ち、自分の研究成果が世間に認められ始めて一つ研究室を持たせてもらえるようになった新進気鋭の研究者だ。
大学を休学してまで逢いに来てくれた愛しい恋人……エクレール・ファロンをぜひ自分の助手にと願い出たのは、なにも私情だけではない。一緒にいたいと強く願ったのは確かだが、彼女の卒業論文を受け持っていた教授から偶然にも研究分野が同じだということを聞き、さらには就職先を巡って妹と一悶着あったということまで小耳に挟んだのだ。
『それなら僕の研究室に来て頂くというのはどうでしょう? 打診していただければ嬉しいのですが』
将来有望ならぜひとも、と打診してみれば、元来真面目でお人好しの気があるかの教授も、ちゃんとエクレールに打診してくれたのだろう。すぐに紹介状が届いて、ホープは小躍りしながら研究所の人事部に向かったのを覚えている。正式な手続きを経て彼女を助手として迎える手筈を整えた次の日に直接大学に出向いて採用決定を告げたのだった。
本当のところを言えば、少しだけ仕事に裂く時間が多いかな、とは思っていた。前の世界ではアカデミー最高顧問に就任していたのだし、今の世界でも父親はワーカーホリックの気があった。誕生日や旅行といった約束のある日は休暇を遠慮なくとってくれたから前の世界ほど仕事に忙殺されているわけではなかったのだが、息子のホープはと言えば遠慮なく仕事に忙殺されていた。休日出勤も残業もして、研究室で寝泊まりした日は一週間のうち、実に二日である。エクレールが助手として入ってきてからたったの一週間で身体に悪いからやめろ、と怒られた。
それでもやめなかったのは……否、やめられなかったのは、前の世界での残業癖がついていたからだろうか。エクレールを先に帰しても残業三昧だったのは、家に帰ったところで彼女がいないという生活に耐えきれなかったからかもしれない。前の世界でも仕事に忙殺されていたのは、結局のところルシとして生きるために奪った命に償うためでもあったし、エクレール……ライトニングが傍にいないという寂しさが心の中に積もっていたためでもある。
この世界に生まれてからもその寂しさは消えることはなく、学生の頃は暇さえあればエクレールの手がかりを探していた。……それなのに彼女は見つからなくて、だんだん研究に逃げ込むようになっていった。ホープが有名になれば、きっと彼女も気付くだろうと、半ば縋るように願っていた。その結果がこれである。
「ホープ、もういい加減に観念して家に帰ったらどうなんだ?」
彼女がこの研究室に就職してから数か月、今日でなくとも幾度となく聞いてきた言葉である。
「もうすこしだけ……今度の週末はちゃんと休みますから」
そう返事をすれば、彼女は怪訝な眼差しを向けた。休む、と明言したからだろうか。
「本当だな?」
その言葉に頷けば、それならと恋人が鞄を机に下ろす。
「付き合うよ。……それなら早く終わるだろう」
その言葉は嬉しかったが、早く終わっても独りきりの家に帰らなければならないのならば同じことだ。せめてエクレールが一緒に住んでくれていえばまた違うのだろうが、半ば癖のようになってしまった残業は監視でもしてもらえなければ治らないだろう。助手である彼女は口では帰れ、休めと言いつつも休日出勤や残業のたびに最後まで付き合ってくれているが、ホープが具体的にどの仕事で残業しているかを聞きはしない。ゆえに少し罪悪感が募っていたりもする。
「……それで? 毎晩何しているんだ?」
手元を覗き込んだエクレールがため息を吐く。それはそうだろう、今日中に片付けなければならない仕事もないし、纏めておきたいデータは午後であらかた纏めてしまった。研究のための旅行も、取材のアポイントからホテルの手配まで、数日前に全て済んでいる。つまるところ、やることがないのだ。
「ちょっと、書き物を」
嘘ではない。彼女がいない間、ホープとエクレールがかつて生きていた世界のこと、あの世界が終わるまでの手記を、毎晩記していた。今でも半ば習慣のように書きつけているそれは、この世界ではどうしても絵空事にしか思われないだろう。だが、それでもよかった。分かるものにだけ伝わればいい。これは論文でも研究でもないのだから。
だが、仕事ではないと知った瞬間に彼女はきりりと眉を吊り上げて、早く帰れ、と唸った。それだけ心配されて、愛されているのだと心の中が温かくなる半面、こういう時に限ってもっと彼女と一緒にいたくなる。だから資料を持つ細腕を掴んで、じゃあ、と囁いた。
「じゃあ、僕の生活、監視してください。勿論住み込みで」
は、とグロスの艶めく唇から吐息が漏れる。こいつは何を言っているんだと言わんばかりに見開かれたアイスブルーの瞳が今日も可愛らしい。
「お、おまえ、……疲れているんだ。もう今日は帰って寝ろ」
有給休暇も振替休暇も碌々取っていないだろう? とおそらくは言いたいことを丸々飲み込んで労ってくれるのは嬉しいが、もうちょっとだけ、と欲が出る。エクレールが言っていることは本当のことで、有給休暇と振替休暇をあまりにも取らなかったため、今朝方総務部にこっ酷く叱られてきたところだ。遥か東国では長時間労働と休日返上は美徳であると言われているとは聞くのだが、この国ではそういうわけにもいかなかった。ただし、だ。
「エクレールさんがこれを着て監視してくれたら、僕は今日まっすぐ家に帰って、明日から貯まっているお休みを消化しますよ」
我ながら悪くはない条件だと思う。ホープがほとんど休暇を取らないかったせいで、せっかくエクレールと恋人同士になったのにもかかわらずデートが出来なかった。その埋め合わせ、というわけではないが、明日から二週間ほど休みを取ればずっと家で一緒にいられる。エクレールはホープが休暇を取っていないと言ったが、彼女だって自分に付き合って休日出勤をしてくれている。大分消化しなければならない休暇が溜まっている筈だ。
「で、明日から僕の家で一緒に過ごしましょう。これ、市販品ですけど買ったんです。二週間あればエクレールさんにぴったりのメイド服が作れるはずです」
ほらこれ、と黒地のワンピースと白いエプロン、所謂メイド服を乗せてやるとたちまち彼女の頬が引きつった。
「なんでそんなもの買ったんだ」
「似合うかなと思いまして」
「いつの間に」
「一昨日の夜ですね。家に帰ってぼうっとタブレットを眺めていたら見つけて」
なにもホープはメイド服の通販サイトをわざわざ眺めていたわけではない。どこかで休暇を取ってエクレールとデートに行こうと思って密かに計画を練っていたわけである。現代社会というのは便利なもので、通販という便利なシステムが確立している。コクーンにいた頃は端末から通販ショップのページに入り、品物を選べば自動決済で即時手に入れることが出来た。この世界では全くその通りとはいかないが、それでも注文すれば半日もかからずに届けてくれる。店が開いている時間に帰ることが出来ない身(帰らないだけだが)としてはとてもありがたいことだ。
とにかく、デートに行くには服が必要だ。ワードローブのスーツが三着、普段着と言えばシャツにくたびれてきたスラックスなどという手持ちでは、デートに行けるだけの服がない。今まではスーツでどうにかなっていたが、これから先はそうもいかないだろう。家に招くならそれなりの部屋着を用意したいし、デート用の服だって欲しい。何着あっても多いことはないだろうといろんなページを見て、いろんな服を購入した。そのさなかにうっかり……そう、ついうっかりタップする場所を間違えてメイド服の通販ページ(しかも本格的だった)に行きついたのだ。
無論最初はびっくりして戻ろうとした。だが、脳裏にありありと浮かんでしまったのだ。
最愛の恋人、すなわちエクレールのメイド姿を。
フリルのついた白いカチューシャはきっとエクレールの薔薇色の髪に似合うだろう。黒地のワンピースも、真っ白なフリルのついたエプロンも、きっと彼女の白い肌とメリハリのある体型を際立たせてくれるに違いない。清楚という言葉がぴったりのエプロンドレスを着て、いつも研究室に来る時のような笑顔を見せてくれたら、どんなに素敵なことだろう。
つづく
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
はぁ、とエクレール・ファロンはため息を吐いた。目の前にはにこにこと笑う恋人・ホープ・エストハイム。その手にはどこで用意してきたのかと小一時間問い詰めたくなるような衣装が乗っている。
「ね、着てくれますよね? エクレールさん」
眼の下に隈を作っているにもかかわらず、とんでもなく上機嫌な恋人を、なんでこうなったと彼女は恨めしげに睨んでやった。
☆ ☆ ☆
発端は確か、ホープがあまりに不摂生な生活を送っていたことだったと思う。いつぞや不可視世界から見ていた時に比べればマシではあるが、それでも一週間のうち、職場に缶詰めになって家に帰れるのがたったの二日とは見上げたワーカーホリックぶりだ。何故そんなことをエクレールが知っているのかと言えば、何のことはない、彼女の上司がホープだからである。
この世界に転生して、エクレールは前の世界と同じように軍に属することを考えないわけではなかった。自分がこの手で摘み取ってしまった命は、あの世界で償いきれたかと聞かれれば、胸を張って償ったと答えることが出来ない。その負い目もあったし、自分が剣を取ることで助けられる命があるならば、とも思った。だが、やはりというべきか、……前の世界を覚えているからともいうべきか、妹のセラが大反対したのだ。前の世界のようにケアル・ギアやエスナ・ギアがあるわけでもないし、当然ながらグラビティギアも開発されていない。おまけにルシでもなければ女神の騎士でもないし、解放者でもない。だが、その代わりにルシも混沌も魔物もいない。治安だって姉妹が生まれ育った地域は決して悪くない、むしろ平和な程だった。ううん、と困った顔をした両親を前に、決定してもいなかった就職先を考え直す羽目になったのである。
そんな時にホープと再会した。どうしようかと考えた末に、両親並びにセラが快く許してくれたために一年ほど大学を休学して旅に出たのだ。その旅の終わりに、エクレールは彼と再会した。言葉もなくただただ抱きしめてくる、最後に見た姿よりも大分大人になった姿に目を奪われたのを覚えている。本当はもし逢えたなら何を言おうとずっと考えていたのに、ただただ心の奥底が震えて、何の声も出なかった。気の利いた言葉一つも掛けることが出来なかった。
『僕が、ずっとあなたを守ります。……守らせてください』
ホープにそう告白されたのはその日の夕方のことだ。近況を軽く話して、食事でも行こうかということになったその時に、不意打ちに近い形で言われたのである。少し考えさせてくれ、と言ったものの、次の日ホテルをチェックアウトし、ホープと共に駅まで歩く道で答えを出した。
『私は、お前を守りたかった。……それは、今でも変わらない。あの世界では結局守れなかったから』
世界が終わる前に、ホープはエクレールの……ライトニングの残した言葉を抱いて前に進んできたのだと言った。何も怖くないのだと。……それに救われると同時に、傍で守ってやれなかった深い悔恨が、ずっと彼女の胸の中に刻まれている。だが、それだけでこんな返答はしない。見つめてきた真摯な眼差しに、触れ合った手の温かさに、エクレールは過去に生きた少年ではなく今を生きるホープに恋をした。だから、好きだと囁いたのだ。
そんな風に恋人同士になった一年後、大学を卒業した彼女はとある研究所に就職した。考古学や文化人類学など、歴史や文化に関する学者を集めた研究所だ。エクレールが勤務するのはその一角の、エストハイム研究室だ。決して恋人の研究室だから就職したわけではないのだが、卒業論文を担当してくれた教授に紹介状を書いてもらったと思ったら、その数日後にはエストハイム研究室長の助手として就職活動が終わっていた。大学にまでわざわざホープがやってきて『お願いしますね』なんて言うものだから、慌てて新居と家電の手配をしたのを覚えている。彼は同居でも構わないと言ったのだが、上司と同居なんて他の人間はいい顔をしないだろう。
だが、就職した一週間後にはホープ・エストハイムという人間がいかにワーカーホリックかということをありありと目の当たりにしてしまうことになる。最初はただ忙しいだけかと思っていたが、学会や研究旅行のない月でも泊まり込んで仕事をしているし、休日出勤もしているし、これはどういうことだと問い詰めたのだ。返ってきた答えは『前の世界でもこうだったからつい癖で』などというとんでもないもので、改善しますという言質を取ったもののいくら待っても一向に改善される気配がない。ホープ一人が残業と休日出勤をするのも心配にはなるが、エクレールだって付き合わされるのだ。たまには休みを取って二人でゆっくりしたっていいだろう……そう思いあまって痺れを切らして問い詰めた結果が今の状況である。
「じゃあ、僕の生活、監視してください。勿論住み込みで」
そうして目の前に出されたのが、黒いロングのエプロンドレス……通称メイド服だったのだ。
つづく
突風に吹かれてやってきた突然の春は、そのまま心の中に居座りました。
居座った春は心の中に薄桃色の花を満開にして、浮かれた心にしてくれました。
それに困ったわけではないけれど、彼女に相談してみたのです。
『こんなことは初めてで、どうしたらいいかわからない』
彼女は言いました。
『じゃあその春を楽しめばいいんじゃない?』
突き放したような言葉でしたが、心の中ではどうしてもやらなければならないことがあることを、しっかり分かっていたのでしょう。
だから、やるべきことをやると決めました。
『初めてだから、失敗しても許して欲しい』
ホープ・エストハイムは探偵である。この町に事務所を構えて早数年、先日とうとう美人の助手が勤め始めた。それまで事務所を一人で切り盛りし、いつ来るか分からない依頼人に備えて長らく休日も碌に取れなかった(何せ彼女が勤め始めたその日も朝食はゼリータイプの栄養補助食、昼食は固形の栄養補助食だった)ホープは、助手の登場によって生活が格段に向上した。
まずスケジュール管理がしてもらえるようになって、机の上のカレンダーは来客予定が書かれるのみとなった。とりわけ掃除洗濯、ついでに買い出しも彼女……エクレール・ファロンに手伝ってもらえるようになったのは本当に助かった。健康的で文化的な生活が送れなければいくら収入があれども干からびてしまう。優秀な助手が手助けをしてくれなければ、ホープは今頃本当にドライフルーツのようなことになっていたに違いない。彼女にこの上ない感謝をし、料理やその他諸々二人の生活に必要なものを提供するのが最近の彼の楽しみだった。
そんな助手が珍しく翌日の休暇を提案したのは、つい昨日のことだ。大きな事務所ならともかく、二人だけの小さな事務所だ。給料だって事務所の依頼報酬から出ている。特に休みにしても差し支えないスケジュールだったため、ホープは喜んでその提案を受け入れた。少しだけ、いきなりデートに誘っても大丈夫かな、なんてささやかな下心を抱きながら。
翌朝、ホープはいつものワードローブよりも少しだけラフな格好をしてエクレールの部屋の前に立っていた。それまで自宅として使っていた彼女の妹夫婦の家から、通勤の便その他諸々の理由で、今の彼女の家は事務所の二階、ホープの部屋の隣である。だからといって彼が作りすぎたお惣菜を分けたり分けてもらったり、という甘酸っぱい出来事は起こらず、大抵は時間の空いたときに買ってきてもらった食材を事務所でホープが調理して三食を賄っている。とかく探偵というものは忙しいのだ。
そんなことだからデートに誘うのも口実がない。博物館のチケットも、観劇のチケットもない。そもそも今何をやっているのかもわからない。遊びにいきませんか、というのも計画をまるで立てていないまま誘っているような気がして、少し後ろめたい。実はデートの服だって、満足に買えていない。ああどうしよう、と項垂れていると、目の前の白いドアが静かに開いた。
「ホープ!?」
「あ、え、エクレールさん!おはようござい、ま……す……」
目の前に現れたのは当然ながらエクレールだったのだが、驚いた表情以上に、彼女の服装にホープは固まった。いつものワードローブよりもカジュアルではあるが、淡いクリーム色の品のあるスーツに、いつもよりも胸元が開いた深緑のカットソーインナー、足許はスーツと同じ色のハイヒールという、まるで見合いにでも行くような格好である。
「どう、したんですか……その格好」
取り乱しかけたホープに似合うか、とエクレールが首をかしげた。同時にしゃらりと淡い翠のイヤリングが揺れる。
「もちろん似合ってますけど、その、今日はなにか予定が……?」
ああ、と彼女ははにかむように笑って、デートみたいなものだ、と言った。デート、という響きにホープはたじろぐ。デート。彼が抜き打ちで誘おうとしたアレである。あれといったらあれだ。水族館やらプラネタリウムやら、コンサートに行ったり、ご飯を食べに行ったりするあれだ。いったい誰とだろう。彼女がこの事務所にやって来たその日に一目惚れして、告白した。それからいつも一緒にいるが、彼女が休日何をしているか、ホープはほとんど知らない。
「デート、ですか」
「みたいなものだ」
「そんな……」
よっぽど情けない顔をしていたのだろうか、彼女は困ったようにホープの顔を覗き込む。
「ホープ、今日、何か予定はあるか?」
「ない、です」
動揺と狼狽を隠しきれない声音で頷けば、エクレールは何故か安堵したようにほっと息を吐く。そして、デートにしてはやたら大きい鞄をごそごそ漁り、目当てのものを引っ張り出した。
「あの、これ、読んでくれないか? ……頼む。お前にしか、出来ないんだ」
探偵ホープ×助手ライトさんの出会い編です。ちゃんとした推理物は5月に出す予定です。
では、どうぞ。
ホープ・エストハイム事件録
それは春風のように
ホープ・エストハイムは私立探偵である。この国のうんと西の方にある実家から列車でこの町までやってきて、安いアパートの一部屋を自宅兼事務所にしている、依頼大募集中の探偵である。目下の悩みは一人で事務所を経営しているためにろくに休日が取れないということである。
贅沢な悩みといえばそうかもしれないが、ホープにとってはかなり切実だ。今こうやってソファーにひっくり返って啜っているアイスコーヒーも、午前中の依頼の帰りに依頼人の家の近くのスタンドで買ってきたものだ。ついでに朝食も栄養補助食という有様で、このままでは体より心が干乾びてしまうと危機感を覚えたのがつい半年前のこと。事務所を開き、実績が認められて忙しくなり始めてから三か月ほど経過したときのことだ。それから仕事の合間を縫ってほうぼうの友人たちに誰か一人でいいから秘書か助手を紹介してくれと頼みこんで、ようやく一人見つかったのが先月のこと。
その助手……友人の妻の姉が今日の午後から事務所に来ると聞いたのが先週の終わりの話だ。どんな事情があるのかはわからないが、長らく旅に出ていたという話だが、いいひとだといいなぁ、とストローの先をはしたなくもがじがじと噛みながらぼんやりと待っているのが、今現在の状況である。
そうこうするうちにドアベルが鳴って、ホープはあわてて飛び起きる。
「はい、エストハイム探偵事務所です」
「今日からお世話になるファロンと申します」
落ち着いた女性の声にドアを開けて、……ホープはしばしその場に立ち尽くした。
扉の向こうにはふわふわと左の肩口で揺れる薔薇色の髪と、意志の強そうなアイスブルーの瞳が印象的な美女が、フォーマルなネイビーのスーツを纏って立っていた。
まるで神様が一人ぼっちで寂しい生活をしている自分を憐れんで、楽園から一番美しい花の妖精を遣わしてくださったのかと思った。
「……あの」
訝しむように声を掛けられて、ホープははっと我に返る。
「ぼ、僕はホープ・エストハイムです。よろしく、お願いします」
右手を差し出すと、よろしくという返事と共に白い手が握り返す。その細くて長い指は、温かかった。
結論から言うと、ファロン……エクレール・ファロンは非常に有能な助手であった。……ただし、料理の腕を除いては、の話である。彼女の初仕事は幸か不幸か事務所の掃除から始まった。掃き掃除も拭き掃除も、ついでに溜まりに溜まった洗濯も食器の片付けも、呆れながらやってくれた。メイドを雇ったわけではないのでホープとしては非常に申し訳なく、椅子の隅に縮こまりながらすみませんすみませんと繰り返していたのだが、エクレールは呆れてはいても嫌がりはしなかった。
「あの、実はお昼御飯もまだで」
椅子の隅からてへへと苦笑して見せると、さすがに彼女は絶句したらしい。暫く立ち尽くした後、気まずそうに目線を逸らされた。
「申し訳ないが、私は……その、料理は、苦手で」
「えっ、あ、す、すみません、……そういうんじゃないんです、本当に!」
ホープとしては決して昼食をねだったわけではない。が、この生活環境を見ていれば確かにそうも聞こえるかもしれないとまたしゅんと項垂れる。それをどう勘違いしたのか、彼女は慌てたように言葉を重ねる。
「その、料理以外なら、一通りはできるから……その、ホープの護衛とか、スケジュール管理とか。料理も、出来るだけ早くできるようにするから」
ホープは確信した。この人は神様が遣わしたもうた花の妖精ではない。ただ愛くるしく進むべき道へとラッパと弓矢をつがえて導いてくれる天使でもない。彼女は、エクレール・ファロンという女性は、ホープの為だけに、ホープをあらゆる意味で生かすために、ただ一人天から舞い降りた女神であるのだと。
空腹と多忙の前に現れた麗しき慈愛の女神の前に行動と言動と、ついでに思考回路も迷走してしまったホープは、椅子から転げ落ちて彼女の前にひれ伏していた。
「料理は、僕が作りますから……!」
エクレールは若干引き攣った顔をしながら、わかった、と頷いてくれた。やはり彼女は女神だ。
さて、午後からは仕事である。二人はとあるご婦人から頼まれた猫探しに、とある路地裏まで出かけていた。なんでも少し前からふらっといなくなっては戻ってくることの繰り返しで、今日も朝からいないのだという。飼い主が心配性というか、家猫の運命だろう。
「白くてふわふわで、赤い首輪の猫……か」
「ええ。……ヴァイオレットちゃんなんて、呼んだだけで寄ってくるんでしょうか」
猫……ヴァイオレットちゃんの愛くるしさと失踪した嘆きを延々と語るご婦人から聞き出した特徴のメモを眺めながら、ホープはため息を吐いた。やる気がないわけではない。現に右手にはメモ、左手には本日何杯目だか忘れたコーヒーの缶が握られている。ちなみにエクレールの右手には猫の好物だという高級キャットフード(ご婦人からもらった)、左手には手袋が握られている。彼女は右手のキャットフードをホープに渡すと、何の変哲もない厚手の手袋をきゅっとはめた。
「ま、やるしかなければやるだけだろう? ……ミセス・ブラウンの言っていることがどこまで本当かはわからないがな」
今までそうやって旅してきたからな、と不敵に笑う彼女の前に、ホープは本日数回目の平伏を決めたくなった。何という度胸のある女神だろうか。もう戦乙女と言っても過言ではない。胸の奥で心臓がどくどくと暴れまわっているのは、きゅんきゅんと胸が締め付けられるのは、きっと気のせいではない。
「好きです……!」
これは、恋だ。そう確信したが、運が悪すぎた。ぽろりと零れ落ちた言葉に、エクレールは気づいていない。むしろホープを見ていない。じっとホープを通り過ぎたあたりを見ている。ついとその視線を追えば、白くてふわふわの毛並みで、紫色の眼で、赤い首輪をつけた猫がこちらを見ていた。
「えっ」
「ぶにゃあ」
あれ、これヴァイオレットちゃんじゃないか、とホープが呆然としていると、目の前の猫は非常に不細工な鳴き声を上げた。
「え、ヴァイオレットちゃん……?」
もう一度猫……もといヴァイオレットちゃんはぶにゃあと鳴くと、ふふんと鼻を鳴らして、ふくよかな身体を揺らして逃げて行ってしまった。ここまでおいでと言いたげな表情も相まってとても可愛げのない猫である。
「行きましょうエクレールさん!」
この猫め、と走り出すと、エクレールも心得たように着いてくる。ヒールだというのにホープの後ろにぴたりとついて走ってくるあたり、よほど慣れているに違いない。そうでなければ何か体術でもやっているのだろう。ともかくヴァイオレットちゃんを追って路地裏を走り抜ける。ふくよかな身体でありつつも非常に素早い猫は、ふっくらとまるで白パンのようなお尻を振りながら一心不乱に走り続ける。……その動きがゆっくりになったのは、路地裏から少し狭い道に出る角のあたりだった。
「ヴァイオレットちゃんが止まりました」
「ああ。……あのあたりに何かあるのか?」
角を越えれば、やはり狭い道が続いている。そこは小さな家々が立ち並ぶ、ちょっとした住宅街である。豪邸は全くと言っていいほどないが、塀の向こうから子供の笑い声が聞こえてくるほどに平和だ。
「……?」
歩いていくと、猫は空地の真ん前で足を止める。それからゆっくりと首を動かしてこちらを見て、ぶにゃあともう一度鳴いた。
「ここ、か……?」
「ぶにゃあ」
そのまま空地へ入っていくヴァイオレットちゃんに着いていくと、植えられっぱなしになっている木の陰からにゃあにゃあとまた他の猫の声が幽かに聞こえた。
「また、猫……?」
二人で木陰に潜り込むと、枯草が敷き詰められた寝床のような場所に、果たしてもう一匹猫がいた。やはり白い毛の、可愛らしい猫である。ほっそりした首元に、利発そうな蒼い瞳。猫はにゃあ、と鳴くと、じっとエクレールを……いや、彼女の手に握られているキャットフードを見つめている。
「まさか、これが欲しいのか……?」
ぶにゃあ、とヴァイオレットちゃんが鳴く。そうしてまるで二人に見せつけるように青い瞳の猫の毛を舐めて、毛づくろいをしてやっている。
「……え、あ、もしかして……」
エクレールさん、とホープは彼女をつついた。蒼い瞳の猫はほっそりとしているのは首のあたりと足まわりだけで、投げ出されているお腹は僅かではあるがぷっくりと膨れている。
「お前、子供がいるのか……? というか、雄だったのか……」
もう一度ヴァイオレットちゃんが自信満々にぶにゃあと鳴いた。つまるところ、蒼い瞳の猫は、ヴァイオレットちゃんとの間の子猫を身籠っている。どこでどう知り合ったのかは知らないが、失踪したのは間違いなくこの猫の為だろう。お腹の子供の母親を守るために、日々こうしてご飯を届けようとしていたに違いない。飼い主であるご婦人……ミセス・ブラウンに猫語は理解できないだろうから、たった一匹で愛する猫を守るために奔走していたのだ。
「そうなのか……」
ため息を吐きながらエクレールがキャットフードの缶を開けてやると、ヴァイオレットちゃんが妻の猫を促すようににゃあと鳴く。妻猫は恐る恐る缶に鼻を近づけて、ぱくりと一口食べた。
「……あ、ちょっとまて」
エクレールが缶を取り上げて、白いハンカチを取り出す。広げたその上に間の中身をひっくり返して、また猫たちの前に差し出した。
「いいぞ」
その言葉に猫たちは、今度は二匹で仲睦まじくキャットフードを食べる。同じものを食べる二匹の顔はどことなく嬉しそうに見えた。
キャットフードを食べ終わった猫のうち、ヴァイオレットちゃんをホープが、蒼い目の猫をエクレールが抱き上げて、ミセス・ブラウンの家へと急いだ。じっとエクレールを見つめる猫に時折彼女が笑いかけてやっているのが可愛らしい。
かくかくしかじかと依頼の細かい結果を聞いたミセス・ブラウンはまぁ、と目を見開いた。
「うちのヴァイオレットちゃんがよその……いえ、野良猫と!? ああ、そんな……なんてこと……私はそんな育て方をした覚えは……」
「いや、ヴァイオレットちゃんが単純に発情期だったんじゃないでしょうか……? 現にこの猫が妊娠しているわけですし」
ああ、ああとミセス・ブラウンは一通り嘆いた後、見せてくださいなと青い目の猫をエクレールの腕から抱き上げた。にゃあと鳴く猫の全身を、じっくりと眺めてため息を吐く。だが、それは嘆きのため息ではなかった。
「ああ……お前も可愛い顔をしているじゃないの。野良猫だから毛並みは悪いけど、赤ちゃんが生まれたらヴァイオレットちゃんお抱えの美容師さんのもとに行きましょうねぇ。……探偵さん、決めました。この猫は私が引き取りますわ」
かくして、ローズちゃんと名付けられた蒼い瞳の猫は、愛する夫と同じ飼い主に引き取られることと相成ったのだった。
「ね、エクレールさん。猫、随分早かったですよね」
帰る道すがら聞いてみれば、彼女はそういえばそうだ、と頷いた。
「お前から好きだ、なんて言われたときにふっと猫が通りかかったんだ。……思えば、あれは餌の匂いをかぎ取ったんだろうな」
凄い猫だ、とぼんやり思いつつ、ホープは彼女の手をきゅっと握ってみる。
「ねぇ、エクレールさん。……恋する男って、みんなそうかもしれませんね」
「……ああ、そうかもな。で、この手は?」
「僕の気持ちです」
聞いてなかったでしょ、と恨みがましく横目で見てやれば、エクレールの頬がうっすら染まる。
「い、いや、あの……」
言いよどむ彼女の正面に回り込んで、手を両手で握ってアイスブルーの瞳を見つめる。
「もう一回言いますからね。……好きです、エクレールさん。今日会ったばっかりですけど、……お付き合いしてください」
正面のエクレールは目を見開いて固まっている。その頬が赤みを増して、瞬く間に耳まで染まっていく。
「エクレールさん?」
「お、お前……ここ、公道だぞ……事務所で、応えても、いいか?」
「あ、の……出来れば、ここで」
やっぱりごめんなさいなんて事になったら悲しすぎるじゃないですか、と言い募ると、エクレールは観念したらしい。真っ赤な顔のまま、ふっと息を吐いた。それから、か細い声で答える。
「わ、私でよければ……その、お願い、する」
その可愛らしい言葉にやったぁぁ! とホープが絶叫し、エクレールに公道だって言っただろ、と怒られるまで、あと数秒の話である。
先日の夏コミではありがとうございました。差し入れやありがたいお言葉をありがとうございます、これからも頑張ります!
新刊・既刊ともに通販を行っています。ご利用いただけたら幸いです。
さて、続きからPixivサルベージのシドライです。今はもう秋ですが、ライトさんの誕生日ネタで、ちょっと甘めに。ねつ造はなはだしいのでご注意くださいませ。
では、どうぞ。
朝顔の花を君に
とある夏の日、シド・レインズは唐突に重要なことを思い出した。思い出してしまえば連絡を取らずにはいられなくなる。今が業務中なら我慢もしたが、昼休みなのをいいことに早速コミュニケーターを手に取った。数コールの後、相手が……愛しい恋人が通話に出たのを確認して、深刻な声色で打ち明ける。
「ファロン君……来週の君の誕生日だが、プレゼントを、まだ買っていないのだ」
何がほしい、と聞く前に、恋人の……エクレール・ファロンのどこか安心したような溜め息が聞こえてきた。
朝顔の花を君に
「そんなことですか」
「そんなこととはなんだねエクレール。これでも私は真剣にだね」
自分の誕生日プレゼントを……一生に一度しかない十九歳の記念のプレゼントをそんなことと切り捨てるエクレールにムッと顔をしかめつつ、レインズは言い募る。
「いえ、その日は仕事がありますので。……ご存知ですよね」
エクレールの言い分も分かる。ボーダムの花火大会の翌日は、治安連隊の面々で溢れる観光客を捌かなくてはならない。コクーン有数の観光地であるボーダムには、海辺のリゾート地ゆえの開放的な雰囲気からか、観光地の悲しい性か、良からぬことを企てる輩がこの時期急増する。大概が水着の盗撮等の若い女性を狙った犯罪で、ボーダム治安連隊の人間が花火大会の警備と同じぐらいに神経を尖らせているのを知っていた。だからこの時期、彼らはなかなか休みをとることができない。例に漏れずエクレールも、誕生日だというのに休日が入っていないのだった。
「わかっている。だが、恋人にプレゼントを贈りたいと思うのは間違っているだろうか?」
悲しげに問えば、回線の向こうでエクレールが言葉につまる。
「普段中々逢えないから……君に、私の気持ちが本物だと証明したいのだよ」
それでも駄目か?と畳み掛けると、彼女は喉の奥で困ったように頼りない声を漏らした。
「駄目じゃ、ない……」
たっぷり沈黙をおいたあと、エクレールが困りきって弱々しい声を出した。その可愛らしい様に満足しながら、何が欲しい、と聞くと、彼女は何もいらない、と言った。
「何故だ」
「特に何か欲しいわけじゃないんだ。必要なものは自分で買えるし」
だが、と口を開こうとすれば、「わかってる」と遮られる。
「あなたが覚えていてくれるだけでいいんだ。それ以外には……何もいらないから」
その囁きは半ば祈りにも似ていて、レインズの心の奥がどくんと音を立てる。騎兵隊の最高司令官として知られ、PSICOMの兵士たちからは鉄面皮の司令官と揶揄される人間でも、一人の乙女の……恋人の前では一人の男だ。彼女のそんな健気な言葉にどうして無理やりにでも欲しいものを答えさせられようか。だが、ただ自分が覚えているだけでは意味がないのだ。口説き続けてようやく身も心も委ねてくれたエクレールに、自分の心を示したいのだから。昼間や夜に会うのが難しいならば、いつならばよいのだろうか。レインズだって日中は勤務がある。夜遅くなら治安連隊の任務も落ち着いているだろうが、そんな時間に年若い女性を呼び出すのも危険だし、気が引ける。朝の勤務時間付近もダメだろう。だが、その前なら……?
「……では、朝早くならばいいか」
知らず知らずのうちにそんな言葉が漏れていたらしい。え、とエクレールが息を呑むのが聞こえた。
「朝早く、君には負担をかけてしまうが……夜が明けた頃なら、いいか」
「その頃、なら」
大丈夫、と彼女の言葉に、本当か、と安堵のため息が漏れる。それを聞きとがめたらしい。
「シドこそ、朝早くて平気なのか。……リンドヴルムの航行計画だって……」
「そんなことなら問題ない。……エクレール、私は君の恋人だ。愛する君に喜んでもらえるのなら、そのくらいの早起き、苦にもならないよ」
「でも」
「いいだろう?たまにしか会えないのだから、これくらいさせてくれ」
何か遠慮がちに発された言葉を遮るように畳みかける。小さなため息が聞こえたところを見ると多少強引だったかもしれないが、最終的には彼女は分かった、と頷いてくれた。
コミュニケーターを切ったあと、さあ何を贈ろうかと浮かれた心のまま、レインズは執務室から晴れ渡る青空をじっと眺めた。
数日後。エクレールの誕生日の朝が始まる直前、レインズはボーダムの海岸を歩いていた。結局のところ、あれだけ張り切って休憩時間に通販サイトに齧りついたり、リグディに尋ねたりしたことは役に立たなかった。つまるところ、彼女へのプレゼントが見つからなかったのである。アクセサリーはものによっては仕事の邪魔になるし、洋服もサイズはともかく本人が気に入るかどうかが分からない。薔薇の花束というのも考えたが、あまり目立つものを渡してエクレールの家族に知られるのも、出来るだけこの関係を秘密にしておきたいという彼女の意志を無視するようで気が引けた。
「どうしたらいいだろうか……」
この時間になってもうんうんと唸りながら歩いていると、ふと近くの木に巻き付くように咲いている花が視界に飛び込んできた。朝早くにしか咲かない花だ。咲いている、というよりは今にも開きそうな蕾をつけていると言ったほうが正しいが、無性にこれを彼女と一緒に見たいと思った。これが花開く瞬間に、彼女を抱きしめたいと思ったのだ。
「シド」
後ろから声を掛けられる。振り向かずとも気配と声で分かる。もうすっかり慣れ親しんだ気配だ。
「おはよう、エクレール」
募る愛しさと共に振り返れば、彼女はすでにぱっちりと目を開いて、薄手の白いワンピースを身に纏っている。ワンピースの裾はひらひらと潮風に翻り、まるで満開になった花のようだ。おいでと腕を広げれば、おずおずとその中に入ってくる。
「おはよう、ございます」
「誕生日、おめでとう」
耳元で囁いた時、東の空が白くなり、眩い光が地平線を照らした。
「見てごらん、エクレール」
ほら、と促したレインズと、そちらに目を向けたエクレールの見守る中、閉じた傘のような白い蕾がゆるゆるとほどけて、ふわりと花弁がラッパ状に広がった。次々とほどけてゆく蕾たちは蒼に桃色に紫に、好き勝手な色に花開いてゆく。
「この花を見つけて、君と一緒に見たいと思った」
私と、とエクレールが首を傾げる。
「君に似ているだろう?」
「は……ぁ?」
「とても、似ている」
出会ったばかりの頃、彼女はまだ幼いと言ってもいい年齢だった。とても軍の世界に身を投じるような身体つきではなかったことをよく覚えている。それなのに眼だけが大切なものを守るのだとぎらぎらと輝いていて、その眼に惹きつけられた。もっとエクレールを……ライトニングという女性を知りたいと思った。
「あの頃、君は私が何をしても疑ってかかっていただろう?」
「そ、それは……」
彼女は否定も言い訳もできないまま瞼を伏せた。それはそうだろう。レインズが彼女に何くれとなく構うたびにそっぽを向いて必死に跳ねのけようとしていたのだから、違うとは言えないのだろう。だが、そんなに必死に抗うさまに、また惹かれた。固く閉ざされた蕾のような少女が、どれほど美しく鮮やかな花になるのか、知りたかったのだ。
「そんな君も可愛らしかったよ。……私としては、今のほうがより美しいと思うがね」
固かった蕾は、今は大きく膨らんで、今にも咲きそうなほどに成長した。レインズにしか見られない一面もたくさんあるし、何より彼の傍で……リグディがいるときもあるが、素直に笑ってくれるようになった。それが嬉しいし、愛おしい。
「愛しているよ、エクレール」
仕事に戻れば上司と部下。レインズ准将とファロン軍曹としか呼び合えない。だから、恋人としての逢瀬の間だけでも彼女の本当の名前を呼びたかった。
「誕生日、おめでとう。朝顔が花開くように、君にとって輝ける一年になりますように」
願わくは、私の隣で、大輪の花を咲かせてほしい。
そう思いながら、レインズはエクレールの、朝焼けに染まる唇に己のそれをゆっくりと重ねた。
新しい一日が始まろうとしていた。
おわり
「トリック・オア・トリート!」
ライトニングが自宅の玄関のドアを開けると、低くなりかけた青年の声でそんなことを言われた。現時刻は夜の10時。青少年はとっくに家に帰っているべき時間である。しかしこの声は幻聴などではない。目の前には何やら狼男の格好をした銀髪の青年。彼女はやれやれと頭をゆるく振って、口を開いた。
「……ホープ、なんでいる」
「だめですか」
「だめだ」
お前は帰る時間だ、と青年……ホープの横を素通りして寝室へ向かう。さっさと着替えて寝てしまいたいのだが、ホープとしてはそれでは嫌らしい。とたとたと足音を立ててライトニングのすぐ後ろをついてくる。
「会いたかったんです」
「休みの日に来い」
「今日じゃなきゃダメだったんです!」
真剣にそう言われて、彼女は足を止めた。なりは大きくなったのに行動も言動もあまり変わらないホープが時折大型犬に見えることがある。そしてライトニングはそんな人間のなりをした大型犬に滅法弱かった。
「親父さんには許可を取ってあるのか」
「もちろんです!」
「…………着替えてくるから、そこで待ってろ」
はい、と素直に返事をしたホープを置いて、彼女は寝室に入る。ジャケットとインナーを脱いでニットのワンピースを身に着けながら、先ほどの言葉を思い返す。
「トリック・オア・トリート、か……今日はハロウィンだったか」
何のかんの言ってまだまだ子供だな、と唇の端から笑みがこぼれる。カバンの中に手を突っ込んで、指先に触れたものを一掴み取り出す。
「明日、と思っていたんだが」
まあいいか、とドアを開ける。その先で待っていたホープがパッと目を輝かせた。
「待たせたな」
「いっ、いえ、そんなことないです!」
「夕飯は?もう食べたのか?」
「まだです」
でも用意はしました、と彼女の肩に触れるギリギリの距離で彼は言う。別に取って食いやしないから遠慮することないのに、と思いながら彼女は銀髪をかき回してやった。
「じゃあ食べるか」
はい、と頷くホープが犬っころみたいで可愛くて、ついついからかってやりたくなる。
「その前に……お前、さっき言ってただろ」
「ふぇっ!?」
唇が触れてしまいそうなほどの距離で、耳元にささやく。
「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、って」
「い、いいいいいい言いました!言いましたけどっ」
とたんにぼっと顔を赤くして慌てるのが可愛らしい、とライトニングは思う。だからその手を取って、チョコレートを握らせてやった。
「やる。悪戯されるのはごめんだからな」
とたんに恥ずかしくなって、そんな可愛げのないことを言ってそそくさと離れる。しばらく呆然としていたホープは正気を取り戻すと、ちょっと残念そうな表情を浮かべてからチョコレートに気が付いて、嬉しそうに笑った。
「くれるんですよね?」
「明日お前と食べようと思っていたんだが」
「ありがとうございます!」
ギュッと抱き着いてきた、子供の柔らかさが消えかけた身体を抱き返しながら、ライトニングは目を閉じる。
もう自分の腕に馴染んだ小ささではない。それが嬉しくもあり、切なくもあった。
「…………そんな未来もあったんだよな…………」
肌寒い秋の夜、エクレールはゆっくりと夜空を見上げる。今日はハロウィン。仕事帰りの電車の中で見た夢と同じ。あれはもしかしたら、ライトニングがヴァルハラに飛ばされなければありえたかもしれない未来なのだろう。そんなことを考えて、ちょっと寂しくなりながら自宅の玄関のドアを開ける。
「トリック・オア・トリート!」
「…………」
目の前に、オオカミの耳をつけた半裸の男が満面の笑みで立っていた。
「ライトさん!悪戯ください!」
「…………は?」
「だから!悪戯!ライトさんの悪戯!」
「私は眠い。ほかを当たれ」
そのまま半裸男の横を素通りして寝室に入ろうとすると、スラックスの裾をギュッとつかまれた。さすがにぎょっとして振り返れば、半裸男、もといホープ・エストハイムが廊下に寝っ転がっていた。
「ホープ……?」
「なんでライトさんが悪戯してくれないんですかぁぁぁぁ」
「あの……」
「やらぁぁぁらいとさんにいたじゅらしてほしいぃぃぃぃ」
寝っ転がったまま駄々っ子のようにバタバタと暴れまわる今年27歳になる男の姿を目にするのは、なんだか頭が痛くなる。これでそこそこ名の知れた研究者だといわれても、誰もわからないことだろう。
「ホープ」
「なんで悪戯してくれないんです」
「しないとダメか」
「ダメです」
涙目で言い切るホープに、ダメなのはお前の頭だといいたくなる衝動をぐっと堪え、エクレールは彼の手を掴んで起こしてやる。
「トリック・オア・トリートじゃなかったのか」
「じゃあライトさんオアライトさんで」
「お前は何を言っているんだ」
「だってライトさんが好きなんです」
知ってる、とため息をついて、彼女はふいと彼の耳元に唇を寄せた。
「菓子をやるから悪戯するな」
「ライトさんが悪戯してくれるんじゃないんですか」
「しない」
ちょっと待ってろ、と言い捨ててカバンの中に手を突っ込む。……ない。
職場で昼休みに買った菓子がない。
「…………まさか、忘れた…………?」
冷や汗をかくエクレールの背筋に、何やら不穏な空気がのしかかる。
「ないんですか?」
「あ、あの、ホープ」
怖くて後ろがふり向けない。
「ないんですね?」
ホープはなおも不穏な空気をまとってエクレールに近づいてくる。大した距離ではないからすぐに背中に重みを感じた。その空気と重みに気圧されるように頷けば、ひときわ嬉しそうな声が耳に飛び込んでくる。
「じゃあ、悪戯しちゃいましょうね」
「は!?」
「ほら、食べちゃいますにゃん、なんて」
そのまま反論の言葉はぱくりとホープに食べられた。