とある夏の日、シド・レインズは唐突に重要なことを思い出した。思い出してしまえば連絡を取らずにはいられなくなる。今が業務中なら我慢もしたが、昼休みなのをいいことに早速コミュニケーターを手に取った。数コールの後、相手が……愛しい恋人が通話に出たのを確認して、深刻な声色で打ち明ける。
「ファロン君……来週の君の誕生日だが、プレゼントを、まだ買っていないのだ」
何がほしい、と聞く前に、恋人の……エクレール・ファロンのどこか安心したような溜め息が聞こえてきた。
朝顔の花を君に
「そんなことですか」
「そんなこととはなんだねエクレール。これでも私は真剣にだね」
自分の誕生日プレゼントを……一生に一度しかない十九歳の記念のプレゼントをそんなことと切り捨てるエクレールにムッと顔をしかめつつ、レインズは言い募る。
「いえ、その日は仕事がありますので。……ご存知ですよね」
エクレールの言い分も分かる。ボーダムの花火大会の翌日は、治安連隊の面々で溢れる観光客を捌かなくてはならない。コクーン有数の観光地であるボーダムには、海辺のリゾート地ゆえの開放的な雰囲気からか、観光地の悲しい性か、良からぬことを企てる輩がこの時期急増する。大概が水着の盗撮等の若い女性を狙った犯罪で、ボーダム治安連隊の人間が花火大会の警備と同じぐらいに神経を尖らせているのを知っていた。だからこの時期、彼らはなかなか休みをとることができない。例に漏れずエクレールも、誕生日だというのに休日が入っていないのだった。
「わかっている。だが、恋人にプレゼントを贈りたいと思うのは間違っているだろうか?」
悲しげに問えば、回線の向こうでエクレールが言葉につまる。
「普段中々逢えないから……君に、私の気持ちが本物だと証明したいのだよ」
それでも駄目か?と畳み掛けると、彼女は喉の奥で困ったように頼りない声を漏らした。
「駄目じゃ、ない……」
たっぷり沈黙をおいたあと、エクレールが困りきって弱々しい声を出した。その可愛らしい様に満足しながら、何が欲しい、と聞くと、彼女は何もいらない、と言った。
「何故だ」
「特に何か欲しいわけじゃないんだ。必要なものは自分で買えるし」
だが、と口を開こうとすれば、「わかってる」と遮られる。
「あなたが覚えていてくれるだけでいいんだ。それ以外には……何もいらないから」
その囁きは半ば祈りにも似ていて、レインズの心の奥がどくんと音を立てる。騎兵隊の最高司令官として知られ、PSICOMの兵士たちからは鉄面皮の司令官と揶揄される人間でも、一人の乙女の……恋人の前では一人の男だ。彼女のそんな健気な言葉にどうして無理やりにでも欲しいものを答えさせられようか。だが、ただ自分が覚えているだけでは意味がないのだ。口説き続けてようやく身も心も委ねてくれたエクレールに、自分の心を示したいのだから。昼間や夜に会うのが難しいならば、いつならばよいのだろうか。レインズだって日中は勤務がある。夜遅くなら治安連隊の任務も落ち着いているだろうが、そんな時間に年若い女性を呼び出すのも危険だし、気が引ける。朝の勤務時間付近もダメだろう。だが、その前なら……?
「……では、朝早くならばいいか」
知らず知らずのうちにそんな言葉が漏れていたらしい。え、とエクレールが息を呑むのが聞こえた。
「朝早く、君には負担をかけてしまうが……夜が明けた頃なら、いいか」
「その頃、なら」
大丈夫、と彼女の言葉に、本当か、と安堵のため息が漏れる。それを聞きとがめたらしい。
「シドこそ、朝早くて平気なのか。……リンドヴルムの航行計画だって……」
「そんなことなら問題ない。……エクレール、私は君の恋人だ。愛する君に喜んでもらえるのなら、そのくらいの早起き、苦にもならないよ」
「でも」
「いいだろう?たまにしか会えないのだから、これくらいさせてくれ」
何か遠慮がちに発された言葉を遮るように畳みかける。小さなため息が聞こえたところを見ると多少強引だったかもしれないが、最終的には彼女は分かった、と頷いてくれた。
コミュニケーターを切ったあと、さあ何を贈ろうかと浮かれた心のまま、レインズは執務室から晴れ渡る青空をじっと眺めた。
数日後。エクレールの誕生日の朝が始まる直前、レインズはボーダムの海岸を歩いていた。結局のところ、あれだけ張り切って休憩時間に通販サイトに齧りついたり、リグディに尋ねたりしたことは役に立たなかった。つまるところ、彼女へのプレゼントが見つからなかったのである。アクセサリーはものによっては仕事の邪魔になるし、洋服もサイズはともかく本人が気に入るかどうかが分からない。薔薇の花束というのも考えたが、あまり目立つものを渡してエクレールの家族に知られるのも、出来るだけこの関係を秘密にしておきたいという彼女の意志を無視するようで気が引けた。
「どうしたらいいだろうか……」
この時間になってもうんうんと唸りながら歩いていると、ふと近くの木に巻き付くように咲いている花が視界に飛び込んできた。朝早くにしか咲かない花だ。咲いている、というよりは今にも開きそうな蕾をつけていると言ったほうが正しいが、無性にこれを彼女と一緒に見たいと思った。これが花開く瞬間に、彼女を抱きしめたいと思ったのだ。
「シド」
後ろから声を掛けられる。振り向かずとも気配と声で分かる。もうすっかり慣れ親しんだ気配だ。
「おはよう、エクレール」
募る愛しさと共に振り返れば、彼女はすでにぱっちりと目を開いて、薄手の白いワンピースを身に纏っている。ワンピースの裾はひらひらと潮風に翻り、まるで満開になった花のようだ。おいでと腕を広げれば、おずおずとその中に入ってくる。
「おはよう、ございます」
「誕生日、おめでとう」
耳元で囁いた時、東の空が白くなり、眩い光が地平線を照らした。
「見てごらん、エクレール」
ほら、と促したレインズと、そちらに目を向けたエクレールの見守る中、閉じた傘のような白い蕾がゆるゆるとほどけて、ふわりと花弁がラッパ状に広がった。次々とほどけてゆく蕾たちは蒼に桃色に紫に、好き勝手な色に花開いてゆく。
「この花を見つけて、君と一緒に見たいと思った」
私と、とエクレールが首を傾げる。
「君に似ているだろう?」
「は……ぁ?」
「とても、似ている」
出会ったばかりの頃、彼女はまだ幼いと言ってもいい年齢だった。とても軍の世界に身を投じるような身体つきではなかったことをよく覚えている。それなのに眼だけが大切なものを守るのだとぎらぎらと輝いていて、その眼に惹きつけられた。もっとエクレールを……ライトニングという女性を知りたいと思った。
「あの頃、君は私が何をしても疑ってかかっていただろう?」
「そ、それは……」
彼女は否定も言い訳もできないまま瞼を伏せた。それはそうだろう。レインズが彼女に何くれとなく構うたびにそっぽを向いて必死に跳ねのけようとしていたのだから、違うとは言えないのだろう。だが、そんなに必死に抗うさまに、また惹かれた。固く閉ざされた蕾のような少女が、どれほど美しく鮮やかな花になるのか、知りたかったのだ。
「そんな君も可愛らしかったよ。……私としては、今のほうがより美しいと思うがね」
固かった蕾は、今は大きく膨らんで、今にも咲きそうなほどに成長した。レインズにしか見られない一面もたくさんあるし、何より彼の傍で……リグディがいるときもあるが、素直に笑ってくれるようになった。それが嬉しいし、愛おしい。
「愛しているよ、エクレール」
仕事に戻れば上司と部下。レインズ准将とファロン軍曹としか呼び合えない。だから、恋人としての逢瀬の間だけでも彼女の本当の名前を呼びたかった。
「誕生日、おめでとう。朝顔が花開くように、君にとって輝ける一年になりますように」
願わくは、私の隣で、大輪の花を咲かせてほしい。
そう思いながら、レインズはエクレールの、朝焼けに染まる唇に己のそれをゆっくりと重ねた。
新しい一日が始まろうとしていた。
おわり