ここは「花待館」の別館となっています。非公式で「うみねこのなく頃に」「テイルズオブエクシリア」「ファイナルファンタジー(13・零式)」「刀剣乱舞」の二次創作SSを掲載しています。
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ようやく演習のレジュメが終わりました。そんなわけで懲りずに変態嘉音くんシリーズです。
いつも通りの大暴走なので格好いい嘉音くんは幻想と化しています。
さて、ここでお知らせですが、今日から一週間ぐらいかけてブログを「うみねこのなく頃に」の二次創作専用のものにしようと考えています。それに伴いオリジナルの作品は「花待館」に移動します。今後もよろしくお願い致します!
では、どうぞ。
雪降りランタンに口付けを
いつも通りの大暴走なので格好いい嘉音くんは幻想と化しています。
さて、ここでお知らせですが、今日から一週間ぐらいかけてブログを「うみねこのなく頃に」の二次創作専用のものにしようと考えています。それに伴いオリジナルの作品は「花待館」に移動します。今後もよろしくお願い致します!
では、どうぞ。
雪降りランタンに口付けを
クリスマス。
それは欧米で生まれた行事で、イエス・キリストの誕生日を祝うものである。
が、しかし。日本ではそんなことはお構いなしにカップルがラブラブデートを繰り広げたり、色々な店が客の争奪戦を繰り広げたり、はたまた冬休み前の最後の登校日だったりする。
それはともかく、本日はクリスマスである。
雪降りランタンに口付けを
六軒島の右代宮本家はクリスマスパーティーの準備で大わらわであった。ただし一部を除いて。その一部というのは受験を控えた一人娘の右代宮朱志香のみなのだが、現在に限って準備に加わらないものが数名いた。
「トリック・オア・トリート!」
「きゃっ!ベ、ベアト!?」
赤と白のフリルやレースが可愛らしいゴスロリ風のサンタドレスを身に纏った朱志香に背後から抱きつくのは六軒島の魔女・ベアトリーチェである。
「朱志香、トリック・オア・トリートだぞぅ?」
ベアトリーチェは至極楽しそうに朱志香に抱きついたまま笑う。朱志香は仕方ないなと困ったように笑って、小さな包みを魔女の手の平に乗せた。
「メリークリスマス、ベアトリーチェ」
「なんだ、妾へのプレゼントを用意していたのなら普通に来るのであったな!」
「用意してるに決まってるだろ?トリック・オア・トリートなんて言わなくたって……」
「妾はハロウィンの方が似合うと思うてな……でも妾は嬉しいぞ!」
「喜んで貰えて良かったぜ!」
朱志香の部屋のベッドの上でそんな微笑ましいやり取りをする仲睦まじい少女達をじっと見ている一つの影があった。
「あの魔女め……僕の朱志香さんを僕の朱志香さんを僕の朱志香さんを……」
言わずもがな朱志香の恋人である使用人の嘉音である。彼は本来ならば食堂でツリーでも飾り付けているはずなのだが、どういう訳か朱志香のクローゼットの中に潜んでいた。ついでに言えば彼の機嫌はすこぶる悪い。婚約までした愛しの朱志香が魔女と仲睦まじく戯れていたからである。
「朱志香さんは僕の嫁なのに……それにしてもこのクローゼットいい匂いがする……朱志香さんの匂いかな」
が、しかし、彼の現在地はしつこいようだが朱志香のクローゼット。彼女が普段着ている洋服の宝庫である。さわり心地の良い生地と朱志香の移り香らしい甘い匂いに嘉音の不機嫌はたちまち緩和される。そしてこの匂いだけで朱志香が微笑むのを想像してみる。
『嘉哉くん……この服、新しく買ったんだけどどうかな……?』
可愛らしく頬を染めて彼女は新しいワンピースを身に纏ってこちらを見つめる。その仕草が愛おしくて彼は朱志香の頬を包む。
『とてもお可愛らしいです……朱志香さん』
『嘉哉くん……ありがと……』
朱志香は恥ずかしがって俯いてしまうだろうから、その可愛らしい顔をこちらに向かせて見つめ合うのだ。
『朱志香さん……』
『うん……?』
『あなたがあまりにお可愛らしいから……食べてしまいたくなってしまいます』
そう言えば彼女はますます頬を赤く染めて、恥ずかしげに笑うだろう。嘉音の大好きな太陽のような微笑みとはまた違う、恋する乙女のはにかんだ表情はきっと宇宙で一番可愛らしい。
『嘉哉くんなら……いいよ……?』
嘉音は感無量で朱志香の温かい身体を抱きしめて、桜色の唇に己のそれを近づける。
『朱志香さん……愛しています!』
ずべしゃっ。
彼女と口付けを交わしたと思ったら嘉音は朱志香の服に頭を突っ込んでいた。
「朱志香さん……僕はあなたの匂いだけでこの程度の妄想が可能です……早くいちゃいちゃしましょうね」
このときに限って嘉音の頭からは自重という言葉は吹き飛んでいたのであった。
「な……なあベアト」
不意に朱志香の不安そうな声が聞こえて彼は我に返る。彼女にもしものことがあったら大変だ。魔女が聞き返す。
「どうした朱志香?」
「この部屋……何か居ないか?」
「ふむ……不審者は居ないはずだがの」
ベアトリーチェが首を傾げるが、朱志香はふるふると首を横に振る。可愛い。
「なんかクローゼットから物音がして……」
「ふむ。安心するがよい朱志香。妾がそなたの平穏のために確かめてやろう!」
視界が遮られたと思ったら、がちゃ、と音がして目の前が明るくなった。
「……あ」
「え……?」
「……おい」
目の前の魔女が明らかにげんなりした顔になった。
「ちょっとお前、クローゼットから出てそこに座れ。妾が直々に制裁を加えてやろう」
数分後。ようやくベアトリーチェの説教(「ストーキングなどをしていないで真面目に仕事をしろ」という至極まともなものであった)から逃げてきた嘉音はバラ庭園を歩いていた。
「あの魔女め……ちょっと自分が朱志香さんと仲がいいからって愛し合う二人をくっつけさせないだなんて……でも朱志香さん、可愛かったな……」
もとはといえば仕事も放り出して朱志香のクローゼットに潜り込んでいた嘉音自身に原因があるのだが、今の彼にはそんなことは些細な問題だった。先ほどベアトリーチェの説教を受けていたときに見た戸惑う朱志香の表情がとても可愛かったからである。
「そういえば……結局渡せなかった……はぁ……あの魔女め!」
ポケットの中から小さな箱を取りだして溜息を吐く。そしてまた魔女への恨みを募らせる。
嘉音がクローゼットに潜り込んでいた理由は唯一つ、朱志香にクリスマスプレゼントを渡すためであった。この日のために節約に節約を重ね、朱志香を盗撮するためのフィルム代さえも涙を呑んで我慢して、休みの日を存分に使って買い求めた愛しい朱志香へのクリスマスプレゼント。これが渡せるのならば、今日一日の仕事を全て放り出して雷を落とされても嘉音は本望だった。
が、しかし。現実はそんなに甘いものではなかった。抜け出して朱志香に会いに行こうと思ったら仕事をしていなければいけないはずの紗音がゲストハウスにいる譲治(新島で仕事があったらしく、ついでにと泊まりに来ていた)のもとに脱走していたり、朱志香が忙しそうだったりとなかなかタイミングが合わないのである。
「何処か無理にでも時間を作って渡さないと……ん?」
バラ庭園の真ん中に見知った影を見つけたような気がして立ち止まる。
はたしてその影は仕事をしているはずの紗音と譲治であった。
「譲治さん……」
「紗代……」
「譲治さん……」
「さ、紗代……」
名前を呼び合って見つめ合うだけという行動をしているだけで、その先にはなかなか進まない。
「何だあれは……」
ぼそりと呟いた所で見つめ合う恋人達には届かない。
「譲治さん……」
「紗代……仕事は大丈夫なのかい?」
「大丈夫です、それより私譲治さんと……」
紗音は譲治の手を両手で握りしめ、自分の方に引き寄せる。
「ラブラブ……したいです!」
「うん、気持ちは嬉しいんだけど……そろそろゲストハウスに入らないかい?」
「譲治さんったら……照れ屋さんなんですからもう!」
進んだと思ったらしょうもないことを話し合っている。紗音はともかく譲治はバラ庭園でいちゃつくことの恥ずかしさと12月の寒空の中でコートも着ずに立ちつくしているのとで震えていた。
「いやほら紗代、紗代へのプレゼントも僕の鞄の中だし!」
「プレゼントですか!嬉しいです!私も譲治さんに愛情てんこ盛りのラブラブセーター編んだんです!」
「嬉しいよ、紗代……プレゼント渡したいからゲストハウスに入らないかい?」
「はい、譲治さん!セーター以外にも期待してくださいね!」
「紗代のブレンドしてくれる紅茶かな?期待しているよ!」
そうして二人は仲良く手を繋いでようやくゲストハウスへと歩いていった。
「やっと行ったよ……譲治様風邪引くだろあれ……僕も朱志香さんと……いちゃいちゃしたいなぁ……」
そう願って瞼を閉じれば自然と朱志香が微笑みかけてくれる。
『嘉哉くん!』
『朱志香さん……』
嘉音の瞼の裏の朱志香は頬を赤く染めて後ろ手に隠していた細長い包みを取り出す。去年もらったものよりも包み紙が格段に高級だ。
『これ……クリスマスプレゼント!べ、別に恋人同士だからって嘉哉くんのだけ奮発した訳じゃないんだからな!』
朱志香の言葉が照れ隠しなことぐらい彼には分かっている。その愛情が嬉しくて、緩む頬を抑えきれない。
『ありがとうございます……今年は、僕だけに奮発してくれたんですね……中を見ても?』
『う、うん……気に入ってくれると嬉しいんだけど……』
先ほどよりも頬を染めてもじもじと嘉音の反応を待つ彼女が可愛らしい。だからその仕草をじっくり見つめながら包みを開ける。中から現れたのは紺色の生地に金色のストライプの入ったネクタイだった。
『ネクタイ、ですか』
『うん……この間、嘉哉くんからネクタイもらったから……その、嘉哉くんにも似合いそうだなって』
彼を見つめる朱志香は耳まで赤く染まっていて、瞳もこころなしか潤んでいる。とても可愛い。
そう言えばこの間朱志香にネクタイを贈ったことを思い出す。いつも同じ柄というのも味気ないだろうと一生懸命探したのを思い出して、彼女も同じように一生懸命嘉音に似合う柄を探したのだろうと想像する。
『素敵な柄です……朱志香さんが僕に似合うと言ってくれるなら、きっと似合うはずですよ』
『そ……そうかな……それなら良かった……』
恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに笑う朱志香に心臓の鼓動が高鳴る。
『朱志香さん』
『嘉哉くん……?』
きゅっと彼女の両手を握って、嘉音は真っ直ぐ朱志香を見つめる。
『知っていますか?』
『え……何を?』
『ネクタイを異性に贈る意味……です』
『……?』
彼女が首を横に傾げる。可愛い。あまりに可愛くてその身体を腕の中に閉じこめる。
『よ、嘉哉くん!?』
『知りたいですか?』
『う、うん……』
『ネクタイを異性に贈るのは……その異性を束縛したい……という意味があるのだそうですよ』
耳元で囁けば朱志香はびくりと体を震わせた。
『あ、え……そ、束縛!?』
『僕は朱志香さんになら束縛されたいです……朱志香さんは……いかがですか?』
『え、えっと……わ、私も、嘉哉くんになら……その、えっと……!』
朱志香が腕の中でわたわたと言葉を紡ぐ。ああもう可愛らしい。だから嘉音は朱志香の頬を優しく包んで顔を近づける。
『朱志香さん……』
『よ、嘉哉、くん……』
そうして、そのまま唇を重ね合わせた。
「朱志香さん……愛しています……」
「おい嘉音。お前仕事はどうした」
朱志香の盗撮写真を抱きしめて感無量の嘉音はベアトリーチェの声で現実に引き戻された。いろいろと規制が必要な妄想をやめて渋々振り向く。
「仕事なんか知りませんよ。というか何でここにいるんですか。存在全否定しますよ?」
「あのな……妾お前に存在全否定されても朱志香に言いつけるだけだからいいんだが」
「じゃあ人格全否定?」
ベアトリーチェの顔が引きつる。
「お前朱志香に近づくやつには慈悲の欠片もねぇのな」
「あるわけないじゃないですか」
だよなぁ、と魔女は溜息を吐く。
「それより大変だぞ!」
「何がですか?」
「朱志香に……」
「朱志香さんに?」
「朱志香にウサ耳が生えた!」
「なんだってぇ!?」
「朱志香さん!」
朱志香の部屋に駆けつけると、部屋の主である朱志香がくるりとこちらを向く。サンタドレスが相変わらず可愛らしい。
がしかし、彼女の頭には天井に向かってぴんと立つグレーのウサギの耳が生えている。それでもやっぱり可愛い。
「嘉哉くん!……どうしよう、ウサ耳が……」
「魔法でも掛けられましたか?」
朱志香の手を取ってそう問いかければ、彼女は不安そうな顔でこくんと頷く。
「実はその……あのオッサン……ロノウェが来てさ、『悪魔が贈るらぶらぶ☆クリスマス大特集』って雑誌に載ってたのを適当に……」
「……あのオッサン……」
実はウサ耳朱志香に萌えたいがためにやったことではなかろうかと嘉音は疑わざるを得ない。ロノウェにとっては全くもっていい迷惑だろうが、今この瞬間、嘉音は疑念と同時に感謝の念までも抱いていた。
ウサ耳を不安そうにぴょこぴょこと揺らす朱志香は可愛い。普段から可愛いのだがウサ耳を付けると小動物的な可愛らしさが備わって、ついつい膝の上に載せて可愛がりたくなる。
「どうしよう……嘉哉くん……」
だから彼女の手をきゅっと握りしめて囁いた。
「大丈夫です、朱志香さんは僕がお守りします!」
六軒島で怪奇現象が起こるのはいつもの事である。全くもって不思議な事ではない。
だから朱志香にウサ耳が生えるのも不思議な事ではないのだが、戻す方法が分からない事にはどうしようもない。とりあえず部屋を出てふらふらする事にした。
「そういえば尻尾って付いているんですか?」
「え……ど、どうだろう……」
聞けば朱志香は頬を赤らめて腰のあたりを探る。
「……あ、生えてる……」
ほら、と背を向けた彼女には間違いなくグレーの尻尾が生えていた。ウサギの尻尾が皆そうであるように、小さくて丸くてふわふわしている。
「触っても?」
「だ、だめ……恥ずかしいから駄目だぜ!」
「そんな!一生のお願いです、ちょっと触るだけですから他に何もしませんから朱志香さんのふわふわの可愛らしい尻尾を触らせてくださいっ!」
食い下がれば朱志香は頬を赤く染めてぶんぶんと首を横に振る。
「いくら嘉哉くんのお願いでもそれは駄目だぜ!」
「どうしても……駄目ですか?」
「だ……駄目っ!」
きっぱりと拒絶されて嘉音は少しだけショックを受けた。だがしかし朱志香の嫌がる顔が可愛いので良しとする。
「分かりました……諦めます。朱志香さんのウサ耳が揺れるのを眺めて我慢します……」
「うん……ごめんね……」
「朱志香さんは悪くありません!全てはあのオッサンが悪いんです!」
しょげた顔を見たくなくて、朱志香の肩を掴んで叫べば彼女は驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「朱志香さん?」
「嘉哉くん、可愛い」
「……へ?」
「サンタの格好してそういう事言うの、本当可愛いぜ!」
嘉音は可愛いと言われるのは好きではない。朱志香と恋仲にならない時分はそう言われるたびに反発していた。それなのに今、彼女に可愛いと連呼されているのに全く不快にならない。
愛の力とは全く素晴らしい。
だから彼も朱志香の手を握って見つめ合う。
「朱志香さんの方が可愛いですよ……」
「嘉哉くん……」
「朱志香さん……」
そうして、二人の唇が近づいて。
「……あ!譲治兄さんに勉強教えてもらう約束忘れてた!」
不意に朱志香が身を翻して走って行ってしまったので嘉音は一人その場に取り残される。
「……忘れるほど僕と一緒にいたかったんですね……朱志香さん、今行きます!」
気を取り直していつも通り朱志香を追いかけ始めた彼に、彼女の頬がリンゴのように赤く染まっていた事など知るよしもないのであった。
嘉音がようやっと朱志香を捕まえたのはバラ庭園のあたりであった。
「朱志香さん!」
「嘉哉くん!?」
追いついて後ろから抱きしめる。驚いて身を捩る様が可愛らしい。
「僕もお供させて頂きます」
「え、べ、別に構わないぜ?」
「ありがとうございます、朱志香さん……」
「うん……」
そんな事を囁きあっていると、向こうから譲治と紗音がやってくるのが見えた。
「お、来た来た!譲治兄さん、紗音、こっち!」
朱志香がウサ耳をぴょこぴょこ揺らしながら飛び跳ねる。あんまり飛ぶとスカートがめくれてしまうのではと嘉音が密かに危惧したとき、事件は起こった。
「朱志香ちゃん、ちっとも呼びに来ないからどうしたのかなと思ってたんだけど……」
「い、いやその、ちょっと立て込んでて……きゃっ!?」
冬らしく強い風がバラ庭園を吹き抜ける。朱志香のスカートの裾を巻き上げる。
このままではまずい。何故なら朱志香のスカートの中身を見て良いのは嘉音だけだからである。
だからその瞬間、彼はほとんど無意識に動いていた。
「お嬢様のスカートの中身を見て良いのは僕だけですっ!」
「きゃっ、か、嘉音くん!?」
譲治や紗音に見えないように朱志香の前に滑り出る。ちょうど嘉音の頭で見たくとも見えないはずだ。
よくやった僕、と彼が思ったのもつかの間、赤と白のひらひらの布が目の前に垂れ下がる。風が止んだのだ。
「か……嘉音くん……」
「あれ……?」
とりあえず前に一歩踏み出すと布は視界から消え去った。
「……まさか」
朱志香の方を見ると彼女は頬を先ほどよりも真っ赤に染め上げて羞恥に震えていた。きっ、と涙を湛えた眼に睨まれる。まずい。これは非常にまずい。朱志香のスカートの中に頭を突っ込みたくてあんな行動をしたと思われていそうである。
「あ、あの、朱志香さん……これは……」
「嘉哉くんの……変態~っ!」
事実そう思っていたらしく、嘉音の言葉を遮って朱志香は走り去ってしまった。
「ち、違うんだ朱志香ぁぁぁぁっ!話を聞いてぇぇぇっ!」
彼の叫びが空しくバラ庭園にこだました。
それから色々とあって、嘉音と朱志香が二人きりになったのは夕食後の事であった。
「朱志香さん……今日は色々と申し訳ございませんでした」
「あ……そ、その、うん……びっくりしただけだから」
ふわりと微笑んでくれる朱志香が愛おしい。ポケットから小さな箱を取りだして朱志香の手の平に載せる。
「メリークリスマスです、……朱志香」
「これ……私に?」
「はい。気に入ってくださるといいのですが……」
朱志香はゆっくりと小箱を開け、中に納められていたものに僅かに目を見開いた。
「指輪……?」
「はい。僕と朱志香の……婚約指輪です」
それを聞いた朱志香は指輪を左手の薬指にはめる。サイズもぴったりだ。測っておいて良かった。
「私と……嘉哉くんの……ありがとう、嘉哉くん!」
朱志香がぱふんと嘉音に抱きついた。温かくて柔らかいその身体を嘉音は思う存分抱きしめる。
「嘉哉くんに……私もプレゼント用意したんだぜ……?」
「いただけますか……?」
「うん……」
彼女が体を離して小さな包みを彼に手渡す。
「開けても?」
「うん……気に入ってくれたら、いいな」
朱志香の視線を感じながら包みを開ける。
「懐中時計……凄く、見やすいです」
「何か実用的なものの方がいいかなと思って……」
その気遣いが嬉しくて、彼は再び朱志香を抱きしめた。
「ありがとうございます、朱志香!」
「嘉哉くん!」
「今年は最高のクリスマスになりました……」
「私も、凄く楽しめたよ……」
朱志香の目をじっと見つめる。彼女も嘉音の目をじっと見つめる。
「朱志香、愛しています……」
「嘉哉くん……」
そうして、二人の唇がゆっくりと重なった。
六軒島は今日も平和である。朱志香にウサ耳が生えたり魔女がその辺で遊んでいたりと不思議な事は多いけれど、若い恋人達は今日も元気である。
今宵はクリスマス。魔女がハロウィンを混ぜたがったようではあるけれど、クリスマスである。
この聖なる夜に、全ての者たちに幸あらんことを!
……というよりも、僕と朱志香さんが幸せでいられますように!
魔女の棋譜
使用人・嘉音
なんやかんやで朱志香と幸せ恋人ライフを満喫中。色々と買い物をしているようだが、そんな貯金で大丈夫か?
「大丈夫だ、問題ない」(本人談)
それは欧米で生まれた行事で、イエス・キリストの誕生日を祝うものである。
が、しかし。日本ではそんなことはお構いなしにカップルがラブラブデートを繰り広げたり、色々な店が客の争奪戦を繰り広げたり、はたまた冬休み前の最後の登校日だったりする。
それはともかく、本日はクリスマスである。
雪降りランタンに口付けを
六軒島の右代宮本家はクリスマスパーティーの準備で大わらわであった。ただし一部を除いて。その一部というのは受験を控えた一人娘の右代宮朱志香のみなのだが、現在に限って準備に加わらないものが数名いた。
「トリック・オア・トリート!」
「きゃっ!ベ、ベアト!?」
赤と白のフリルやレースが可愛らしいゴスロリ風のサンタドレスを身に纏った朱志香に背後から抱きつくのは六軒島の魔女・ベアトリーチェである。
「朱志香、トリック・オア・トリートだぞぅ?」
ベアトリーチェは至極楽しそうに朱志香に抱きついたまま笑う。朱志香は仕方ないなと困ったように笑って、小さな包みを魔女の手の平に乗せた。
「メリークリスマス、ベアトリーチェ」
「なんだ、妾へのプレゼントを用意していたのなら普通に来るのであったな!」
「用意してるに決まってるだろ?トリック・オア・トリートなんて言わなくたって……」
「妾はハロウィンの方が似合うと思うてな……でも妾は嬉しいぞ!」
「喜んで貰えて良かったぜ!」
朱志香の部屋のベッドの上でそんな微笑ましいやり取りをする仲睦まじい少女達をじっと見ている一つの影があった。
「あの魔女め……僕の朱志香さんを僕の朱志香さんを僕の朱志香さんを……」
言わずもがな朱志香の恋人である使用人の嘉音である。彼は本来ならば食堂でツリーでも飾り付けているはずなのだが、どういう訳か朱志香のクローゼットの中に潜んでいた。ついでに言えば彼の機嫌はすこぶる悪い。婚約までした愛しの朱志香が魔女と仲睦まじく戯れていたからである。
「朱志香さんは僕の嫁なのに……それにしてもこのクローゼットいい匂いがする……朱志香さんの匂いかな」
が、しかし、彼の現在地はしつこいようだが朱志香のクローゼット。彼女が普段着ている洋服の宝庫である。さわり心地の良い生地と朱志香の移り香らしい甘い匂いに嘉音の不機嫌はたちまち緩和される。そしてこの匂いだけで朱志香が微笑むのを想像してみる。
『嘉哉くん……この服、新しく買ったんだけどどうかな……?』
可愛らしく頬を染めて彼女は新しいワンピースを身に纏ってこちらを見つめる。その仕草が愛おしくて彼は朱志香の頬を包む。
『とてもお可愛らしいです……朱志香さん』
『嘉哉くん……ありがと……』
朱志香は恥ずかしがって俯いてしまうだろうから、その可愛らしい顔をこちらに向かせて見つめ合うのだ。
『朱志香さん……』
『うん……?』
『あなたがあまりにお可愛らしいから……食べてしまいたくなってしまいます』
そう言えば彼女はますます頬を赤く染めて、恥ずかしげに笑うだろう。嘉音の大好きな太陽のような微笑みとはまた違う、恋する乙女のはにかんだ表情はきっと宇宙で一番可愛らしい。
『嘉哉くんなら……いいよ……?』
嘉音は感無量で朱志香の温かい身体を抱きしめて、桜色の唇に己のそれを近づける。
『朱志香さん……愛しています!』
ずべしゃっ。
彼女と口付けを交わしたと思ったら嘉音は朱志香の服に頭を突っ込んでいた。
「朱志香さん……僕はあなたの匂いだけでこの程度の妄想が可能です……早くいちゃいちゃしましょうね」
このときに限って嘉音の頭からは自重という言葉は吹き飛んでいたのであった。
「な……なあベアト」
不意に朱志香の不安そうな声が聞こえて彼は我に返る。彼女にもしものことがあったら大変だ。魔女が聞き返す。
「どうした朱志香?」
「この部屋……何か居ないか?」
「ふむ……不審者は居ないはずだがの」
ベアトリーチェが首を傾げるが、朱志香はふるふると首を横に振る。可愛い。
「なんかクローゼットから物音がして……」
「ふむ。安心するがよい朱志香。妾がそなたの平穏のために確かめてやろう!」
視界が遮られたと思ったら、がちゃ、と音がして目の前が明るくなった。
「……あ」
「え……?」
「……おい」
目の前の魔女が明らかにげんなりした顔になった。
「ちょっとお前、クローゼットから出てそこに座れ。妾が直々に制裁を加えてやろう」
数分後。ようやくベアトリーチェの説教(「ストーキングなどをしていないで真面目に仕事をしろ」という至極まともなものであった)から逃げてきた嘉音はバラ庭園を歩いていた。
「あの魔女め……ちょっと自分が朱志香さんと仲がいいからって愛し合う二人をくっつけさせないだなんて……でも朱志香さん、可愛かったな……」
もとはといえば仕事も放り出して朱志香のクローゼットに潜り込んでいた嘉音自身に原因があるのだが、今の彼にはそんなことは些細な問題だった。先ほどベアトリーチェの説教を受けていたときに見た戸惑う朱志香の表情がとても可愛かったからである。
「そういえば……結局渡せなかった……はぁ……あの魔女め!」
ポケットの中から小さな箱を取りだして溜息を吐く。そしてまた魔女への恨みを募らせる。
嘉音がクローゼットに潜り込んでいた理由は唯一つ、朱志香にクリスマスプレゼントを渡すためであった。この日のために節約に節約を重ね、朱志香を盗撮するためのフィルム代さえも涙を呑んで我慢して、休みの日を存分に使って買い求めた愛しい朱志香へのクリスマスプレゼント。これが渡せるのならば、今日一日の仕事を全て放り出して雷を落とされても嘉音は本望だった。
が、しかし。現実はそんなに甘いものではなかった。抜け出して朱志香に会いに行こうと思ったら仕事をしていなければいけないはずの紗音がゲストハウスにいる譲治(新島で仕事があったらしく、ついでにと泊まりに来ていた)のもとに脱走していたり、朱志香が忙しそうだったりとなかなかタイミングが合わないのである。
「何処か無理にでも時間を作って渡さないと……ん?」
バラ庭園の真ん中に見知った影を見つけたような気がして立ち止まる。
はたしてその影は仕事をしているはずの紗音と譲治であった。
「譲治さん……」
「紗代……」
「譲治さん……」
「さ、紗代……」
名前を呼び合って見つめ合うだけという行動をしているだけで、その先にはなかなか進まない。
「何だあれは……」
ぼそりと呟いた所で見つめ合う恋人達には届かない。
「譲治さん……」
「紗代……仕事は大丈夫なのかい?」
「大丈夫です、それより私譲治さんと……」
紗音は譲治の手を両手で握りしめ、自分の方に引き寄せる。
「ラブラブ……したいです!」
「うん、気持ちは嬉しいんだけど……そろそろゲストハウスに入らないかい?」
「譲治さんったら……照れ屋さんなんですからもう!」
進んだと思ったらしょうもないことを話し合っている。紗音はともかく譲治はバラ庭園でいちゃつくことの恥ずかしさと12月の寒空の中でコートも着ずに立ちつくしているのとで震えていた。
「いやほら紗代、紗代へのプレゼントも僕の鞄の中だし!」
「プレゼントですか!嬉しいです!私も譲治さんに愛情てんこ盛りのラブラブセーター編んだんです!」
「嬉しいよ、紗代……プレゼント渡したいからゲストハウスに入らないかい?」
「はい、譲治さん!セーター以外にも期待してくださいね!」
「紗代のブレンドしてくれる紅茶かな?期待しているよ!」
そうして二人は仲良く手を繋いでようやくゲストハウスへと歩いていった。
「やっと行ったよ……譲治様風邪引くだろあれ……僕も朱志香さんと……いちゃいちゃしたいなぁ……」
そう願って瞼を閉じれば自然と朱志香が微笑みかけてくれる。
『嘉哉くん!』
『朱志香さん……』
嘉音の瞼の裏の朱志香は頬を赤く染めて後ろ手に隠していた細長い包みを取り出す。去年もらったものよりも包み紙が格段に高級だ。
『これ……クリスマスプレゼント!べ、別に恋人同士だからって嘉哉くんのだけ奮発した訳じゃないんだからな!』
朱志香の言葉が照れ隠しなことぐらい彼には分かっている。その愛情が嬉しくて、緩む頬を抑えきれない。
『ありがとうございます……今年は、僕だけに奮発してくれたんですね……中を見ても?』
『う、うん……気に入ってくれると嬉しいんだけど……』
先ほどよりも頬を染めてもじもじと嘉音の反応を待つ彼女が可愛らしい。だからその仕草をじっくり見つめながら包みを開ける。中から現れたのは紺色の生地に金色のストライプの入ったネクタイだった。
『ネクタイ、ですか』
『うん……この間、嘉哉くんからネクタイもらったから……その、嘉哉くんにも似合いそうだなって』
彼を見つめる朱志香は耳まで赤く染まっていて、瞳もこころなしか潤んでいる。とても可愛い。
そう言えばこの間朱志香にネクタイを贈ったことを思い出す。いつも同じ柄というのも味気ないだろうと一生懸命探したのを思い出して、彼女も同じように一生懸命嘉音に似合う柄を探したのだろうと想像する。
『素敵な柄です……朱志香さんが僕に似合うと言ってくれるなら、きっと似合うはずですよ』
『そ……そうかな……それなら良かった……』
恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに笑う朱志香に心臓の鼓動が高鳴る。
『朱志香さん』
『嘉哉くん……?』
きゅっと彼女の両手を握って、嘉音は真っ直ぐ朱志香を見つめる。
『知っていますか?』
『え……何を?』
『ネクタイを異性に贈る意味……です』
『……?』
彼女が首を横に傾げる。可愛い。あまりに可愛くてその身体を腕の中に閉じこめる。
『よ、嘉哉くん!?』
『知りたいですか?』
『う、うん……』
『ネクタイを異性に贈るのは……その異性を束縛したい……という意味があるのだそうですよ』
耳元で囁けば朱志香はびくりと体を震わせた。
『あ、え……そ、束縛!?』
『僕は朱志香さんになら束縛されたいです……朱志香さんは……いかがですか?』
『え、えっと……わ、私も、嘉哉くんになら……その、えっと……!』
朱志香が腕の中でわたわたと言葉を紡ぐ。ああもう可愛らしい。だから嘉音は朱志香の頬を優しく包んで顔を近づける。
『朱志香さん……』
『よ、嘉哉、くん……』
そうして、そのまま唇を重ね合わせた。
「朱志香さん……愛しています……」
「おい嘉音。お前仕事はどうした」
朱志香の盗撮写真を抱きしめて感無量の嘉音はベアトリーチェの声で現実に引き戻された。いろいろと規制が必要な妄想をやめて渋々振り向く。
「仕事なんか知りませんよ。というか何でここにいるんですか。存在全否定しますよ?」
「あのな……妾お前に存在全否定されても朱志香に言いつけるだけだからいいんだが」
「じゃあ人格全否定?」
ベアトリーチェの顔が引きつる。
「お前朱志香に近づくやつには慈悲の欠片もねぇのな」
「あるわけないじゃないですか」
だよなぁ、と魔女は溜息を吐く。
「それより大変だぞ!」
「何がですか?」
「朱志香に……」
「朱志香さんに?」
「朱志香にウサ耳が生えた!」
「なんだってぇ!?」
「朱志香さん!」
朱志香の部屋に駆けつけると、部屋の主である朱志香がくるりとこちらを向く。サンタドレスが相変わらず可愛らしい。
がしかし、彼女の頭には天井に向かってぴんと立つグレーのウサギの耳が生えている。それでもやっぱり可愛い。
「嘉哉くん!……どうしよう、ウサ耳が……」
「魔法でも掛けられましたか?」
朱志香の手を取ってそう問いかければ、彼女は不安そうな顔でこくんと頷く。
「実はその……あのオッサン……ロノウェが来てさ、『悪魔が贈るらぶらぶ☆クリスマス大特集』って雑誌に載ってたのを適当に……」
「……あのオッサン……」
実はウサ耳朱志香に萌えたいがためにやったことではなかろうかと嘉音は疑わざるを得ない。ロノウェにとっては全くもっていい迷惑だろうが、今この瞬間、嘉音は疑念と同時に感謝の念までも抱いていた。
ウサ耳を不安そうにぴょこぴょこと揺らす朱志香は可愛い。普段から可愛いのだがウサ耳を付けると小動物的な可愛らしさが備わって、ついつい膝の上に載せて可愛がりたくなる。
「どうしよう……嘉哉くん……」
だから彼女の手をきゅっと握りしめて囁いた。
「大丈夫です、朱志香さんは僕がお守りします!」
六軒島で怪奇現象が起こるのはいつもの事である。全くもって不思議な事ではない。
だから朱志香にウサ耳が生えるのも不思議な事ではないのだが、戻す方法が分からない事にはどうしようもない。とりあえず部屋を出てふらふらする事にした。
「そういえば尻尾って付いているんですか?」
「え……ど、どうだろう……」
聞けば朱志香は頬を赤らめて腰のあたりを探る。
「……あ、生えてる……」
ほら、と背を向けた彼女には間違いなくグレーの尻尾が生えていた。ウサギの尻尾が皆そうであるように、小さくて丸くてふわふわしている。
「触っても?」
「だ、だめ……恥ずかしいから駄目だぜ!」
「そんな!一生のお願いです、ちょっと触るだけですから他に何もしませんから朱志香さんのふわふわの可愛らしい尻尾を触らせてくださいっ!」
食い下がれば朱志香は頬を赤く染めてぶんぶんと首を横に振る。
「いくら嘉哉くんのお願いでもそれは駄目だぜ!」
「どうしても……駄目ですか?」
「だ……駄目っ!」
きっぱりと拒絶されて嘉音は少しだけショックを受けた。だがしかし朱志香の嫌がる顔が可愛いので良しとする。
「分かりました……諦めます。朱志香さんのウサ耳が揺れるのを眺めて我慢します……」
「うん……ごめんね……」
「朱志香さんは悪くありません!全てはあのオッサンが悪いんです!」
しょげた顔を見たくなくて、朱志香の肩を掴んで叫べば彼女は驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「朱志香さん?」
「嘉哉くん、可愛い」
「……へ?」
「サンタの格好してそういう事言うの、本当可愛いぜ!」
嘉音は可愛いと言われるのは好きではない。朱志香と恋仲にならない時分はそう言われるたびに反発していた。それなのに今、彼女に可愛いと連呼されているのに全く不快にならない。
愛の力とは全く素晴らしい。
だから彼も朱志香の手を握って見つめ合う。
「朱志香さんの方が可愛いですよ……」
「嘉哉くん……」
「朱志香さん……」
そうして、二人の唇が近づいて。
「……あ!譲治兄さんに勉強教えてもらう約束忘れてた!」
不意に朱志香が身を翻して走って行ってしまったので嘉音は一人その場に取り残される。
「……忘れるほど僕と一緒にいたかったんですね……朱志香さん、今行きます!」
気を取り直していつも通り朱志香を追いかけ始めた彼に、彼女の頬がリンゴのように赤く染まっていた事など知るよしもないのであった。
嘉音がようやっと朱志香を捕まえたのはバラ庭園のあたりであった。
「朱志香さん!」
「嘉哉くん!?」
追いついて後ろから抱きしめる。驚いて身を捩る様が可愛らしい。
「僕もお供させて頂きます」
「え、べ、別に構わないぜ?」
「ありがとうございます、朱志香さん……」
「うん……」
そんな事を囁きあっていると、向こうから譲治と紗音がやってくるのが見えた。
「お、来た来た!譲治兄さん、紗音、こっち!」
朱志香がウサ耳をぴょこぴょこ揺らしながら飛び跳ねる。あんまり飛ぶとスカートがめくれてしまうのではと嘉音が密かに危惧したとき、事件は起こった。
「朱志香ちゃん、ちっとも呼びに来ないからどうしたのかなと思ってたんだけど……」
「い、いやその、ちょっと立て込んでて……きゃっ!?」
冬らしく強い風がバラ庭園を吹き抜ける。朱志香のスカートの裾を巻き上げる。
このままではまずい。何故なら朱志香のスカートの中身を見て良いのは嘉音だけだからである。
だからその瞬間、彼はほとんど無意識に動いていた。
「お嬢様のスカートの中身を見て良いのは僕だけですっ!」
「きゃっ、か、嘉音くん!?」
譲治や紗音に見えないように朱志香の前に滑り出る。ちょうど嘉音の頭で見たくとも見えないはずだ。
よくやった僕、と彼が思ったのもつかの間、赤と白のひらひらの布が目の前に垂れ下がる。風が止んだのだ。
「か……嘉音くん……」
「あれ……?」
とりあえず前に一歩踏み出すと布は視界から消え去った。
「……まさか」
朱志香の方を見ると彼女は頬を先ほどよりも真っ赤に染め上げて羞恥に震えていた。きっ、と涙を湛えた眼に睨まれる。まずい。これは非常にまずい。朱志香のスカートの中に頭を突っ込みたくてあんな行動をしたと思われていそうである。
「あ、あの、朱志香さん……これは……」
「嘉哉くんの……変態~っ!」
事実そう思っていたらしく、嘉音の言葉を遮って朱志香は走り去ってしまった。
「ち、違うんだ朱志香ぁぁぁぁっ!話を聞いてぇぇぇっ!」
彼の叫びが空しくバラ庭園にこだました。
それから色々とあって、嘉音と朱志香が二人きりになったのは夕食後の事であった。
「朱志香さん……今日は色々と申し訳ございませんでした」
「あ……そ、その、うん……びっくりしただけだから」
ふわりと微笑んでくれる朱志香が愛おしい。ポケットから小さな箱を取りだして朱志香の手の平に載せる。
「メリークリスマスです、……朱志香」
「これ……私に?」
「はい。気に入ってくださるといいのですが……」
朱志香はゆっくりと小箱を開け、中に納められていたものに僅かに目を見開いた。
「指輪……?」
「はい。僕と朱志香の……婚約指輪です」
それを聞いた朱志香は指輪を左手の薬指にはめる。サイズもぴったりだ。測っておいて良かった。
「私と……嘉哉くんの……ありがとう、嘉哉くん!」
朱志香がぱふんと嘉音に抱きついた。温かくて柔らかいその身体を嘉音は思う存分抱きしめる。
「嘉哉くんに……私もプレゼント用意したんだぜ……?」
「いただけますか……?」
「うん……」
彼女が体を離して小さな包みを彼に手渡す。
「開けても?」
「うん……気に入ってくれたら、いいな」
朱志香の視線を感じながら包みを開ける。
「懐中時計……凄く、見やすいです」
「何か実用的なものの方がいいかなと思って……」
その気遣いが嬉しくて、彼は再び朱志香を抱きしめた。
「ありがとうございます、朱志香!」
「嘉哉くん!」
「今年は最高のクリスマスになりました……」
「私も、凄く楽しめたよ……」
朱志香の目をじっと見つめる。彼女も嘉音の目をじっと見つめる。
「朱志香、愛しています……」
「嘉哉くん……」
そうして、二人の唇がゆっくりと重なった。
六軒島は今日も平和である。朱志香にウサ耳が生えたり魔女がその辺で遊んでいたりと不思議な事は多いけれど、若い恋人達は今日も元気である。
今宵はクリスマス。魔女がハロウィンを混ぜたがったようではあるけれど、クリスマスである。
この聖なる夜に、全ての者たちに幸あらんことを!
……というよりも、僕と朱志香さんが幸せでいられますように!
魔女の棋譜
使用人・嘉音
なんやかんやで朱志香と幸せ恋人ライフを満喫中。色々と買い物をしているようだが、そんな貯金で大丈夫か?
「大丈夫だ、問題ない」(本人談)
お久しぶりです。
今回はツイッターでお世話になっている「そらそらぶるー」のそら様からリクエストをいただいたカノジェシSSです。
そして今回びっくりするほど暗いです。あと紗音ちゃんがなんだかんだで酷い。
嘉音くんはいつも通りヤンデレです。
あ、あとさりげなく朱志香=ベアトリーチェ説です。リクエスト品なのにこんなので本当に申し訳ないです……。
それから拍手やコメントありがとうございます、お返事していいものなのか分からないのですが、本当に嬉しいです!
それではどうぞ。
「鳥籠破り」
今回はツイッターでお世話になっている「そらそらぶるー」のそら様からリクエストをいただいたカノジェシSSです。
そして今回びっくりするほど暗いです。あと紗音ちゃんがなんだかんだで酷い。
嘉音くんはいつも通りヤンデレです。
あ、あとさりげなく朱志香=ベアトリーチェ説です。リクエスト品なのにこんなので本当に申し訳ないです……。
それから拍手やコメントありがとうございます、お返事していいものなのか分からないのですが、本当に嬉しいです!
それではどうぞ。
「鳥籠破り」
決して恋い焦がれてはならない人だと分かっていた。
それでも恋をして、初めて他人の世界に踏み込んだ。
彼女の中に期待していたものが見つけられなくて、初めて本当の意味で彼女の世界を土足で踏みにじった。
それなのに微笑む朱志香が愛しくて悲しくて、彼女をこの腕の中に閉じこめた。
本当の意味で嘉音を受け入れた朱志香を、彼は一生守りたいと思ったのだ。
例えその先に待つのは深く険しい茨の森だとしても。
鳥籠破り
カーテンから差し込む光に嘉音は目を覚ました。窓の外を見ればまだ暗い夜空に生まれ出でようとする太陽の光が差している。まだ少し眠れるとベッドに潜り込もうとして、普段よりも柔らかい感触に若干の驚きを覚える。ふと隣を見れば、金色の髪の少女がこちらに背を向けて眠っていた。
そして、彼は思い出す。
昨夜は彼女を腕の中にかき抱いて、無理矢理にでもこちらを向かせて、そのまま寝てしまったのだ。
「朱志香……」
少女の名を呼んで、再びその華奢な身体を抱きよせる。
「ん……」
朱志香が目をゆっくりと開ける。そのあどけなさが愛おしくて、出来るだけ優しく声を掛ける。
「お目覚めですか?」
「か……嘉哉、くん……」
彼女の瞳に一瞬だけ浮かんだのは恐怖の色。それは紛れもなく嘉音がしたことの代償。無理に事を急ぎすぎて呼ぶことを強いた彼の本名は朱志香の悲しみに彩られていて、それが少しだけ寂しかった。
「お体は……大丈夫ですか?」
「う……ん……」
「今夜はもう……何も酷いことをしませんから……」
抱きしめて柔らかな金髪を梳けば、朱志香は俯いて遠慮がちに腕を彼の背へと回す。
「朱志香様……」
「……ごめん、ね……」
「……?」
「もう、ずっと……嘉哉くんだけ見てる……から」
「朱志香様……ずっと、あなたを離さなくても……許してくれますか?」
「……うん……」
再び顔を上げた朱志香の瞳に恐怖の色はもう無かった。
代わりに浮かんでいた嘉音が求めて止まなかった幸せそうな笑顔に、彼は涙が出るほど嬉しさを感じた。
数日が経った。
「おはよう、嘉音くん」
「おはよう、姉さん」
いつも通り紗音と挨拶を交わす。いつもは優しい光を湛えているはずの紗音の瞳は何故か冷たくて、彼は違和感を感じる。それを知ってか知らずか、彼女は何食わぬ顔でこちらに問う。
「お嬢様と何かあったの?」
「……別に、何も」
「……そう。私の勝ち、だね」
それが何のことなのか、嘉音は気付くことが出来なかった。
その朝の申し送りで源次に解雇を言い渡されるまでは。
「どういうことですか!?」
「私にも分からん。……本当に思い当たることはないのか?」
問いつめれば源次は溜息を吐いて逆に問い返す。
「……ありません」
朱志香との逢瀬は数えるほどはあったけれど、二人が逢うのはいつも朱志香の部屋だったし、ましてや何処かに行ったことなんてない。本当に分からない。
『私の勝ち、だね』
紗音の言葉がフラッシュバックする。そして、嘉音は思い出す。
家具である自分が朱志香と結ばれるためには紗音が譲治と結ばれるのを阻止しなければならないことを。
そして紗音も嘉音が朱志香と結ばれるのを阻止するであろうことを。
まさか、そのために付け回していたとでも言うのだろうか。
そして嘉音が朱志香と進展したことを知り、夏妃に言いつけたのだろうか。
それしかない。
紗音は右代宮家に勤める前から仲良くしていた姉だから疑いたくはないけれど、それしか考えつかない。
「……」
姉は嘉音の幸せよりも朱志香の幸せよりも、自分と譲治の幸せを取ったのだ。
祝うと言ったくせにとても祝う気分にはなれなくて、嘉音は荷物を纏めるために自室へと向かったのであった。
荷物を纏めながら考えた。
何年も想い続けてようやく朱志香と結ばれたのだ。このまま彼女を一人にはしたくない。
愛し合うことそれ自体が罪だなんて純粋な朱志香に教えてしまうわけにはいかない。
けれど解雇された以上ここには居られなくて、それが悔しくて涙がこぼれる。
嘉音はどうすればいいのか考え続ける。
解雇されて何もしなければ彼女は自分を捜すことすら許されないだろう。
それならば。
「……絶対に……朱志香に相応しい人間になって戻ってくる……!」
溢れる涙を拭いながら彼はそう決意した。
そのまま朱志香の部屋へと急ぐ。ノックをすれば愛しい彼女が何も知らない無垢な笑顔で出迎えてくれる。
「朱志香」
「ん……!?」
部屋の中に入って朱志香をきつく抱きしめる。
「朱志香、聞いてください」
「う、うん……」
「僕は……右代宮家を解雇されました」
耳元で彼女が息を呑む。
「え……!?」
「紗音に……あなたとのことを密告されて……」
「そんな……っ」
体を震わせる朱志香をもっときつく抱きしめる。彼女が離れてしまわないように。そして、告げる。
「しばらく会えませんが……僕は必ずあなたの元へ戻ってきます。ですから待っていてください」
沈黙が降りる。悠久に感じられるほどの長い長い沈黙のあと、彼女が小さな声で呟いた。
「どのぐらい……?」
「え?」
「どのぐらい、待てばいいの……」
「……分かりません。しかし」
「いいよ……来なくても、もう……」
「朱志香……」
「待たせるだけ待たせて、結局は誰も来ないから……もう、そんなに期待させなくて、いいよ……」
朱志香の声色は悲しみと絶望に満ち溢れていて、嘉音の胸が締め付けられる。その言葉には何が去来するのか、彼には分からない。
彼女が昔の思い人をどんな気持ちで見送ったのか、この言葉で全てが分かるような気がして、嘉音の中に言いようのない憤りがわき起こる。
彼がここで去っていってしまえば、朱志香はまた独りぼっち。
紗音がいようといとこがいようと、結局鳥籠に一人残されることには変わりないだろう。
その寂しさはどれほどだろう。
自分を閉じこめる鳥籠を、広い空を舞うことすら許されないその身体を、どれほど呪うだろう。
ならば、期待をさせる必要などないではないか。彼女を手放す必要などないではないか。
「……分かりました」
「うん……」
「ですから、今日一日だけここに匿ってください」
だからそう囁く。
「どういうこと……?」
「あなたをこの島から攫っていきます」
もう一度、朱志香が息を呑んだ。
「……!」
「あなたをここに残して悲しませるぐらいなら、例え僕の身体が引き裂かれようとあなたを無理にでも攫っていく……ですから、今日中に荷物を整えてください」
「嘉哉くん……」
「もう僕はあなたを悲しませたりしない。ずっと朱志香を離さない!だから……!」
「本当、に……?」
彼女がこちらを向く。真っ直ぐ目を合わせて嘉音は叫ぶ。
「本当です、どうしても……どうしても朱志香と一緒にいたい!誰に反対されようと、例え世界中を敵に回しても、僕は朱志香が欲しいんです!」
彼女を愛しているからこそ、手放せない。
彼女に恋をしなければこの狂おしい渇望は生まれなかっただろう。
幾万の言葉を尽くしても言い尽くせないほど、彼は彼女を欲していた。
だからこそ泣きそうな顔をして立ちつくす彼女の沈黙に不安を覚える。
もしも嫌だと言われてしまったらどうしよう。
自分となどいたくないと言われてしまったらどうしよう。
その不安を必死で押し込めて声を掛ける。
「朱志香……」
不意に、朱志香の頬を涙が転がり落ちた。
「朱志香……?」
「そんなこと言ってもらったの……初めて……」
「朱志香……」
「本当に……初めて……ありがと……」
そう何度も繰り返す朱志香が愛おしくて恋しくて、その身体をさらに抱きしめる。
「愛しています……僕と一緒に、生きてください……!」
「うん……私も……私も嘉哉くんと一緒に生きたい……!」
その言葉と、背中に回された温かい手の感触が何よりも嬉しかった。
暁に近い夜の静寂の中で波の音だけが船上の二人を包む。
もうこの島には戻らない、戻れない。
朱志香を六軒島から盗み出すということがどういうことなのかなんてわかりきっている。
二人を待ち受ける試練は山ほどあるだろう。
それでも朱志香が欲しかった。彼女を悲しませたくなかった。
繋いだ手に力を込めれば、同じだけ握りかえされる。
「朱志香……僕は、あなたを攫っていくことを後悔したりしません」
「うん……」
「どんなに辛いことがあっても、僕はあなたが傍にいてくれるだけで頑張れます」
「うん……私も、辛くても……嘉哉くんが傍にいてくれるから……」
決して恋い焦がれてはならない人だと分かっていた。
それでも恋をして、初めて他人の世界に踏み込んだ。
彼女の中に期待していたものが見つけられなくて、初めて本当の意味で彼女の世界を土足で踏みにじった。
それなのに微笑む朱志香が愛しくて悲しくて、彼女をこの腕の中に閉じこめた。
本当の意味で嘉音を受け入れた朱志香を、彼は一生守りたいと思ったのだ。
例えその先に待つのは深く険しい茨の森だとしても。
朱志香が笑っていてくれるなら、嘉哉はどんなことでも出来る。
誰が許さなくとも、二人の愛は二人の幸せなのだから。
新しい陽が昇る。地平線から溢れ出るその光の中で、二人は祝福の口付けを交わしたのだった。
それでも恋をして、初めて他人の世界に踏み込んだ。
彼女の中に期待していたものが見つけられなくて、初めて本当の意味で彼女の世界を土足で踏みにじった。
それなのに微笑む朱志香が愛しくて悲しくて、彼女をこの腕の中に閉じこめた。
本当の意味で嘉音を受け入れた朱志香を、彼は一生守りたいと思ったのだ。
例えその先に待つのは深く険しい茨の森だとしても。
鳥籠破り
カーテンから差し込む光に嘉音は目を覚ました。窓の外を見ればまだ暗い夜空に生まれ出でようとする太陽の光が差している。まだ少し眠れるとベッドに潜り込もうとして、普段よりも柔らかい感触に若干の驚きを覚える。ふと隣を見れば、金色の髪の少女がこちらに背を向けて眠っていた。
そして、彼は思い出す。
昨夜は彼女を腕の中にかき抱いて、無理矢理にでもこちらを向かせて、そのまま寝てしまったのだ。
「朱志香……」
少女の名を呼んで、再びその華奢な身体を抱きよせる。
「ん……」
朱志香が目をゆっくりと開ける。そのあどけなさが愛おしくて、出来るだけ優しく声を掛ける。
「お目覚めですか?」
「か……嘉哉、くん……」
彼女の瞳に一瞬だけ浮かんだのは恐怖の色。それは紛れもなく嘉音がしたことの代償。無理に事を急ぎすぎて呼ぶことを強いた彼の本名は朱志香の悲しみに彩られていて、それが少しだけ寂しかった。
「お体は……大丈夫ですか?」
「う……ん……」
「今夜はもう……何も酷いことをしませんから……」
抱きしめて柔らかな金髪を梳けば、朱志香は俯いて遠慮がちに腕を彼の背へと回す。
「朱志香様……」
「……ごめん、ね……」
「……?」
「もう、ずっと……嘉哉くんだけ見てる……から」
「朱志香様……ずっと、あなたを離さなくても……許してくれますか?」
「……うん……」
再び顔を上げた朱志香の瞳に恐怖の色はもう無かった。
代わりに浮かんでいた嘉音が求めて止まなかった幸せそうな笑顔に、彼は涙が出るほど嬉しさを感じた。
数日が経った。
「おはよう、嘉音くん」
「おはよう、姉さん」
いつも通り紗音と挨拶を交わす。いつもは優しい光を湛えているはずの紗音の瞳は何故か冷たくて、彼は違和感を感じる。それを知ってか知らずか、彼女は何食わぬ顔でこちらに問う。
「お嬢様と何かあったの?」
「……別に、何も」
「……そう。私の勝ち、だね」
それが何のことなのか、嘉音は気付くことが出来なかった。
その朝の申し送りで源次に解雇を言い渡されるまでは。
「どういうことですか!?」
「私にも分からん。……本当に思い当たることはないのか?」
問いつめれば源次は溜息を吐いて逆に問い返す。
「……ありません」
朱志香との逢瀬は数えるほどはあったけれど、二人が逢うのはいつも朱志香の部屋だったし、ましてや何処かに行ったことなんてない。本当に分からない。
『私の勝ち、だね』
紗音の言葉がフラッシュバックする。そして、嘉音は思い出す。
家具である自分が朱志香と結ばれるためには紗音が譲治と結ばれるのを阻止しなければならないことを。
そして紗音も嘉音が朱志香と結ばれるのを阻止するであろうことを。
まさか、そのために付け回していたとでも言うのだろうか。
そして嘉音が朱志香と進展したことを知り、夏妃に言いつけたのだろうか。
それしかない。
紗音は右代宮家に勤める前から仲良くしていた姉だから疑いたくはないけれど、それしか考えつかない。
「……」
姉は嘉音の幸せよりも朱志香の幸せよりも、自分と譲治の幸せを取ったのだ。
祝うと言ったくせにとても祝う気分にはなれなくて、嘉音は荷物を纏めるために自室へと向かったのであった。
荷物を纏めながら考えた。
何年も想い続けてようやく朱志香と結ばれたのだ。このまま彼女を一人にはしたくない。
愛し合うことそれ自体が罪だなんて純粋な朱志香に教えてしまうわけにはいかない。
けれど解雇された以上ここには居られなくて、それが悔しくて涙がこぼれる。
嘉音はどうすればいいのか考え続ける。
解雇されて何もしなければ彼女は自分を捜すことすら許されないだろう。
それならば。
「……絶対に……朱志香に相応しい人間になって戻ってくる……!」
溢れる涙を拭いながら彼はそう決意した。
そのまま朱志香の部屋へと急ぐ。ノックをすれば愛しい彼女が何も知らない無垢な笑顔で出迎えてくれる。
「朱志香」
「ん……!?」
部屋の中に入って朱志香をきつく抱きしめる。
「朱志香、聞いてください」
「う、うん……」
「僕は……右代宮家を解雇されました」
耳元で彼女が息を呑む。
「え……!?」
「紗音に……あなたとのことを密告されて……」
「そんな……っ」
体を震わせる朱志香をもっときつく抱きしめる。彼女が離れてしまわないように。そして、告げる。
「しばらく会えませんが……僕は必ずあなたの元へ戻ってきます。ですから待っていてください」
沈黙が降りる。悠久に感じられるほどの長い長い沈黙のあと、彼女が小さな声で呟いた。
「どのぐらい……?」
「え?」
「どのぐらい、待てばいいの……」
「……分かりません。しかし」
「いいよ……来なくても、もう……」
「朱志香……」
「待たせるだけ待たせて、結局は誰も来ないから……もう、そんなに期待させなくて、いいよ……」
朱志香の声色は悲しみと絶望に満ち溢れていて、嘉音の胸が締め付けられる。その言葉には何が去来するのか、彼には分からない。
彼女が昔の思い人をどんな気持ちで見送ったのか、この言葉で全てが分かるような気がして、嘉音の中に言いようのない憤りがわき起こる。
彼がここで去っていってしまえば、朱志香はまた独りぼっち。
紗音がいようといとこがいようと、結局鳥籠に一人残されることには変わりないだろう。
その寂しさはどれほどだろう。
自分を閉じこめる鳥籠を、広い空を舞うことすら許されないその身体を、どれほど呪うだろう。
ならば、期待をさせる必要などないではないか。彼女を手放す必要などないではないか。
「……分かりました」
「うん……」
「ですから、今日一日だけここに匿ってください」
だからそう囁く。
「どういうこと……?」
「あなたをこの島から攫っていきます」
もう一度、朱志香が息を呑んだ。
「……!」
「あなたをここに残して悲しませるぐらいなら、例え僕の身体が引き裂かれようとあなたを無理にでも攫っていく……ですから、今日中に荷物を整えてください」
「嘉哉くん……」
「もう僕はあなたを悲しませたりしない。ずっと朱志香を離さない!だから……!」
「本当、に……?」
彼女がこちらを向く。真っ直ぐ目を合わせて嘉音は叫ぶ。
「本当です、どうしても……どうしても朱志香と一緒にいたい!誰に反対されようと、例え世界中を敵に回しても、僕は朱志香が欲しいんです!」
彼女を愛しているからこそ、手放せない。
彼女に恋をしなければこの狂おしい渇望は生まれなかっただろう。
幾万の言葉を尽くしても言い尽くせないほど、彼は彼女を欲していた。
だからこそ泣きそうな顔をして立ちつくす彼女の沈黙に不安を覚える。
もしも嫌だと言われてしまったらどうしよう。
自分となどいたくないと言われてしまったらどうしよう。
その不安を必死で押し込めて声を掛ける。
「朱志香……」
不意に、朱志香の頬を涙が転がり落ちた。
「朱志香……?」
「そんなこと言ってもらったの……初めて……」
「朱志香……」
「本当に……初めて……ありがと……」
そう何度も繰り返す朱志香が愛おしくて恋しくて、その身体をさらに抱きしめる。
「愛しています……僕と一緒に、生きてください……!」
「うん……私も……私も嘉哉くんと一緒に生きたい……!」
その言葉と、背中に回された温かい手の感触が何よりも嬉しかった。
暁に近い夜の静寂の中で波の音だけが船上の二人を包む。
もうこの島には戻らない、戻れない。
朱志香を六軒島から盗み出すということがどういうことなのかなんてわかりきっている。
二人を待ち受ける試練は山ほどあるだろう。
それでも朱志香が欲しかった。彼女を悲しませたくなかった。
繋いだ手に力を込めれば、同じだけ握りかえされる。
「朱志香……僕は、あなたを攫っていくことを後悔したりしません」
「うん……」
「どんなに辛いことがあっても、僕はあなたが傍にいてくれるだけで頑張れます」
「うん……私も、辛くても……嘉哉くんが傍にいてくれるから……」
決して恋い焦がれてはならない人だと分かっていた。
それでも恋をして、初めて他人の世界に踏み込んだ。
彼女の中に期待していたものが見つけられなくて、初めて本当の意味で彼女の世界を土足で踏みにじった。
それなのに微笑む朱志香が愛しくて悲しくて、彼女をこの腕の中に閉じこめた。
本当の意味で嘉音を受け入れた朱志香を、彼は一生守りたいと思ったのだ。
例えその先に待つのは深く険しい茨の森だとしても。
朱志香が笑っていてくれるなら、嘉哉はどんなことでも出来る。
誰が許さなくとも、二人の愛は二人の幸せなのだから。
新しい陽が昇る。地平線から溢れ出るその光の中で、二人は祝福の口付けを交わしたのだった。
とりあえず……カノジェシです。しかもまともなのと変態シリーズの境目です。
まともなのにしては嘉音くんが変態、変態シリーズにしてはいい話で締められている。そんな感じです。
では、どうぞ。
抱き枕幻想曲
まともなのにしては嘉音くんが変態、変態シリーズにしてはいい話で締められている。そんな感じです。
では、どうぞ。
抱き枕幻想曲
嘉音がその情報を仕入れたのは偶然であった。
本当に偶然であった。
だがしかし、その情報は嘉音を魅了してやまなかった。
朱志香の部屋を掃除していたときに見つけた文化祭のパンフレットにその情報は載っていた。
「文化祭……行きたい……」
気になってパンフレットを捲ったのが運の尽きだ、なとど言うことはない。
そんなことを言う余裕がないぐらいに彼はその情報に魅了されていたのだから。
「朱志香さんの抱き枕カバー……1700円……!」
抱き枕幻想曲
抱き枕、と聞いて連想されるものは眠りを快適にするために使われる目に優しい色の長いクッションである。が、この場合の抱き枕とは少々違う意味もある。少なくとも嘉音にとっては。
嘉音は朱志香のことが好きである。どこが好きかと問われたら一日中語れるぐらい好きである。さらには一日中朱志香にくっついていたいという密かな野望を抱いている。
そんな彼にとって抱き枕は愛しい人と寝るときも一緒にいられる素晴らしいアイテムなのである。
「そういえばこの間譲治様があと10数年で抱き枕やシーツが流行るって言ってたな……」
その譲治も抱き枕やシーツになって紗音の部屋に保管されている。本人にはとても言えないが。それはともかく、譲治の予言によればなんでもアニメやゲームのキャラクターがしどけない格好で横たわっている絵が描かれているものになるらしい。
改めてパンフレットを見る。
「朱志香さん……可愛い……」
困ったように頬を染めた制服姿の朱志香が表面、もっと頬を染めてこちらを軽く睨む朱志香が裏面に描かれている。ちなみに裏面はフリルの沢山付いたノースリーブのネグリジェである。
「ん……?ネグリジェ……?」
このネグリジェは見覚えがある。朱志香が夏に学校の交流会とやらで鎌倉に行ったときに持っていったネグリジェだ。確かこれは上着とズボンがセットで付いていたような気がする。
「……誰かが僕の朱志香さんのネグリジェを脱がせた……!?」
それはとても許し難いことである。朱志香の美しい生足を拝んでいいのは彼だけだからである。だが、しかしである。
『べ、別に嘉哉くんのために脱いだ訳じゃなくて、えっと、そのっ……!』
脳裏に浮かぶ乱れたネグリジェ姿の朱志香が頬を赤く染めて困ったように言い訳する。その姿はいつもよりも艶を増していて、嘉音の心臓は跳ねっぱなしだ。
『朱志香さん』
『……?』
彼女の上に覆い被さって至近距離で見つめ合う。
『どんな朱志香さんもお可愛らしいです……愛しています、朱志香……』
『嘉哉くん……私も……私も好き……』
『あなたともっと触れあいたいです……』
『うん……』
朱志香が微笑んで彼に手を伸ばした。
「……お嬢様……僕のためにこの抱き枕カバーを作ってくださったんですね……絶対買い占めます」
朱志香はまだ屋敷に戻ってきていない。けれども彼には彼女の優しさが眩しく光り輝く太陽のように思えて、嘉音は新島に向かって微笑んだ。
「このパンフレット……もう五冊ぐらい貰えるかな……」
「ただいま、嘉音くん」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
朱志香に挨拶をすると、彼女は照れたようにはにかむ。これが二人きりのときであったら嘉哉くん、朱志香さんと呼び合えたのだろうなぁと嘉音は少し残念に思う。少しの間はにかんでいた朱志香がきゅっと表情を引き締めた。
「あの、さ……嘉音くん、今時間ある?」
「お嬢様のためならばいくらでもございます!」
力一杯答えると、朱志香の表情が不思議そうに緩む。可愛い。
「……う、うん、あの、ちょっと、いいかな……?」
「はい」
どのような用件だろうか。デートのお誘いかもしれない。例えば以下のような。
『嘉哉くん、今度の日曜、空いてる……?』
『はい、その日は休みです』
『あのさ……映画のチケットがね、二枚あるんだけど……』
『喜んでお供させて頂きます……朱志香』
『ありがと……大好き、嘉哉くん』
『僕も朱志香のことが大好きです!』
「……嘉音くん?」
「……!はい!」
妄想の世界から帰ってくると、朱志香が心配そうな顔をしてこちらをのぞき込んでいた。
「あの……時間ないんならまた後でいいんだぜ……?」
「いいえ、大丈夫です!さあ、参りましょう!」
彼女の手を取って部屋へと駆け出すと、数歩遅れて着いてくる。
「え、あの、え……?」
慌てる声も可愛らしくて、嘉音は少しだけ走る速度を緩めた。
部屋に着くと朱志香は頬を赤く染めて、文化祭のパンフレットを手に取った。
「あのね……今度の文化祭、一緒に来て欲しいんだ……」
「朱志香さんのお願いとあらば何でもお聞きしますよ?」
きゅ、と彼女の手を握りしめて囁くと、彼女は何故か少しだけ表情を曇らせた。
「来てくれるだけでいいから……今度の文化祭……生徒会の販売物があって、それ、見られるの恥ずかしいから……」
「朱志香さん……」
俯く朱志香の肩をそっと抱く。潤んだ目で見つめてくるのが愛おしい。
「嘉哉くん……」
「文化祭のパンフレット、僕に5冊ぐらいくださいますか?」
朱志香の身体が一瞬強張る。
「み……見たの……?」
「朱志香さんのことをもっと知りたくて……」
「そっか……全校生徒に配った分に余りがあるから……明日持ってくるよ」
恥ずかしそうに頬を染める朱志香は本当に可愛らしくて、嘉音は抱き枕カバーを絶対に買い占めようと決意したのであった。
文化祭当日。
入り口でパンフレットを受け取り、嘉音は真っ先に生徒会の部屋へと向かう。と、見知った人物に遭遇した。白いスーツに赤い髪の青年である。
「……戦人様じゃないですか」
「よう、嘉音くん」
朱志香の従兄弟の右代宮戦人である。気さくに声を掛けられれば答えはするが、嘉音にとってはそれ以上に気になることがあった。
「……どうしてここに?」
「朱志香の抱き枕カバー。知ってるだろ?」
「ええ。買い占めるために来ましたから」
「身内に恥をさらすようでアレだけど1つでいいから回収してくれ、って頼まれたんでな」
「……僕のお嬢様が……」
「ついでに紗音ちゃんからも買い占めてくるように頼まれたんだが……譲治の兄貴の抱き枕じゃなくていいのか?」
「姉さん!?」
そういえば紗音は今日は仕事だった。出がけにやたら恨めしげな顔で見送られたので覚えている。
「まぁ3枚買って朱志香に渡すって言ったら納得してくれたけどな」
「……いつもの姉さんです」
そういえば紗音は朱志香のシーツや抱き枕カバーも3枚ずつ持っていたなと嘉音は思い出す。3枚ずつというのはまだいいほうで、譲治の抱き枕カバーなどダース単位で購入しているのを彼は知っている。結婚資金が心配である。
「……紗音ちゃん、昔からそうだっけ?」
「そうじゃないですか?この間も夏の祭典の戦利品を眺めて『譲治様萌え~』って言ってましたし」
「……そういえば紗音ちゃんに絵を描かせると昔から何を描かせても譲治の兄貴になったような覚えが……」
「今でもそうですよ」
戦人が遠い目をした。
「……朱志香、元気かな……」
「お嬢様は僕の嫁です」
戦人はぎょっとしたように嘉音を見る。
「嫁!?」
「嫁です」
「いやでもそれ、やばいんじゃ……夏妃伯母さんとか」
「やばくないです。お嬢様の抱き枕カバーは僕が買い占めます!」
「……お一人様10枚までだぞ」
戦人のツッコミは勿論聞こえていなかった。
件の抱き枕カバーは大盛況だったようで、嘉音が10枚買ったときには段ボールの山が半数近く開いていた。戦利品を手に朱志香の元へと向かう。教室に入った途端に黄色い声が上がっても気にしない。
「朱志香さん!」
「嘉哉くん、来てくれたんだ……ありがとう!……あれ、戦人?」
「よ、朱志香。……なんだよ、お前珍しい格好してるじゃねぇか」
朱志香はフリルの沢山付いたゴスロリドレス姿で、さながら魔女っ子といった風である。白い肩が見えているのも可愛らしい。
「ライブの衣装だよ。……それより戦人もありがとな。あれいろんな人に買われるの、恥ずかしくて……」
「そういうと思って10枚買ってきた。紗音ちゃんの分、3枚ここで渡していいか?」
戦人がそう聞けば朱志香はきょとんと首を傾げる。
「紗音の分、限定10枚だっていったら確保しろって言ってたから取っておいてあるぜ?」
「……」
拍子抜けしたような安堵したような表情の戦人を放っておいて嘉音は朱志香に問う。
「ところで朱志香さん、ライブは……」
「あ、あぁ、もうすぐだぜ。……嘉哉くん、その荷物……」
「朱志香さんの抱き枕カバーです」
「……ありがとう。身内以外にあれをあんまり流通させるのは気が引けて……っていうか売れないもの作ってどうするんだよ……」
はぁ、と朱志香が溜息を吐く。彼女の友人らしき巫女服姿の少女がニコニコ笑いながら朱志香に声を掛けた。
「ジェシー、抱き枕カバー凄い売れ行きだって!」
「……どのくらいだよ?」
「午前中だけで完売しそうだって!午後の分12時ぐらいに来るって連絡来たよ~」
「うわぁぁぁ、なんでそんなに売れるんだよ!?」
「でもほら、ジェシの彼氏君も買ってるじゃん!」
「う……」
朱志香は頬を真っ赤に染めて俯く。その肩をコスプレ姿の少女達が押す。
「ほらジェシ、もうすぐライブだよ~?……大丈夫?」
「大丈夫だぜ……」
そう返すと彼女は気持ちを切り替えるように首を振って、あの明るい笑顔で楽しんでいってくれ、と言ったのであった。
その夜のことである。
「嘉哉くん……ちょっといいかな?」
「はい」
頬を赤く染めた朱志香に呼び止められ、嘉音は彼女の部屋に来ていた。
「今日はありがとうな……抱き枕カバー、あんなに買ってるとは思わなかったけど……」
「朱志香さんとずっと一緒にいたいんです……」
きゅっと手を握れば、朱志香は頬を真っ赤に染めてはにかんだ。
「嘉哉くん……」
「朱志香さん……僕はこの世に生まれてきて本当に良かったと思います」
きょとんと不思議そうに朱志香が首を傾げる。
「あなたとこうしていられるのが僕は何より幸せなんです」
「うん……」
「だから、朱志香さん」
「ん?」
「結婚しましょう」
一瞬の沈黙。
そのまま見つめていると、朱志香は先ほどよりも顔を赤く染めて口をぱくぱくさせていた。
「け、結婚って……その、あの、ま、まだ……えっと……!」
「お嫌ですか……?」
朱志香の嫌がることはしたくない。嘉音との結婚を朱志香が望まないのであれば彼は黙って引き下がらざるを得ないのである。が、彼女は首を横に振った。
「ち、違うの……その、まだ嘉音くん、16才だろ?」
「はい……ですが僕にはもう朱志香さんを幸せにする準備は出来ています!」
「そ、そうじゃなくて……法律ではあと2年待たないと結婚できないんだ」
そう諭す朱志香の表情はとても残念そうで、嘉音の胸がちくりと痛む。
「では、朱志香さん」
「ん?」
「婚約しましょう」
「え……?」
彼女の顔に浮かぶのは軽い驚きの表情。それすら愛おしい。
「僕が18になったら結婚してくれるんですよね?」
「あ、うん……」
「それなら、僕はあと2年このお屋敷で頑張ります。18になったらすぐに使用人を辞めて、ただの嘉哉としてあなたを迎えに行きます」
ぱふん、と朱志香が嘉音の胸に飛び込んでくる。
「嘉哉くん……!大好き、愛してる……!」
幸せいっぱいの涙声が愛しくて、嘉音は朱志香をきつく抱きしめた。
「僕もです……愛しています、一生幸せにします!」
今日も六軒島は平和である。朱志香さんと婚約した僕には向かう所敵なしだ。来週は朱志香さんと指輪を見に行く約束をした。
朱志香さんの抱き枕になれない夜も沢山あるけれど、そんな夜は朱志香さんの抱き枕が僕を癒してくれる。
だから僕は幸せだ。僕はもう家具じゃない、お嬢様のお婿さんだ。魔女も魔法ももうどうでも良くなった。僕にとっての魔女は文化祭で見た朱志香さんのゴスロリ魔女っ子だけだ。
とりあえず幸せ絶頂の僕はチャイナドレス姿の朱志香さんとらぶらぶいちゃいちゃする妄想をしながらこの物語を締めくくろうと思う。
朱志香さん、愛してます!
魔女の棋譜
使用人・嘉音
妄想が現実になった。幸せ絶頂のようで2年後を心待ちにしている。
「朱志香さんは僕の嫁。……ちょっと白馬に乗る練習してきます」(本人談)
うみねこのなく頃に、生き残れたのは全員……かもしれない。
おわり。
本当に偶然であった。
だがしかし、その情報は嘉音を魅了してやまなかった。
朱志香の部屋を掃除していたときに見つけた文化祭のパンフレットにその情報は載っていた。
「文化祭……行きたい……」
気になってパンフレットを捲ったのが運の尽きだ、なとど言うことはない。
そんなことを言う余裕がないぐらいに彼はその情報に魅了されていたのだから。
「朱志香さんの抱き枕カバー……1700円……!」
抱き枕幻想曲
抱き枕、と聞いて連想されるものは眠りを快適にするために使われる目に優しい色の長いクッションである。が、この場合の抱き枕とは少々違う意味もある。少なくとも嘉音にとっては。
嘉音は朱志香のことが好きである。どこが好きかと問われたら一日中語れるぐらい好きである。さらには一日中朱志香にくっついていたいという密かな野望を抱いている。
そんな彼にとって抱き枕は愛しい人と寝るときも一緒にいられる素晴らしいアイテムなのである。
「そういえばこの間譲治様があと10数年で抱き枕やシーツが流行るって言ってたな……」
その譲治も抱き枕やシーツになって紗音の部屋に保管されている。本人にはとても言えないが。それはともかく、譲治の予言によればなんでもアニメやゲームのキャラクターがしどけない格好で横たわっている絵が描かれているものになるらしい。
改めてパンフレットを見る。
「朱志香さん……可愛い……」
困ったように頬を染めた制服姿の朱志香が表面、もっと頬を染めてこちらを軽く睨む朱志香が裏面に描かれている。ちなみに裏面はフリルの沢山付いたノースリーブのネグリジェである。
「ん……?ネグリジェ……?」
このネグリジェは見覚えがある。朱志香が夏に学校の交流会とやらで鎌倉に行ったときに持っていったネグリジェだ。確かこれは上着とズボンがセットで付いていたような気がする。
「……誰かが僕の朱志香さんのネグリジェを脱がせた……!?」
それはとても許し難いことである。朱志香の美しい生足を拝んでいいのは彼だけだからである。だが、しかしである。
『べ、別に嘉哉くんのために脱いだ訳じゃなくて、えっと、そのっ……!』
脳裏に浮かぶ乱れたネグリジェ姿の朱志香が頬を赤く染めて困ったように言い訳する。その姿はいつもよりも艶を増していて、嘉音の心臓は跳ねっぱなしだ。
『朱志香さん』
『……?』
彼女の上に覆い被さって至近距離で見つめ合う。
『どんな朱志香さんもお可愛らしいです……愛しています、朱志香……』
『嘉哉くん……私も……私も好き……』
『あなたともっと触れあいたいです……』
『うん……』
朱志香が微笑んで彼に手を伸ばした。
「……お嬢様……僕のためにこの抱き枕カバーを作ってくださったんですね……絶対買い占めます」
朱志香はまだ屋敷に戻ってきていない。けれども彼には彼女の優しさが眩しく光り輝く太陽のように思えて、嘉音は新島に向かって微笑んだ。
「このパンフレット……もう五冊ぐらい貰えるかな……」
「ただいま、嘉音くん」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
朱志香に挨拶をすると、彼女は照れたようにはにかむ。これが二人きりのときであったら嘉哉くん、朱志香さんと呼び合えたのだろうなぁと嘉音は少し残念に思う。少しの間はにかんでいた朱志香がきゅっと表情を引き締めた。
「あの、さ……嘉音くん、今時間ある?」
「お嬢様のためならばいくらでもございます!」
力一杯答えると、朱志香の表情が不思議そうに緩む。可愛い。
「……う、うん、あの、ちょっと、いいかな……?」
「はい」
どのような用件だろうか。デートのお誘いかもしれない。例えば以下のような。
『嘉哉くん、今度の日曜、空いてる……?』
『はい、その日は休みです』
『あのさ……映画のチケットがね、二枚あるんだけど……』
『喜んでお供させて頂きます……朱志香』
『ありがと……大好き、嘉哉くん』
『僕も朱志香のことが大好きです!』
「……嘉音くん?」
「……!はい!」
妄想の世界から帰ってくると、朱志香が心配そうな顔をしてこちらをのぞき込んでいた。
「あの……時間ないんならまた後でいいんだぜ……?」
「いいえ、大丈夫です!さあ、参りましょう!」
彼女の手を取って部屋へと駆け出すと、数歩遅れて着いてくる。
「え、あの、え……?」
慌てる声も可愛らしくて、嘉音は少しだけ走る速度を緩めた。
部屋に着くと朱志香は頬を赤く染めて、文化祭のパンフレットを手に取った。
「あのね……今度の文化祭、一緒に来て欲しいんだ……」
「朱志香さんのお願いとあらば何でもお聞きしますよ?」
きゅ、と彼女の手を握りしめて囁くと、彼女は何故か少しだけ表情を曇らせた。
「来てくれるだけでいいから……今度の文化祭……生徒会の販売物があって、それ、見られるの恥ずかしいから……」
「朱志香さん……」
俯く朱志香の肩をそっと抱く。潤んだ目で見つめてくるのが愛おしい。
「嘉哉くん……」
「文化祭のパンフレット、僕に5冊ぐらいくださいますか?」
朱志香の身体が一瞬強張る。
「み……見たの……?」
「朱志香さんのことをもっと知りたくて……」
「そっか……全校生徒に配った分に余りがあるから……明日持ってくるよ」
恥ずかしそうに頬を染める朱志香は本当に可愛らしくて、嘉音は抱き枕カバーを絶対に買い占めようと決意したのであった。
文化祭当日。
入り口でパンフレットを受け取り、嘉音は真っ先に生徒会の部屋へと向かう。と、見知った人物に遭遇した。白いスーツに赤い髪の青年である。
「……戦人様じゃないですか」
「よう、嘉音くん」
朱志香の従兄弟の右代宮戦人である。気さくに声を掛けられれば答えはするが、嘉音にとってはそれ以上に気になることがあった。
「……どうしてここに?」
「朱志香の抱き枕カバー。知ってるだろ?」
「ええ。買い占めるために来ましたから」
「身内に恥をさらすようでアレだけど1つでいいから回収してくれ、って頼まれたんでな」
「……僕のお嬢様が……」
「ついでに紗音ちゃんからも買い占めてくるように頼まれたんだが……譲治の兄貴の抱き枕じゃなくていいのか?」
「姉さん!?」
そういえば紗音は今日は仕事だった。出がけにやたら恨めしげな顔で見送られたので覚えている。
「まぁ3枚買って朱志香に渡すって言ったら納得してくれたけどな」
「……いつもの姉さんです」
そういえば紗音は朱志香のシーツや抱き枕カバーも3枚ずつ持っていたなと嘉音は思い出す。3枚ずつというのはまだいいほうで、譲治の抱き枕カバーなどダース単位で購入しているのを彼は知っている。結婚資金が心配である。
「……紗音ちゃん、昔からそうだっけ?」
「そうじゃないですか?この間も夏の祭典の戦利品を眺めて『譲治様萌え~』って言ってましたし」
「……そういえば紗音ちゃんに絵を描かせると昔から何を描かせても譲治の兄貴になったような覚えが……」
「今でもそうですよ」
戦人が遠い目をした。
「……朱志香、元気かな……」
「お嬢様は僕の嫁です」
戦人はぎょっとしたように嘉音を見る。
「嫁!?」
「嫁です」
「いやでもそれ、やばいんじゃ……夏妃伯母さんとか」
「やばくないです。お嬢様の抱き枕カバーは僕が買い占めます!」
「……お一人様10枚までだぞ」
戦人のツッコミは勿論聞こえていなかった。
件の抱き枕カバーは大盛況だったようで、嘉音が10枚買ったときには段ボールの山が半数近く開いていた。戦利品を手に朱志香の元へと向かう。教室に入った途端に黄色い声が上がっても気にしない。
「朱志香さん!」
「嘉哉くん、来てくれたんだ……ありがとう!……あれ、戦人?」
「よ、朱志香。……なんだよ、お前珍しい格好してるじゃねぇか」
朱志香はフリルの沢山付いたゴスロリドレス姿で、さながら魔女っ子といった風である。白い肩が見えているのも可愛らしい。
「ライブの衣装だよ。……それより戦人もありがとな。あれいろんな人に買われるの、恥ずかしくて……」
「そういうと思って10枚買ってきた。紗音ちゃんの分、3枚ここで渡していいか?」
戦人がそう聞けば朱志香はきょとんと首を傾げる。
「紗音の分、限定10枚だっていったら確保しろって言ってたから取っておいてあるぜ?」
「……」
拍子抜けしたような安堵したような表情の戦人を放っておいて嘉音は朱志香に問う。
「ところで朱志香さん、ライブは……」
「あ、あぁ、もうすぐだぜ。……嘉哉くん、その荷物……」
「朱志香さんの抱き枕カバーです」
「……ありがとう。身内以外にあれをあんまり流通させるのは気が引けて……っていうか売れないもの作ってどうするんだよ……」
はぁ、と朱志香が溜息を吐く。彼女の友人らしき巫女服姿の少女がニコニコ笑いながら朱志香に声を掛けた。
「ジェシー、抱き枕カバー凄い売れ行きだって!」
「……どのくらいだよ?」
「午前中だけで完売しそうだって!午後の分12時ぐらいに来るって連絡来たよ~」
「うわぁぁぁ、なんでそんなに売れるんだよ!?」
「でもほら、ジェシの彼氏君も買ってるじゃん!」
「う……」
朱志香は頬を真っ赤に染めて俯く。その肩をコスプレ姿の少女達が押す。
「ほらジェシ、もうすぐライブだよ~?……大丈夫?」
「大丈夫だぜ……」
そう返すと彼女は気持ちを切り替えるように首を振って、あの明るい笑顔で楽しんでいってくれ、と言ったのであった。
その夜のことである。
「嘉哉くん……ちょっといいかな?」
「はい」
頬を赤く染めた朱志香に呼び止められ、嘉音は彼女の部屋に来ていた。
「今日はありがとうな……抱き枕カバー、あんなに買ってるとは思わなかったけど……」
「朱志香さんとずっと一緒にいたいんです……」
きゅっと手を握れば、朱志香は頬を真っ赤に染めてはにかんだ。
「嘉哉くん……」
「朱志香さん……僕はこの世に生まれてきて本当に良かったと思います」
きょとんと不思議そうに朱志香が首を傾げる。
「あなたとこうしていられるのが僕は何より幸せなんです」
「うん……」
「だから、朱志香さん」
「ん?」
「結婚しましょう」
一瞬の沈黙。
そのまま見つめていると、朱志香は先ほどよりも顔を赤く染めて口をぱくぱくさせていた。
「け、結婚って……その、あの、ま、まだ……えっと……!」
「お嫌ですか……?」
朱志香の嫌がることはしたくない。嘉音との結婚を朱志香が望まないのであれば彼は黙って引き下がらざるを得ないのである。が、彼女は首を横に振った。
「ち、違うの……その、まだ嘉音くん、16才だろ?」
「はい……ですが僕にはもう朱志香さんを幸せにする準備は出来ています!」
「そ、そうじゃなくて……法律ではあと2年待たないと結婚できないんだ」
そう諭す朱志香の表情はとても残念そうで、嘉音の胸がちくりと痛む。
「では、朱志香さん」
「ん?」
「婚約しましょう」
「え……?」
彼女の顔に浮かぶのは軽い驚きの表情。それすら愛おしい。
「僕が18になったら結婚してくれるんですよね?」
「あ、うん……」
「それなら、僕はあと2年このお屋敷で頑張ります。18になったらすぐに使用人を辞めて、ただの嘉哉としてあなたを迎えに行きます」
ぱふん、と朱志香が嘉音の胸に飛び込んでくる。
「嘉哉くん……!大好き、愛してる……!」
幸せいっぱいの涙声が愛しくて、嘉音は朱志香をきつく抱きしめた。
「僕もです……愛しています、一生幸せにします!」
今日も六軒島は平和である。朱志香さんと婚約した僕には向かう所敵なしだ。来週は朱志香さんと指輪を見に行く約束をした。
朱志香さんの抱き枕になれない夜も沢山あるけれど、そんな夜は朱志香さんの抱き枕が僕を癒してくれる。
だから僕は幸せだ。僕はもう家具じゃない、お嬢様のお婿さんだ。魔女も魔法ももうどうでも良くなった。僕にとっての魔女は文化祭で見た朱志香さんのゴスロリ魔女っ子だけだ。
とりあえず幸せ絶頂の僕はチャイナドレス姿の朱志香さんとらぶらぶいちゃいちゃする妄想をしながらこの物語を締めくくろうと思う。
朱志香さん、愛してます!
魔女の棋譜
使用人・嘉音
妄想が現実になった。幸せ絶頂のようで2年後を心待ちにしている。
「朱志香さんは僕の嫁。……ちょっと白馬に乗る練習してきます」(本人談)
うみねこのなく頃に、生き残れたのは全員……かもしれない。
おわり。
お久しぶりです。私がツイッターで遊んだり本館を更新している間にコミケも終わり「うみねこ」のEP7が発売していました。
そんなわけでカノジェシSSです。今回はまとも。でもなんか薄暗い。
では、どうぞ。
「雨色恋模様」
そんなわけでカノジェシSSです。今回はまとも。でもなんか薄暗い。
では、どうぞ。
「雨色恋模様」
「お嬢様、……」
伸ばした指先は想い人には届かなかった。確実に届くはずなのに、彼女の身体は指先をすり抜けてゆく。何が悲しいのか、彼女は玉のような涙を散らしてこちらを見つめている。
「お嬢様っ……泣かないでください……お嬢様!」
涙を湛えた瞳が閉じられて、彼女が目を閉じる。その儚げな姿はまるで恋に破れた哀れな人魚姫のようで、嘉音の心は嫌な予感にざわつく。
彼女の身体は既に質量を伴わなくて、その身体をかき抱こうとした腕は何度試しても空を切る。
人魚姫を連想して、彼は不意に美しい姫君の末路を思い出す。
人魚の身でありながら人間に恋をして、美しい声と引き替えに人の足を得た人魚姫。
その恋路は叶うことはなく、姫君が恋した王子は他の女と結婚した。
恋に破れた人魚姫は王子を殺すことができなかった。
人魚姫が選んだ結末は、泡沫となって消えて行く悲しい結末。
では、嘉音の目の前にいる美しい太陽の姫君の末路は?
家具に心を寄せて、本当は片恋なんかではないのに拒絶されてしまった彼女が選ぶ結末は?
「お嬢様っ……、消えたり……しないですよね……?」
まさか、そんなはずは、と焦って引きつった笑みを貼り付ける。涙を流す朱志香は肯定も否定もしないままに、ただただ泣き続ける。
消えてしまうなんて嘘だ。
そんなことはあり得ない。
だって、まだ伝えていない。
本当の名前も、自分の全ても。
朱志香への恋心すらも。
まだ何も伝えていないのに、そんな酷いことがあって良いのだろうか。
「お嬢様……っ」
不意に朱志香の目が見開かれて、身体がふるりと震える。何かから逃れようと彼女は必死で身を捩る。
「お嬢様……お嬢様っ!?どうされましたか、お嬢様っ」
嘉音の呼びかけに応えないまま、朱志香は涙の玉を散らして無茶苦茶に藻掻き、……とうとうばしゃん、と魚が水に飛び込むような音を立てて、泡沫へとその身を変えてしまった。
「お嬢様っ……お嬢様ぁぁぁぁっ!」
頬を涙が伝うのを感じる。
朱志香が選んだ結末はこれなのか。
1人寂しく、その身体さえも残さないままに、この世に生きた証さえ残さないままに泡沫となって消えて行く結末を、彼女は選んだのか。
何も伝えさせないまま、気持ちさえも確かめることを許さずに、嘉音を置いて消えてしまったのか。
悔しくて、悲しくて、彼は膝を付く。
どこが天井でどこが床なのかすらわからない漆黒の空間に1人、取り残される。
彼女の痛みを分かってやりたかったのに、自分の気持ちを知って欲しかったのに、なんて愚かなことをしたと自分を殴りたくなる。
どこを見渡しても朱志香の姿は見あたらない。
泡沫の欠片でも良いから手元にと思ったのに、それすらも見つからない。
「嘘だ……嘘だ、お嬢様、僕をおいていくなんて……」
出来ることなら、共に消えてしまいたい。それなのに、それすら出来ないなんて。
「嘘だあぁぁぁぁっ!」
自分の声で跳ね起きると、そこはいつも通り右代宮家で割り当てられた嘉音の部屋だった。
「夢……」
ほう、と溜息を吐く。良かった、夢だ。
ここは水の泡となって朱志香が消えることがない、現実だ。
嘉音はいつの間にかかいていた汗と涙を拭ってベッドから抜け出す。深夜勤に備えるはずの仮眠が余計に深夜勤を妨げる結果になりそうで少しだけ憂鬱になる。
朱志香は何故泣いていたのかが分からなくて、気になって、仕事どころではない。
幸いまだ休憩時間はあるらしく、この時間は嘉音の名前の欄には何の事柄もかいていなかった。それを良いことに朱志香の部屋に行こうと思い立つ。
あの文化祭の日に傷つけたまま、彼女との関係はぎくしゃくしたままだった。
身分を盾に断るという仕打ちを受けた朱志香の笑顔がどこか辛そうで痛々しく、見ていていたたまれないというのも理由の一つにあった。
あんな断り方をしたのに、今更どうやって彼女と接すればいいのか分からなかった、と言うのもある。
けれども一番の理由は断腸の思いで封じ込めた朱志香への恋心をさらけ出してしまうかもしれないというおそれだった。
自分は家具で、朱志香は人間。
彼女が空を羽ばたく清らかな天使だとしたら、嘉音は地上に這い蹲る空を飛ぶことすら出来ないただの人間なのだ。
朱志香に想いを寄せてもらっただけで最上の喜びに浸らなければならないのに、それ以上を求めてはならないのに、もっと彼女が欲しいと求めてしまう。
朱志香といると、彼女の愛をさらに求めてしまいそうで、それを嘉音は何よりも恐れていた。
そんな色欲にまみれた自分の浅ましい心を無理矢理押さえ込んで、彼は朱志香の部屋へと急ぐ。
今日は雨で、船が出せない。必然的に彼女は部屋にいるはずだ。だから真っ直ぐ部屋へと向かってノックをした。
「お嬢様……嘉音です。……お嬢様?」
何度ノックをして呼びかけても部屋の中からは何の答えも返ってこない。
ふと、夢の内容を思い出す。
水の泡となって消えてしまった朱志香。
彼女の痕跡はいくら探せど見つからない。
嘉音は自分の血の気が引く音を久しぶりに聞いた。
屋敷中を探し回った。それこそクローゼットの中まで。
それなのに、朱志香は屋敷にはいなかった。一体どこに行ったというのか。
分からない。
けれども休憩時間に限りはあるわけで、彼は渋々仕事に戻らなければならなかった。
仕事に戻った所で身が入るわけでもないのだが、一応形だけでもこなしておかなければまずい。
だから割り当てられた仕事を機械的にこなす……はずだった。
廊下を歩いていると、ふとバラ庭園が目に入る。バラの蕾はまだ綻んだばかりで、親族会議までに咲ききるかは管理をしている嘉音にもよく分からなかった。
けれど、見つけた。だからこそ、と言った方が良いかもしれない。
紅と朱のプリーツスカートと紺の地に紫のラインを入れたジャケットに身を包んだ、華奢な身体。美しい金髪。嘉音の思考を先ほどから占めている右代宮家の令嬢・朱志香だ。
あぁ、これがバラ庭園の東屋の中だったらどんなに良かったことだろう。
けれど、朱志香が佇んでいる場所は東屋でも屋根のある場所でもなかった。傘も差さずに、彼女はその身体に雨粒を受けていた。
おかげで彼女のふわふわとした太陽の色をした髪の毛は雨に濡れてすっかりぺたんと萎れていて、どことなく寂しげな印象を受ける。
今、彼女はどんな表情をしているのだろう。普段は雨が降っていても彼女がいるだけで嘉音には晴れているように感じられるのに、今だけは雨粒を受ける華奢な背中が小さく頼りなく見えて、それがさらに雨をひどく降らせているように感じられた。
「お嬢様……」
不意に夢の内容が頭を過ぎる。
朱志香がこのまま水の泡となって雨と一緒に消えてしまうのではないかという不安が鎌首をもたげる。
嗚呼。
やはり自分は愚か者だ。
身分違いの恋をして、朱志香をひどく傷つけて。
それなのにまだ朱志香を求めている。諦めきれずにいる。
結局自分は家具にも人間にもなりきれない。
家具として、使用人として朱志香への恋心を封じることも出来なければ、人間として使用人を辞めて朱志香を幸せにすることも出来ないでいる。
それはなんて無様で、愚かで、見苦しいことだろう。
それを分かっていながら、しかし彼は朱志香を愛している。
だから、傘すら持たずに仕事を放り出して駆けだした。
屋敷の外は予想外に雨が強く降っていた。けれどもそれは土砂降りのような激しさではなく、まるで冬の雨のような刃を含んだ冷たい激しさだった。その中でただただ佇む朱志香に向かって走る。
「……お嬢様」
「嘉音、くん……」
声をかければ彼女は振り向く。しかしそこにはいつもの快活さはない。雨の滴が伝う頬に泣いているような錯覚をする。
「いかがなさいましたか……?」
「ううん、何でもないぜ……」
そう言って浮かべる微笑みもどこか悲しげでぎこちない。彼女が何を考えているか、嘉音には分からない。
だから、せめて雨に濡れた彼女の身体を温めたいと彼は思う。
次の瞬間、彼は朱志香を抱きしめていた。
「か、嘉音……くん……?」
泡を食ったように慌てる彼女の表情は見えない。だから耳元で囁く。
「申し訳ございません、お嬢様……少しだけ、このままで……」
掠れ声しかでない。封じていた想いが溢れだしてしまいそうで、声に色を付けることすら出来ない。
けれど朱志香は嘉音の背に腕を回す。
「お嬢様……?」
「うん……ちょっとだけ、私も……こうしていたい……」
その声色があまりに寂しげで悲しげで、彼は抱きしめる腕の力を強くする。
彼女が何を思ってこんなところにいるかなど分からない。けれど、その物憂げな姿はひどく彼の心を焦らせて、想い人を抱きしめているのだというのに切なさが嘉音を満たす。
だから彼は腕の中に閉じこめた朱志香に囁く。
「あなたの苦しみを少しで良いから……僕にください……」
朱志香は答えない。ただ、ぐす、と鼻を啜る音が微かに聞こえただけ。
それが切なくて悲しくて、彼女を抱きしめた指先に力を込める。
「あいして、います……朱志香様……」
朱志香の冷たい指先が嘉音の背中に縋る。
互いが互いの体温を感じながら、二人は互いが消えてしまわないようにといつまでも雨の中に佇むのだった。
変態嘉音くんシリーズ第5弾(多分)です。今回一応の進展はあるのですが、相変わらず嘉音くんが変態です。
格好いい嘉音くんがお好きな方はご注意ください。最初から最後まで変態です。
では、どうぞ。
世界は虹色お花畑
格好いい嘉音くんがお好きな方はご注意ください。最初から最後まで変態です。
では、どうぞ。
世界は虹色お花畑
某月某日、晴れ。
僕の朱志香は今日も可愛い。
この間譲治様とラブラブデートに行って来たらしい紗音が買ってきたワンピースを着て鏡の前でくるっと回ってみる辺りなど鼻血ものだ。そういえば最近僕の朱志香が僕のことを自然に「嘉哉くん」と呼んでくれるようになった。とてもとても嬉しい。
あと今日は僕のために手作りクッキーを持ってきてくれた。
きっと朱志香は慣れない料理に四苦八苦したりチョコレートをあの真っ白な頬に飛び散らせたりして僕のために頑張ってくれたんだと感動した。ほんのちょっとビターなチョコレートクッキーも朱志香が作ったということそれだけで最高のお茶菓子になった。
そんなわけで僕は今日も元気です。
世界は虹色お花畑
その日、嘉音は上機嫌であった。どのくらい上機嫌かというと、鼻歌を歌いながら廊下をスキップで走っていくぐらいの上機嫌である。
本人としては目の前にお花畑が広がっていて、そこで白いひらひらワンピースを着た朱志香がにこにこ笑っているぐらいの情景が見えている。
いつもは(自称)クールで(自称)真面目な(自称)家具の彼がこんなにも上機嫌、いや、浮かれている原因は先日晴れて恋人になった右代宮家の令嬢・朱志香から貰ったチョコレートクッキーにある。
「朱志香の手作り……僕だけにくれた朱志香の手作りクッキー……早く食べたい……」
仕事があるのをこんなにも苦々しく思った日があっただろうか、と考えて、そういえば朱志香と恋仲になってからはいつものことだったと思い出す。家具として、勿論使用人としても失格だが、そんなことに構っている嘉音ではない。
彼の頭の中を染め上げているのは勿論朱志香のクッキーである。
「はぁ……朱志香に食べさせて貰いたい……」
そう思えばたちまち嘉音の脳内ではとんでもない妄想が展開されるわけである。ただし、本人としてはその光景は朱志香との逢い引きのイメージトレーニングであり、決して妄想などではないと思っている。
『嘉哉くん……』
襟元と胸元、袖口にフリル、胸元と袖口に黒いリボンの付いたエプロンドレスを着て黒いニーソックスを同色のガーターベルトでつり上げた朱志香がクッキーの小袋を持って恥ずかしそうに見つめてくれる。
『朱志香……よくお似合いです……』
『そ、そうかな……』
はい、と頷けば朱志香は途端に頬を染めて恥ずかしそうに笑う。
『こんなフリルふりふりでリボンひらひら満載の服は似合わないかなと思ったんだけど……嘉哉くん、こういうの好きだろ?』
パニエの仕込まれた黒いスカートが、エプロンの縁に縫いつけられたフリルがゆらゆらと揺れる。可愛い。実に可愛い。
『朱志香には何でも似合いますよ?僕はメイド服じゃなくて朱志香が好きなんです!』
『嘉哉くん……!』
潤んだ瞳で朱志香が見上げてくる。嘉音も優しく見つめ返す。
『私も……嘉哉くんのことが大好きだぜ!』
『朱志香……!』
ぎゅう、とだきしめてふわふわ揺れる金髪に顔を埋める。いい匂いがする。
『よ……嘉哉くん……』
『はい……』
『クッキー、今日の調理実習で作ったの……食べて……』
それがあらぬ意味に聞こえて嘉音は思わず聞き返す。
『食べて……いいんですか?』
『だって、そのためにクッキー沢山作ったんだぜ?』
『僕の、ために……?』
『うん……』
暫く見つめ合って、嘉音は朱志香の頬に手を添える。すべすべしていて気持ちいい。
『朱志香、僕に食べさせてください』
彼女の頬が真っ赤に染まる。
『え……』
『朱志香に、食べさせて貰いたいんです』
耳まで真っ赤に染めて、朱志香はこくんと頷いた。綺麗にラッピングされた小袋からチョコレートクッキーを一枚取りだし、嘉音の口許に近づける。
『はい、あ~ん……』
さく、と囓ったクッキーはチョコレートだった。少しビターな味わいがたまらない。
『美味しいです、朱志香……』
『あ、もう一枚、いる……?』
同じようにクッキーを差し出してくるのをやんわりと制止して、彼女の手からクッキーを取り上げると桜色の柔らかい唇に挟ませる。
『ん……?』
『朱志香、愛しています……』
そうして、顔がゆっくりと近づいてゆく。クッキー、いや、朱志香の唇まであと数センチ……。
べしょん。
愛しい朱志香の唇に触れたと思ったら嘉音は絨毯に思い切り倒れ込んだ。妄想に浸っていたため、当然ではあるがどこも庇わずに顔から突っ込んでゆく。
「痛い……鼻が痛い……」
あくまで痛いのは自分の妄想ではなく思い切りぶつけた鼻である。普段ならここでのろのろと起きあがって妄想を再開するのだが、今日の嘉音は違う。クッキーが壊れたりしていないかを慌てて確かめて、ひびすら入っていないことを認めると安堵のため息を吐き出した。
「よかった……」
ゆっくり立ち上がって嘉音は今度こそ仕事場へと駆けていった。
突然だが、使用人室に常備してあるお茶は部屋の主である使用人達が買ってきたものが大半である。大体それは各自の好みによって某有名メーカーのティーバッグであったり、近所のスーパーでタイムセールだった茶葉であったり、はたまた自分でブレンドした茶葉だったりするのだが、たまに家人が買ってきてくれた茶葉というものも存在する。そして本日使用人室に置いてあるのは、朱志香がわざわざ買ってきてくれたダージリンであった。
ようやく休憩時間になった嘉音はその缶を取りだして頬ずりする。
「朱志香のお茶……」
彼はこの茶葉をほぼ自分1人で飲んできた。たまに紗音あたりが飲むと盛大なケンカを繰り広げて源次に雷を落とされたこともある。朱志香が使用人室を訪れたときには必ずこの茶葉を淹れたが、それ以外は死守してきた。理由はいたってシンプルで、朱志香がくれた茶葉だからという公私混同も甚だしいものである。
缶から茶葉を出して慣れた手つきで1人分の茶を淹れると鼻歌交じりにソファに座ってクッキーを囓る。ビターチョコレートとバニラエッセンスのハーモニーがとても美味しい。
「朱志香のクッキー……美味しい……」
紅茶を一口啜って朱志香と結婚を前提としたお付き合いを本当に始めたのだなぁと嘉音は感慨に耽った。少々愛が重すぎるようなところも否めないが、誰も彼を責められはしないだろう。使用人室には今この瞬間、嘉音以外に誰もいないのだから。
「……ん?結婚を前提としたお付き合い……ということは」
嘉音はそのフレーズだけを口に出して、しばし愕然とした。
結婚を前提としたお付き合い。
それはなんという甘い言葉であろうか。
愛し合う恋人達の普遍的な誓いではあるが、如何せん自分はしがない使用人で朱志香は令嬢である。身分の差としては天と地ほどの開きがある。
そして朱志香は優しく明るく美しい少女だ。群がる男という名の狼など星の数ほどいるだろう。その中で嘉音より身分の高い男など沢山いるだろう。
「……指輪、早い所渡して僕と結婚して貰おう……」
恋煩いの狼には相変わらず法律の壁など見えていないのであった。
「嘉音くん、お洗濯もの畳んでちょうだい」
休憩時間が終わるや否や紗音が洗濯物を持って使用人室に入ってきた。早速嘉音はふて腐れる。洗濯物がまるでバベルの塔かと思わんばかりに積み上げられていたからである。
「姉さん……これ、多くない?」
「しょうがないでしょ、このところお天気が悪かったんだから。ほら、お嬢様のお洋服もあるから畳んでちょうだい」
「お嬢様の……僕の朱志香の……」
洗濯物を畳みながら嘉音はついつい妄想の世界に飛んで行く。
『嘉哉くん、洗濯物、持ってきてくれたんだ……ありがとう』
朱志香に洗濯物を渡すと、彼女は恥ずかしそうに笑う。
『いえ、僕が朱志香の洗濯物を畳みたかったんです』
きっちり畳まれた洗濯物に朱志香は頬を埋めて、うん、と小さな声で頷く。
『きれいに畳んでくれて……凄く嬉しいよ、嘉哉くん』
『朱志香……』
『わ、私も……その、嘉哉くんの洗濯物、きれいに畳めたらいいんだけど……』
しゅんと項垂れる彼女を引き寄せて腕の中に閉じこめる。
『大丈夫です。僕がちゃんと付いていますから……』
『嘉哉くん……』
うるうると潤んだ瞳で見つめられて、嘉音の鼓動は高鳴るばかり。今すぐいちゃつきたいのを抑えて朱志香の耳元で囁いた。
『朱志香……結婚してください』
『……はい……』
「朱志香ラ~ブ!」
思い余って叫んだ嘉音の横っ面をタオルが張った。
「痛いじゃないか姉さん!」
「五月蝿いわよ、嘉音くん?しっかりお仕事なさい?」
「いいじゃないか少しぐらい!姉さんだってたまに『譲治様ラ~ブ!』って叫んでるじゃないか!」
あんまりにあんまりなので紗音に抗議すると、彼女はきっ、と睨み付けてくる。
「休憩中に叫ぶからいいの!っていうか、お仕事ぐらいちゃんとやってよ!お嬢様に言いつけるからね!」
「お嬢様はそれでも僕を愛してくれるもん!」
そう叫ぶと、姉は露骨に変なものを見るような顔になった。
「ねぇ、嘉音くん……それ、愛が重すぎるんじゃない?」
重いとは失礼な、と嘉音は憤った。が、自分の手の中にある朱志香のハンカチを見て、途端に顔が緩む。
「これ、僕がプレゼントしたハンカチだ……やっぱり僕と朱志香はラブラブなんだ……」
「……嘉音くん、床に垂らした涎、ちゃんと拭いてね?」
紗音が呆れたように零した呟きは、勿論嘉音の耳には届いていなかった。
本日の仕事があらかた終わり、夜勤でもないので嘉音は朱志香の部屋のベッドの中にいた。むろん無許可である。朱志香の香りに包まれて、嘉音は実に上機嫌であった。ちなみに朱志香本人は現在シャワーを浴びている。
しかもこのベッドはシャワーから上がった朱志香が寝る場所である。
『あ……あの、嘉哉くん』
目を閉じればネグリジェ姿の朱志香が嘉音の胸にもたれかかる。その細い肩を抱いて返事をする。
『どうしましたか?』
『あの……その……ここにいて、平気なの?』
彼女の頬はリンゴのように赤い。それがまた可愛らしくて、口元が自然と緩む。
『はい。今日は夜勤もありませんから』
『そっか……』
嬉しそうに身体をすり寄せる朱志香をぎゅっと抱きしめて、ふわふわの髪を梳く。
『朱志香……今晩はあなたの傍で過ごしてもいいですか?』
『うん……』
ふわりと微笑む彼女があんまりにも可愛らしくて、ついつい理性のタガが外れる。柔らかい身体を押し倒すと、朱志香の頬がもっと赤く染まった。
『嘉哉、君……?』
『大好きです、朱志香……』
ちゅ、と触れるだけの口付けを落として覆い被さる。
『嘉哉くん……私も、大好きだぜ……』
朱志香の腕が嘉音の背中に回される。
『よろしいですか……?』
『ん……』
そうしてもう一度、二人の唇が重なった。
「嘉哉くん……」
「朱志香……」
「何やってるの……?」
「じぇ、朱志香っ!?」
はっ、と目を開ければ、呆然と目を見開いた朱志香がそこにいた。朱志香にはいい所を見せたい、というのが嘉音の心情なので、言い訳にもならない言い訳を自信満々でする。こうなっては嘉音はもう問題児でしかない。
「朱志香のベッドを温めておこうと思いまして」
「……」
「あと、僕、今日ここで寝たかったんです!」
「……」
朱志香は呆然としたまま何も言わない。暫く見つめ合っていると、彼女はくるりと嘉音に背を向けた。
「じぇ、朱志香?」
「ごめん、今日私母さんのところで寝るね……嘉哉くん、そこで寝たいんでしょ?」
「ち、違うんです、違うんです、朱志香っ!」
「だって……現に寝てるし……」
嘉音はそこで自分がまだ朱志香のベッドの中にいた事実を知る。慌てて抜け出してぱたぱたと歩き出す朱志香の後ろ姿を追いかけて、叫ぶ。
「朱志香ぁぁ!愛しているんだぁぁぁぁっ!」
ぴた、と朱志香の足が止まる。後ろから彼女を抱きしめて耳元で囁いた。
「今晩は朱志香の抱き枕になりたかったんです……勝手にベッドの中に潜り込んだりしてすみませんでした」
彼女が振り返って嘉音を見つめる。
「寝てる間に……変な事しない……?」
「し、しません!」
本当は変なことをしたい。もの凄くしたい。けれども寝ている間にそんなことをするのは朱志香の愛を信頼していないように思えて、彼は泣く泣くそう誓った。
「嘉哉くん」
「はい」
頬にちゅ、と柔らかいものが触れた。はっとして朱志香の顔を見れば、彼女は頬を赤く染めて微笑んでいる。
「大好き!」
その笑顔があまりに眩しくて、美しくて、今日はとても良い日だったと嘉音は本気で思ったのだった。
六軒島はいつもと変わらない暮らしが続いている。でも、僕の目に映る景色は全く違う。
僕の朱志香さえそこにいれば世界は一面お花畑。
クッキー貰ったり紅茶貰ったり、朱志香の抱き枕になったりして、今日も僕は元気です。
僕の朱志香さえいればその他の有象無象は背景に過ぎないのだから!
「誰が有象無象ですって?」
地の底からはい上がってきたような声を耳にして振り返れば、空恐ろしい微笑みを浮かべた紗音が立っていた。
「え、僕と朱志香以外の万物に決まってr……」
「ねえ嘉音くん、私と譲治様は有象無象じゃないわよねぇ?」
「何を言ってるの姉さん、有象無象に決まってるじゃないk……」
そこで嘉音はようやく気付く。紗音が振り上げた花瓶に気付く。
「よくも私の譲治様を有象無象にしてくれたわねぇぇぇぇぇぇっ!」
「ぎゃああああああああああっ!」
が、いくら待っても予想した痛みは来なかった。恐る恐る目を開けると、朱志香が紗音を一生懸命取り押さえている。
「しゃ、紗音、ダメだ、そういうことしちゃダメだ!」
「いいえお嬢様、止めないでください!嘉音くんはここでしっかり躾ておかないと社会に出せないんです!」
「そ、それは……」
「お嬢様は嘉音くんが将来引きこもりのニートになっちゃってもいいんですか?」
「いや、それは良くないけど……」
紗音は再び花瓶を振り上げる。
「ひぃっ!」
「紗音、それどっかで見たと思ったら母さんの花瓶!高いらしいから割ったらやばいって!」
「えっ!?奥様の花瓶!?」
紗音が花瓶をあわあわと戻しに行き、ようやく花瓶の恐怖から解放される。
「朱志香、ありがとうございます」
「いや、いいんだ。偶然通りかかったから……」
そう照れる朱志香のスカートの裾が揺れる。赤い布に隠された白い下着が見えて、気付いたときには嘉音は感想を漏らしていた。
「朱志香……今日のお下着は白なんですね……可愛いです」
すうっと朱志香が真顔に戻る。
「嘉哉くん」
「はい」
「立って」
言われたとおりに立つと、朱志香が手を振り上げた。
「嘉哉くんのバカぁぁぁっ!」
ぱぁん、と小気味よい音が響いた。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡(?)
発見当時、嬉しそうな顔で鼻から血を大量に流していたため、死因は大量出血と見られる。傍には血文字で相合い傘が書かれており、傘の下には「よしや」「じぇしか」と書かれていた。
思っても言って良いことと悪いことがあるという良い見本だと思われる。本当に彼の頭はお花畑だったようだ。
「あんな事言うんだから、もう嘉哉くんのバカっ!」(by朱志香)
僕の朱志香は今日も可愛い。
この間譲治様とラブラブデートに行って来たらしい紗音が買ってきたワンピースを着て鏡の前でくるっと回ってみる辺りなど鼻血ものだ。そういえば最近僕の朱志香が僕のことを自然に「嘉哉くん」と呼んでくれるようになった。とてもとても嬉しい。
あと今日は僕のために手作りクッキーを持ってきてくれた。
きっと朱志香は慣れない料理に四苦八苦したりチョコレートをあの真っ白な頬に飛び散らせたりして僕のために頑張ってくれたんだと感動した。ほんのちょっとビターなチョコレートクッキーも朱志香が作ったということそれだけで最高のお茶菓子になった。
そんなわけで僕は今日も元気です。
世界は虹色お花畑
その日、嘉音は上機嫌であった。どのくらい上機嫌かというと、鼻歌を歌いながら廊下をスキップで走っていくぐらいの上機嫌である。
本人としては目の前にお花畑が広がっていて、そこで白いひらひらワンピースを着た朱志香がにこにこ笑っているぐらいの情景が見えている。
いつもは(自称)クールで(自称)真面目な(自称)家具の彼がこんなにも上機嫌、いや、浮かれている原因は先日晴れて恋人になった右代宮家の令嬢・朱志香から貰ったチョコレートクッキーにある。
「朱志香の手作り……僕だけにくれた朱志香の手作りクッキー……早く食べたい……」
仕事があるのをこんなにも苦々しく思った日があっただろうか、と考えて、そういえば朱志香と恋仲になってからはいつものことだったと思い出す。家具として、勿論使用人としても失格だが、そんなことに構っている嘉音ではない。
彼の頭の中を染め上げているのは勿論朱志香のクッキーである。
「はぁ……朱志香に食べさせて貰いたい……」
そう思えばたちまち嘉音の脳内ではとんでもない妄想が展開されるわけである。ただし、本人としてはその光景は朱志香との逢い引きのイメージトレーニングであり、決して妄想などではないと思っている。
『嘉哉くん……』
襟元と胸元、袖口にフリル、胸元と袖口に黒いリボンの付いたエプロンドレスを着て黒いニーソックスを同色のガーターベルトでつり上げた朱志香がクッキーの小袋を持って恥ずかしそうに見つめてくれる。
『朱志香……よくお似合いです……』
『そ、そうかな……』
はい、と頷けば朱志香は途端に頬を染めて恥ずかしそうに笑う。
『こんなフリルふりふりでリボンひらひら満載の服は似合わないかなと思ったんだけど……嘉哉くん、こういうの好きだろ?』
パニエの仕込まれた黒いスカートが、エプロンの縁に縫いつけられたフリルがゆらゆらと揺れる。可愛い。実に可愛い。
『朱志香には何でも似合いますよ?僕はメイド服じゃなくて朱志香が好きなんです!』
『嘉哉くん……!』
潤んだ瞳で朱志香が見上げてくる。嘉音も優しく見つめ返す。
『私も……嘉哉くんのことが大好きだぜ!』
『朱志香……!』
ぎゅう、とだきしめてふわふわ揺れる金髪に顔を埋める。いい匂いがする。
『よ……嘉哉くん……』
『はい……』
『クッキー、今日の調理実習で作ったの……食べて……』
それがあらぬ意味に聞こえて嘉音は思わず聞き返す。
『食べて……いいんですか?』
『だって、そのためにクッキー沢山作ったんだぜ?』
『僕の、ために……?』
『うん……』
暫く見つめ合って、嘉音は朱志香の頬に手を添える。すべすべしていて気持ちいい。
『朱志香、僕に食べさせてください』
彼女の頬が真っ赤に染まる。
『え……』
『朱志香に、食べさせて貰いたいんです』
耳まで真っ赤に染めて、朱志香はこくんと頷いた。綺麗にラッピングされた小袋からチョコレートクッキーを一枚取りだし、嘉音の口許に近づける。
『はい、あ~ん……』
さく、と囓ったクッキーはチョコレートだった。少しビターな味わいがたまらない。
『美味しいです、朱志香……』
『あ、もう一枚、いる……?』
同じようにクッキーを差し出してくるのをやんわりと制止して、彼女の手からクッキーを取り上げると桜色の柔らかい唇に挟ませる。
『ん……?』
『朱志香、愛しています……』
そうして、顔がゆっくりと近づいてゆく。クッキー、いや、朱志香の唇まであと数センチ……。
べしょん。
愛しい朱志香の唇に触れたと思ったら嘉音は絨毯に思い切り倒れ込んだ。妄想に浸っていたため、当然ではあるがどこも庇わずに顔から突っ込んでゆく。
「痛い……鼻が痛い……」
あくまで痛いのは自分の妄想ではなく思い切りぶつけた鼻である。普段ならここでのろのろと起きあがって妄想を再開するのだが、今日の嘉音は違う。クッキーが壊れたりしていないかを慌てて確かめて、ひびすら入っていないことを認めると安堵のため息を吐き出した。
「よかった……」
ゆっくり立ち上がって嘉音は今度こそ仕事場へと駆けていった。
突然だが、使用人室に常備してあるお茶は部屋の主である使用人達が買ってきたものが大半である。大体それは各自の好みによって某有名メーカーのティーバッグであったり、近所のスーパーでタイムセールだった茶葉であったり、はたまた自分でブレンドした茶葉だったりするのだが、たまに家人が買ってきてくれた茶葉というものも存在する。そして本日使用人室に置いてあるのは、朱志香がわざわざ買ってきてくれたダージリンであった。
ようやく休憩時間になった嘉音はその缶を取りだして頬ずりする。
「朱志香のお茶……」
彼はこの茶葉をほぼ自分1人で飲んできた。たまに紗音あたりが飲むと盛大なケンカを繰り広げて源次に雷を落とされたこともある。朱志香が使用人室を訪れたときには必ずこの茶葉を淹れたが、それ以外は死守してきた。理由はいたってシンプルで、朱志香がくれた茶葉だからという公私混同も甚だしいものである。
缶から茶葉を出して慣れた手つきで1人分の茶を淹れると鼻歌交じりにソファに座ってクッキーを囓る。ビターチョコレートとバニラエッセンスのハーモニーがとても美味しい。
「朱志香のクッキー……美味しい……」
紅茶を一口啜って朱志香と結婚を前提としたお付き合いを本当に始めたのだなぁと嘉音は感慨に耽った。少々愛が重すぎるようなところも否めないが、誰も彼を責められはしないだろう。使用人室には今この瞬間、嘉音以外に誰もいないのだから。
「……ん?結婚を前提としたお付き合い……ということは」
嘉音はそのフレーズだけを口に出して、しばし愕然とした。
結婚を前提としたお付き合い。
それはなんという甘い言葉であろうか。
愛し合う恋人達の普遍的な誓いではあるが、如何せん自分はしがない使用人で朱志香は令嬢である。身分の差としては天と地ほどの開きがある。
そして朱志香は優しく明るく美しい少女だ。群がる男という名の狼など星の数ほどいるだろう。その中で嘉音より身分の高い男など沢山いるだろう。
「……指輪、早い所渡して僕と結婚して貰おう……」
恋煩いの狼には相変わらず法律の壁など見えていないのであった。
「嘉音くん、お洗濯もの畳んでちょうだい」
休憩時間が終わるや否や紗音が洗濯物を持って使用人室に入ってきた。早速嘉音はふて腐れる。洗濯物がまるでバベルの塔かと思わんばかりに積み上げられていたからである。
「姉さん……これ、多くない?」
「しょうがないでしょ、このところお天気が悪かったんだから。ほら、お嬢様のお洋服もあるから畳んでちょうだい」
「お嬢様の……僕の朱志香の……」
洗濯物を畳みながら嘉音はついつい妄想の世界に飛んで行く。
『嘉哉くん、洗濯物、持ってきてくれたんだ……ありがとう』
朱志香に洗濯物を渡すと、彼女は恥ずかしそうに笑う。
『いえ、僕が朱志香の洗濯物を畳みたかったんです』
きっちり畳まれた洗濯物に朱志香は頬を埋めて、うん、と小さな声で頷く。
『きれいに畳んでくれて……凄く嬉しいよ、嘉哉くん』
『朱志香……』
『わ、私も……その、嘉哉くんの洗濯物、きれいに畳めたらいいんだけど……』
しゅんと項垂れる彼女を引き寄せて腕の中に閉じこめる。
『大丈夫です。僕がちゃんと付いていますから……』
『嘉哉くん……』
うるうると潤んだ瞳で見つめられて、嘉音の鼓動は高鳴るばかり。今すぐいちゃつきたいのを抑えて朱志香の耳元で囁いた。
『朱志香……結婚してください』
『……はい……』
「朱志香ラ~ブ!」
思い余って叫んだ嘉音の横っ面をタオルが張った。
「痛いじゃないか姉さん!」
「五月蝿いわよ、嘉音くん?しっかりお仕事なさい?」
「いいじゃないか少しぐらい!姉さんだってたまに『譲治様ラ~ブ!』って叫んでるじゃないか!」
あんまりにあんまりなので紗音に抗議すると、彼女はきっ、と睨み付けてくる。
「休憩中に叫ぶからいいの!っていうか、お仕事ぐらいちゃんとやってよ!お嬢様に言いつけるからね!」
「お嬢様はそれでも僕を愛してくれるもん!」
そう叫ぶと、姉は露骨に変なものを見るような顔になった。
「ねぇ、嘉音くん……それ、愛が重すぎるんじゃない?」
重いとは失礼な、と嘉音は憤った。が、自分の手の中にある朱志香のハンカチを見て、途端に顔が緩む。
「これ、僕がプレゼントしたハンカチだ……やっぱり僕と朱志香はラブラブなんだ……」
「……嘉音くん、床に垂らした涎、ちゃんと拭いてね?」
紗音が呆れたように零した呟きは、勿論嘉音の耳には届いていなかった。
本日の仕事があらかた終わり、夜勤でもないので嘉音は朱志香の部屋のベッドの中にいた。むろん無許可である。朱志香の香りに包まれて、嘉音は実に上機嫌であった。ちなみに朱志香本人は現在シャワーを浴びている。
しかもこのベッドはシャワーから上がった朱志香が寝る場所である。
『あ……あの、嘉哉くん』
目を閉じればネグリジェ姿の朱志香が嘉音の胸にもたれかかる。その細い肩を抱いて返事をする。
『どうしましたか?』
『あの……その……ここにいて、平気なの?』
彼女の頬はリンゴのように赤い。それがまた可愛らしくて、口元が自然と緩む。
『はい。今日は夜勤もありませんから』
『そっか……』
嬉しそうに身体をすり寄せる朱志香をぎゅっと抱きしめて、ふわふわの髪を梳く。
『朱志香……今晩はあなたの傍で過ごしてもいいですか?』
『うん……』
ふわりと微笑む彼女があんまりにも可愛らしくて、ついつい理性のタガが外れる。柔らかい身体を押し倒すと、朱志香の頬がもっと赤く染まった。
『嘉哉、君……?』
『大好きです、朱志香……』
ちゅ、と触れるだけの口付けを落として覆い被さる。
『嘉哉くん……私も、大好きだぜ……』
朱志香の腕が嘉音の背中に回される。
『よろしいですか……?』
『ん……』
そうしてもう一度、二人の唇が重なった。
「嘉哉くん……」
「朱志香……」
「何やってるの……?」
「じぇ、朱志香っ!?」
はっ、と目を開ければ、呆然と目を見開いた朱志香がそこにいた。朱志香にはいい所を見せたい、というのが嘉音の心情なので、言い訳にもならない言い訳を自信満々でする。こうなっては嘉音はもう問題児でしかない。
「朱志香のベッドを温めておこうと思いまして」
「……」
「あと、僕、今日ここで寝たかったんです!」
「……」
朱志香は呆然としたまま何も言わない。暫く見つめ合っていると、彼女はくるりと嘉音に背を向けた。
「じぇ、朱志香?」
「ごめん、今日私母さんのところで寝るね……嘉哉くん、そこで寝たいんでしょ?」
「ち、違うんです、違うんです、朱志香っ!」
「だって……現に寝てるし……」
嘉音はそこで自分がまだ朱志香のベッドの中にいた事実を知る。慌てて抜け出してぱたぱたと歩き出す朱志香の後ろ姿を追いかけて、叫ぶ。
「朱志香ぁぁ!愛しているんだぁぁぁぁっ!」
ぴた、と朱志香の足が止まる。後ろから彼女を抱きしめて耳元で囁いた。
「今晩は朱志香の抱き枕になりたかったんです……勝手にベッドの中に潜り込んだりしてすみませんでした」
彼女が振り返って嘉音を見つめる。
「寝てる間に……変な事しない……?」
「し、しません!」
本当は変なことをしたい。もの凄くしたい。けれども寝ている間にそんなことをするのは朱志香の愛を信頼していないように思えて、彼は泣く泣くそう誓った。
「嘉哉くん」
「はい」
頬にちゅ、と柔らかいものが触れた。はっとして朱志香の顔を見れば、彼女は頬を赤く染めて微笑んでいる。
「大好き!」
その笑顔があまりに眩しくて、美しくて、今日はとても良い日だったと嘉音は本気で思ったのだった。
六軒島はいつもと変わらない暮らしが続いている。でも、僕の目に映る景色は全く違う。
僕の朱志香さえそこにいれば世界は一面お花畑。
クッキー貰ったり紅茶貰ったり、朱志香の抱き枕になったりして、今日も僕は元気です。
僕の朱志香さえいればその他の有象無象は背景に過ぎないのだから!
「誰が有象無象ですって?」
地の底からはい上がってきたような声を耳にして振り返れば、空恐ろしい微笑みを浮かべた紗音が立っていた。
「え、僕と朱志香以外の万物に決まってr……」
「ねえ嘉音くん、私と譲治様は有象無象じゃないわよねぇ?」
「何を言ってるの姉さん、有象無象に決まってるじゃないk……」
そこで嘉音はようやく気付く。紗音が振り上げた花瓶に気付く。
「よくも私の譲治様を有象無象にしてくれたわねぇぇぇぇぇぇっ!」
「ぎゃああああああああああっ!」
が、いくら待っても予想した痛みは来なかった。恐る恐る目を開けると、朱志香が紗音を一生懸命取り押さえている。
「しゃ、紗音、ダメだ、そういうことしちゃダメだ!」
「いいえお嬢様、止めないでください!嘉音くんはここでしっかり躾ておかないと社会に出せないんです!」
「そ、それは……」
「お嬢様は嘉音くんが将来引きこもりのニートになっちゃってもいいんですか?」
「いや、それは良くないけど……」
紗音は再び花瓶を振り上げる。
「ひぃっ!」
「紗音、それどっかで見たと思ったら母さんの花瓶!高いらしいから割ったらやばいって!」
「えっ!?奥様の花瓶!?」
紗音が花瓶をあわあわと戻しに行き、ようやく花瓶の恐怖から解放される。
「朱志香、ありがとうございます」
「いや、いいんだ。偶然通りかかったから……」
そう照れる朱志香のスカートの裾が揺れる。赤い布に隠された白い下着が見えて、気付いたときには嘉音は感想を漏らしていた。
「朱志香……今日のお下着は白なんですね……可愛いです」
すうっと朱志香が真顔に戻る。
「嘉哉くん」
「はい」
「立って」
言われたとおりに立つと、朱志香が手を振り上げた。
「嘉哉くんのバカぁぁぁっ!」
ぱぁん、と小気味よい音が響いた。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡(?)
発見当時、嬉しそうな顔で鼻から血を大量に流していたため、死因は大量出血と見られる。傍には血文字で相合い傘が書かれており、傘の下には「よしや」「じぇしか」と書かれていた。
思っても言って良いことと悪いことがあるという良い見本だと思われる。本当に彼の頭はお花畑だったようだ。
「あんな事言うんだから、もう嘉哉くんのバカっ!」(by朱志香)
お久しぶりです。お久しぶりの更新にカノジェシSSです。
検索結果見たらこっちのが多かったんだけどなぁ。
そんなわけで、初めて注意書きのない(それも問題だけども)カノジェシSSです。
では、どうぞ。
『Navigatria』
検索結果見たらこっちのが多かったんだけどなぁ。
そんなわけで、初めて注意書きのない(それも問題だけども)カノジェシSSです。
では、どうぞ。
『Navigatria』
お嬢様、と伸ばした腕を引っ込める。自分は家具だ、そう言い聞かせて諦めようとする。
それでも、諦めきれない。
朱志香は嘉音の太陽なのだから。
嘉音は、朱志香を愛しているのだから。
だから、彼女が導いてくれる限り、彼は恋を諦めきれない。
Navigatria
「嘉音くん、ただいま」
バラ庭園で作業をしていたら朱志香のほうから声を掛けてくれた。明るい笑顔が眩しくてついつい目を細めそうになる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「バラの世話してるんだ、大変だな」
「いえ、これが仕事ですから」
釘付けになってしまいそうなその笑顔から目を逸らして、園芸鋏で小さなバラを刈り取る。
朱志香が嘉音のことを好きだと聞いたのは文化祭の少し前のことである。けれど文化祭の夜の一件以来、朱志香本人は彼に対して何も言ってこないし、嘉音にしてもそれについてとかく言うわけにはいかなかったのでずっと黙ってきた。
もしも人間だったなら、と嘉音は夢想する。
もしも自分が人間だったなら、迷うことも躊躇うこともなく朱志香に想いを伝えるのに。
想いを伝えて、甘く香る身体を腕の中に閉じこめて、何度も愛していると囁いて、それから……。
(それから?)
そこで急に現実に引き戻される。どんなに夢想して、どんなに朱志香に恋い焦がれても、嘉音は所詮は家具で、人間ではないのだ。
(何を考えているんだ、僕は……。早く、早く諦めなければいけないのにっ!)
苛立ち任せにしゃくんとバラの枝を切る。じわりと胸に痛みが広がる。
「か、嘉音くんっ!?大丈夫!?」
朱志香の慌てた声に思考が止まる。
「あ……」
嘉音らしくないミス。小枝と一緒に自分の指の皮まで切ってしまうなんて、なんて不覚。胸に広がったはずの痛みは指を切った痛みだったのかとぼんやりと考えた。けれど指はともかく胸までつきんと痛む。
朱志香が悲しそうな、心配そうな顔をしているから。慌てた声で鞄を探った彼女は絆創膏を取り出すと嘉音の手を取った。
「お嬢様……?」
朱志香の行動の意図が分からなくて少しだけ訝しんだ嘉音は、次の瞬間に思い切り仰天していた。
「お嬢様っ!」
「ん……」
温かくて柔らかいものに包まれる。それが朱志香の口内だということに気付いたのは指先に彼女の唇が触れた後だった。傷口に触れぬように、滴る血を清めていくその行為はとても自然で、とても神聖なものに見えた。
けれどもその行為は、嘉音の怪我の原因となった心を通して見ると汚してはならないものを自分の血で汚してしまったような、そんな罪悪感に苛まれる。恋い焦がれる朱志香をそんな目で見てしまった自分に嘉音は嫌悪して、だから痛みを堪えて彼女の口内から指を引き抜いた。
「お嬢様……おやめください」
引き抜いた指を引っ込めると、朱志香が少しだけ傷ついたような表情を浮かべる。
「あ……ご、ごめんな、私……その、余計なこと、しちゃって……」
「いえ……ありがとうございます。心配をおかけしてすみません」
す、と朱志香が何かを嘉音の手に握らせた。それからすぐに立ち上がってしまう。
「じゃ、私……もう行くね。お大事に!」
寂しげな笑顔に胸がまたつきんと痛む。何も言えなくて、立ち上がってお辞儀をする。スカートを翻して屋敷に走っていく彼女を見送りながら、手の平に握られたものの正体を知る。
「絆創膏……」
それは朱志香が取り出した、絆創膏だった。
彼女の体温が移って温かいそれをゆっくりと指に貼り付ける。いつも使用人室の備品を貼る時はてきぱきと貼れるのに、今日に限って絆創膏はあちらへこちらへとずれてゆく。それはまるで今の嘉音の心のよう。朱志香がくれた絆創膏。その事実だけで、彼の心は千々に乱れて仕事どころではなくなってしまう。
「お嬢様……好きです、あなたのことが……好きなんです……」
掠れた声でそう呟いて、嘉音は朱志香の温もりが未だ残る指に唇を押し当てた。
使用人室に戻る途中で朱志香とすれ違う。
「あ、嘉音くん……その、さっきは……」
優しい彼女はいつも嘉音を気に掛けてくれるからこそ、謝らせたくない。
「いえ、ご心配をおかけしました。見苦しい所をお見せして申し訳ございません」
遮ったのに、朱志香の笑顔は何故だか悲しげに見えた。
「う、うん……それじゃ、ね」
金髪がふわふわと揺れる。その背中にお嬢様、と腕を伸ばし掛けて、引っ込める。
自分は家具で、朱志香は人間なのだ。
恋をすることなど叶わない、結ばれることなど叶わないのだ。
だから、彼は朱志香が向かった方とは反対に歩き出した。
使用人室には誰もいなかった。日誌を手に取り、椅子に座る。
ぱらぱらと捲っても書いてあることは頭に入ってこない。
朱志香の顔ばかりがちらついて、嘉音は日誌をぱたんと閉じる。
(お嬢様……悲しませたくなんかなかったのに……)
嘉音にとって朱志香は本来仕えるべき人のはずで、もっとも恋に落ちることが許されないはずの人だ。右代宮の令嬢で、この家の跡取りで、嘉音と同じように六軒島で生を過ごし、六軒島で生を終える少女。
人間と家具の間で恋などしてはならないのだ。
それなのに、その範を越えたくなる。
結ばれてはならないのに、結ばれたいと願ってしまう。
許されない恋を煩ってしまったことは百も承知で、自分が行動を起こすことがどれほど朱志香に迷惑を掛けるかも知っていて、嘉音は朱志香を渇望していた。
朱志香とならば人間として生きていけるかもしれないから。
朱志香とならば空を飛べるかもしれないから。
何故なら朱志香は、嘉音を色鮮やかな明るい世界へと導く太陽なのだから。
「お嬢様……朱志香様……っ」
日誌を握ったままの拳の上に涙がぱたぱたと落ちる。もしも黄金郷が存在したとして、そこでは本当に朱志香と結ばれることが出来るのだろうかと考える。けれどそんな血塗られた場所はただの御伽噺。
自分が人間になりたいと本当に願うのならば、自分の行動で示さなければならないのだ。
自分が朱志香を愛していて、朱志香も嘉音を愛してくれるなら、それはもう二人の黄金郷なのだから。
だから、嘉音は諦めきれない。いや、諦めない。
朱志香が愛おしいから。
その日の夕方、バラ庭園でバラの世話をしていると、朱志香が屋敷から出てくるのが見えた。目が合うと彼女が微笑みかける。
「お嬢様……」
「き、今日の当番、嘉音くんだったんだ」
「はい」
頷くと朱志香はそっか、と笑う。その微笑みは柔らかい。
「お嬢様はどうしてここへ?」
「い、いや、あの、えっと……少し、散歩でもしようかと思って」
「そうですか」
会話が途切れる。沈黙の中、しゃくん、しゃくんとバラの小枝を刈り取る音が聞こえる。すぐそばに朱志香がいる。それだけで鼓動が高鳴る。朱志香に聞こえてしまわないか、それだけが気がかりで。
それが、ミスの元だった。
「きゃっ……」
しゃくん、と枝を切ると同時に朱志香の短い悲鳴が聞こえた。
「お嬢様!?」
鋏をうち捨てて朱志香のほうを向けば、彼女ははっと顔を強張らせて慌てて笑ってみせる。
「あ、だ、大丈夫だぜ、ちょっと掠っただけだから!」
彼女の足下にはバラの小枝。朱志香の指を傷つけたのはこれだろう。
「お嬢様、傷口を見せてください」
「え、あ、大丈夫……」
朱志香が言い終わる前にその白い手の平を取る。傷自体は深くないものの、棘で傷ついた箇所からはじわりと血が滲んでいた。
「申し訳ございません……お嬢様の手に傷を……」
「や、大丈夫だから、あの、手……」
真っ赤に頬を染めて手を引き抜こうとするのを握りしめることで押しとどめて、嘉音は朱志香の傷口に口づけた。
「……!」
そのまま指を口内に含むと、まごまごと朱志香の指が逃げまどって、結局は大人しくなる。
「や、嘉音、くん……っ」
頬を染めて、困ったようにおろおろしながら朱志香はされるがままになっている。傷口を舐めて清めると、指を解放する。
「僕の不注意です、申し訳ございませんでした。……お嬢様?」
彼女は頬を赤くしたままじっと嘉音を見つめている。
「お嬢様?」
「あ、あぁ、うん、私こそ邪魔しちゃってごめんな。えっと……」
そうしてすっと立ち上がった朱志香を追うように嘉音も立ち上がる。
「あ、あの、私、もう、戻るね」
くるりと嘉音に背を向けて、朱志香は屋敷へと駆け出す。
このまま屋敷に帰らせたくない。
想いを伝えたいのだから。
その衝動だけが嘉音を突き動かした。
「朱志香様っ!」
大きく一歩踏み出して、朱志香を背後から抱きしめる。いい匂いがする。彼女は数拍おいて状況を理解したらしく、あわあわと意味のない言葉を紡ぐ。
「朱志香様……行かないでください」
「え……?」
「す……すっ……」
あんなに告げたい言葉なのに、朱志香を目の前にするとす、の先が出てこない。だから朱志香は困ったように嘉音くん、と囁く。
「す……」
「あの、ね……嘉音くんの、せいじゃないから……私の不注意だから……謝らないでくれよ……」
弱々しい声に胸が締め付けられる。だから嘉音は全力で否定する。
「違うんです!」
「違うって、何が!?」
「好きですっ……朱志香様が好きなんですっ」
え、と朱志香が身を捩って振り向いてくれる。嘉音はなおも腕の中に柔らかな体を抱きしめながらもう一度想いを告げる。
「愛しています、朱志香様……」
今度は朱志香は何も返さず、呆然と嘉音を見つめる。
不意に、彼女の頬を一筋の涙が転がり落ちた。
「朱志香様!?」
「ありがと……嬉しいの、嘉音くんにそう言ってもらえて、嬉しいの……!」
ぐしぐしと目を擦る朱志香を再びきつく抱きしめる。
「あなたが喜んでくださるのなら、何度でも言います!朱志香様を愛しているんです!」
「ありがと……ありがとう、嘉音くん……!私も、その……」
「朱志香様?」
「あの、私も、好きだぜ!」
朱志香の頬は今までよりもずっと赤かった。おそらく嘉音のそれも同じぐらい赤くなっているだろう。だってはっきりとした愛の告白は今この瞬間、初めて受けたのだから。
ふつふつと心の底から嬉しさが湧き上がる。
朱志香と想い合うことが許される、その幸せが嬉しくてたまらない。
「ありがとうございます……愛しています、朱志香様……!」
涙は嬉しい時にも流れるのだと、嘉音は初めて知ったのだった。
ずっと朱志香が太陽のように眩しかった。
嘉音を導くのはいつだって朱志香だった。
だから、これからは二人で歩いてゆく。
例えこの先に何が待ち受けていようとも、どんなことが起ころうとも、朱志香の導きをすぐ近くで追いかけながら、二人手を繋いでどこまでも一緒に歩んでゆくのだ。
二人の間にはもう何人たりとも引き裂けない、強い強い愛の絆があるのだから。
それでも、諦めきれない。
朱志香は嘉音の太陽なのだから。
嘉音は、朱志香を愛しているのだから。
だから、彼女が導いてくれる限り、彼は恋を諦めきれない。
Navigatria
「嘉音くん、ただいま」
バラ庭園で作業をしていたら朱志香のほうから声を掛けてくれた。明るい笑顔が眩しくてついつい目を細めそうになる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「バラの世話してるんだ、大変だな」
「いえ、これが仕事ですから」
釘付けになってしまいそうなその笑顔から目を逸らして、園芸鋏で小さなバラを刈り取る。
朱志香が嘉音のことを好きだと聞いたのは文化祭の少し前のことである。けれど文化祭の夜の一件以来、朱志香本人は彼に対して何も言ってこないし、嘉音にしてもそれについてとかく言うわけにはいかなかったのでずっと黙ってきた。
もしも人間だったなら、と嘉音は夢想する。
もしも自分が人間だったなら、迷うことも躊躇うこともなく朱志香に想いを伝えるのに。
想いを伝えて、甘く香る身体を腕の中に閉じこめて、何度も愛していると囁いて、それから……。
(それから?)
そこで急に現実に引き戻される。どんなに夢想して、どんなに朱志香に恋い焦がれても、嘉音は所詮は家具で、人間ではないのだ。
(何を考えているんだ、僕は……。早く、早く諦めなければいけないのにっ!)
苛立ち任せにしゃくんとバラの枝を切る。じわりと胸に痛みが広がる。
「か、嘉音くんっ!?大丈夫!?」
朱志香の慌てた声に思考が止まる。
「あ……」
嘉音らしくないミス。小枝と一緒に自分の指の皮まで切ってしまうなんて、なんて不覚。胸に広がったはずの痛みは指を切った痛みだったのかとぼんやりと考えた。けれど指はともかく胸までつきんと痛む。
朱志香が悲しそうな、心配そうな顔をしているから。慌てた声で鞄を探った彼女は絆創膏を取り出すと嘉音の手を取った。
「お嬢様……?」
朱志香の行動の意図が分からなくて少しだけ訝しんだ嘉音は、次の瞬間に思い切り仰天していた。
「お嬢様っ!」
「ん……」
温かくて柔らかいものに包まれる。それが朱志香の口内だということに気付いたのは指先に彼女の唇が触れた後だった。傷口に触れぬように、滴る血を清めていくその行為はとても自然で、とても神聖なものに見えた。
けれどもその行為は、嘉音の怪我の原因となった心を通して見ると汚してはならないものを自分の血で汚してしまったような、そんな罪悪感に苛まれる。恋い焦がれる朱志香をそんな目で見てしまった自分に嘉音は嫌悪して、だから痛みを堪えて彼女の口内から指を引き抜いた。
「お嬢様……おやめください」
引き抜いた指を引っ込めると、朱志香が少しだけ傷ついたような表情を浮かべる。
「あ……ご、ごめんな、私……その、余計なこと、しちゃって……」
「いえ……ありがとうございます。心配をおかけしてすみません」
す、と朱志香が何かを嘉音の手に握らせた。それからすぐに立ち上がってしまう。
「じゃ、私……もう行くね。お大事に!」
寂しげな笑顔に胸がまたつきんと痛む。何も言えなくて、立ち上がってお辞儀をする。スカートを翻して屋敷に走っていく彼女を見送りながら、手の平に握られたものの正体を知る。
「絆創膏……」
それは朱志香が取り出した、絆創膏だった。
彼女の体温が移って温かいそれをゆっくりと指に貼り付ける。いつも使用人室の備品を貼る時はてきぱきと貼れるのに、今日に限って絆創膏はあちらへこちらへとずれてゆく。それはまるで今の嘉音の心のよう。朱志香がくれた絆創膏。その事実だけで、彼の心は千々に乱れて仕事どころではなくなってしまう。
「お嬢様……好きです、あなたのことが……好きなんです……」
掠れた声でそう呟いて、嘉音は朱志香の温もりが未だ残る指に唇を押し当てた。
使用人室に戻る途中で朱志香とすれ違う。
「あ、嘉音くん……その、さっきは……」
優しい彼女はいつも嘉音を気に掛けてくれるからこそ、謝らせたくない。
「いえ、ご心配をおかけしました。見苦しい所をお見せして申し訳ございません」
遮ったのに、朱志香の笑顔は何故だか悲しげに見えた。
「う、うん……それじゃ、ね」
金髪がふわふわと揺れる。その背中にお嬢様、と腕を伸ばし掛けて、引っ込める。
自分は家具で、朱志香は人間なのだ。
恋をすることなど叶わない、結ばれることなど叶わないのだ。
だから、彼は朱志香が向かった方とは反対に歩き出した。
使用人室には誰もいなかった。日誌を手に取り、椅子に座る。
ぱらぱらと捲っても書いてあることは頭に入ってこない。
朱志香の顔ばかりがちらついて、嘉音は日誌をぱたんと閉じる。
(お嬢様……悲しませたくなんかなかったのに……)
嘉音にとって朱志香は本来仕えるべき人のはずで、もっとも恋に落ちることが許されないはずの人だ。右代宮の令嬢で、この家の跡取りで、嘉音と同じように六軒島で生を過ごし、六軒島で生を終える少女。
人間と家具の間で恋などしてはならないのだ。
それなのに、その範を越えたくなる。
結ばれてはならないのに、結ばれたいと願ってしまう。
許されない恋を煩ってしまったことは百も承知で、自分が行動を起こすことがどれほど朱志香に迷惑を掛けるかも知っていて、嘉音は朱志香を渇望していた。
朱志香とならば人間として生きていけるかもしれないから。
朱志香とならば空を飛べるかもしれないから。
何故なら朱志香は、嘉音を色鮮やかな明るい世界へと導く太陽なのだから。
「お嬢様……朱志香様……っ」
日誌を握ったままの拳の上に涙がぱたぱたと落ちる。もしも黄金郷が存在したとして、そこでは本当に朱志香と結ばれることが出来るのだろうかと考える。けれどそんな血塗られた場所はただの御伽噺。
自分が人間になりたいと本当に願うのならば、自分の行動で示さなければならないのだ。
自分が朱志香を愛していて、朱志香も嘉音を愛してくれるなら、それはもう二人の黄金郷なのだから。
だから、嘉音は諦めきれない。いや、諦めない。
朱志香が愛おしいから。
その日の夕方、バラ庭園でバラの世話をしていると、朱志香が屋敷から出てくるのが見えた。目が合うと彼女が微笑みかける。
「お嬢様……」
「き、今日の当番、嘉音くんだったんだ」
「はい」
頷くと朱志香はそっか、と笑う。その微笑みは柔らかい。
「お嬢様はどうしてここへ?」
「い、いや、あの、えっと……少し、散歩でもしようかと思って」
「そうですか」
会話が途切れる。沈黙の中、しゃくん、しゃくんとバラの小枝を刈り取る音が聞こえる。すぐそばに朱志香がいる。それだけで鼓動が高鳴る。朱志香に聞こえてしまわないか、それだけが気がかりで。
それが、ミスの元だった。
「きゃっ……」
しゃくん、と枝を切ると同時に朱志香の短い悲鳴が聞こえた。
「お嬢様!?」
鋏をうち捨てて朱志香のほうを向けば、彼女ははっと顔を強張らせて慌てて笑ってみせる。
「あ、だ、大丈夫だぜ、ちょっと掠っただけだから!」
彼女の足下にはバラの小枝。朱志香の指を傷つけたのはこれだろう。
「お嬢様、傷口を見せてください」
「え、あ、大丈夫……」
朱志香が言い終わる前にその白い手の平を取る。傷自体は深くないものの、棘で傷ついた箇所からはじわりと血が滲んでいた。
「申し訳ございません……お嬢様の手に傷を……」
「や、大丈夫だから、あの、手……」
真っ赤に頬を染めて手を引き抜こうとするのを握りしめることで押しとどめて、嘉音は朱志香の傷口に口づけた。
「……!」
そのまま指を口内に含むと、まごまごと朱志香の指が逃げまどって、結局は大人しくなる。
「や、嘉音、くん……っ」
頬を染めて、困ったようにおろおろしながら朱志香はされるがままになっている。傷口を舐めて清めると、指を解放する。
「僕の不注意です、申し訳ございませんでした。……お嬢様?」
彼女は頬を赤くしたままじっと嘉音を見つめている。
「お嬢様?」
「あ、あぁ、うん、私こそ邪魔しちゃってごめんな。えっと……」
そうしてすっと立ち上がった朱志香を追うように嘉音も立ち上がる。
「あ、あの、私、もう、戻るね」
くるりと嘉音に背を向けて、朱志香は屋敷へと駆け出す。
このまま屋敷に帰らせたくない。
想いを伝えたいのだから。
その衝動だけが嘉音を突き動かした。
「朱志香様っ!」
大きく一歩踏み出して、朱志香を背後から抱きしめる。いい匂いがする。彼女は数拍おいて状況を理解したらしく、あわあわと意味のない言葉を紡ぐ。
「朱志香様……行かないでください」
「え……?」
「す……すっ……」
あんなに告げたい言葉なのに、朱志香を目の前にするとす、の先が出てこない。だから朱志香は困ったように嘉音くん、と囁く。
「す……」
「あの、ね……嘉音くんの、せいじゃないから……私の不注意だから……謝らないでくれよ……」
弱々しい声に胸が締め付けられる。だから嘉音は全力で否定する。
「違うんです!」
「違うって、何が!?」
「好きですっ……朱志香様が好きなんですっ」
え、と朱志香が身を捩って振り向いてくれる。嘉音はなおも腕の中に柔らかな体を抱きしめながらもう一度想いを告げる。
「愛しています、朱志香様……」
今度は朱志香は何も返さず、呆然と嘉音を見つめる。
不意に、彼女の頬を一筋の涙が転がり落ちた。
「朱志香様!?」
「ありがと……嬉しいの、嘉音くんにそう言ってもらえて、嬉しいの……!」
ぐしぐしと目を擦る朱志香を再びきつく抱きしめる。
「あなたが喜んでくださるのなら、何度でも言います!朱志香様を愛しているんです!」
「ありがと……ありがとう、嘉音くん……!私も、その……」
「朱志香様?」
「あの、私も、好きだぜ!」
朱志香の頬は今までよりもずっと赤かった。おそらく嘉音のそれも同じぐらい赤くなっているだろう。だってはっきりとした愛の告白は今この瞬間、初めて受けたのだから。
ふつふつと心の底から嬉しさが湧き上がる。
朱志香と想い合うことが許される、その幸せが嬉しくてたまらない。
「ありがとうございます……愛しています、朱志香様……!」
涙は嬉しい時にも流れるのだと、嘉音は初めて知ったのだった。
ずっと朱志香が太陽のように眩しかった。
嘉音を導くのはいつだって朱志香だった。
だから、これからは二人で歩いてゆく。
例えこの先に何が待ち受けていようとも、どんなことが起ころうとも、朱志香の導きをすぐ近くで追いかけながら、二人手を繋いでどこまでも一緒に歩んでゆくのだ。
二人の間にはもう何人たりとも引き裂けない、強い強い愛の絆があるのだから。
むしゃくしゃして書いた。
だが反省はしていない。
そんなわけで「うみねこ」のEP6までをネタバレのみを含めて読んだ結果出来ちゃったカノジェシ妄想小説。
今出さないと永遠に出せない気がしますので出しちゃいます。
!諸注意!
・ベアト=朱志香説です。
・八城十八=嘉音説です。
・嘉音がいつも以上にヤンデレで変態です。
・朱志香の年齢が退行しています。
・なぜかベルンカステル卿がちょろっと出てきています。
・R15です。
では、どうぞ。
miracle of whiches
だが反省はしていない。
そんなわけで「うみねこ」のEP6までをネタバレのみを含めて読んだ結果出来ちゃったカノジェシ妄想小説。
今出さないと永遠に出せない気がしますので出しちゃいます。
!諸注意!
・ベアト=朱志香説です。
・八城十八=嘉音説です。
・嘉音がいつも以上にヤンデレで変態です。
・朱志香の年齢が退行しています。
・なぜかベルンカステル卿がちょろっと出てきています。
・R15です。
では、どうぞ。
miracle of whiches
六軒島爆発事故。
それはあまりにも突発的に起きたことだった。
嘉哉のあずかり知らぬところで、彼の大切な人を奪ってしまった。
彼が八城十八と名乗り始め、女性のフリをしたのはボトルメールに嘉音という名前があったから、というのがひとつの理由だった。
爆発事故の日は右代宮家の親族会議だった。その場に何故彼がいなかったか。
それは右代宮家を解雇されたからであった。
朱志香と心を通わせて少し経った頃に突然通告されたことだった。
それなのに、彼の名前がボトルメールに書いてあったのだ。
それは即ち、『嘉音』を社会から隠すということ。
知られては困る真相を彼とボトルメールの作者、すなわち朱志香が共有していることを仄めかすことでもあった。
そして嘉哉は真相を隠すことを選んだからである。
もう一つの理由は全てを知ってしまったからだった。
爆発事故は事故ではなかったこと。
愛のない親族に愛を与えたかったこと。
昔の恋を諦めなければならなかったこと。
それでも罪を糾弾しなければならなかったこと。
右代宮戦人の罪が朱志香への裏切り、即ち魔法の否定だったこと。
そして、重症化した喘息に自らの死期を悟った朱志香が、戦人への恋も親族への愛も、嘉哉への恋さえも抱きしめたまま次々と親族達を殺していったこと。
それらは朱志香本人が伝えたことだった。真相を手紙に綴り、銀行のカードと嘉哉との思い出の品と一緒に箱に詰めて船長に託したのだった。
それを受け取った時、彼は全てを知った。
朱志香が彼に向けてくれた、真実の愛を知った。
だから、嘉哉は八城十八となった。
書かなければ、と筆を執って偽書を執筆する傍らで、彼が最初で最後に愛した朱志香が他の男と心を通わせかねない話を書くのはとんでもない苦痛であった。
朱志香が託した真実を守らなければ、という気持ちとこのまま朱志香の元に行って幸せになってしまいたいという気持ちの板挟みに陥った時に、ベルンカステルと名乗る魔女が現れた。
「あなたに朱志香を返してあげるわ」
「は……?」
魔女はくすくすと笑ってぱちんと指を鳴らす。すると、何もないはずの空間に人の姿が現れる。
ウェーブがかった金髪の美少女。
閉ざされた瞳は見えなかったけれど、その少女は間違いなく事故……いや、六軒島大量殺人事件で自らを犠牲にした嘉哉の恋人、右代宮朱志香であった。
「朱志香、さん……」
ゆっくりと腕の中に落ちてくる彼女を抱き留める。最後に抱いた時よりも小さく頼りなげに見えるのは彼が成長したせいだろうか。
「その朱志香はこのカケラから連れてきた彼女じゃないわ。あなたがあんまりにも嘆いているからちょっとした気まぐれで別のカケラから1986年以前の朱志香を連れてきただけよ」
「そんなことが……カケラ……!?」
思考が追いついていかない。
ベルンカステルは何を言っているのか、さっぱり分からない。
「ちなみに彼女はあんたのことなんか全然知らないわ。14才だから。……夏妃達に邪魔者扱いされるカケラに置いておくのも良かったんだけど、この子自身が死にそうだったのだもの」
朱志香の身体をかき抱く。そのカケラとやらの彼女の境遇を思えば、たしかにここに置いておく方がよいのだろう。
そして、魔女はこう言った。
「彼女をどうしようが、あとはあんたの勝手よ」
嘉哉の腕の中で朱志香が目覚めたのは夜明け頃だった。
「ぅ……ん……」
「おはようございます、朱志香さん」
眠そうに目を瞬かせた彼女はそこが自分の部屋でないことに気が付いて怯えたような顔をする。
「ここ……どこ……あんたは……」
「ここは僕の部屋です」
ぎゅ、と抱きしめると、朱志香は酷く怯えて暴れ始めた。
「やだっ……放せっ、放せよっ」
嘉哉を知らない頃の彼女は戦人を好いていた筈だ。ならば知らない男に抱きしめられているのは不愉快、もしくは屈辱に近いかもしれない。
しかし、彼にとってもそれは不愉快だった。だから無理矢理に口づける。
「んっ……ん、んぅ……」
深く口づけて朱志香の動きを押さえ込む。舌先で唇をつついて彼女の口内に入り込む。
「ふ……ぅん……っ」
唇を離すと2人の間に銀色の糸が伝う。朱志香の柔らかい身体をもう一度抱き込んでベッドに潜る。
「嫌だぁ……っ、離してぇ……」
「朱志香様……僕は嘉哉といいます」
今にも泣き出しそうな顔をしていた朱志香がこちらを見上げる。
「よし……や……」
「あなたはこれからここで生きるのです。あなたを邪魔者扱いする奥様達の元になど……返しません」
びくんと彼女の身体が震えた。
「そんな……こと……」
「僕は……この世界ではかつてあなたの家具でした。けれど、あなたを守ることがとうとう出来なかった……だから、今度こそは守ってみせます。あなたを傷つける全てをこの手で葬り去りましょう。あなたがいつも笑っていられる世界を作りましょう。あなたのためなら僕は何でも出来る……だから」
全て本当のこと。
朱志香と結ばれて少し経った頃に、彼は突然解雇を言い渡された。
だから彼は魔女ベアトリーチェと化した朱志香を止めることが出来なかった。
朱志香の汚れのない心にどす黒いどろどろした憎しみが広がっていくのを止められなかった。
そして、朱志香の心を侵す全てのものから彼女を守りきることが出来なかった。
けれど、今度こそ朱志香を守りきってみせる。
彼女が望むならなんだって出来る。
彼女を傷つけるものはなんであろうと……例えそれが紗音であろうとも、嘉哉は葬り去れるだろう。
朱志香があの太陽のような微笑みをもう一度見せてくれるのならば、彼は魔女の爪先にだって躊躇なくキスできるだろう。
愛してください、と抱きしめた腕の中で朱志香が体を震わせた。
「嘉哉……さん……」
「朱志香……この世界であなたを失ってから、僕の時間はずっと止まったままでした……どうしようもなくあなたが欲しかった……」
それが今、彼女は彼の腕の中にいる。
確かに目の前にいる少女は嘉哉の世界の中にいた朱志香ではない。けれど、姿も、声も、匂いも、身に纏う雰囲気も朱志香のそれだ。
彼が偽書で描写した、ベアトリーチェを失って、新たなるベアトリーチェを創りだした右代宮戦人と同じシチュエーション。
けれど、それでも彼女が朱志香ではないと嘆くには、彼はあまりに朱志香を愛しすぎていた。
記憶の中で嘉哉くん、と笑う右代宮朱志香と寸分違わず、されど時間だけが違う彼女は、それでもやはり右代宮朱志香だったのだから。
「愛しているんです……あなたを、あなただけを愛しています……」
「嘉哉さん……」
背中に回されるしなやかな腕の感触に渇いた心が癒えていく。
「私……ここにいても、良いの……?」
「ここに……いてください……」
きつくきつく抱きしめて、漸く愛しい人が戻ってきた喜びに嘉哉は涙した。
暫くして朱志香が彼を嘉哉くんと呼ぶようになった頃、嘉哉は全てを話すことにした。
「朱志香、僕はずっと……朱志香の物語を書いていたんだ」
「私の……?」
「そう。前にも話したけど、朱志香はこの世界では死んだことになってる。絵羽様と、縁寿様を除いて」
「紗音や……譲治兄さんも?」
「そう。それと、……戦人様も」
あの日の新聞を見せる。12年前の10月6日の夕刊。
六軒島爆発事故。
伊豆諸島にある右代宮家所蔵の島で起きた爆発事故。
親族会議のために前々日から集まっていた当主・右代宮蔵臼を始めとする16人の生存は絶望的……。
その翌日の朝刊。
右代宮家本邸から離れた隠れ屋敷の地下で右代宮絵羽が見つかる。
そして、その数年後の日付の夕刊。
六軒島爆発事故の様子を描いたボトルメールが発見される。
「ボトルメール……?」
「そう、ボトルメール」
「ベアトリーチェのボトルメールのことか?」
それを聞いて、驚いた。
「知っているの?」
「だって……あれは……みんなが幸せになれる魔法を私が自分で書いたものだから……母さん達から邪魔者にされなくてすむ……愛のある世界を書いたものだから」
「碑文通りに殺人事件が起きるんだ……」
「碑文……殺人……!?そんな……碑文って、何のことだよ……それに、殺人……って……そんな、そんなの、私は書いた覚えがねぇぜ!」
そう言えばそうだ。碑文が飾られたのは朱志香が16歳の時だった。ちょうど今の彼女と同じ年頃だ。14で嘉哉の元に連れてこられた彼女が知るはずがない。
「碑文は金蔵様が当主選びのために作ったものなんだ。その碑文に沿って、13人が殺されて、遺った5人も最後は死んでしまう……そう言う内容なんだ」
「……犯人は、私……ベアトリーチェなのか?」
「ベアトリーチェだって、ボトルメールには書いてある……けれど、朱志香が犯人だって……手紙をくれて……」
「……見せてくれないか?」
手紙と真相の書かれたノートを渡す。彼女はそれを全て読むからと寝室に入っていってしまった。
「朱志香……」
碑文のことも、殺人のことも知らなくても、彼女は確かに朱志香だ。
だからこそ心配で心配で仕方ないのだ。
朱志香を自分の鳥籠の中に閉じこめたのに、それでもまだ死んだ戦人に彼女を攫われる不安に襲われる。
朱志香はお前のものではないと嘲笑われて彼女を攫われてしまう悪夢を彼はここ数日見ていたのだ。
だから、寝室にそっと入り込む。
「嘉哉くん……」
気付いた朱志香がこちらを向く。その眼には、涙。
「朱志香……!?」
「この世界の私……も、辛かったんだ……本当は殺したくなんて、なかっ……」
朱志香の頬を涙が伝う。
「朱志香……」
抱きしめると、彼の腕の中で朱志香は何度もしゃくり上げた。
「嘉哉くん……っ、私……」
「どこにも……どこにも行かないでください!」
言葉を遮ってもっときつく抱きしめる。
「嘉哉くん……」
「朱志香が戦人様を愛していたのは知ってます。でも……それでも、僕はあなたを……」
ぎゅ、としなやかな腕が抱き返す。
「うん……どこにも、行かない……」
大好きで、ずっとずっと聞きたくて、それでも朱志香がいない時には叶わなかった優しい声。
「だから……私を元の世界に帰さないで……私……白い魔女のままでいたい……」
「元の世界になんて返しません……ずっと、僕の傍にいてください……愛してるんです……朱志香」
「嘉哉くん……」
「事件当日、僕は島にいることが出来なかったんだ……」
「え……でも、嘉音くん、って嘉哉くんの事じゃ……」
「姉さんの……紗音の行動を半分削って、そこに僕を入れたんだ……朱志香が、僕を島にいさせてくれた」
「あ……」
「だから……僕は朱志香の物語を書き続けるんだ……だけど、朱志香が戦人様と愛し合うのを書くのが、辛くて……」
「嘉哉くん……大丈夫……大丈夫だよ……私はずっと傍にいるから……」
一番聞きたかった声。一番欲しかった言葉。
元のカケラがどうなろうと、嘉哉の知ったことではなかった。
何故なら、今この瞬間、朱志香は彼だけのものなのだから。
だから、腕の中の宝物を壊してしまわないように優しく抱きしめて口づけた。
「ん……っ」
「朱志香……愛してる。この世で一番愛してる……」
通販で買ったワンピースの胸元に手を這わせる。
「あ……っ、嘉哉くん……っ」
首筋に口づけて、重なる鼓動に酔いしれた。
朱志香と床を共にするのは10年ぶりだった。嘉哉の元で養育された腕の中の朱志香は相変わらず可愛らしくて、やっぱりもうどこにも帰したくなくなっていた。
思い返してみれば、朱志香はずっと嘉哉のことを気に掛けていた。それに応えなかったのは彼の罪。
贖罪のために朱志香を抱くわけではない。
けれど、密告されても傍にいることが出来なかったから事件が起こってしまったのかもしれないとずっと後悔してきた。
後で聞いたことだったが、2人のことを密告したのは紗音だった。
ずっと信頼していたけれど、しかし姉は譲治との結婚という誘惑には勝てなかったのだろう。
もともと、紗音と譲治、嘉音と朱志香の二組のうち、どちらかしか結ばれなかったのだ。右代宮家の当主候補は朱志香と譲治。しかし当主と結婚するのが使用人では親たちの収まりがつかなかったのだ。
だから紗音が譲治と結婚してしまえば嘉音は朱志香と結婚することは出来なくなる。だからといって朱志香が他の男と愛を育むのを見ているのも辛かった。だから島から出てしまったほうがましだと思った。
だが嘉音が朱志香と結婚できれば紗音が譲治と結婚することは出来なくなる。しかし紗音は元々本家のメイドだから、譲治と一年に一回だけ会って、諦めるだけですむのだ。
けれどその緊張状態は譲治と結婚したいがための紗音の行動で崩されてしまったのだ。
未発表の原稿に書いた紗音との決闘。
2人がもしも現実で決闘して、二人共が倒れてしまったとしても、朱志香は戦人と結婚して当主になるだろう。なぜなら彼女はベアトリーチェだから。実際朱志香の幸せを願って書いた本来の筋書きはその筈だった。
それなのに執筆中にどうしようもなく紗音が憎くなって、紗音の行動の全てを自分に書き換えたくなった。
朱志香を裏切り、嘉哉を裏切った紗音への恨みが爆発したのだ。
だからあの筋書きは彼の個人的な恨み故だと言える。
けれど、彼の敗北という現実に、嘉哉の妄想は勝つことが出来なかった。傍に朱志香がいなかったから。
紗音が勝った時点で朱志香は嘉音と愛し合うことが出来なくなって、結果ベアトリーチェとひとつになった。
もし密告されても朱志香を攫って島から出ていれば、こんな事件は起きなかったのかもしれない。
その苦い後悔が胸を満たす。
「嘉哉、くん……?」
不安そうな声にはっと現実に引き戻される。朱志香はワンピースが申し訳程度に腹に引っ掛かっているしどけない格好で、潤んだ目のままこちらを見ていた。
「どうしたの……」
「朱志香のこと、考えてた」
「この世界の私のこと?」
「うん……ずっと離さなければ事件が起きることもなかったかな、って」
「……わかんないけど……多分、私はそれでも事件を起こしたかもしれない」
「朱志香……」
腕の中にいる朱志香はずっと夏妃達から疎まれていた、とベルンカステルが言っていたか。
「私……母さん達に嫌われてるから……幾ら自分のことに精一杯がんばれるもう1人の自分を作っても、辛いものはやっぱり辛いんだぜ……?」
はらりと涙がこぼれ落ちる。
「もしかしたら愛されていたのかもしれない……でも、愛されているフリをして嫌われているのはもっと辛いから、そういう時はベアトに慰めて貰ったんだ……お母様、大丈夫ですよって」
待ち続けるのが辛くて、口約束をバカ正直に信じているのを大人達にバカにされて、それでも彼女は待っていたのだ。ベアトリーチェをイマジナリーフレンドとして創り出すことで、ずっと励まして貰ったり慰めて貰ったりしながら、待ち続けていたのだ。
「ねえ、嘉哉くん……」
「うん」
「本当はね、私も、この世界の右代宮朱志香も、戦人との約束なんて諦めかけていたのかもしれない。ベアトがいてくれたから、ずっと好きでいることが出来たのかもしれない。けど、多分、どうしようもない事情で諦めなきゃいけなかったのかもしれない……」
いとこ同士の結婚は可能だが、家が栄えないという理由で却下されたのかもしれない、と嘉哉はぼんやり思う。一度却下されてしまえば覆ることがないのが右代宮家。しかも戦人は朱志香の魔法を否定した。その辺りが彼女をベアトリーチェの母親たらしめる事情なのだろう。
「だけど……私、今は……嘉哉くんの傍にいたい」
「朱志香……」
「もうこの世界で戦人が迎えに来てくれることはないし、このまま母さん達のところに戻っても戦人と恋することは出来ないんだ……それに、嘉哉くんを、幸せにしたい……」
その一言が嬉しかった。
彼女の華奢な身体を抱きしめる。
「朱志香……、大好きです、あなたが……あなただけが……っ」
「よしや、くん……っ、わたしも、好きぃ……っ」
12年越しの想い。それはずっと叶わないと想っていた。
この世に真の意味での魔女が存在するならば、それは朱志香と再び心を通わせる奇跡を起こしてくれたベルンカステルが適当なのだろう。
いや、奇跡を起こした自分たちと見るべきか。
ともあれこうして再び朱志香は彼の鳥籠へと囚われる。
温かな身体を腕の中に抱きしめて、嘉哉は幸せのうちに目を閉じた。
それはあまりにも突発的に起きたことだった。
嘉哉のあずかり知らぬところで、彼の大切な人を奪ってしまった。
彼が八城十八と名乗り始め、女性のフリをしたのはボトルメールに嘉音という名前があったから、というのがひとつの理由だった。
爆発事故の日は右代宮家の親族会議だった。その場に何故彼がいなかったか。
それは右代宮家を解雇されたからであった。
朱志香と心を通わせて少し経った頃に突然通告されたことだった。
それなのに、彼の名前がボトルメールに書いてあったのだ。
それは即ち、『嘉音』を社会から隠すということ。
知られては困る真相を彼とボトルメールの作者、すなわち朱志香が共有していることを仄めかすことでもあった。
そして嘉哉は真相を隠すことを選んだからである。
もう一つの理由は全てを知ってしまったからだった。
爆発事故は事故ではなかったこと。
愛のない親族に愛を与えたかったこと。
昔の恋を諦めなければならなかったこと。
それでも罪を糾弾しなければならなかったこと。
右代宮戦人の罪が朱志香への裏切り、即ち魔法の否定だったこと。
そして、重症化した喘息に自らの死期を悟った朱志香が、戦人への恋も親族への愛も、嘉哉への恋さえも抱きしめたまま次々と親族達を殺していったこと。
それらは朱志香本人が伝えたことだった。真相を手紙に綴り、銀行のカードと嘉哉との思い出の品と一緒に箱に詰めて船長に託したのだった。
それを受け取った時、彼は全てを知った。
朱志香が彼に向けてくれた、真実の愛を知った。
だから、嘉哉は八城十八となった。
書かなければ、と筆を執って偽書を執筆する傍らで、彼が最初で最後に愛した朱志香が他の男と心を通わせかねない話を書くのはとんでもない苦痛であった。
朱志香が託した真実を守らなければ、という気持ちとこのまま朱志香の元に行って幸せになってしまいたいという気持ちの板挟みに陥った時に、ベルンカステルと名乗る魔女が現れた。
「あなたに朱志香を返してあげるわ」
「は……?」
魔女はくすくすと笑ってぱちんと指を鳴らす。すると、何もないはずの空間に人の姿が現れる。
ウェーブがかった金髪の美少女。
閉ざされた瞳は見えなかったけれど、その少女は間違いなく事故……いや、六軒島大量殺人事件で自らを犠牲にした嘉哉の恋人、右代宮朱志香であった。
「朱志香、さん……」
ゆっくりと腕の中に落ちてくる彼女を抱き留める。最後に抱いた時よりも小さく頼りなげに見えるのは彼が成長したせいだろうか。
「その朱志香はこのカケラから連れてきた彼女じゃないわ。あなたがあんまりにも嘆いているからちょっとした気まぐれで別のカケラから1986年以前の朱志香を連れてきただけよ」
「そんなことが……カケラ……!?」
思考が追いついていかない。
ベルンカステルは何を言っているのか、さっぱり分からない。
「ちなみに彼女はあんたのことなんか全然知らないわ。14才だから。……夏妃達に邪魔者扱いされるカケラに置いておくのも良かったんだけど、この子自身が死にそうだったのだもの」
朱志香の身体をかき抱く。そのカケラとやらの彼女の境遇を思えば、たしかにここに置いておく方がよいのだろう。
そして、魔女はこう言った。
「彼女をどうしようが、あとはあんたの勝手よ」
嘉哉の腕の中で朱志香が目覚めたのは夜明け頃だった。
「ぅ……ん……」
「おはようございます、朱志香さん」
眠そうに目を瞬かせた彼女はそこが自分の部屋でないことに気が付いて怯えたような顔をする。
「ここ……どこ……あんたは……」
「ここは僕の部屋です」
ぎゅ、と抱きしめると、朱志香は酷く怯えて暴れ始めた。
「やだっ……放せっ、放せよっ」
嘉哉を知らない頃の彼女は戦人を好いていた筈だ。ならば知らない男に抱きしめられているのは不愉快、もしくは屈辱に近いかもしれない。
しかし、彼にとってもそれは不愉快だった。だから無理矢理に口づける。
「んっ……ん、んぅ……」
深く口づけて朱志香の動きを押さえ込む。舌先で唇をつついて彼女の口内に入り込む。
「ふ……ぅん……っ」
唇を離すと2人の間に銀色の糸が伝う。朱志香の柔らかい身体をもう一度抱き込んでベッドに潜る。
「嫌だぁ……っ、離してぇ……」
「朱志香様……僕は嘉哉といいます」
今にも泣き出しそうな顔をしていた朱志香がこちらを見上げる。
「よし……や……」
「あなたはこれからここで生きるのです。あなたを邪魔者扱いする奥様達の元になど……返しません」
びくんと彼女の身体が震えた。
「そんな……こと……」
「僕は……この世界ではかつてあなたの家具でした。けれど、あなたを守ることがとうとう出来なかった……だから、今度こそは守ってみせます。あなたを傷つける全てをこの手で葬り去りましょう。あなたがいつも笑っていられる世界を作りましょう。あなたのためなら僕は何でも出来る……だから」
全て本当のこと。
朱志香と結ばれて少し経った頃に、彼は突然解雇を言い渡された。
だから彼は魔女ベアトリーチェと化した朱志香を止めることが出来なかった。
朱志香の汚れのない心にどす黒いどろどろした憎しみが広がっていくのを止められなかった。
そして、朱志香の心を侵す全てのものから彼女を守りきることが出来なかった。
けれど、今度こそ朱志香を守りきってみせる。
彼女が望むならなんだって出来る。
彼女を傷つけるものはなんであろうと……例えそれが紗音であろうとも、嘉哉は葬り去れるだろう。
朱志香があの太陽のような微笑みをもう一度見せてくれるのならば、彼は魔女の爪先にだって躊躇なくキスできるだろう。
愛してください、と抱きしめた腕の中で朱志香が体を震わせた。
「嘉哉……さん……」
「朱志香……この世界であなたを失ってから、僕の時間はずっと止まったままでした……どうしようもなくあなたが欲しかった……」
それが今、彼女は彼の腕の中にいる。
確かに目の前にいる少女は嘉哉の世界の中にいた朱志香ではない。けれど、姿も、声も、匂いも、身に纏う雰囲気も朱志香のそれだ。
彼が偽書で描写した、ベアトリーチェを失って、新たなるベアトリーチェを創りだした右代宮戦人と同じシチュエーション。
けれど、それでも彼女が朱志香ではないと嘆くには、彼はあまりに朱志香を愛しすぎていた。
記憶の中で嘉哉くん、と笑う右代宮朱志香と寸分違わず、されど時間だけが違う彼女は、それでもやはり右代宮朱志香だったのだから。
「愛しているんです……あなたを、あなただけを愛しています……」
「嘉哉さん……」
背中に回されるしなやかな腕の感触に渇いた心が癒えていく。
「私……ここにいても、良いの……?」
「ここに……いてください……」
きつくきつく抱きしめて、漸く愛しい人が戻ってきた喜びに嘉哉は涙した。
暫くして朱志香が彼を嘉哉くんと呼ぶようになった頃、嘉哉は全てを話すことにした。
「朱志香、僕はずっと……朱志香の物語を書いていたんだ」
「私の……?」
「そう。前にも話したけど、朱志香はこの世界では死んだことになってる。絵羽様と、縁寿様を除いて」
「紗音や……譲治兄さんも?」
「そう。それと、……戦人様も」
あの日の新聞を見せる。12年前の10月6日の夕刊。
六軒島爆発事故。
伊豆諸島にある右代宮家所蔵の島で起きた爆発事故。
親族会議のために前々日から集まっていた当主・右代宮蔵臼を始めとする16人の生存は絶望的……。
その翌日の朝刊。
右代宮家本邸から離れた隠れ屋敷の地下で右代宮絵羽が見つかる。
そして、その数年後の日付の夕刊。
六軒島爆発事故の様子を描いたボトルメールが発見される。
「ボトルメール……?」
「そう、ボトルメール」
「ベアトリーチェのボトルメールのことか?」
それを聞いて、驚いた。
「知っているの?」
「だって……あれは……みんなが幸せになれる魔法を私が自分で書いたものだから……母さん達から邪魔者にされなくてすむ……愛のある世界を書いたものだから」
「碑文通りに殺人事件が起きるんだ……」
「碑文……殺人……!?そんな……碑文って、何のことだよ……それに、殺人……って……そんな、そんなの、私は書いた覚えがねぇぜ!」
そう言えばそうだ。碑文が飾られたのは朱志香が16歳の時だった。ちょうど今の彼女と同じ年頃だ。14で嘉哉の元に連れてこられた彼女が知るはずがない。
「碑文は金蔵様が当主選びのために作ったものなんだ。その碑文に沿って、13人が殺されて、遺った5人も最後は死んでしまう……そう言う内容なんだ」
「……犯人は、私……ベアトリーチェなのか?」
「ベアトリーチェだって、ボトルメールには書いてある……けれど、朱志香が犯人だって……手紙をくれて……」
「……見せてくれないか?」
手紙と真相の書かれたノートを渡す。彼女はそれを全て読むからと寝室に入っていってしまった。
「朱志香……」
碑文のことも、殺人のことも知らなくても、彼女は確かに朱志香だ。
だからこそ心配で心配で仕方ないのだ。
朱志香を自分の鳥籠の中に閉じこめたのに、それでもまだ死んだ戦人に彼女を攫われる不安に襲われる。
朱志香はお前のものではないと嘲笑われて彼女を攫われてしまう悪夢を彼はここ数日見ていたのだ。
だから、寝室にそっと入り込む。
「嘉哉くん……」
気付いた朱志香がこちらを向く。その眼には、涙。
「朱志香……!?」
「この世界の私……も、辛かったんだ……本当は殺したくなんて、なかっ……」
朱志香の頬を涙が伝う。
「朱志香……」
抱きしめると、彼の腕の中で朱志香は何度もしゃくり上げた。
「嘉哉くん……っ、私……」
「どこにも……どこにも行かないでください!」
言葉を遮ってもっときつく抱きしめる。
「嘉哉くん……」
「朱志香が戦人様を愛していたのは知ってます。でも……それでも、僕はあなたを……」
ぎゅ、としなやかな腕が抱き返す。
「うん……どこにも、行かない……」
大好きで、ずっとずっと聞きたくて、それでも朱志香がいない時には叶わなかった優しい声。
「だから……私を元の世界に帰さないで……私……白い魔女のままでいたい……」
「元の世界になんて返しません……ずっと、僕の傍にいてください……愛してるんです……朱志香」
「嘉哉くん……」
「事件当日、僕は島にいることが出来なかったんだ……」
「え……でも、嘉音くん、って嘉哉くんの事じゃ……」
「姉さんの……紗音の行動を半分削って、そこに僕を入れたんだ……朱志香が、僕を島にいさせてくれた」
「あ……」
「だから……僕は朱志香の物語を書き続けるんだ……だけど、朱志香が戦人様と愛し合うのを書くのが、辛くて……」
「嘉哉くん……大丈夫……大丈夫だよ……私はずっと傍にいるから……」
一番聞きたかった声。一番欲しかった言葉。
元のカケラがどうなろうと、嘉哉の知ったことではなかった。
何故なら、今この瞬間、朱志香は彼だけのものなのだから。
だから、腕の中の宝物を壊してしまわないように優しく抱きしめて口づけた。
「ん……っ」
「朱志香……愛してる。この世で一番愛してる……」
通販で買ったワンピースの胸元に手を這わせる。
「あ……っ、嘉哉くん……っ」
首筋に口づけて、重なる鼓動に酔いしれた。
朱志香と床を共にするのは10年ぶりだった。嘉哉の元で養育された腕の中の朱志香は相変わらず可愛らしくて、やっぱりもうどこにも帰したくなくなっていた。
思い返してみれば、朱志香はずっと嘉哉のことを気に掛けていた。それに応えなかったのは彼の罪。
贖罪のために朱志香を抱くわけではない。
けれど、密告されても傍にいることが出来なかったから事件が起こってしまったのかもしれないとずっと後悔してきた。
後で聞いたことだったが、2人のことを密告したのは紗音だった。
ずっと信頼していたけれど、しかし姉は譲治との結婚という誘惑には勝てなかったのだろう。
もともと、紗音と譲治、嘉音と朱志香の二組のうち、どちらかしか結ばれなかったのだ。右代宮家の当主候補は朱志香と譲治。しかし当主と結婚するのが使用人では親たちの収まりがつかなかったのだ。
だから紗音が譲治と結婚してしまえば嘉音は朱志香と結婚することは出来なくなる。だからといって朱志香が他の男と愛を育むのを見ているのも辛かった。だから島から出てしまったほうがましだと思った。
だが嘉音が朱志香と結婚できれば紗音が譲治と結婚することは出来なくなる。しかし紗音は元々本家のメイドだから、譲治と一年に一回だけ会って、諦めるだけですむのだ。
けれどその緊張状態は譲治と結婚したいがための紗音の行動で崩されてしまったのだ。
未発表の原稿に書いた紗音との決闘。
2人がもしも現実で決闘して、二人共が倒れてしまったとしても、朱志香は戦人と結婚して当主になるだろう。なぜなら彼女はベアトリーチェだから。実際朱志香の幸せを願って書いた本来の筋書きはその筈だった。
それなのに執筆中にどうしようもなく紗音が憎くなって、紗音の行動の全てを自分に書き換えたくなった。
朱志香を裏切り、嘉哉を裏切った紗音への恨みが爆発したのだ。
だからあの筋書きは彼の個人的な恨み故だと言える。
けれど、彼の敗北という現実に、嘉哉の妄想は勝つことが出来なかった。傍に朱志香がいなかったから。
紗音が勝った時点で朱志香は嘉音と愛し合うことが出来なくなって、結果ベアトリーチェとひとつになった。
もし密告されても朱志香を攫って島から出ていれば、こんな事件は起きなかったのかもしれない。
その苦い後悔が胸を満たす。
「嘉哉、くん……?」
不安そうな声にはっと現実に引き戻される。朱志香はワンピースが申し訳程度に腹に引っ掛かっているしどけない格好で、潤んだ目のままこちらを見ていた。
「どうしたの……」
「朱志香のこと、考えてた」
「この世界の私のこと?」
「うん……ずっと離さなければ事件が起きることもなかったかな、って」
「……わかんないけど……多分、私はそれでも事件を起こしたかもしれない」
「朱志香……」
腕の中にいる朱志香はずっと夏妃達から疎まれていた、とベルンカステルが言っていたか。
「私……母さん達に嫌われてるから……幾ら自分のことに精一杯がんばれるもう1人の自分を作っても、辛いものはやっぱり辛いんだぜ……?」
はらりと涙がこぼれ落ちる。
「もしかしたら愛されていたのかもしれない……でも、愛されているフリをして嫌われているのはもっと辛いから、そういう時はベアトに慰めて貰ったんだ……お母様、大丈夫ですよって」
待ち続けるのが辛くて、口約束をバカ正直に信じているのを大人達にバカにされて、それでも彼女は待っていたのだ。ベアトリーチェをイマジナリーフレンドとして創り出すことで、ずっと励まして貰ったり慰めて貰ったりしながら、待ち続けていたのだ。
「ねえ、嘉哉くん……」
「うん」
「本当はね、私も、この世界の右代宮朱志香も、戦人との約束なんて諦めかけていたのかもしれない。ベアトがいてくれたから、ずっと好きでいることが出来たのかもしれない。けど、多分、どうしようもない事情で諦めなきゃいけなかったのかもしれない……」
いとこ同士の結婚は可能だが、家が栄えないという理由で却下されたのかもしれない、と嘉哉はぼんやり思う。一度却下されてしまえば覆ることがないのが右代宮家。しかも戦人は朱志香の魔法を否定した。その辺りが彼女をベアトリーチェの母親たらしめる事情なのだろう。
「だけど……私、今は……嘉哉くんの傍にいたい」
「朱志香……」
「もうこの世界で戦人が迎えに来てくれることはないし、このまま母さん達のところに戻っても戦人と恋することは出来ないんだ……それに、嘉哉くんを、幸せにしたい……」
その一言が嬉しかった。
彼女の華奢な身体を抱きしめる。
「朱志香……、大好きです、あなたが……あなただけが……っ」
「よしや、くん……っ、わたしも、好きぃ……っ」
12年越しの想い。それはずっと叶わないと想っていた。
この世に真の意味での魔女が存在するならば、それは朱志香と再び心を通わせる奇跡を起こしてくれたベルンカステルが適当なのだろう。
いや、奇跡を起こした自分たちと見るべきか。
ともあれこうして再び朱志香は彼の鳥籠へと囚われる。
温かな身体を腕の中に抱きしめて、嘉哉は幸せのうちに目を閉じた。
某月某日、晴れ。
今日は海も真っ青だ。あと今日は六軒島リゾート化の第一歩リベンジの日だ。
前回は紗音と僕が挑戦したらなんか却下された。あとお嬢様と戦人様も挑戦されたが却下された。どうも食べ過ぎだったらしく、あの後暫くお嬢様はランニングに勤しんでおられた。
あまりに可愛いのでこっそりビデオで撮影していたらなんかいろいろな人に怒られた。世の中不条理だ。
それはともかく、お嬢様は今日も可愛い。
人魚姫と妄想王子
「失礼します、お嬢様、紗音です」
「失礼します、お嬢様、あなたの嘉音です」
紗音と2人でノックをすると、中から元気の良い声が返ってくる。
「あ、入っていいよ~」
室内に入ってお辞儀をする。朱志香は今日も可愛い。
「今日の撮影の衣装です」
紗音が嘉音の持つ荷物(服の山)を指さす。朱志香は一瞬固まった後、苦笑いしながらわかった、と言った。
「今度は水着じゃないんだな」
「水着もありますよ?私と2人で撮る時に使います」
聞いていない。嘉音はとりあえず姉に提案してみる。
「姉さん、提案があるんだけど」
「何?」
「僕とその役代わって!」
朱志香の顔が少し赤くなる。
「え、嘉音くんと撮影!?」
「大丈夫ですよ、お嬢様」
彼女を落ち着かせてから、紗音はにっこり笑って嘉音のほうを向く。
「いい加減にしなさい、嘉音くん。あなた、前回の撮影で大不評だったじゃない」
「姉さんだって不評だったじゃないか!」
「だいたいあなた、不評になった原因がお嬢様の水着姿が見られなかったから、って何よ?」
「あ、あの……2人とも、落ち着いて?な?」
朱志香の遠慮がちな声に2人ははっと彼女のほうを見る。
「あの、嘉音くんが見たいなら後で見せるから、さ……とりあえず、着替えだけしちゃいたいなぁ、って」
「そうですね。お着替えだけしちゃいましょう。ほら嘉音くん、お部屋を出なきゃダメでしょ」
朱志香に見えないようにこちらを向いた紗音の顔があまりに怖かったのでとりあえず退出する。
だが、である。
特に施錠はしていないので、鍵穴から部屋の中は見えるわけである。
「……よいしょ」
鍵穴から目をこらし、耳を澄ませて様子を伺った。朱志香が普段着をするりと脱ぐと、日に焼けていない白い肌が見える。本日の下着はピンクと白の縞々だ。
「お嬢様が縞々……」
今日の撮影はますます男という名の狼を近づけてはいけないと心に誓う嘉音だったが、彼が一番狼であることに未だに気付いていないのだった。気付いていればどこからどう見ても変質者のようなマネはしないのだから当然だ。
紗音の声が聞こえる。
「お嬢様、最初はバニーガールだそうですよ」
「え、じゃあ肩紐取った方が良いかな?」
「お下着ごと脱がれてもよろしいかと。カップ付いてますよ」
「なんだ……よかった」
バニーガール。その単語だけで嘉音は目を剥きかけた。
朱志香は嘉音の恋人である。よってそんな露出の激しいコスチュームは嘉音の前でのみ見せるべきではないのだろうか。そんなわけで、嘉音の頭はバニーガール姿の朱志香を自然と思い浮かべるわけである。ただし妄想付きで。
『か、嘉音くん……その、に、似合うかな?』
頬を赤く染めて上目遣いでこちらを見上げる朱志香。ものすごく可愛い。
『はい……よくお似合いですよ』
可愛らしい質問にこちらが照れながらもそう返す。すると朱志香は赤い頬に両手をあてて恥ずかしそうに笑うのだ。
『あ、ありがと……えへへ、照れるぜ』
頬に手をあてた拍子に胸の谷間が強調される。元々谷間が出来るような構造の服だが、腕で胸が寄せられて余計に深くなっているのだ。
『朱志香……その、谷間が』
『え?……あっ』
指摘すると、彼女は真っ赤になって胸元を隠す。こんなにボディラインが露わなコスチュームを着せておいたら男が彼女をいやらしい目で見かねない。そもそも自分が彼女をいやらしい目で見ていることに一向に気付かない嘉音は少々お待ちください、と言うと使用人室からシャツを取ってきて優しく彼女に被せるのだ。
『嘉音くん……』
『他の男性に見せてはいけませんよ、朱志香』
『あ……で、でも……撮影だし……』
『コスチュームの変更を申し出てきましょうか?』
そう問いかけると朱志香は耳まで赤くして恥ずかしそうに頷いた。
『その……私、嘉音くんに見られたり、触られたりするのは大丈夫……だから……その』
『よろしいのですか?』
『うん……嘉音くんだったら……いいよ』
羽織らせたばかりのシャツが床に落ちる。そのまま嘉音は朱志香のむき出しの肩をそっと掴んで。
すかっ。どしゃっ。
嘉音は自分を抱きしめる格好で絨毯に強かに口づけた。
「痛い……」
自分の妄想が、ではなく顔面が痛い。絨毯から起きあがり、窓のほうを見ながら呟く。
「いかがでしょうかお館様。僕の朱志香とコスチュームがそこにあるだけで嘉音はこれだけの妄想が可能です……きっと朱志香はちゅーしてくれる」
妄想癖もここまでくると重傷である。
「お待たせ、嘉音くん。どうかな、これ」
嘉音が自主規制も甚だしい妄想をしている間に着替えたらしい朱志香は羽織っていたジャージの前を開けて見せてくれる。ものすごく可愛い。白い肌と黒い衣装のコントラストが素晴らしい。
「とてもよくお似合いです!」
元気のよい返事に朱志香が一瞬戸惑ったような表情になる。
「あ、ありがとな。じゃあ行こうか、2人とも」
「はい」
「はい」
返事をして歩き出してから気が付いた。ちゅーをして貰っていない。しかし今更ちゅーしてください、なんて言えるわけがない。
悶々としていると、前を歩く朱志香のむちむちの太股が目に入った。網タイツに包まれた太股はとても色っぽく見えるのだ。
「まあいいや。……網タイツ最高」
2人に聞こえないように問題発言をしつつ、嘉音は朱志香と紗音とともに浜辺に向かった。
「六軒島にようこそ!六軒島は大都会ではお目に掛かれない綺麗な海と豪華な薔薇庭園の組み合わせがウリだぜ!潮騒の音を聞きながら薔薇庭園でデート、もアリ。家族連れで海水浴、もアリ。疲れたら綺麗なホテルとシェフの美味しい料理で休憩してくれよな!」
なかなか撮影(のリハーサル)は順調である。後は本番(という名のサンプル)を取り終えるだけなのだが、何となくすぐ近くの茂みに隠れている嘉音にはどうしても納得できないことがあった。
「何で戦人様達が来ているんですか!」
「暇で……蔵臼叔父さんが来てくれって言うから」
戦人は朝早かったのだろう、欠伸をしながら答える。譲治はあはは、と笑う。
「蔵臼叔父さんが若者の意見をまた採り入れたいから、って」
「若者なんて僕がいるから充分じゃないですか!」
それにしてもこの嘉音、本気でキレている。いわゆるマジギレ、というやつである。
「あはは、それもそうだよね。……ところで嘉音くん、朱志香ちゃんとはどうなんだい?紗音からは嘉音くんの妄想が激しすぎて破局寸前って聞いたけど」
笑っていた譲治が真剣な顔になって問いかける。勿論嘉音にはそんな覚えは全くない。
「僕の朱志香とはいつでもラブラブです!姉さんが変なデマを吹き込んだようで……」
「お、ついにくっついたのか」
「くっつきました。結婚式は大安吉日です」
しつこいほどに主張しているため聞き慣れている譲治はただ笑っているだけだったが、戦人は素っ頓狂な声を上げて驚く。
「結婚式ぃ!?あの朱志香がか!?」
「はい。僕と朱志香の結婚式です。あの礼拝堂で式を挙げるんです」
「戦人くん、大丈夫?魂抜けてるけど」
「兄貴……男の結婚可能年齢って……」
外野2人を余所に嘉音はうっとりと目を閉じた。
『嘉哉くん……タキシードもよく似合うぜ……』
ウェディングドレスを身に纏った朱志香が照れくさそうに微笑む。嘉音はそれに優しい笑みを見せながら彼女の手を取るのだ。
『朱志香も……ドレス、よくお似合いです』
『嘉哉くん……』
『朱志香……もう放しません』
ぎゅ、と抱きしめて耳元で囁くと、彼女の腕が彼の背に回される。
『うん……ずっと放さないでいてくれよな?』
こちらも囁くような声。
『はい……必ず、幸せにします。プロポーズの誓い通りに』
『わ、私も嘉哉くんを幸せにするからな!』
『朱志香……』
『嘉哉くん……』
互いの唇が近づく。あと5センチ、4……3……2……。
べちゃっ。
「愛しています、朱志香……」
「わっ、か、嘉音くん大丈夫かよ!?砂に埋まってるぜ!?」
ふもふもと茂みを乗り越えて砂に埋まり掛けた状態のままの嘉音は朱志香の声で現実に引き戻される。一瞬で砂から顔を出した彼は下から見上げるアングル故にあらぬ妄想を誘発する光景を目の当たりにする。
「大丈夫です、朱志香様……」
「か、嘉音くん!?ちょ、どうしたんだよ!?」
すらりと伸びる脚。網タイツに包まれたむちむちの太股。身体にぴったりフィットした衣装は下から見上げれば黄金郷である。何より、びっくりして慌てた表情がなにやら自主規制の必要な想像を思い起こさせる。
「……生きててよかった」
「え?え?譲治兄さん、戦人、嘉音くんどうしちゃったんだよ?」
「う~ん、そっとしておいてあげて。それより次の撮影もあるんでしょ?着替えておいでよ」
「兄貴のいうとおりさぁ。……ところで朱志香」
「なんだよ」
「すげぇ良い眺めのカッコじゃねぇか。揉ませろ~い」
どかっ。ばきっ。どすっ。
わきわきと指を軟体動物のように動かしながら朱志香に迫る戦人に、彼女は素手で強かに殴りつけた。次いで嘉音もそこらにあった石ころを握り込んで殴りつける。トドメに譲治が回し蹴りをお見舞いした。
「うぜぇぜ!」
「僕の朱志香に手出ししないでください」
「戦人くん、女の子にそう言うこといっちゃダメっていったよね?」
「……す、すいませんでした……」
砂浜に沈没した戦人を放っておいて、朱志香と2人で屋敷に戻る。またドアの外から、今度は声だけを聞いていた。
「あれ、こんな水着私買ったっけ?」
「あら、この間海にお行きになった時はお持ちじゃなかったですよね?」
「うん……」
どんな水着なのか、とてもとても気になる。
「本当、どうしたんでしょう……奥様ではなさそうですし……」
「父さんでもないと思うぜ?こんな凄いの、卒倒しちまうよ」
「ですよね……」
凄い水着。何が凄いのだろうか。想像するうちに、それは妄想になっていった。
『嘉音くん、こっちこっち!』
『朱志香、待ってくださいよ』
オレンジの地にピンクの花柄のビキニを着た朱志香が砂浜を走る。嘉音も彼女を追いかけて走る。翻るパレオ。揺れる金髪。
『ほら、こっちだぜ!』
『捕まえちゃいますよ?』
『あはは、捕まえてくれよな!』
2人を照らす夕日。ぱしゃぱしゃと水が飛び散る。暫く追いかけっこを楽しむ。恋人達の特権というものだ。
ふとくるんとこちらを向いた朱志香がにこりと笑う。可愛い。振り向いた拍子にぷるんと胸が揺れる。黄金郷ってこれか。
『えいっ』
朱志香の手で掬われた水が嘉音に掛けられる。着ていたパーカーの裾と海パンが僅かに濡れる。掛けられたら掛け返すのが礼儀であるので、嘉音も海水を掬って掛ける。オレンジ色にキラキラ輝く水玉が彼女に掛かる。しかも掛けるたびに腕が上下するのでその動きに合わせて胸がまたぷるんぷるんと揺れる。まさに黄金郷。朱志香のキラキラ輝く笑顔が眩しい。
『わっ、ほら、お返し!……わぁっ!』
ぱしゃん、と水を掛けた瞬間、朱志香はバランスを崩して倒れ込んだ。慌てて駆け寄って支える。
きゅ、と目を瞑ったまま嘉音の腕の中に倒れ込んだ朱志香は、一度瞬きをすると、彼と目があってぱっと赤面した。
『あ……ありがと、嘉音くん』
『朱志香……無事でよかった……っ!?』
ざぁん、と引く波に足を取られて、2人で水に倒れ込む。おかげで着ているものは全部びしょぬれだ。
『びっくりしたぁ……』
すぐ近くに朱志香の身体がある。少し起きあがって、頭を引き寄せて唇を合わせた。
『朱志香……』
『嘉音くん……』
濡れた髪。水の滴る身体。上気した頬。
全てが嘉音の理性をぐらつかせる。
起きあがって、朱志香を抱き寄せる。
『嘉音くん……大好きだぜ……』
『朱志香……愛してます』
もう一度口づけて、水着に手を掛けて。
ごんっ。
「……痛い……」
「……何やってるの?嘉音くん……」
紗音の冷たい視線。水着は前回の撮影と同じもの。
「嘉音くん……大丈夫か?頭打ってただろ」
ちょっと待ってて、と言い残し、朱志香が駆けてゆく。ものの数分で戻ってきた彼女の手には冷却ジェルのパックが握られていた。
「ごめんな、嘉音くん……私が確認しないでドアを開けちゃったから……」
「いえ……」
パーカーを羽織った朱志香の水着はファスナーをぴっちり閉めているせいでどんなものかはわからない。しかし、非常に良い匂いが後ろから漂ってくる。朱志香が冷却ジェルを嘉音の後頭部に当ててくれているのだ。彼女がすぐ近くにいるせいか、何となく柔らかいものが背中にかすかに当たっているような気がする。
「大丈夫?」
「はい。もう大丈夫です。朱志香様がお手当してくれましたから」
「じゃあ行きましょうか。譲治様にお見せしたいんです」
きゃっきゃと笑いながら前を歩く乙女2人。紗音ばっかりずるい、と姉に嫉妬しながら朱志香のほうを見る。
薄く揺れるパレオ。透けて見える水着に包まれたぴちぴちの桃尻。そしてむちむちの太股。
「夏っていいな……」
嘉音、こればっかり。
撮影は順調だった。お嬢様のギリギリショット的な水着姿も見られた。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様……。
僕の煩悩は108ではすまないと思います。もう家具とか正直どうでもよくなってきた。
お嬢様と水着で戯れたかったです。
そんなわけで僕もビデオに撮ってました。ついでに写真も撮ってました。
薄緑色の生地にオレンジの花柄のやけに面積が少ない水着、実は戦人様が買ってきたんだそうです!今度は僕が買ってきますね。
あと確信しました。
灰色だった海は、あなたがいるだけで薔薇色に見えました。綺麗な蒼です。僕の目が映し出す舞台の上には朱志香様だけがいればいい!
愛してます!
「……で、相変わらず姉さんと譲治様を省く、と……」
後ろから聞こえた声にぎくりと振り返る。紗音が鬼の形相で武器をひっさげて立っていた。
「ひぃぃぃぃっ!姉さん、なんで金属バットなんか持って……あれ、譲治様もなんで間合い取ってるんですか?」
紗音の横には譲治。
「紗音の敵は僕の敵。紗代を傷つけるものには報復をするのが僕の信念さ」
「え、それ、毎回僕が瀕死状態なんですけど……って聞いてないし!」
そして、紗音は金属バットを振り上げ、譲治は跳び蹴りをするべくアップを始めた。そう、それはまさしく魔王と……。
「よくも譲治様を大道具にしてくれたわねぇぇぇぇぇっ!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
「紗代は大道具なんかじゃなぁぁぁぁぁぁいっ!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
うみねこのなく頃に、生き残れた嘉音は無し。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
金属バットと跳び蹴りが致命傷。
遺留品のカメラからは朱志香を盗撮した映像と写真が見つかっており、映像には最後に「朱志香は僕の嫁」というメッセージが残されていた。普段の行動が災いを呼んだのかもしれない。盗撮と妄想もほどほどに。
「だからいい加減学習してよ。それと、誰が鬼嫁ですって!?私は譲治様の良妻よ!」(by紗音)
今日は海も真っ青だ。あと今日は六軒島リゾート化の第一歩リベンジの日だ。
前回は紗音と僕が挑戦したらなんか却下された。あとお嬢様と戦人様も挑戦されたが却下された。どうも食べ過ぎだったらしく、あの後暫くお嬢様はランニングに勤しんでおられた。
あまりに可愛いのでこっそりビデオで撮影していたらなんかいろいろな人に怒られた。世の中不条理だ。
それはともかく、お嬢様は今日も可愛い。
人魚姫と妄想王子
「失礼します、お嬢様、紗音です」
「失礼します、お嬢様、あなたの嘉音です」
紗音と2人でノックをすると、中から元気の良い声が返ってくる。
「あ、入っていいよ~」
室内に入ってお辞儀をする。朱志香は今日も可愛い。
「今日の撮影の衣装です」
紗音が嘉音の持つ荷物(服の山)を指さす。朱志香は一瞬固まった後、苦笑いしながらわかった、と言った。
「今度は水着じゃないんだな」
「水着もありますよ?私と2人で撮る時に使います」
聞いていない。嘉音はとりあえず姉に提案してみる。
「姉さん、提案があるんだけど」
「何?」
「僕とその役代わって!」
朱志香の顔が少し赤くなる。
「え、嘉音くんと撮影!?」
「大丈夫ですよ、お嬢様」
彼女を落ち着かせてから、紗音はにっこり笑って嘉音のほうを向く。
「いい加減にしなさい、嘉音くん。あなた、前回の撮影で大不評だったじゃない」
「姉さんだって不評だったじゃないか!」
「だいたいあなた、不評になった原因がお嬢様の水着姿が見られなかったから、って何よ?」
「あ、あの……2人とも、落ち着いて?な?」
朱志香の遠慮がちな声に2人ははっと彼女のほうを見る。
「あの、嘉音くんが見たいなら後で見せるから、さ……とりあえず、着替えだけしちゃいたいなぁ、って」
「そうですね。お着替えだけしちゃいましょう。ほら嘉音くん、お部屋を出なきゃダメでしょ」
朱志香に見えないようにこちらを向いた紗音の顔があまりに怖かったのでとりあえず退出する。
だが、である。
特に施錠はしていないので、鍵穴から部屋の中は見えるわけである。
「……よいしょ」
鍵穴から目をこらし、耳を澄ませて様子を伺った。朱志香が普段着をするりと脱ぐと、日に焼けていない白い肌が見える。本日の下着はピンクと白の縞々だ。
「お嬢様が縞々……」
今日の撮影はますます男という名の狼を近づけてはいけないと心に誓う嘉音だったが、彼が一番狼であることに未だに気付いていないのだった。気付いていればどこからどう見ても変質者のようなマネはしないのだから当然だ。
紗音の声が聞こえる。
「お嬢様、最初はバニーガールだそうですよ」
「え、じゃあ肩紐取った方が良いかな?」
「お下着ごと脱がれてもよろしいかと。カップ付いてますよ」
「なんだ……よかった」
バニーガール。その単語だけで嘉音は目を剥きかけた。
朱志香は嘉音の恋人である。よってそんな露出の激しいコスチュームは嘉音の前でのみ見せるべきではないのだろうか。そんなわけで、嘉音の頭はバニーガール姿の朱志香を自然と思い浮かべるわけである。ただし妄想付きで。
『か、嘉音くん……その、に、似合うかな?』
頬を赤く染めて上目遣いでこちらを見上げる朱志香。ものすごく可愛い。
『はい……よくお似合いですよ』
可愛らしい質問にこちらが照れながらもそう返す。すると朱志香は赤い頬に両手をあてて恥ずかしそうに笑うのだ。
『あ、ありがと……えへへ、照れるぜ』
頬に手をあてた拍子に胸の谷間が強調される。元々谷間が出来るような構造の服だが、腕で胸が寄せられて余計に深くなっているのだ。
『朱志香……その、谷間が』
『え?……あっ』
指摘すると、彼女は真っ赤になって胸元を隠す。こんなにボディラインが露わなコスチュームを着せておいたら男が彼女をいやらしい目で見かねない。そもそも自分が彼女をいやらしい目で見ていることに一向に気付かない嘉音は少々お待ちください、と言うと使用人室からシャツを取ってきて優しく彼女に被せるのだ。
『嘉音くん……』
『他の男性に見せてはいけませんよ、朱志香』
『あ……で、でも……撮影だし……』
『コスチュームの変更を申し出てきましょうか?』
そう問いかけると朱志香は耳まで赤くして恥ずかしそうに頷いた。
『その……私、嘉音くんに見られたり、触られたりするのは大丈夫……だから……その』
『よろしいのですか?』
『うん……嘉音くんだったら……いいよ』
羽織らせたばかりのシャツが床に落ちる。そのまま嘉音は朱志香のむき出しの肩をそっと掴んで。
すかっ。どしゃっ。
嘉音は自分を抱きしめる格好で絨毯に強かに口づけた。
「痛い……」
自分の妄想が、ではなく顔面が痛い。絨毯から起きあがり、窓のほうを見ながら呟く。
「いかがでしょうかお館様。僕の朱志香とコスチュームがそこにあるだけで嘉音はこれだけの妄想が可能です……きっと朱志香はちゅーしてくれる」
妄想癖もここまでくると重傷である。
「お待たせ、嘉音くん。どうかな、これ」
嘉音が自主規制も甚だしい妄想をしている間に着替えたらしい朱志香は羽織っていたジャージの前を開けて見せてくれる。ものすごく可愛い。白い肌と黒い衣装のコントラストが素晴らしい。
「とてもよくお似合いです!」
元気のよい返事に朱志香が一瞬戸惑ったような表情になる。
「あ、ありがとな。じゃあ行こうか、2人とも」
「はい」
「はい」
返事をして歩き出してから気が付いた。ちゅーをして貰っていない。しかし今更ちゅーしてください、なんて言えるわけがない。
悶々としていると、前を歩く朱志香のむちむちの太股が目に入った。網タイツに包まれた太股はとても色っぽく見えるのだ。
「まあいいや。……網タイツ最高」
2人に聞こえないように問題発言をしつつ、嘉音は朱志香と紗音とともに浜辺に向かった。
「六軒島にようこそ!六軒島は大都会ではお目に掛かれない綺麗な海と豪華な薔薇庭園の組み合わせがウリだぜ!潮騒の音を聞きながら薔薇庭園でデート、もアリ。家族連れで海水浴、もアリ。疲れたら綺麗なホテルとシェフの美味しい料理で休憩してくれよな!」
なかなか撮影(のリハーサル)は順調である。後は本番(という名のサンプル)を取り終えるだけなのだが、何となくすぐ近くの茂みに隠れている嘉音にはどうしても納得できないことがあった。
「何で戦人様達が来ているんですか!」
「暇で……蔵臼叔父さんが来てくれって言うから」
戦人は朝早かったのだろう、欠伸をしながら答える。譲治はあはは、と笑う。
「蔵臼叔父さんが若者の意見をまた採り入れたいから、って」
「若者なんて僕がいるから充分じゃないですか!」
それにしてもこの嘉音、本気でキレている。いわゆるマジギレ、というやつである。
「あはは、それもそうだよね。……ところで嘉音くん、朱志香ちゃんとはどうなんだい?紗音からは嘉音くんの妄想が激しすぎて破局寸前って聞いたけど」
笑っていた譲治が真剣な顔になって問いかける。勿論嘉音にはそんな覚えは全くない。
「僕の朱志香とはいつでもラブラブです!姉さんが変なデマを吹き込んだようで……」
「お、ついにくっついたのか」
「くっつきました。結婚式は大安吉日です」
しつこいほどに主張しているため聞き慣れている譲治はただ笑っているだけだったが、戦人は素っ頓狂な声を上げて驚く。
「結婚式ぃ!?あの朱志香がか!?」
「はい。僕と朱志香の結婚式です。あの礼拝堂で式を挙げるんです」
「戦人くん、大丈夫?魂抜けてるけど」
「兄貴……男の結婚可能年齢って……」
外野2人を余所に嘉音はうっとりと目を閉じた。
『嘉哉くん……タキシードもよく似合うぜ……』
ウェディングドレスを身に纏った朱志香が照れくさそうに微笑む。嘉音はそれに優しい笑みを見せながら彼女の手を取るのだ。
『朱志香も……ドレス、よくお似合いです』
『嘉哉くん……』
『朱志香……もう放しません』
ぎゅ、と抱きしめて耳元で囁くと、彼女の腕が彼の背に回される。
『うん……ずっと放さないでいてくれよな?』
こちらも囁くような声。
『はい……必ず、幸せにします。プロポーズの誓い通りに』
『わ、私も嘉哉くんを幸せにするからな!』
『朱志香……』
『嘉哉くん……』
互いの唇が近づく。あと5センチ、4……3……2……。
べちゃっ。
「愛しています、朱志香……」
「わっ、か、嘉音くん大丈夫かよ!?砂に埋まってるぜ!?」
ふもふもと茂みを乗り越えて砂に埋まり掛けた状態のままの嘉音は朱志香の声で現実に引き戻される。一瞬で砂から顔を出した彼は下から見上げるアングル故にあらぬ妄想を誘発する光景を目の当たりにする。
「大丈夫です、朱志香様……」
「か、嘉音くん!?ちょ、どうしたんだよ!?」
すらりと伸びる脚。網タイツに包まれたむちむちの太股。身体にぴったりフィットした衣装は下から見上げれば黄金郷である。何より、びっくりして慌てた表情がなにやら自主規制の必要な想像を思い起こさせる。
「……生きててよかった」
「え?え?譲治兄さん、戦人、嘉音くんどうしちゃったんだよ?」
「う~ん、そっとしておいてあげて。それより次の撮影もあるんでしょ?着替えておいでよ」
「兄貴のいうとおりさぁ。……ところで朱志香」
「なんだよ」
「すげぇ良い眺めのカッコじゃねぇか。揉ませろ~い」
どかっ。ばきっ。どすっ。
わきわきと指を軟体動物のように動かしながら朱志香に迫る戦人に、彼女は素手で強かに殴りつけた。次いで嘉音もそこらにあった石ころを握り込んで殴りつける。トドメに譲治が回し蹴りをお見舞いした。
「うぜぇぜ!」
「僕の朱志香に手出ししないでください」
「戦人くん、女の子にそう言うこといっちゃダメっていったよね?」
「……す、すいませんでした……」
砂浜に沈没した戦人を放っておいて、朱志香と2人で屋敷に戻る。またドアの外から、今度は声だけを聞いていた。
「あれ、こんな水着私買ったっけ?」
「あら、この間海にお行きになった時はお持ちじゃなかったですよね?」
「うん……」
どんな水着なのか、とてもとても気になる。
「本当、どうしたんでしょう……奥様ではなさそうですし……」
「父さんでもないと思うぜ?こんな凄いの、卒倒しちまうよ」
「ですよね……」
凄い水着。何が凄いのだろうか。想像するうちに、それは妄想になっていった。
『嘉音くん、こっちこっち!』
『朱志香、待ってくださいよ』
オレンジの地にピンクの花柄のビキニを着た朱志香が砂浜を走る。嘉音も彼女を追いかけて走る。翻るパレオ。揺れる金髪。
『ほら、こっちだぜ!』
『捕まえちゃいますよ?』
『あはは、捕まえてくれよな!』
2人を照らす夕日。ぱしゃぱしゃと水が飛び散る。暫く追いかけっこを楽しむ。恋人達の特権というものだ。
ふとくるんとこちらを向いた朱志香がにこりと笑う。可愛い。振り向いた拍子にぷるんと胸が揺れる。黄金郷ってこれか。
『えいっ』
朱志香の手で掬われた水が嘉音に掛けられる。着ていたパーカーの裾と海パンが僅かに濡れる。掛けられたら掛け返すのが礼儀であるので、嘉音も海水を掬って掛ける。オレンジ色にキラキラ輝く水玉が彼女に掛かる。しかも掛けるたびに腕が上下するのでその動きに合わせて胸がまたぷるんぷるんと揺れる。まさに黄金郷。朱志香のキラキラ輝く笑顔が眩しい。
『わっ、ほら、お返し!……わぁっ!』
ぱしゃん、と水を掛けた瞬間、朱志香はバランスを崩して倒れ込んだ。慌てて駆け寄って支える。
きゅ、と目を瞑ったまま嘉音の腕の中に倒れ込んだ朱志香は、一度瞬きをすると、彼と目があってぱっと赤面した。
『あ……ありがと、嘉音くん』
『朱志香……無事でよかった……っ!?』
ざぁん、と引く波に足を取られて、2人で水に倒れ込む。おかげで着ているものは全部びしょぬれだ。
『びっくりしたぁ……』
すぐ近くに朱志香の身体がある。少し起きあがって、頭を引き寄せて唇を合わせた。
『朱志香……』
『嘉音くん……』
濡れた髪。水の滴る身体。上気した頬。
全てが嘉音の理性をぐらつかせる。
起きあがって、朱志香を抱き寄せる。
『嘉音くん……大好きだぜ……』
『朱志香……愛してます』
もう一度口づけて、水着に手を掛けて。
ごんっ。
「……痛い……」
「……何やってるの?嘉音くん……」
紗音の冷たい視線。水着は前回の撮影と同じもの。
「嘉音くん……大丈夫か?頭打ってただろ」
ちょっと待ってて、と言い残し、朱志香が駆けてゆく。ものの数分で戻ってきた彼女の手には冷却ジェルのパックが握られていた。
「ごめんな、嘉音くん……私が確認しないでドアを開けちゃったから……」
「いえ……」
パーカーを羽織った朱志香の水着はファスナーをぴっちり閉めているせいでどんなものかはわからない。しかし、非常に良い匂いが後ろから漂ってくる。朱志香が冷却ジェルを嘉音の後頭部に当ててくれているのだ。彼女がすぐ近くにいるせいか、何となく柔らかいものが背中にかすかに当たっているような気がする。
「大丈夫?」
「はい。もう大丈夫です。朱志香様がお手当してくれましたから」
「じゃあ行きましょうか。譲治様にお見せしたいんです」
きゃっきゃと笑いながら前を歩く乙女2人。紗音ばっかりずるい、と姉に嫉妬しながら朱志香のほうを見る。
薄く揺れるパレオ。透けて見える水着に包まれたぴちぴちの桃尻。そしてむちむちの太股。
「夏っていいな……」
嘉音、こればっかり。
撮影は順調だった。お嬢様のギリギリショット的な水着姿も見られた。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様……。
僕の煩悩は108ではすまないと思います。もう家具とか正直どうでもよくなってきた。
お嬢様と水着で戯れたかったです。
そんなわけで僕もビデオに撮ってました。ついでに写真も撮ってました。
薄緑色の生地にオレンジの花柄のやけに面積が少ない水着、実は戦人様が買ってきたんだそうです!今度は僕が買ってきますね。
あと確信しました。
灰色だった海は、あなたがいるだけで薔薇色に見えました。綺麗な蒼です。僕の目が映し出す舞台の上には朱志香様だけがいればいい!
愛してます!
「……で、相変わらず姉さんと譲治様を省く、と……」
後ろから聞こえた声にぎくりと振り返る。紗音が鬼の形相で武器をひっさげて立っていた。
「ひぃぃぃぃっ!姉さん、なんで金属バットなんか持って……あれ、譲治様もなんで間合い取ってるんですか?」
紗音の横には譲治。
「紗音の敵は僕の敵。紗代を傷つけるものには報復をするのが僕の信念さ」
「え、それ、毎回僕が瀕死状態なんですけど……って聞いてないし!」
そして、紗音は金属バットを振り上げ、譲治は跳び蹴りをするべくアップを始めた。そう、それはまさしく魔王と……。
「よくも譲治様を大道具にしてくれたわねぇぇぇぇぇっ!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
「紗代は大道具なんかじゃなぁぁぁぁぁぁいっ!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
うみねこのなく頃に、生き残れた嘉音は無し。
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
金属バットと跳び蹴りが致命傷。
遺留品のカメラからは朱志香を盗撮した映像と写真が見つかっており、映像には最後に「朱志香は僕の嫁」というメッセージが残されていた。普段の行動が災いを呼んだのかもしれない。盗撮と妄想もほどほどに。
「だからいい加減学習してよ。それと、誰が鬼嫁ですって!?私は譲治様の良妻よ!」(by紗音)
某月某日、雨。
今日は船が出せないのでお嬢様はお屋敷におられる。お勉強が忙しいのは仕方ないが、たまには僕も紗音みたいにお嬢様と遊びたい。
もう家具だからとかそういうことは言っていられない。
だってお嬢様を中心に世界はまわっているのだから!
恋愛少年の妄想事情
「拝啓、右代宮朱志香様
この間の文化祭の夜は心にもないことを申し上げてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
本当はずっと前からお嬢様のことが好きでした。愛しています。結婚してください。指輪も式も最高のものにするとお約束します。
それからその後の人生も絶対幸せにして見せます。
プランはちゃんと立ててあります。今すぐ結婚しても大丈夫です。
具体的にいつからお嬢様が好きだったかというと多分初めて出会ったときから好きでした。あなたの太陽のような微笑みに、明るく優しいご気質に、僕は一目惚れをしてしまったのかもしれません。
そして、文化祭でお嬢様の楽しそうな姿にますます心を奪われました。あの夜、酷いことを言ってしまったのは家具と人間が恋愛などしてはいけないという規範に囚われていた僕の愚かさのせいです。
しかしもう僕も自分の気持ちを偽るのは限界になってしまいました。
もう一度言います。
お嬢様が好きです。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。恋しい恋しいお嬢様。
適当に仕事をさぼってあなたの学校に潜入してしまいたいぐらい愛しています。
お嬢様にふられてしまったら、僕はもう生きていかれません。
本当は四六時中お嬢様との新婚生活を夢見て生きています。たまに紗音に怒られます。
ですから今度僕を学校に招いてくださるときはちゅーしてください。僕もお嬢様に怒られるまでぎゅーしますぅ?……あ~、やっぱやめた。うん、なんでもない」
突如後ろから聞こえた声に、使用人室の机で書き物をしていた嘉音は青筋を立てながら振り返った。声の主は六軒島の魔女ベアトリーチェ。退屈しのぎのためだけに紗音と譲治の恋を取り持ち、ついでに嘉音と朱志香の恋も取り持ってやろうというとんでもない御仁である。
「何ですかベアトリーチェ様。僕のお嬢様へのラブレターにケチでもつけるおつもりですか」
「いや、お前その手紙渡すつもりか?正気か?ふられるぞ」
ベアトリーチェの顔は露骨に引きつっている。嘉音のいうラブレター、とは冒頭でベアトリーチェが読み上げた嘉音が書いていた手紙である。
「何故ですか。僕のお嬢様への恋心があふれんばかりに綴られているのに……」
「恋心なのは良いがな、それはもはやストーカーであろう」
「一体どの辺りがですか。きっとですね、この手紙をお嬢様に渡せば……」
ますます引きつった顔をするベアトリーチェを余所に、嘉音は手紙を渡したときの朱志香の反応を思い描く。
『嘉音くん……これ……』
朱志香は手紙を読み終えると縋るような目で嘉音を見つめる。
『それが僕の気持ちです。もうアヒルでも構いません。お嬢様と一緒に生きていきたいんです!』
彼女の手を両手でぎゅっと握りしめると、目の前の恋しい少女はほんのりと頬を染めて目を潤ませる。
『嬉しい……嬉しいよ、嘉音くん。ありがとう……』
可愛い。きっと彼女は宇宙一可愛い。もう堪えられない。
『愛しています、お嬢様!』
手を離してぎゅっと抱きしめると、彼女も抱きしめ返してくれる。
『私も、私も大好きだぜ、嘉音くん!』
『お嬢様!大好きです!』
「お嬢様……!」
「……おぬし、それどこのギャルゲーだ?妾そんなもの貸した覚えはないぞ?というか朱志香の盗撮写真に思い切りキスするな、痛々しいぞ」
何時の間にやら取り出した朱志香の写真に感無量で口づける嘉音に、ベアトリーチェが制止をかける。愛しい朱志香との逢瀬のイメージトレーニング(だと本人は思っている)を邪魔されて嘉音は面倒くさそうに魔女のほうを向く。
「まだいたんですか。いい加減帰ってください。僕は忙しいんです」
「どこがだ、この暇人め。紗音は真面目に仕事をして、たまの休憩時間だから朱志香と談笑しておるというのに……紗音ぐらい真面目に働いておれば妾も願いを叶えてやろうと張り切るのだがのう」
「姉さんがお嬢様と一緒にいるんですか!?」
どうでもいいところに食いついてくる嘉音に魔女はこの日何度目か分からない「うわぁ」という間抜けな声を出した。椅子まで蹴倒すただならぬ様子にまずは落ち着けと宥める。
「いつものことではないか。紗音も朱志香も楽しそうだぞ?何の不満があるというのだ」
「姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて……」
「聞けよ」
「何で姉さんばっかりお嬢様と仲良くするんですか!僕もお嬢様とお茶が飲みたいです!それでこっそりお嬢様のベッドに僕の髪の毛入りの人形とか置きたい!」
「今度は何を読んだお前は!」
別にこれといって読んだものはない。ただ本屋に入った折に恋のおまじない特集なる雑誌を立ち読みしたら載っていただけだ。
嘉音が右代宮家に勤め始めたときから紗音は朱志香と仲が良かった。彼が家具だという意識を強く持っていた頃はあまり感心しなかったことだが、今となっては紗音が妬ましくて仕方がない。
嘉音だって朱志香の部屋で一緒にお茶を飲みたい。紗音ほどドジを踏まない自信はあるから、きっと朱志香にも満足してもらえるはずだ。
『嘉音くんは何でも出来るんだな!見直したぜ』
『全てお嬢様に喜んでいただくために練習しました』
褒めてくれたら取って置きの笑顔を見せて、彼女の指先に口づける。きっとそれだけでウブな彼女は頬を赤く染めるだろう。そうしたら自分はポケットから彼女のために買った数々のアクセサリー(今回はネックレス)を贈るのだ。
『お嬢様にお似合いになるかと思いまして……』
『ありがとう、嘉音くん!……それで、その……これ、つけるの手伝って欲しいんだ』
『お安いご用です』
ネックレスを受け取ると後ろに回り込み、留め具を掛ける。鏡台から手鏡を持ってきて見せる。
『良くお似合いですよ。お美しいです』
『嘉音くん……へへ、照れるぜ……』
朱志香は頬をもっと赤く染めて照れ笑いをする。その仕草がたまらなく可愛らしい。鼻先で揺れる金髪からは良い香りがする。彼女の言葉も仕草も、声も匂いも全てが嘉音の理性を揺さぶる。つい吸い寄せられるように目の前の少女を抱きしめた。
『か、嘉音くん!?』
『お嬢様……ご存じですか?』
『な、何を……?』
『男性が女性にアクセサリーを贈るのは、独占欲の表れなんです』
熱い吐息と共に耳元で囁いて、赤くなった耳たぶに口付けを落とす。
『ひぁっ……!あ、……やめっ……』
『愛しています、お嬢様……』
そのまま耳朶に舌を這わせながらベッドへと押し倒す。彼女の身体を仰向けにすると、切なげに潤んだ眼差しとぶつかる。半開きになったままの桜色の唇に口づける。舌を差し込めば、朱志香の小さなそれが逃げようと抵抗する。
『ん……』
逃げる舌を捕まえて絡ませる。いったん唇を離すと、朱志香のとろんとした目が見つめてくる。
『お嬢様……よろしいですか?』
『あ……あの……朱志香って……呼んで……』
それは恋を知った乙女のささやかな願い。嘉音が乱したシャツもそのままに、彼女は指を彼のそれに絡めた。
紛れもなくそれは行為の了承の合図。
『朱志香……』
『優しく……してね……?』
『かしこまりました』
優しく微笑んで、嘉音は朱志香の首筋に唇を這わせた。
「お慕いしています……朱志香……」
先ほどの朱志香の写真を抱きしめて感じ入っている嘉音の後ろでは、ベアトリーチェが呆れた顔をしてちょうど入ってきた紗音に声を掛けていた。
「お、紗音~。この暇人なんとかしろ。妾ではこいつの妄想についていけん」
「あ、ベアトリーチェ様。嘉音くん、前からこうなんです。ほら嘉音くん、お嬢様にお洗濯ものお届けしてきて」
紗音は嘉音の肩をぽんぽんと叩くと、朱志香の写真を取り上げて代わりに洗濯物一式を持たせた。嘉音はしばし洗濯物と見つめ合った後、こくんと素直に頷く。
「これ、全部お嬢様の……?」
「そうよ」
「量が多いようには見えんが?」
「じゃあこれ、お嬢様のハンカチ?」
「そうよ」
「そっち!?」
魔女のツッコミを無視して、嘉音は洗濯物に頬ずりをする。それから鼻の下がのびているだらしない表情をきりりと引き締めると、使用人室を出た。
なんと言ってもこれから朱志香の部屋に行くのだ。だらしない顔をして会うわけにはいかない。いつも通りクールに、かつ紳士的に振る舞うのだ。
こんこん、とドアをノックする。
「は~い。入って良いよ」
中から朱志香の元気の良い声が聞こえる。入って良いとのことなのでドアをあけて入る。
「お嬢様。お洗濯ものをお届けに上がりました」
「わ、か、嘉音くん!?」
彼女は入ってきたのが嘉音だと分かるとわたわたとそこらのものを片づけ始めた。もともと散らかっているわけでもないので片づけものはすぐ終わり、その辺に座っているように指示される。
「ごめんな、この問題だけ終わらせちゃうからちょっと待って」
「はい」
朱志香が問題集に向き直っている間に、嘉音はベッドに座って部屋の中を見回す。彼は男性だからこの部屋に入る頻度はそう多くない。そもそも女性の部屋に入る頻度自体が少ないのだが、朱志香の部屋は右代宮本家の令嬢らしい気品があると思う。
その部屋の主も普段は男勝りで言葉遣いこそ荒いが、正式な社交の場などでは気品あふれる令嬢の振る舞いをしているのではないか。彼はそういう場所に行ったことがないけれど、パーティーから帰ってきたときに夏妃が彼女に小言を言うことは滅多にない。強いて言えば男性への対処の仕方ぐらいか。
--お嬢様が男という名の危険な狼に誑かされないように……お嬢様は僕が守る!
どう考えても一番危険な狼は嘉音なのだが、彼は全く気付かない。ついでに言えば、朱志香も嘉音が自分を誑かそうとしている狼だとは気付いていなかった。
そうこうするうちに問題が解けたのか、彼女はぱたんと問題集を閉じるとこちらに向き直った。
「悪い悪い、ちょっと手が放せなかったもんだからさ……それで、ええと、せ、洗濯物だっけ?」
「はい。お届けに上がりました」
「届けに来てくれただけなのにごめんな……悪いことしちゃったぜ」
届けに来ただけだと思ったのか、朱志香は気まずそうに笑う。文化祭のことをもしかしたら引きずっているのかもしれない。
繊細な彼女のことだ。嘉音に迷惑を掛けてしまったとか、気まずくなってしまったとか後ろめたい想いも抱えているのだろう。
「いえ、僕はおじょ……じゃなかった、家具ですから」
本音を言いかけて、慌ててお決まりの台詞で繕う。朱志香がまた傷つくことに罪悪感を覚えながら、彼はそれ以外にどうすることも出来なかった。
いや、彼にもう少し勇気があれば本音を言えたのかもしれない。けれど、一度手酷く拒絶しておきながら恋心を告げることが彼女にどう思われるかが気になって、なかなか喉の奥から出すことが出来ない。
目の前の少女はいつもの太陽のような微笑みではなく、少し悲しげな微笑みを浮かべた。ずきりと胸が痛むのを感じる。
「……もう、家具ですから、ってところには何も言わない。……でも、一つだけ教えて」
「はい」
「家具ですから、の前。なんて言おうとしたの?」
真剣な瞳。その光に囚われて、逃げ道を失ってしまいそうだ。いや、逃げ道など本当はないのだ。
彼にあるのはただ、その思いを告げるのみ。
「お嬢様と……」
「……私と?」
「お嬢様と一秒でも長く一緒にいたいですから、と」
「……え?」
朱志香が呆気にとられたような顔になる。次いで、その可愛らしい顔がほのかに赤く染まった。
--そうだ、ここであのラブレターをお渡しして……あれ、無い!使用人室に忘れてきた!?
使用人室で先ほどまで書いてきたラブレターはどうやら忘れてきてしまったようだ。あれを渡しても嘉音の恋が実るかは怪しいところなのだが、彼はそんなことはお構いなしにどうしようと考える。
--どうしよう……僕が言葉で言うしかないのか?そうだ、言葉で言うしかない!
「……嘉音くん?」
「お嬢様!」
おずおずと嘉音の額に手を伸ばしてきた朱志香の肩を掴んで叫ぶ。
「は、はいぃっ!」
「す……すっ……」
「す?」
「す、好きです!」
その瞬間、朱志香の頬がまるでぽん、と音がしたかのように真っ赤に染まった。
「え……え!?す、好きって……その……友達としてとか、雇用者としてとか、そういう……意味……だよな……きっと」
真っ赤に染まった頬を鎮めるためなのか、彼女はきゅっと目を瞑ってふるふると首を横に振る。
「違います。お嬢様を……朱志香様を1人の女性としてお慕いしています!」
暫く呆然としていた朱志香の瞳が潤む。
「お気に障ったのならすみません……ですが僕はもう家具ではいられないんです!お嬢様のことを想うたびに人間になりたくなる、お嬢様と心おきなく愛し合いたいんです!」
「嘉音……くん……ありがと……私も……私も大好きだぜ!」
ぎゅっと抱きついてくる彼女の温かさに、彼は密かに言って良かった、と小さくガッツポーズをした。要するに感無量。
もうこの先、どんな魔女(ベアトリーチェ含む)が出てこようと、どんな悪魔が2人を引き裂かんとしようと、嘉音はずっと朱志香の傍にいる。それが2人の幸せへの近道なのだから。
このことが妄想ではなく事実だという幸せをかみしめながら。
洗濯物を無事に朱志香のクローゼット(少し中に入りたい、と思った)に仕舞い、使用人室に戻ってきた嘉音はゆっくりとドアを閉めた。
あたりに郷田やら郷田やら郷田がいないことを確認して叫ぶ。
「ぃやったぁぁぁぁぁぁ!」
「なんだ、騒々しい……」
「嘉音くん、どうしたの?お嬢様のお部屋の良い匂いにとうとう理性の糸でも切れちゃったの?」
なんだなんだとこちらに寄ってくる魔女と姉に早速報告してみる。
「お嬢様と結婚します」
「は?」
魔女はぽかんとして聞き返し、姉はあらあらと笑った。
「お嬢様に告白してきました。もう僕たちは夫婦も同然、式は大安吉日です!」
「プロポーズしたの?」
「え?」
「結婚してください、って言ったの?」
「え、姉さん、つき合うことになったらイコール結婚じゃないの?」
紗音は夏妃の機嫌の悪いときのように頭に手を当てると、ふぅ、と大きく溜息を吐いた。
「……あのね、嘉音くん。結婚するのは指輪をあげて結婚してください、って言わなきゃいけないのよ」
「お嬢様に、指輪……」
「嘉音くん?聞いてる?ちょっと、涎垂らさないで!もう!」
紗音の怒声をバックミュージックに、彼は朱志香にプロポーズする様を想像した。勿論紗音が譲治から受けたプロポーズを参考にしている。
『お嬢様……結婚してください』
薔薇園の東屋で朱志香にダイヤモンドの指輪を渡す。ベルベット地の箱の中に鎮座する美しい指輪に、彼女は瞳を潤ませた。
『嘉音くん……でも、その……いいの?』
『はい。これはお嬢様のお気持ちだけが頼りになりますから……それと、今ひとつ約束違反がありましたよ?』
優しくその大きな瞳をのぞき込むと、朱志香はぽん、と顔を赤くした。
『あ……』
『僕も2人きりの時は朱志香とお呼びします。ですから……』
きっとどこかで告げられるであろう彼の本名を、彼女は照れながらもしかし確実に紡いでくれる。
『よ……嘉哉くん……って呼ぶよ……わっ』
顔を赤く染めながらはにかむ恋人を抱きしめる。あまりにも可愛らしくて理性をつなぎ止めるのにも一苦労だ。
朱志香が愛おしい。
朱志香と共に生きていきたい。
もう自分が家具だからなんて関係ない。
きっとこの命は朱志香を愛するために生まれてきたのだから!
『愛しています。一生朱志香を大切にします。ですから、一晩良くお考えになって、明日の朝までに朱志香の返事を聞かせてください』
『嘉哉くん……』
『今僕がここであなたの左手の薬指に指輪を通すことも出来ます。しかしそれは朱志香の意思じゃない』
一度体を離して見つめ合う。耳まで赤く染まった顔に潤んだ瞳の朱志香が可愛らしい。彼女は切なそうに眉を寄せて嘉音の次の言葉を待つ。だから、彼は告げる。
『もし僕の求婚を受けてくださるのなら、この指輪をお好きな指に着けてください』
『う、うん……』
おずおずと朱志香は指輪に手を伸ばし、ゆっくりと彼女の左手の薬指に通した。それは間違いなく求婚を受け入れる合図。
『私も……嘉哉くんを幸せにする……ぜ……えへへ』
その照れた笑顔に愛しさを感じる。やっと手に入れられる彼の太陽を、嘉音は思い切り抱きしめた。
『朱志香……ありがとう……』
「……のう嘉音。お主それ、どこから出した?」
「……まだいたんですか。常に携帯していますよ」
自主規制が必要な妄想に浸っていた嘉音が出して抱きしめていたのは朱志香がプリントされたピローカバーだった。ビキニタイプの白い水着が良く映える素肌が眩しい。
「去年の某夏の祭典で買ってきたんですよ。私も譲治様のピローカバーを三枚ほど持っているんです」
嘉音の涎を綺麗に拭いていた紗音がにこにこととんでもないことを暴露する。そう、このピローカバー、譲治の友人や朱志香の同級生が自主的に作って売っていたものなのである。
嘉音と紗音は何回も一部の間からは祭典と呼ばれる盆と年末に開催される同人イベントに出ている。その形態は本(同人誌)を売るサークル参加と買い手にまわる一般参加と時によって違うが、毎回参加していることに代わりはない。
カタログを買って朱志香や譲治が描かれた本を探し、当日は始発で会場に行って目当てのものを買う。それは常に思いを確かめ合えない彼らがたどり着いた年に二回の癒しの時だった。
「……で、お主らはこのような本を書いていた、と……」
ベアトリーチェはじとりとした目になって二冊の本を取り出す。一冊はソファーで寝ている譲治に寄り添う紗音が描かれた本、もう一冊はピンク色の浴衣をしどけなくはだけて赤い顔をした朱志香が描かれた本。
「それ、私の『眠るあなたに愛を込めて』!」
「それ、僕の『お嬢様とらぶらぶ☆夏祭り』!」
2人がそれぞれの本のタイトルを叫ぶと、魔女は露骨にげんなりとした顔になった。
「……紗音はともかく、嘉音、そのタイトルはどうなんだ?ん?朱志香にこれを見せたらなんて言うかの」
「もっと僕を好きになってくれます!」
この同人誌を読んで、朱志香が嘉音に幻滅するはずはないと彼は確信している。どんなに痛々しくてもそれは彼の想像上の真実であり、魔女にも現実を告げることは出来なかった。
「妄想もほどほどにの」
休憩時間中、朱志香に会いに行くとそこには先客がいた。
「なんでいるんですか、ベアトリーチェ様」
「あ?妾がどこにいようが勝手であろう」
ベアトリーチェは至極面倒くさそうに吐き捨てると、それより、とベッドに座る朱志香に向き直る。彼女は困ったような顔をして、嘉音くんもこっちにおいでよと手招きした。可愛い。
「朱志香、お主、本当に嘉音でよいのか?」
「へ?え、な、なにが……?」
「人の恋路に介入するな!この詐欺師!」
魔女の質問によく分からないといった風に狼狽える朱志香。おろおろする彼女は十分に可愛いが、問題発言をして人の恋路を掻き回す魔女には抗議をするべきだ。
「くっつけてやろうと思った張本人の妾が言うのもなんだがな、こやつはとんだ変態だぞ」
「か、嘉音くんが変態って、どうしてまた……?」
「お嬢様、こんな詐欺師の言うことを聞いてはいけません!」
朱志香の耳を両手でふさぐと、彼女はまた不可解そうに首をかしげた。ところがベアトリーチェはぱちんと指を鳴らすと執事を呼び出す。
「お呼びでしょうか、ベアトリーチェ様」
「嘉音を縛っておけ。妾はこれから朱志香とガールズトークをするのだ」
「ガールズって年齢か!?」
「年齢に決まっておろうが!」
そうは見えないぞこの魔女が、と叫んだところで嘉音の意識は途絶えた。
次に目が覚めたとき、彼は柔らかで張りのある暖かなものを枕にしていた。それにそっと触れると、上の方からひゃあ、と小さな悲鳴が聞こえる。
「朱志香様……?」
「大丈夫?嘉音くん」
もう一度触れる。
「わっ……くすぐったいからよしてくれよ」
明るい笑い声。嘉音が枕にしていたのは朱志香の太股だったのである。
「も、申し訳ございません!……って、あれ、じぇ、朱志香様……そ、それは……」
彼女に向き合った彼は絶句した。なぜなら今の朱志香の格好はいつものブレザーにミニスカートではなかったからである。
彼女の美しい肢体を覆うのは紺色の伸縮性のある布。肩から先と脚が惜しげもなく晒され、胸元には『じぇしか』と書かれた白地の布が縫いつけてある衣装、つまりスクール水着である。いつものハイソックスはフリルの付いたニーソックスへと変貌を遂げている。ニーソックスにはガーターベルトが取り付けられ、水着の腰の辺りに装着されていた。それより何より目を引くのは、朱志香の頭から生えている白の猫耳と尻の辺りで揺れる同色の尻尾だった。彼女は顔を赤らめてはにかむ。
「ベアトリーチェが、嘉音くんの日頃の疲れはこうすれば癒せる、っていうから……」
「朱志香様……」
スタイルの良い朱志香の胸元はボディラインが丸見えになる水着によってその曲線美がさらに強調されており、ゼッケンに書かれた『じぇしか』の文字もゆがんで見える。さらに少々きついらしく生地の食い込みに顔をゆがめる様も扇情的に映る。まじまじと見つめられて恥ずかしいのだろう、彼女の頬は真っ赤に染まり、そろそろと腕を上げ掛けてはしかし嘉音を癒したいという願望故か降ろすことを繰り返している。
「で、でも、この水着、ちょっときついんだよね……はは……」
「その猫耳と尻尾は……」
「魔女様が魔法で……なんか癒されたら戻るらしいぜ」
照れたようにぴょこぴょこと動く耳。ゆらゆらと揺れる尻尾。触りたい。撫でたい。
「朱志香様……」
「ん?」
「良くお似合いです」
「あ、ありがとな……」
ふらふらと手が耳に触れる。ふにふにと触っていると、朱志香が照れたように笑う。
「そんなに触られるとくすぐったいよ」
「気持ちいいですか?」
「ん……どうだろう……気持ちいい、のかな……?」
「では、こちらはどうですか?」
耳から手を離して尻尾を握る。
「にゃうんっ!……え!?」
彼女はびっくりしたのか猫のような悲鳴を上げる。そして、一瞬後に何を口走ったのかと唖然とした。
「お可愛らしいです」
そう言いながら尻尾を撫でさすってみる。この間の祭典で買い込んだ朱志香に猫耳と尻尾が生えた本(勿論年齢制限付きだったのでたまたま同行していた譲治に頼みこんで買ってきてもらった)では尻尾を握ったり撫でたりすると、彼女が可愛らしく鳴いたシーンがあった。が、嘉音が期待していたような自主規制が必要な反応はなく、朱志香は困ったように尻尾と嘉音を見比べているだけだった。
「朱志香様?」
「あ、あぁ、ごめん……尻尾、そんなに気持ちいい?」
「え?」
確かに触った感じはとても柔らかな毛並みで、ふわふわしていて気持ちが良い。しかし朱志香は小刻みに震えており、見せておく必要の無くなった二の腕をさすっていた。
「朱志香様……もしかしてお寒いのですか?」
「あ、あはは……ちょっと、この季節にこれは……くしゅん!」
現在は夏も終わりに近づいた季節である。まだ水着の出番は終わっていないと主張すればそれまでだが、さすがに夕方にこれは寒いだろう。くわえて冷房の効いた部屋である。このままでは風邪を引くのも時間の問題だろう。上着を着せなければとブレザーを探すが見あたらない。
「朱志香様、あの、今日のお召し物は……?」
「あ……ベアトリーチェに魔法で変えられたから……持って行かれた、かも」
あの変人魔女、と嘉音は心の中で毒づく。しかし優先すべきは朱志香を暖めることだ。クローゼットから出しても良いが、冷えた上着を着せるわけにはいかない。そのとき、嘉音の頭の中で電球が光ったような気がした。
「失礼します」
「え……え!?」
ぎゅっと抱きしめて、ベッドにそっと押し倒す。何度も何度も夢を見て、イメージトレーニング(という名の妄想)してきたことだ。
朱志香はわたわたと顔を赤くして慌てている。その仕草もまた可愛い。
「お体が暖まるまで、僕があなたの布団になります」
「ええええ!?」
だがしかし、布団になりきれるかどうかは不安があった。しつこいようだが現在の朱志香はサイズの合わないスクール水着姿。ボディラインが強調され、向かい合わせに抱きしめて押し倒す体勢だと胸が自然と当たってしまうのである。加えて彼女の髪から漂う良い匂いが嘉音を酔わせる。朱志香もそれに気付いたらしく、自らの手のひらで胸の辺りを覆う仕草をして真っ赤になった顔を背けた。
「か、嘉音くん……ダメだよ、そんな……嘉音くんが風邪、引いちゃう」
「大丈夫です。朱志香様がお風邪を召されたら、僕は心配で仕事が手に付きません」
「あ……そ、そんな……」
2人の視線が絡み合う。潤んでかすかに揺らめく瞳。その瞳に魅せられて、つい顔を近づける。
「か、嘉音、くん……?」
「朱志香様……」
そして、唇が近づいて。
「失礼します。お食事のご用意が整いました……って……」
ノックの後にドアが開かれた。ぱっと2人同時に離れて振り向けば紗音がいる。
「ね、ねねねねねね姉さん!?」
「しゃ、紗音!?」
「え~と……うん、嘉音くん、私お嬢様のお着替えを手伝ってから行くから先に行ってて」
少し固まった後、紗音はにっこり笑って食堂のほうを示す。
「ぼ、僕がお嬢様にお着替えさせるから!」
「だめ。お嬢様がお着替えできなくなっちゃうでしょ?」
「しゃ、紗音」
「はい、お嬢様」
「あの、ベアトリーチェが、その、嘉音くんが変態だとかなんだとか言ってたんだけど……それと私が着替えられなくなるのと、何か理由があるのか?」
胸元を押さえた朱志香が尋ねる。
「はい。お嬢様のお着替えがお着替えにならなくなります。例えばですね……」
紗音は朱志香の耳元に何かを囁いた。途端に彼女が真っ赤になる。
「え、で、でも、その……嘉音くんは、もっと紳士だったぜ?」
「いいえお嬢様、騙されてはいけません」
紳士、という単語からおそらく嘉音についてまともな情報が伝わっていないことを悟る。さらに朱志香に変なことを吹き込むつもりの姉に嘉音は怒鳴った。
「姉さん!どうしてそう僕を変質者扱いするの!?」
「だって本当のことじゃない。お嬢様のシャツの匂い、嗅いでたでしょ?それに嘉音くん、この間の使用人の自室を含む使用人室の総点検の時に嘉音くんの部屋からお嬢様の下着が出てきたよね?」
「か、嘉音くん……あの、わ、私……その……」
耳はぴょこぴょこ、尻尾はゆらゆら。困ったような真っ赤な顔で、朱志香はこちらを見つめてくる。なんて可愛らしい。だが、その視線はもしかしたら嘉音を責めるものなのかもしれない。あるいは、彼と恋人になったことを後悔しているのか。絶望的な気分で朱志香に縋る。
「じぇ、朱志香様、あの、その、違うんです、これは……」
「えっと……嘉音くんが、望むんなら……いいよ?ちゃんと返してくれれば……」
真っ赤な頬で、困ったような顔で、蚊の鳴くような声で囁かれた言葉は、しっかりと嘉音の耳に届いた。後光が見える。可愛い。
「朱志香様!」
思いあまって彼女の身体を抱きしめる。これからはちゃんと返そうと嘉音は心に誓った。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。
僕はあなたのことを愛しています。世界で一番大事な人。
例え茨の道が待っていようと、必ずや幸せにして見せます!
だってこの世界はお嬢様を中心にまわっている。
「お嬢様の前では万物が背景になってもぶっ!」
ごん、と鈍い音がして振り向けば、紗音が六法全書と書かれた分厚い本を持って笑顔で立っていた。
「ね、姉さん……?」
「嘉音くん?万物に譲治様や私は含まれるのかなぁ?」
「え、当たり前じゃn……」
紗音の顔が一瞬にして恐ろしい顔へと変わる。そう、それはまるで文化祭で入ったお化け屋敷の……。
「よくも私たちを背景扱いしてくれたわねぇぇぇぇぇぇぇ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
死因は不明。おそらく傍に落ちていた六法全書を受けてのものだと思われる。
ダイイング・メッセージによると「朱志香様、結婚してください」とのこと。
「誰が鬼の形相ですって?」(by紗音)
今日は船が出せないのでお嬢様はお屋敷におられる。お勉強が忙しいのは仕方ないが、たまには僕も紗音みたいにお嬢様と遊びたい。
もう家具だからとかそういうことは言っていられない。
だってお嬢様を中心に世界はまわっているのだから!
恋愛少年の妄想事情
「拝啓、右代宮朱志香様
この間の文化祭の夜は心にもないことを申し上げてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
本当はずっと前からお嬢様のことが好きでした。愛しています。結婚してください。指輪も式も最高のものにするとお約束します。
それからその後の人生も絶対幸せにして見せます。
プランはちゃんと立ててあります。今すぐ結婚しても大丈夫です。
具体的にいつからお嬢様が好きだったかというと多分初めて出会ったときから好きでした。あなたの太陽のような微笑みに、明るく優しいご気質に、僕は一目惚れをしてしまったのかもしれません。
そして、文化祭でお嬢様の楽しそうな姿にますます心を奪われました。あの夜、酷いことを言ってしまったのは家具と人間が恋愛などしてはいけないという規範に囚われていた僕の愚かさのせいです。
しかしもう僕も自分の気持ちを偽るのは限界になってしまいました。
もう一度言います。
お嬢様が好きです。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。恋しい恋しいお嬢様。
適当に仕事をさぼってあなたの学校に潜入してしまいたいぐらい愛しています。
お嬢様にふられてしまったら、僕はもう生きていかれません。
本当は四六時中お嬢様との新婚生活を夢見て生きています。たまに紗音に怒られます。
ですから今度僕を学校に招いてくださるときはちゅーしてください。僕もお嬢様に怒られるまでぎゅーしますぅ?……あ~、やっぱやめた。うん、なんでもない」
突如後ろから聞こえた声に、使用人室の机で書き物をしていた嘉音は青筋を立てながら振り返った。声の主は六軒島の魔女ベアトリーチェ。退屈しのぎのためだけに紗音と譲治の恋を取り持ち、ついでに嘉音と朱志香の恋も取り持ってやろうというとんでもない御仁である。
「何ですかベアトリーチェ様。僕のお嬢様へのラブレターにケチでもつけるおつもりですか」
「いや、お前その手紙渡すつもりか?正気か?ふられるぞ」
ベアトリーチェの顔は露骨に引きつっている。嘉音のいうラブレター、とは冒頭でベアトリーチェが読み上げた嘉音が書いていた手紙である。
「何故ですか。僕のお嬢様への恋心があふれんばかりに綴られているのに……」
「恋心なのは良いがな、それはもはやストーカーであろう」
「一体どの辺りがですか。きっとですね、この手紙をお嬢様に渡せば……」
ますます引きつった顔をするベアトリーチェを余所に、嘉音は手紙を渡したときの朱志香の反応を思い描く。
『嘉音くん……これ……』
朱志香は手紙を読み終えると縋るような目で嘉音を見つめる。
『それが僕の気持ちです。もうアヒルでも構いません。お嬢様と一緒に生きていきたいんです!』
彼女の手を両手でぎゅっと握りしめると、目の前の恋しい少女はほんのりと頬を染めて目を潤ませる。
『嬉しい……嬉しいよ、嘉音くん。ありがとう……』
可愛い。きっと彼女は宇宙一可愛い。もう堪えられない。
『愛しています、お嬢様!』
手を離してぎゅっと抱きしめると、彼女も抱きしめ返してくれる。
『私も、私も大好きだぜ、嘉音くん!』
『お嬢様!大好きです!』
「お嬢様……!」
「……おぬし、それどこのギャルゲーだ?妾そんなもの貸した覚えはないぞ?というか朱志香の盗撮写真に思い切りキスするな、痛々しいぞ」
何時の間にやら取り出した朱志香の写真に感無量で口づける嘉音に、ベアトリーチェが制止をかける。愛しい朱志香との逢瀬のイメージトレーニング(だと本人は思っている)を邪魔されて嘉音は面倒くさそうに魔女のほうを向く。
「まだいたんですか。いい加減帰ってください。僕は忙しいんです」
「どこがだ、この暇人め。紗音は真面目に仕事をして、たまの休憩時間だから朱志香と談笑しておるというのに……紗音ぐらい真面目に働いておれば妾も願いを叶えてやろうと張り切るのだがのう」
「姉さんがお嬢様と一緒にいるんですか!?」
どうでもいいところに食いついてくる嘉音に魔女はこの日何度目か分からない「うわぁ」という間抜けな声を出した。椅子まで蹴倒すただならぬ様子にまずは落ち着けと宥める。
「いつものことではないか。紗音も朱志香も楽しそうだぞ?何の不満があるというのだ」
「姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて姉さんばっかりお嬢様に好かれて……」
「聞けよ」
「何で姉さんばっかりお嬢様と仲良くするんですか!僕もお嬢様とお茶が飲みたいです!それでこっそりお嬢様のベッドに僕の髪の毛入りの人形とか置きたい!」
「今度は何を読んだお前は!」
別にこれといって読んだものはない。ただ本屋に入った折に恋のおまじない特集なる雑誌を立ち読みしたら載っていただけだ。
嘉音が右代宮家に勤め始めたときから紗音は朱志香と仲が良かった。彼が家具だという意識を強く持っていた頃はあまり感心しなかったことだが、今となっては紗音が妬ましくて仕方がない。
嘉音だって朱志香の部屋で一緒にお茶を飲みたい。紗音ほどドジを踏まない自信はあるから、きっと朱志香にも満足してもらえるはずだ。
『嘉音くんは何でも出来るんだな!見直したぜ』
『全てお嬢様に喜んでいただくために練習しました』
褒めてくれたら取って置きの笑顔を見せて、彼女の指先に口づける。きっとそれだけでウブな彼女は頬を赤く染めるだろう。そうしたら自分はポケットから彼女のために買った数々のアクセサリー(今回はネックレス)を贈るのだ。
『お嬢様にお似合いになるかと思いまして……』
『ありがとう、嘉音くん!……それで、その……これ、つけるの手伝って欲しいんだ』
『お安いご用です』
ネックレスを受け取ると後ろに回り込み、留め具を掛ける。鏡台から手鏡を持ってきて見せる。
『良くお似合いですよ。お美しいです』
『嘉音くん……へへ、照れるぜ……』
朱志香は頬をもっと赤く染めて照れ笑いをする。その仕草がたまらなく可愛らしい。鼻先で揺れる金髪からは良い香りがする。彼女の言葉も仕草も、声も匂いも全てが嘉音の理性を揺さぶる。つい吸い寄せられるように目の前の少女を抱きしめた。
『か、嘉音くん!?』
『お嬢様……ご存じですか?』
『な、何を……?』
『男性が女性にアクセサリーを贈るのは、独占欲の表れなんです』
熱い吐息と共に耳元で囁いて、赤くなった耳たぶに口付けを落とす。
『ひぁっ……!あ、……やめっ……』
『愛しています、お嬢様……』
そのまま耳朶に舌を這わせながらベッドへと押し倒す。彼女の身体を仰向けにすると、切なげに潤んだ眼差しとぶつかる。半開きになったままの桜色の唇に口づける。舌を差し込めば、朱志香の小さなそれが逃げようと抵抗する。
『ん……』
逃げる舌を捕まえて絡ませる。いったん唇を離すと、朱志香のとろんとした目が見つめてくる。
『お嬢様……よろしいですか?』
『あ……あの……朱志香って……呼んで……』
それは恋を知った乙女のささやかな願い。嘉音が乱したシャツもそのままに、彼女は指を彼のそれに絡めた。
紛れもなくそれは行為の了承の合図。
『朱志香……』
『優しく……してね……?』
『かしこまりました』
優しく微笑んで、嘉音は朱志香の首筋に唇を這わせた。
「お慕いしています……朱志香……」
先ほどの朱志香の写真を抱きしめて感じ入っている嘉音の後ろでは、ベアトリーチェが呆れた顔をしてちょうど入ってきた紗音に声を掛けていた。
「お、紗音~。この暇人なんとかしろ。妾ではこいつの妄想についていけん」
「あ、ベアトリーチェ様。嘉音くん、前からこうなんです。ほら嘉音くん、お嬢様にお洗濯ものお届けしてきて」
紗音は嘉音の肩をぽんぽんと叩くと、朱志香の写真を取り上げて代わりに洗濯物一式を持たせた。嘉音はしばし洗濯物と見つめ合った後、こくんと素直に頷く。
「これ、全部お嬢様の……?」
「そうよ」
「量が多いようには見えんが?」
「じゃあこれ、お嬢様のハンカチ?」
「そうよ」
「そっち!?」
魔女のツッコミを無視して、嘉音は洗濯物に頬ずりをする。それから鼻の下がのびているだらしない表情をきりりと引き締めると、使用人室を出た。
なんと言ってもこれから朱志香の部屋に行くのだ。だらしない顔をして会うわけにはいかない。いつも通りクールに、かつ紳士的に振る舞うのだ。
こんこん、とドアをノックする。
「は~い。入って良いよ」
中から朱志香の元気の良い声が聞こえる。入って良いとのことなのでドアをあけて入る。
「お嬢様。お洗濯ものをお届けに上がりました」
「わ、か、嘉音くん!?」
彼女は入ってきたのが嘉音だと分かるとわたわたとそこらのものを片づけ始めた。もともと散らかっているわけでもないので片づけものはすぐ終わり、その辺に座っているように指示される。
「ごめんな、この問題だけ終わらせちゃうからちょっと待って」
「はい」
朱志香が問題集に向き直っている間に、嘉音はベッドに座って部屋の中を見回す。彼は男性だからこの部屋に入る頻度はそう多くない。そもそも女性の部屋に入る頻度自体が少ないのだが、朱志香の部屋は右代宮本家の令嬢らしい気品があると思う。
その部屋の主も普段は男勝りで言葉遣いこそ荒いが、正式な社交の場などでは気品あふれる令嬢の振る舞いをしているのではないか。彼はそういう場所に行ったことがないけれど、パーティーから帰ってきたときに夏妃が彼女に小言を言うことは滅多にない。強いて言えば男性への対処の仕方ぐらいか。
--お嬢様が男という名の危険な狼に誑かされないように……お嬢様は僕が守る!
どう考えても一番危険な狼は嘉音なのだが、彼は全く気付かない。ついでに言えば、朱志香も嘉音が自分を誑かそうとしている狼だとは気付いていなかった。
そうこうするうちに問題が解けたのか、彼女はぱたんと問題集を閉じるとこちらに向き直った。
「悪い悪い、ちょっと手が放せなかったもんだからさ……それで、ええと、せ、洗濯物だっけ?」
「はい。お届けに上がりました」
「届けに来てくれただけなのにごめんな……悪いことしちゃったぜ」
届けに来ただけだと思ったのか、朱志香は気まずそうに笑う。文化祭のことをもしかしたら引きずっているのかもしれない。
繊細な彼女のことだ。嘉音に迷惑を掛けてしまったとか、気まずくなってしまったとか後ろめたい想いも抱えているのだろう。
「いえ、僕はおじょ……じゃなかった、家具ですから」
本音を言いかけて、慌ててお決まりの台詞で繕う。朱志香がまた傷つくことに罪悪感を覚えながら、彼はそれ以外にどうすることも出来なかった。
いや、彼にもう少し勇気があれば本音を言えたのかもしれない。けれど、一度手酷く拒絶しておきながら恋心を告げることが彼女にどう思われるかが気になって、なかなか喉の奥から出すことが出来ない。
目の前の少女はいつもの太陽のような微笑みではなく、少し悲しげな微笑みを浮かべた。ずきりと胸が痛むのを感じる。
「……もう、家具ですから、ってところには何も言わない。……でも、一つだけ教えて」
「はい」
「家具ですから、の前。なんて言おうとしたの?」
真剣な瞳。その光に囚われて、逃げ道を失ってしまいそうだ。いや、逃げ道など本当はないのだ。
彼にあるのはただ、その思いを告げるのみ。
「お嬢様と……」
「……私と?」
「お嬢様と一秒でも長く一緒にいたいですから、と」
「……え?」
朱志香が呆気にとられたような顔になる。次いで、その可愛らしい顔がほのかに赤く染まった。
--そうだ、ここであのラブレターをお渡しして……あれ、無い!使用人室に忘れてきた!?
使用人室で先ほどまで書いてきたラブレターはどうやら忘れてきてしまったようだ。あれを渡しても嘉音の恋が実るかは怪しいところなのだが、彼はそんなことはお構いなしにどうしようと考える。
--どうしよう……僕が言葉で言うしかないのか?そうだ、言葉で言うしかない!
「……嘉音くん?」
「お嬢様!」
おずおずと嘉音の額に手を伸ばしてきた朱志香の肩を掴んで叫ぶ。
「は、はいぃっ!」
「す……すっ……」
「す?」
「す、好きです!」
その瞬間、朱志香の頬がまるでぽん、と音がしたかのように真っ赤に染まった。
「え……え!?す、好きって……その……友達としてとか、雇用者としてとか、そういう……意味……だよな……きっと」
真っ赤に染まった頬を鎮めるためなのか、彼女はきゅっと目を瞑ってふるふると首を横に振る。
「違います。お嬢様を……朱志香様を1人の女性としてお慕いしています!」
暫く呆然としていた朱志香の瞳が潤む。
「お気に障ったのならすみません……ですが僕はもう家具ではいられないんです!お嬢様のことを想うたびに人間になりたくなる、お嬢様と心おきなく愛し合いたいんです!」
「嘉音……くん……ありがと……私も……私も大好きだぜ!」
ぎゅっと抱きついてくる彼女の温かさに、彼は密かに言って良かった、と小さくガッツポーズをした。要するに感無量。
もうこの先、どんな魔女(ベアトリーチェ含む)が出てこようと、どんな悪魔が2人を引き裂かんとしようと、嘉音はずっと朱志香の傍にいる。それが2人の幸せへの近道なのだから。
このことが妄想ではなく事実だという幸せをかみしめながら。
洗濯物を無事に朱志香のクローゼット(少し中に入りたい、と思った)に仕舞い、使用人室に戻ってきた嘉音はゆっくりとドアを閉めた。
あたりに郷田やら郷田やら郷田がいないことを確認して叫ぶ。
「ぃやったぁぁぁぁぁぁ!」
「なんだ、騒々しい……」
「嘉音くん、どうしたの?お嬢様のお部屋の良い匂いにとうとう理性の糸でも切れちゃったの?」
なんだなんだとこちらに寄ってくる魔女と姉に早速報告してみる。
「お嬢様と結婚します」
「は?」
魔女はぽかんとして聞き返し、姉はあらあらと笑った。
「お嬢様に告白してきました。もう僕たちは夫婦も同然、式は大安吉日です!」
「プロポーズしたの?」
「え?」
「結婚してください、って言ったの?」
「え、姉さん、つき合うことになったらイコール結婚じゃないの?」
紗音は夏妃の機嫌の悪いときのように頭に手を当てると、ふぅ、と大きく溜息を吐いた。
「……あのね、嘉音くん。結婚するのは指輪をあげて結婚してください、って言わなきゃいけないのよ」
「お嬢様に、指輪……」
「嘉音くん?聞いてる?ちょっと、涎垂らさないで!もう!」
紗音の怒声をバックミュージックに、彼は朱志香にプロポーズする様を想像した。勿論紗音が譲治から受けたプロポーズを参考にしている。
『お嬢様……結婚してください』
薔薇園の東屋で朱志香にダイヤモンドの指輪を渡す。ベルベット地の箱の中に鎮座する美しい指輪に、彼女は瞳を潤ませた。
『嘉音くん……でも、その……いいの?』
『はい。これはお嬢様のお気持ちだけが頼りになりますから……それと、今ひとつ約束違反がありましたよ?』
優しくその大きな瞳をのぞき込むと、朱志香はぽん、と顔を赤くした。
『あ……』
『僕も2人きりの時は朱志香とお呼びします。ですから……』
きっとどこかで告げられるであろう彼の本名を、彼女は照れながらもしかし確実に紡いでくれる。
『よ……嘉哉くん……って呼ぶよ……わっ』
顔を赤く染めながらはにかむ恋人を抱きしめる。あまりにも可愛らしくて理性をつなぎ止めるのにも一苦労だ。
朱志香が愛おしい。
朱志香と共に生きていきたい。
もう自分が家具だからなんて関係ない。
きっとこの命は朱志香を愛するために生まれてきたのだから!
『愛しています。一生朱志香を大切にします。ですから、一晩良くお考えになって、明日の朝までに朱志香の返事を聞かせてください』
『嘉哉くん……』
『今僕がここであなたの左手の薬指に指輪を通すことも出来ます。しかしそれは朱志香の意思じゃない』
一度体を離して見つめ合う。耳まで赤く染まった顔に潤んだ瞳の朱志香が可愛らしい。彼女は切なそうに眉を寄せて嘉音の次の言葉を待つ。だから、彼は告げる。
『もし僕の求婚を受けてくださるのなら、この指輪をお好きな指に着けてください』
『う、うん……』
おずおずと朱志香は指輪に手を伸ばし、ゆっくりと彼女の左手の薬指に通した。それは間違いなく求婚を受け入れる合図。
『私も……嘉哉くんを幸せにする……ぜ……えへへ』
その照れた笑顔に愛しさを感じる。やっと手に入れられる彼の太陽を、嘉音は思い切り抱きしめた。
『朱志香……ありがとう……』
「……のう嘉音。お主それ、どこから出した?」
「……まだいたんですか。常に携帯していますよ」
自主規制が必要な妄想に浸っていた嘉音が出して抱きしめていたのは朱志香がプリントされたピローカバーだった。ビキニタイプの白い水着が良く映える素肌が眩しい。
「去年の某夏の祭典で買ってきたんですよ。私も譲治様のピローカバーを三枚ほど持っているんです」
嘉音の涎を綺麗に拭いていた紗音がにこにこととんでもないことを暴露する。そう、このピローカバー、譲治の友人や朱志香の同級生が自主的に作って売っていたものなのである。
嘉音と紗音は何回も一部の間からは祭典と呼ばれる盆と年末に開催される同人イベントに出ている。その形態は本(同人誌)を売るサークル参加と買い手にまわる一般参加と時によって違うが、毎回参加していることに代わりはない。
カタログを買って朱志香や譲治が描かれた本を探し、当日は始発で会場に行って目当てのものを買う。それは常に思いを確かめ合えない彼らがたどり着いた年に二回の癒しの時だった。
「……で、お主らはこのような本を書いていた、と……」
ベアトリーチェはじとりとした目になって二冊の本を取り出す。一冊はソファーで寝ている譲治に寄り添う紗音が描かれた本、もう一冊はピンク色の浴衣をしどけなくはだけて赤い顔をした朱志香が描かれた本。
「それ、私の『眠るあなたに愛を込めて』!」
「それ、僕の『お嬢様とらぶらぶ☆夏祭り』!」
2人がそれぞれの本のタイトルを叫ぶと、魔女は露骨にげんなりとした顔になった。
「……紗音はともかく、嘉音、そのタイトルはどうなんだ?ん?朱志香にこれを見せたらなんて言うかの」
「もっと僕を好きになってくれます!」
この同人誌を読んで、朱志香が嘉音に幻滅するはずはないと彼は確信している。どんなに痛々しくてもそれは彼の想像上の真実であり、魔女にも現実を告げることは出来なかった。
「妄想もほどほどにの」
休憩時間中、朱志香に会いに行くとそこには先客がいた。
「なんでいるんですか、ベアトリーチェ様」
「あ?妾がどこにいようが勝手であろう」
ベアトリーチェは至極面倒くさそうに吐き捨てると、それより、とベッドに座る朱志香に向き直る。彼女は困ったような顔をして、嘉音くんもこっちにおいでよと手招きした。可愛い。
「朱志香、お主、本当に嘉音でよいのか?」
「へ?え、な、なにが……?」
「人の恋路に介入するな!この詐欺師!」
魔女の質問によく分からないといった風に狼狽える朱志香。おろおろする彼女は十分に可愛いが、問題発言をして人の恋路を掻き回す魔女には抗議をするべきだ。
「くっつけてやろうと思った張本人の妾が言うのもなんだがな、こやつはとんだ変態だぞ」
「か、嘉音くんが変態って、どうしてまた……?」
「お嬢様、こんな詐欺師の言うことを聞いてはいけません!」
朱志香の耳を両手でふさぐと、彼女はまた不可解そうに首をかしげた。ところがベアトリーチェはぱちんと指を鳴らすと執事を呼び出す。
「お呼びでしょうか、ベアトリーチェ様」
「嘉音を縛っておけ。妾はこれから朱志香とガールズトークをするのだ」
「ガールズって年齢か!?」
「年齢に決まっておろうが!」
そうは見えないぞこの魔女が、と叫んだところで嘉音の意識は途絶えた。
次に目が覚めたとき、彼は柔らかで張りのある暖かなものを枕にしていた。それにそっと触れると、上の方からひゃあ、と小さな悲鳴が聞こえる。
「朱志香様……?」
「大丈夫?嘉音くん」
もう一度触れる。
「わっ……くすぐったいからよしてくれよ」
明るい笑い声。嘉音が枕にしていたのは朱志香の太股だったのである。
「も、申し訳ございません!……って、あれ、じぇ、朱志香様……そ、それは……」
彼女に向き合った彼は絶句した。なぜなら今の朱志香の格好はいつものブレザーにミニスカートではなかったからである。
彼女の美しい肢体を覆うのは紺色の伸縮性のある布。肩から先と脚が惜しげもなく晒され、胸元には『じぇしか』と書かれた白地の布が縫いつけてある衣装、つまりスクール水着である。いつものハイソックスはフリルの付いたニーソックスへと変貌を遂げている。ニーソックスにはガーターベルトが取り付けられ、水着の腰の辺りに装着されていた。それより何より目を引くのは、朱志香の頭から生えている白の猫耳と尻の辺りで揺れる同色の尻尾だった。彼女は顔を赤らめてはにかむ。
「ベアトリーチェが、嘉音くんの日頃の疲れはこうすれば癒せる、っていうから……」
「朱志香様……」
スタイルの良い朱志香の胸元はボディラインが丸見えになる水着によってその曲線美がさらに強調されており、ゼッケンに書かれた『じぇしか』の文字もゆがんで見える。さらに少々きついらしく生地の食い込みに顔をゆがめる様も扇情的に映る。まじまじと見つめられて恥ずかしいのだろう、彼女の頬は真っ赤に染まり、そろそろと腕を上げ掛けてはしかし嘉音を癒したいという願望故か降ろすことを繰り返している。
「で、でも、この水着、ちょっときついんだよね……はは……」
「その猫耳と尻尾は……」
「魔女様が魔法で……なんか癒されたら戻るらしいぜ」
照れたようにぴょこぴょこと動く耳。ゆらゆらと揺れる尻尾。触りたい。撫でたい。
「朱志香様……」
「ん?」
「良くお似合いです」
「あ、ありがとな……」
ふらふらと手が耳に触れる。ふにふにと触っていると、朱志香が照れたように笑う。
「そんなに触られるとくすぐったいよ」
「気持ちいいですか?」
「ん……どうだろう……気持ちいい、のかな……?」
「では、こちらはどうですか?」
耳から手を離して尻尾を握る。
「にゃうんっ!……え!?」
彼女はびっくりしたのか猫のような悲鳴を上げる。そして、一瞬後に何を口走ったのかと唖然とした。
「お可愛らしいです」
そう言いながら尻尾を撫でさすってみる。この間の祭典で買い込んだ朱志香に猫耳と尻尾が生えた本(勿論年齢制限付きだったのでたまたま同行していた譲治に頼みこんで買ってきてもらった)では尻尾を握ったり撫でたりすると、彼女が可愛らしく鳴いたシーンがあった。が、嘉音が期待していたような自主規制が必要な反応はなく、朱志香は困ったように尻尾と嘉音を見比べているだけだった。
「朱志香様?」
「あ、あぁ、ごめん……尻尾、そんなに気持ちいい?」
「え?」
確かに触った感じはとても柔らかな毛並みで、ふわふわしていて気持ちが良い。しかし朱志香は小刻みに震えており、見せておく必要の無くなった二の腕をさすっていた。
「朱志香様……もしかしてお寒いのですか?」
「あ、あはは……ちょっと、この季節にこれは……くしゅん!」
現在は夏も終わりに近づいた季節である。まだ水着の出番は終わっていないと主張すればそれまでだが、さすがに夕方にこれは寒いだろう。くわえて冷房の効いた部屋である。このままでは風邪を引くのも時間の問題だろう。上着を着せなければとブレザーを探すが見あたらない。
「朱志香様、あの、今日のお召し物は……?」
「あ……ベアトリーチェに魔法で変えられたから……持って行かれた、かも」
あの変人魔女、と嘉音は心の中で毒づく。しかし優先すべきは朱志香を暖めることだ。クローゼットから出しても良いが、冷えた上着を着せるわけにはいかない。そのとき、嘉音の頭の中で電球が光ったような気がした。
「失礼します」
「え……え!?」
ぎゅっと抱きしめて、ベッドにそっと押し倒す。何度も何度も夢を見て、イメージトレーニング(という名の妄想)してきたことだ。
朱志香はわたわたと顔を赤くして慌てている。その仕草もまた可愛い。
「お体が暖まるまで、僕があなたの布団になります」
「ええええ!?」
だがしかし、布団になりきれるかどうかは不安があった。しつこいようだが現在の朱志香はサイズの合わないスクール水着姿。ボディラインが強調され、向かい合わせに抱きしめて押し倒す体勢だと胸が自然と当たってしまうのである。加えて彼女の髪から漂う良い匂いが嘉音を酔わせる。朱志香もそれに気付いたらしく、自らの手のひらで胸の辺りを覆う仕草をして真っ赤になった顔を背けた。
「か、嘉音くん……ダメだよ、そんな……嘉音くんが風邪、引いちゃう」
「大丈夫です。朱志香様がお風邪を召されたら、僕は心配で仕事が手に付きません」
「あ……そ、そんな……」
2人の視線が絡み合う。潤んでかすかに揺らめく瞳。その瞳に魅せられて、つい顔を近づける。
「か、嘉音、くん……?」
「朱志香様……」
そして、唇が近づいて。
「失礼します。お食事のご用意が整いました……って……」
ノックの後にドアが開かれた。ぱっと2人同時に離れて振り向けば紗音がいる。
「ね、ねねねねねね姉さん!?」
「しゃ、紗音!?」
「え~と……うん、嘉音くん、私お嬢様のお着替えを手伝ってから行くから先に行ってて」
少し固まった後、紗音はにっこり笑って食堂のほうを示す。
「ぼ、僕がお嬢様にお着替えさせるから!」
「だめ。お嬢様がお着替えできなくなっちゃうでしょ?」
「しゃ、紗音」
「はい、お嬢様」
「あの、ベアトリーチェが、その、嘉音くんが変態だとかなんだとか言ってたんだけど……それと私が着替えられなくなるのと、何か理由があるのか?」
胸元を押さえた朱志香が尋ねる。
「はい。お嬢様のお着替えがお着替えにならなくなります。例えばですね……」
紗音は朱志香の耳元に何かを囁いた。途端に彼女が真っ赤になる。
「え、で、でも、その……嘉音くんは、もっと紳士だったぜ?」
「いいえお嬢様、騙されてはいけません」
紳士、という単語からおそらく嘉音についてまともな情報が伝わっていないことを悟る。さらに朱志香に変なことを吹き込むつもりの姉に嘉音は怒鳴った。
「姉さん!どうしてそう僕を変質者扱いするの!?」
「だって本当のことじゃない。お嬢様のシャツの匂い、嗅いでたでしょ?それに嘉音くん、この間の使用人の自室を含む使用人室の総点検の時に嘉音くんの部屋からお嬢様の下着が出てきたよね?」
「か、嘉音くん……あの、わ、私……その……」
耳はぴょこぴょこ、尻尾はゆらゆら。困ったような真っ赤な顔で、朱志香はこちらを見つめてくる。なんて可愛らしい。だが、その視線はもしかしたら嘉音を責めるものなのかもしれない。あるいは、彼と恋人になったことを後悔しているのか。絶望的な気分で朱志香に縋る。
「じぇ、朱志香様、あの、その、違うんです、これは……」
「えっと……嘉音くんが、望むんなら……いいよ?ちゃんと返してくれれば……」
真っ赤な頬で、困ったような顔で、蚊の鳴くような声で囁かれた言葉は、しっかりと嘉音の耳に届いた。後光が見える。可愛い。
「朱志香様!」
思いあまって彼女の身体を抱きしめる。これからはちゃんと返そうと嘉音は心に誓った。
お嬢様、嗚呼お嬢様、お嬢様。
僕はあなたのことを愛しています。世界で一番大事な人。
例え茨の道が待っていようと、必ずや幸せにして見せます!
だってこの世界はお嬢様を中心にまわっている。
「お嬢様の前では万物が背景になってもぶっ!」
ごん、と鈍い音がして振り向けば、紗音が六法全書と書かれた分厚い本を持って笑顔で立っていた。
「ね、姉さん……?」
「嘉音くん?万物に譲治様や私は含まれるのかなぁ?」
「え、当たり前じゃn……」
紗音の顔が一瞬にして恐ろしい顔へと変わる。そう、それはまるで文化祭で入ったお化け屋敷の……。
「よくも私たちを背景扱いしてくれたわねぇぇぇぇぇぇぇ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
魔女の棋譜
使用人・嘉音
事件前に死亡?
死因は不明。おそらく傍に落ちていた六法全書を受けてのものだと思われる。
ダイイング・メッセージによると「朱志香様、結婚してください」とのこと。
「誰が鬼の形相ですって?」(by紗音)