ここは「花待館」の別館となっています。非公式で「うみねこのなく頃に」「テイルズオブエクシリア」「ファイナルファンタジー(13・零式)」「刀剣乱舞」の二次創作SSを掲載しています。
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お久しぶりです。スパークではありがとうございました。
さて、明日の閃華の刻9にサークル参加いたします。とうらぶでは初だ……!
サークル名:胡蝶苑
スペース:東7ホール キ57b
頒布物
新刊:蜜柑の檻、永久の愛(燭台切光忠×歌仙兼定)全年齢/68P/600円
燭台切は顕現したその日に、歌仙が他の刀剣男士と親しくしていることが嫌だという気持ちを持つ。しかしその気持ちをあってはならないものだと押し込めているうちに、歌仙が謎の体調不良に倒れてしまう。ついには昏睡状態に陥った歌仙を目覚めさせるため、燭台切は彼の部屋に日参するが、さらなる異変が起こる……。
既刊:歌仙が女給に着替えたら(歌仙兼定中心、燭台切・小夜・和泉守・鶴丸の出番が多いです)
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定。小夜左文字や燭台切光忠には大変だねぇと同情されたが、鶴丸国永が『喫茶店の真似事をやろう』と言い出す。いったんはやらないと言い置いた歌仙だが、へし切長谷部や和泉守兼定は乗り気になっていた。やるのならば厨に引きこもる、笑い者になるのは嫌だと主張する歌仙に、鶴丸たちは……。
さて、明日の閃華の刻9にサークル参加いたします。とうらぶでは初だ……!
サークル名:胡蝶苑
スペース:東7ホール キ57b
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新刊:蜜柑の檻、永久の愛(燭台切光忠×歌仙兼定)全年齢/68P/600円
燭台切は顕現したその日に、歌仙が他の刀剣男士と親しくしていることが嫌だという気持ちを持つ。しかしその気持ちをあってはならないものだと押し込めているうちに、歌仙が謎の体調不良に倒れてしまう。ついには昏睡状態に陥った歌仙を目覚めさせるため、燭台切は彼の部屋に日参するが、さらなる異変が起こる……。
既刊:歌仙が女給に着替えたら(歌仙兼定中心、燭台切・小夜・和泉守・鶴丸の出番が多いです)
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定。小夜左文字や燭台切光忠には大変だねぇと同情されたが、鶴丸国永が『喫茶店の真似事をやろう』と言い出す。いったんはやらないと言い置いた歌仙だが、へし切長谷部や和泉守兼定は乗り気になっていた。やるのならば厨に引きこもる、笑い者になるのは嫌だと主張する歌仙に、鶴丸たちは……。
夏コミで発行予定の『歌仙が女給に着替えたら』のWEB版になります。
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
いい返事を待っている、とも必ずやってくれよ、とも言わずに、彼は力強く頷いて部屋を出ていった。誰もいなくなった部屋で歌仙は一人、天井を仰ぐ。
女給の……ウエイトレスの真似事など、したことがない。確かに文明開化の頃から喫茶店を覗いたことはある。大元の本体を所蔵している家の近くをふらふらして、気に入った場所に遊びに行った。だが、当時気になっていたのは珈琲なる黒い液体の正体と色とりどりに美味しそうな甘味の、目を楽しませる美しさだけだった。だから今の歌仙の格好をした女給の存在は知っていても、所作など何一つわからない。どうしよう、と後ろに倒れると、藺草の匂いが微かに香る。
(主に言い訳して怒られるのは構わない)
審神者の代わりに本丸を切り盛りしている者として、仲間の不手際で怒られるのは近侍の務めというものだ。それはまだ耐えられる。後でしっかり不手際を起こした者を長谷部と共に指導すればいいだけの話だ。……相手の機嫌を損ねるなど関係ない。
(だが……)
ああは言われたものの、やはり踏ん切りがつかないのだ。近侍としての面子、文系名刀としてのプライドもあるし、それ以外にも翌日の食材の心配など懸念点は尽きない。
(どうしたらいいんだ……)
目を閉じても暗闇が訪れるばかりで、何も解決にはならなかった。ため息を吐いて目を開ける。天井は相変わらずの木目が並んでいるだけだ。
(人見知りなんて、今まで困ることもなかったのに……今さら困るなんて)
今朝がたの鶴丸の言葉を思い出す。
『引き籠らずにもっと交流を温めたほうがいい』
どうしてあんなことを言ったのか。第三部隊の隊長である鶴丸とは戦事に関してはよく話す。それだけだと思っていたのだが、どうも向こうは違うらしい。伊達家にいた時分に細川家から遊びに来た歌仙を見かけたというのだ。そういえば燭台切と話しているときにちらちらと白い着物を見かけたかもしれない。話し掛けられなかったのか、燭台切の話を優先したのかは忘れてしまったが、伊達家に遊びに行っていた時代はだいたい燭台切と話していて、他の刀とはあまり話したこともなかった。
(やっぱり、もう少し話したほうがいいのだろうけれど……)
うぅんと唸っていれば、都合よく人の気配がする。一人だけだ。ぼんやりとそちらに目をやると、人影がすっと屈んだ。
「歌仙、今いいか?」
障子の外に見えた影が、そう声を出す。人影の体型を考慮すれば声の主は鶴丸らしい。どうぞ、と頷けば、障子がすらりと開いて、真っ白な成りをした男がするりと入室した。
「主とは連絡ついたか?」
「いや、今日一日はつかないはずだよ。だから、取ってない」
「まぁ、お前さんが近侍だからそうなんだろうなぁ……」
金色の眼が遠く細められる。どういうことなんだろうと首を傾げる。
「ご不満かい?」
「いや。主は初期刀のお前を特別信頼しているんだなと」
「まぁ、僕は文系名刀だからね」
鶴丸ははは、と面白そうに笑って、確かにそうだなと頷いた。
「ところで、喫茶店のことだけれど。主には何て言うつもりだい? ……そもそも君たち沢山食べるだろう? 本丸の食材が底をついたら、言い訳のしようもないよ?」
あの審神者が、本丸に備蓄してある食材が尽きたくらいで怒るとは思えない。だが、歌仙兼定という刀を特別溺愛する審神者は、歌仙が食べるものがなにもないと知った瞬間に無駄に高い宅配食を全員分手配するに違いない。本丸全員分手配してくれるのはありがたいのだが、如何せん味の割に値段が高い。そういう無駄なことは避けたいのだが、と鶴丸を見ると、そういえば、と少しだけ青ざめている。
「怒りはしないと思うよ?」
「それは知ってる」
「お高い宅配食が出てくるだけで」
「出てくるのか」
「全員分ね」
「美味いのか?」
それなりだよ、と答えれば、やっぱりそうかと返ってくる。そういえば鶴丸が招かれてからそういうことはなかったかと思い出す。
「多分、喫茶店の真似事なんてやろうものなら明日はそれなりの味の……むしろ値段の割が取れない宅配食で過ごすことになるだろうね」
どうせ畑当番の耕す畑の作物も、粗方とられてしまっているだろう。明日食べる分があるかどうかも怪しいのだ。
「ま、それも驚きかも知れんな」
「そうかい」
ああ、と答える鶴丸は大分男らしい。刀剣男士なのだから当然と言えば当然ではあるが。
「……それで、喫茶店の真似事に話を戻すけれど。どこまで準備している?」
「『簡単! 本丸カフェキット』とやらが格安で売っていたからそれを買ってみた。テーブルクロスも安いのを買ったし、後は手伝うって奴が寄付してくれたぜ。……ああ、光坊が伽羅坊にギャルソンの衣装を買わせていたな。あれは光坊の給料から引くのかい?」
「主次第ではあるけれど、大倶利伽羅が希望しない限りはそうだろうね。燭台切が指示して買わせたというのなら、なおさらだ。そもそも長谷部が許可を出さないだろう」
「俺は買わなくて正解だったな」
「本当にね」
くすりと笑えば、だろう、と鶴丸も笑う。
「賢明だった。でもまぁ、あいつなりに歌仙と話してみたいんだよ。光坊と同じ政宗公のところにいた刀ではあるし、話が合うか合わないかは別として、な」
「……そう、かい」
お茶でも飲むかい、なんて気軽に言う機会を逸してしまったなと頭の片隅でちらりと思った。
「さっき、和泉守が来たよ。長谷部が喫茶店に乗り気なのも、君が話したのも教えてくれた。……外堀から埋めようということかい?」
「そうとも言うな」
「そうとしか言わないんじゃないか……?」
いやいや違う、と鶴丸は悪戯っぽく目を光らせる。ため息を吐いて、勝手に茶を出してしまうことにした。このまま茶も進めないのでは之定の名が廃る。
「……まあ今お茶を入れるよ。飲みながら話を聞こうか」
「あぁ、すまんな。……よかったらこれ、光坊の最新作らしいんだが」
そう鶴丸が出してきたのは真っ白で柔らかそうな食べ物を乗せた皿だった。ふるふると揺れる白い物体の上には、南国を思わせる黄色いとろりとしたソースと小さく切られた果実が乗っている。
「ぷりん、だと。……うまく行ったら喫茶店のメニューにも加えたいらしいぞ」
「君たちねぇ……」
何を言っても本当に効かないんだから、とため息をつけば、まあまあと頭を撫でられた。その白く細い手から逃れるように僅かに身体を動かして急須を手に取る。和泉守に出したものと同じように氷をほうり込んだ湯呑に茶を注ぐ。ぴしぴしと氷にひびの入る音を聞きながら、和泉守にもらった饅頭を取り出す。優しい後代には後で誤っておこう。
「これ、和泉守がくれたものだけど。良ければ」
そう言って差し出せば、鶴丸は早速白い紙と柔らかな包み紙を剥ぎ取りにかかる。
「お、すまんな。饅頭か?」
「ああ。和泉守の本霊が宿る場所の近くの名産品らしいよ」
「へぇ。おお、こりゃあ美味そうだ」
頂きます、と豪快に口を開けて、鶴丸は饅頭の三分の一程を齧り取る。顔を綻ばせたところを見れば分かる。美味いのだろう。実際この饅頭は美味い。しっとりした、少し硬めの饅頭の生地にほろほろとろりと口の中で蕩ける白あんの後味はすっきりとしている。
「ん、栗が入っているのか! しかもでかい! 手が込んでるなぁ!」
大振りの栗と柔らかな白あんの風味。栗も砂糖で甘露煮にしてあるらしく、舌触りの割には柔らかい。うまいうまいとぱくぱく食べる鶴丸を横目に、歌仙も燭台切特製のプリンに匙を入れる。まずは白い場所からだ。普段食べるものよりも柔らかい。しかし寒天のようにくしゃりと潰れるのではなく、確かな重さを持って匙に乗る。
「いただきます」
少しの振動でもふるふると揺れるプリンをそっと口の中に入れる。
「……!」
流石は燭台切だ、と思う。おそらくこれは牛乳プリンだ。バニラエッセンスを使ったのか、アイスクリームのような匂いが鼻腔を満たす。しっかり噛めばドロドロに溶けてしまうプリンは、しかし強烈な甘味ではない。後を引く甘さでもなく、物足りない甘さでもなく、質量を持って喉を通り、胃の腑に落ちる甘さだ。だが、少々くどい。さて、と黄色いソースを匙の端で掬いとり、ぺろりと舐める。先ほどの少々くどいプリンとは違って甘酸っぱい。
「この味はマンゴー、だね」
「お、そうなのか?」
「ああ。ただ、上に乗っているやつは買ったはいいものの対処に困って、この間甘露煮にしていたやつだと思うけれど」
まぁ、だからこそこういう生菓子に利用してしまおうと思ったのかもしれないが。ソースのほうは大方切り損ねた生の果実をフードプロセッサーで砕いたものだろう。
「で、餡が酸っぱいことを考慮して、プリンをくどい甘さにしたんだろうね」
芸の細かいことだ、と普段自分が菓子を作るときのことを棚に上げてため息を吐く。ソース……餡とプリンを一緒に口に入れれば、酸味がうまく甘味と混ざり合って、ちょうどいい甘さへと仕上げてくれている。
「出せばいいんじゃないかい?」
美味しいよ、と感想を漏らせば、鶴丸は満足げに饅頭を全て口の中に放り込んだ。うまうまと咀嚼して、ほろ苦い茶で甘くなった舌を締める。歌仙もプリンと柔らかいマンゴーをゆっくり咀嚼し、最後の一欠片まで飲み下す。茶を飲めばやはり甘くなった口の中がすっきりするような気がした。
「……ところがどっこい、これを出すのには条件があってだな」
「は? 条件?」
どうやらあの伊達男は何か企んでいるらしい。歌仙には心当たりがあった。今ほぼやることになっている、歌仙の頭を悩ませるあのことである。
「歌仙が女給をやるんなら出すらしい」
「へ、へぇ……」
それだけ言って、やはりと歌仙は溜め息をついた。もうほぼ決まったようなものだ。ならばと厨に入りびたりになろうと思ったのだが、この条件では些か分が悪い。新作の甘味などこの本丸の全員が楽しみにしていることを取引条件に付けるなんて、昔よく遊んでいた身としては悲しい。
「厨に詰めているのじゃダメなのかい?」
「だめだな」
鶴丸にしては珍しくきっぱりと言い切った。
「これは歌仙、お前さんのためでもある。……何を話せばいいのかわからなくて困ってるんだろう? 話が合わないって気にしてるんだろ? 主の陰謀の結果がその着物だったとして、それなら積極的に話のタネにしていったほうがいい」
「そういうものかい」
「ああ」
そういうものだ、と鶴丸は言う。
「……童子の時ならば女装も少しは似合っていただろうにね」
「今も似合ってるぜ?」
「君は僕の小さい頃を知っているからだろう。伊達の屋敷に遊びに行っていたときはまだ童子だったんだ。……でも今はもう、大人の男の姿だ。日常的に着ている者ならいいが、他の者から見ればちょっとこれはきついだろう」
だが、彼は歌仙が大人の成りか童子の成りかは問題ではないと言う。
「単純に色目が合ってるんだよ。主もなかなかいい仕事するじゃねぇか。ずっと歌仙と一緒にいて、目利きの腕も上がってきたかねぇ」
その様はどこか嬉しそうだったが、歌仙は頷くことが出来なかった。
「……主は、目利きが必要なものは今でも僕を呼ぶんだ。分からない、助けてって。でも、今回は呼ばれなかった。その挙句にこれだ。いい着物ではあるのだけれど、これでは女装だ。……実際、主は何がしたかったんだろう」
「お前さんの羞恥に震える姿を見ることでないのは確かだな。……見て喜びたかったんだろうな。お前さんがたとえ女給の真似事でも、主の気に入りの着物を着て、他の男士たちと仲睦まじくしているさまが見たいんだろうよ」
「そういう、ものか」
そうかもしれない、とふと思う。小夜左文字が本丸にやってきた日、歌仙は素直に嬉しいと思ったし、招いてくれた審神者にも感謝した。食事を摂って僅かに口元をほころばせている姿や、戦事以外で小夜が他の刀剣男士に心を開いているのを見た時、安心した。幼い日に兄と慕った付喪神が、刀剣男士の姿を得て他の男士とぎこちなくとも話すことが出来ている。それがたまらなく嬉しくて、けれども自分より先を歩いている小夜にどうしようもなく寂しかったのを覚えている。
「……光坊だって、同じだと思うぜ? あいつはお前さんの人見知りを知っている。伽羅坊と慣れ合うようにそう簡単にお前さんの心の中に踏み入れるわけじゃないと分かっている。……だからこんな条件を付けたんじゃないか? いろんな運命を経て再びめぐり合って、偶然にも同じ厨番だ。主の陰謀を利用して、俺や伽羅坊や、他の男士ともこの際に仲良くしてみちゃあどうかって、提案してるのさ」
「それは……初めて聞いたね」
それでも、と言いよどむ。こんな時に、先ほどの和泉守の言葉を思い出した。
『本丸の案内はしてくれたのに、あとは話し掛けにも来ねえ。……もしかして一人でいる方が好きなのかとも思ったが……オレが話し掛けてみたくて、よ』
確かにすべての刀に本丸の案内をするのは歌仙だった。だが、それだけなのだ。一人でいることが苦痛になる性分ではないし、逆に話が合わなければ共にいることもつらくなる性分である。
けれどもこれから仲間として共にやっていくのに、本丸の案内だけではダメだろうと思うのだ。そうは思っていても……昔からの性分を変えるのはなかなか難しいだけで。
「なにか、心当たりがあるのか?」
「話をね、しようと思ったんだ。でもどういう刀なのか、何が好きなのかもわからない。……話が合わないかもしれないと思うと、ね。……はは、之定ともあろうものがこの様だ。和歌(うた)も戦も独りではできないと分かっているのに、僕は文系名刀なのに、言葉が出てこなくなる。本当に、どうしたらいいかわからない」
「……今まで、辛かったかい?」
鶴丸が歌仙の顔を覗き込む。少しね、と歌仙は小さな声でつぶやいた。
「お小夜が来た日は、嬉しかったよ。燭台切が来た日ももちろん。……言ってはいないけれど、ね」
そうかと大分年嵩の男は淡い笑みを浮かべる。
「それに鶴丸、君が来た日も。……主は君が来るのを心待ちにしていたみたいだから」
この本丸が始まった日から鶴丸国永を迎えるために歌仙は奔走した。どうも審神者募集の広告か何かで鶴丸を見かけたことが切っ掛けで審神者職の試験を受けたらしいからだ。進軍がゆっくりとした調子だったから、日に何度も鍛刀を行った。その甲斐あって鶴丸が本丸に招かれて、審神者が喜んでいるのを見て、自分の役目は終わったと晴れ晴れとした気持ちで近侍の任を鶴丸にと進言したことがあった。
「まぁ、進言しに行った瞬間に足元に纏わりつかれてこの有り様だけれどね」
政府にはそろそろ審神者の躾け講習会でも近侍向けに開いてほしいところだ。……一定数需要はあると思うが、まさか躾のなっていない審神者はこの本丸だけなのだろうか。
「はは、大変だなぁ」
本当にね、とまた一口、茶を啜る。よしよしとカチューシャを外して頭を撫でまわされて、目を細める。なんだか細川の屋敷に戻ったような心地にすらなる。
「……なんだか昔みたいだ」
心の奥の柔らかい部分を優しく包まれるような、真綿のような記憶。甘えたい放題甘えていいような図体ではもうないのに、際限なく身を委ねてしまいそうになる。ふと目を開けると、優しく蕩ける金色の瞳とかち合った。
「君が童子の姿の時に、こうやってうりうり甘やかしてやりたかったなぁ」
「もう戻らないと思うよ」
細川の屋敷で聞いたことだが、付喪神は始め三つか四つほどの童子の姿で現れ、ゆっくりと時間をかけて相応しい姿になる。その後はなにかとんでもないことが起こらない限りは着るもの以外は変わらない。それは分霊として現れても本霊の成長具合と同じ姿で生み出されるそうだ。ただし妖怪として紹介されることもあるとはいえ神であることに変わりはないから、性別ぐらいは好きに変えられるらしいが、それもなかなか骨が折れるらしい。
「……今の身体で女人に変わることはできると思うかい?」
「人の身だからなぁ……よし、今夜酔っぱらってやってみるか」
翌朝起きたら鶴丸国永が女人になっていた、なんて審神者が聞いたらおそらく喜んで卒倒するようなことは近侍として頷かない方がいいだろうな、と密かに思う。だが、……明日になっても着物が戻らない場合、試してみなければならないだろう。
「主に卒倒されたら介抱は任せるよ?」
「それは俺がまいた種だからな。刀剣男士だからな、責任は持つぜ」
持ってくれたまえとふんぞり返ろうかとも思ったが、頭を撫でられているために胸を張ることが難しい。顔面に他人の手のひらが当たる感触があまり好きではないからだ。
「僕はこの着物を着続けるのであれば、これに合わせて女の身になるべきかと思っただけだよ」
「主が嬉しすぎて卒倒するだろ」
「手荒く介抱してやろうじゃないか」
元はと言えばアレが諸悪の根源だと息巻いてやれば、鶴丸は堪え切れないように噴出した。
「なんだい」
「……っはは、流石は最上大業物だ。まったく淑やかなことを言ったかと思えば。物騒だねぇ」
「物騒かい?」
普段の酔っぱらいを介抱するより少し手荒いぐらいのつもりだから、中々甲斐甲斐しいと思う。どうせ一日介抱すれば満足するだろうから、その日の晩に着物を返して貰えばいい話だ。
「まあな。……長谷部にはどれくらい話せる?」
「何故長谷部?」
「近侍補佐みたいなもんだろ? それに昔から知った仲じゃなかったか?」
間違ってはいない。その昔細川忠興が織田信長の嫡男・信忠に仕えていた時代にまだ年若い主にくっついて、幼い歌仙も出仕していたような気がする。その記憶が人の手で作られたものだったか、確かな事実だったのかはもう思い出せないし、そもそも後の世で文献を検めたところによれば、歌仙兼定という刀がいつ細川家に渡ってきたかも明らかになっていなかった。実際あの時代のはっきりとした記憶は長谷部をはじめとする織田の刀と何度か話したことがあることぐらいしかない。ついでに言えば、今取っている青年の姿になったのは実は小夜左文字が細川家から売られてしまってからのことである。
「元主が仕えていたのは信忠様のほうだったと思うけれど……うん、確かに何度か話したことはある、気がする」
「ふんふん」
「でも、個人的なことはあんまり話さない……かな。近侍の仕事も多いし、話している暇はないし」
僕も長谷部も出陣あるし、と続けると、長谷部の所属する第三部隊の隊長である鶴丸はそうだなぁと頷く。第一部隊に次ぐレベル帯の第三部隊は、遠征仕事も多い。ついでに近侍の仕事は審神者の業務ほどでもないけれども多いし、ほとんどが書類仕事だから、余計なことを話している暇はあまりないのだ。
「だから、長谷部が黒田に下賜されていたからといって話さないわけではないんだ。ただ、話す時間があまりないし、……黒田にいる間に向こうは僕にあまりいい感情を抱いていないかもしれない。だから」
「なるほどなぁ」
髪の毛をかき回していた細い手が離れる。そのまま幼子にするようにむにりと頬を摘む。
「まぁ、黒田細川の不仲は今の世にも伝わっているからなぁ……。ただ、見た限りではお前さんのこと、悪く思ってはいないだろうよ。朝のやり取りを見るに、ただただ懐かしいだけなんだろう。忘れられないほど慕った男に下げ渡した魔王の息子に仕えていた、小さな之定が一振りが、こんなに立派に……大きくなったんだからな」
嬉しくないわけがない、と細められた金色の眼はとろりと優しい。
「それは、嬉しいけれど。……笑い者にされるのだけは耐えがたいんだ」
「そうだなぁ。……だが、きっと、……」
暫く考えていたらしい鶴丸はうん、と頷くと、摘んだ頬をむにむにと引っ張る。
「ちょ、っと……痛いよ」
「……之定ともあろうものが、そんな弱音を吐くのかい?」
「……え」
僅かに低くなった声。快活な調子ではなく、まるで叱るような、諫めるような調子の色が乗っている。頬から手を放して刀掛けのほうへ歩いてゆき、鮫革の拵えも美しい一振りを手に取る。他人に自分自身を握られる感触に知らず、身体が震えた。
「誇り高い之定、最上大業物」
「……っ」
「三十六の首を切り落とした名刀が、人の目を気にするかい?」
当たり前だろう、と開きかけた口は、恐ろしいほどの気迫がこもった眼差しに射竦められる。
「ここで暮らすうちに鈍らになったか? これほどまでに美しい刀が、人の目に怯えて引き籠るのか? ……違うだろう。お前は……歌仙兼定は、実戦刀だ。美しさも実力も兼ね備えた、三十六も切り捨ててなお鈍らにならなかった業物だろう」
白い指が歌仙兼定自身を鞘から抜き放つ。切っ先を歌仙の目の前に向けられ、白昼の下に晒された白刃は、己の心がどうあれ今日も美しい。何度も何度も手入れをして、レベルも最大まで上がった。二代目兼定より生み出された、細川家の愛刀。
切っ先をつぅとなぞれば、自分自身だ、刺さることも、切れることもない。
「君は」
二人称が変わる。他の本丸ではどうだか分からないが、この本丸の鶴丸は気分で二人称がころころ変わる。歌仙の声を縛っていた気迫が僅かに和らぐ。
「人見知りなのは分かる。……だが、それがどうした? 同じ釜の飯を食う仲間だろう。好きなものの話でもふってやればいい。飯の話でもふってやれば、誰だって話しやすいだろう?」
「それで、……喫茶店、と?」
ああ、と気迫が完全に消えた。歌仙は白刃をぐっと掴んで引き寄せる。反対の手で柄を握り、鶴丸から返された鞘に納める。己自身を縋るように抱きしめて、金色の目を見つめる。
「ああ。そう言うことだ。……ま、酔っぱらいの相手は大変だと思うがな。そこは俺らも手伝うさ」
猫のように機嫌よく細められた眼差しに最早厳しさはなく、ただただ優しさだけが込められている。
(ああ、……敵わない)
やってもいいかなぁと思わされる。心の殻に入ったひびが、大きくなる。この刀には甘えてもいいのではないかと思わされる。それが悔しくて……でも、身体が震えるほどに嬉しい。唇から震える息が零れる。
「……勝手に、したまえ」
続く
女給の……ウエイトレスの真似事など、したことがない。確かに文明開化の頃から喫茶店を覗いたことはある。大元の本体を所蔵している家の近くをふらふらして、気に入った場所に遊びに行った。だが、当時気になっていたのは珈琲なる黒い液体の正体と色とりどりに美味しそうな甘味の、目を楽しませる美しさだけだった。だから今の歌仙の格好をした女給の存在は知っていても、所作など何一つわからない。どうしよう、と後ろに倒れると、藺草の匂いが微かに香る。
(主に言い訳して怒られるのは構わない)
審神者の代わりに本丸を切り盛りしている者として、仲間の不手際で怒られるのは近侍の務めというものだ。それはまだ耐えられる。後でしっかり不手際を起こした者を長谷部と共に指導すればいいだけの話だ。……相手の機嫌を損ねるなど関係ない。
(だが……)
ああは言われたものの、やはり踏ん切りがつかないのだ。近侍としての面子、文系名刀としてのプライドもあるし、それ以外にも翌日の食材の心配など懸念点は尽きない。
(どうしたらいいんだ……)
目を閉じても暗闇が訪れるばかりで、何も解決にはならなかった。ため息を吐いて目を開ける。天井は相変わらずの木目が並んでいるだけだ。
(人見知りなんて、今まで困ることもなかったのに……今さら困るなんて)
今朝がたの鶴丸の言葉を思い出す。
『引き籠らずにもっと交流を温めたほうがいい』
どうしてあんなことを言ったのか。第三部隊の隊長である鶴丸とは戦事に関してはよく話す。それだけだと思っていたのだが、どうも向こうは違うらしい。伊達家にいた時分に細川家から遊びに来た歌仙を見かけたというのだ。そういえば燭台切と話しているときにちらちらと白い着物を見かけたかもしれない。話し掛けられなかったのか、燭台切の話を優先したのかは忘れてしまったが、伊達家に遊びに行っていた時代はだいたい燭台切と話していて、他の刀とはあまり話したこともなかった。
(やっぱり、もう少し話したほうがいいのだろうけれど……)
うぅんと唸っていれば、都合よく人の気配がする。一人だけだ。ぼんやりとそちらに目をやると、人影がすっと屈んだ。
「歌仙、今いいか?」
障子の外に見えた影が、そう声を出す。人影の体型を考慮すれば声の主は鶴丸らしい。どうぞ、と頷けば、障子がすらりと開いて、真っ白な成りをした男がするりと入室した。
「主とは連絡ついたか?」
「いや、今日一日はつかないはずだよ。だから、取ってない」
「まぁ、お前さんが近侍だからそうなんだろうなぁ……」
金色の眼が遠く細められる。どういうことなんだろうと首を傾げる。
「ご不満かい?」
「いや。主は初期刀のお前を特別信頼しているんだなと」
「まぁ、僕は文系名刀だからね」
鶴丸ははは、と面白そうに笑って、確かにそうだなと頷いた。
「ところで、喫茶店のことだけれど。主には何て言うつもりだい? ……そもそも君たち沢山食べるだろう? 本丸の食材が底をついたら、言い訳のしようもないよ?」
あの審神者が、本丸に備蓄してある食材が尽きたくらいで怒るとは思えない。だが、歌仙兼定という刀を特別溺愛する審神者は、歌仙が食べるものがなにもないと知った瞬間に無駄に高い宅配食を全員分手配するに違いない。本丸全員分手配してくれるのはありがたいのだが、如何せん味の割に値段が高い。そういう無駄なことは避けたいのだが、と鶴丸を見ると、そういえば、と少しだけ青ざめている。
「怒りはしないと思うよ?」
「それは知ってる」
「お高い宅配食が出てくるだけで」
「出てくるのか」
「全員分ね」
「美味いのか?」
それなりだよ、と答えれば、やっぱりそうかと返ってくる。そういえば鶴丸が招かれてからそういうことはなかったかと思い出す。
「多分、喫茶店の真似事なんてやろうものなら明日はそれなりの味の……むしろ値段の割が取れない宅配食で過ごすことになるだろうね」
どうせ畑当番の耕す畑の作物も、粗方とられてしまっているだろう。明日食べる分があるかどうかも怪しいのだ。
「ま、それも驚きかも知れんな」
「そうかい」
ああ、と答える鶴丸は大分男らしい。刀剣男士なのだから当然と言えば当然ではあるが。
「……それで、喫茶店の真似事に話を戻すけれど。どこまで準備している?」
「『簡単! 本丸カフェキット』とやらが格安で売っていたからそれを買ってみた。テーブルクロスも安いのを買ったし、後は手伝うって奴が寄付してくれたぜ。……ああ、光坊が伽羅坊にギャルソンの衣装を買わせていたな。あれは光坊の給料から引くのかい?」
「主次第ではあるけれど、大倶利伽羅が希望しない限りはそうだろうね。燭台切が指示して買わせたというのなら、なおさらだ。そもそも長谷部が許可を出さないだろう」
「俺は買わなくて正解だったな」
「本当にね」
くすりと笑えば、だろう、と鶴丸も笑う。
「賢明だった。でもまぁ、あいつなりに歌仙と話してみたいんだよ。光坊と同じ政宗公のところにいた刀ではあるし、話が合うか合わないかは別として、な」
「……そう、かい」
お茶でも飲むかい、なんて気軽に言う機会を逸してしまったなと頭の片隅でちらりと思った。
「さっき、和泉守が来たよ。長谷部が喫茶店に乗り気なのも、君が話したのも教えてくれた。……外堀から埋めようということかい?」
「そうとも言うな」
「そうとしか言わないんじゃないか……?」
いやいや違う、と鶴丸は悪戯っぽく目を光らせる。ため息を吐いて、勝手に茶を出してしまうことにした。このまま茶も進めないのでは之定の名が廃る。
「……まあ今お茶を入れるよ。飲みながら話を聞こうか」
「あぁ、すまんな。……よかったらこれ、光坊の最新作らしいんだが」
そう鶴丸が出してきたのは真っ白で柔らかそうな食べ物を乗せた皿だった。ふるふると揺れる白い物体の上には、南国を思わせる黄色いとろりとしたソースと小さく切られた果実が乗っている。
「ぷりん、だと。……うまく行ったら喫茶店のメニューにも加えたいらしいぞ」
「君たちねぇ……」
何を言っても本当に効かないんだから、とため息をつけば、まあまあと頭を撫でられた。その白く細い手から逃れるように僅かに身体を動かして急須を手に取る。和泉守に出したものと同じように氷をほうり込んだ湯呑に茶を注ぐ。ぴしぴしと氷にひびの入る音を聞きながら、和泉守にもらった饅頭を取り出す。優しい後代には後で誤っておこう。
「これ、和泉守がくれたものだけど。良ければ」
そう言って差し出せば、鶴丸は早速白い紙と柔らかな包み紙を剥ぎ取りにかかる。
「お、すまんな。饅頭か?」
「ああ。和泉守の本霊が宿る場所の近くの名産品らしいよ」
「へぇ。おお、こりゃあ美味そうだ」
頂きます、と豪快に口を開けて、鶴丸は饅頭の三分の一程を齧り取る。顔を綻ばせたところを見れば分かる。美味いのだろう。実際この饅頭は美味い。しっとりした、少し硬めの饅頭の生地にほろほろとろりと口の中で蕩ける白あんの後味はすっきりとしている。
「ん、栗が入っているのか! しかもでかい! 手が込んでるなぁ!」
大振りの栗と柔らかな白あんの風味。栗も砂糖で甘露煮にしてあるらしく、舌触りの割には柔らかい。うまいうまいとぱくぱく食べる鶴丸を横目に、歌仙も燭台切特製のプリンに匙を入れる。まずは白い場所からだ。普段食べるものよりも柔らかい。しかし寒天のようにくしゃりと潰れるのではなく、確かな重さを持って匙に乗る。
「いただきます」
少しの振動でもふるふると揺れるプリンをそっと口の中に入れる。
「……!」
流石は燭台切だ、と思う。おそらくこれは牛乳プリンだ。バニラエッセンスを使ったのか、アイスクリームのような匂いが鼻腔を満たす。しっかり噛めばドロドロに溶けてしまうプリンは、しかし強烈な甘味ではない。後を引く甘さでもなく、物足りない甘さでもなく、質量を持って喉を通り、胃の腑に落ちる甘さだ。だが、少々くどい。さて、と黄色いソースを匙の端で掬いとり、ぺろりと舐める。先ほどの少々くどいプリンとは違って甘酸っぱい。
「この味はマンゴー、だね」
「お、そうなのか?」
「ああ。ただ、上に乗っているやつは買ったはいいものの対処に困って、この間甘露煮にしていたやつだと思うけれど」
まぁ、だからこそこういう生菓子に利用してしまおうと思ったのかもしれないが。ソースのほうは大方切り損ねた生の果実をフードプロセッサーで砕いたものだろう。
「で、餡が酸っぱいことを考慮して、プリンをくどい甘さにしたんだろうね」
芸の細かいことだ、と普段自分が菓子を作るときのことを棚に上げてため息を吐く。ソース……餡とプリンを一緒に口に入れれば、酸味がうまく甘味と混ざり合って、ちょうどいい甘さへと仕上げてくれている。
「出せばいいんじゃないかい?」
美味しいよ、と感想を漏らせば、鶴丸は満足げに饅頭を全て口の中に放り込んだ。うまうまと咀嚼して、ほろ苦い茶で甘くなった舌を締める。歌仙もプリンと柔らかいマンゴーをゆっくり咀嚼し、最後の一欠片まで飲み下す。茶を飲めばやはり甘くなった口の中がすっきりするような気がした。
「……ところがどっこい、これを出すのには条件があってだな」
「は? 条件?」
どうやらあの伊達男は何か企んでいるらしい。歌仙には心当たりがあった。今ほぼやることになっている、歌仙の頭を悩ませるあのことである。
「歌仙が女給をやるんなら出すらしい」
「へ、へぇ……」
それだけ言って、やはりと歌仙は溜め息をついた。もうほぼ決まったようなものだ。ならばと厨に入りびたりになろうと思ったのだが、この条件では些か分が悪い。新作の甘味などこの本丸の全員が楽しみにしていることを取引条件に付けるなんて、昔よく遊んでいた身としては悲しい。
「厨に詰めているのじゃダメなのかい?」
「だめだな」
鶴丸にしては珍しくきっぱりと言い切った。
「これは歌仙、お前さんのためでもある。……何を話せばいいのかわからなくて困ってるんだろう? 話が合わないって気にしてるんだろ? 主の陰謀の結果がその着物だったとして、それなら積極的に話のタネにしていったほうがいい」
「そういうものかい」
「ああ」
そういうものだ、と鶴丸は言う。
「……童子の時ならば女装も少しは似合っていただろうにね」
「今も似合ってるぜ?」
「君は僕の小さい頃を知っているからだろう。伊達の屋敷に遊びに行っていたときはまだ童子だったんだ。……でも今はもう、大人の男の姿だ。日常的に着ている者ならいいが、他の者から見ればちょっとこれはきついだろう」
だが、彼は歌仙が大人の成りか童子の成りかは問題ではないと言う。
「単純に色目が合ってるんだよ。主もなかなかいい仕事するじゃねぇか。ずっと歌仙と一緒にいて、目利きの腕も上がってきたかねぇ」
その様はどこか嬉しそうだったが、歌仙は頷くことが出来なかった。
「……主は、目利きが必要なものは今でも僕を呼ぶんだ。分からない、助けてって。でも、今回は呼ばれなかった。その挙句にこれだ。いい着物ではあるのだけれど、これでは女装だ。……実際、主は何がしたかったんだろう」
「お前さんの羞恥に震える姿を見ることでないのは確かだな。……見て喜びたかったんだろうな。お前さんがたとえ女給の真似事でも、主の気に入りの着物を着て、他の男士たちと仲睦まじくしているさまが見たいんだろうよ」
「そういう、ものか」
そうかもしれない、とふと思う。小夜左文字が本丸にやってきた日、歌仙は素直に嬉しいと思ったし、招いてくれた審神者にも感謝した。食事を摂って僅かに口元をほころばせている姿や、戦事以外で小夜が他の刀剣男士に心を開いているのを見た時、安心した。幼い日に兄と慕った付喪神が、刀剣男士の姿を得て他の男士とぎこちなくとも話すことが出来ている。それがたまらなく嬉しくて、けれども自分より先を歩いている小夜にどうしようもなく寂しかったのを覚えている。
「……光坊だって、同じだと思うぜ? あいつはお前さんの人見知りを知っている。伽羅坊と慣れ合うようにそう簡単にお前さんの心の中に踏み入れるわけじゃないと分かっている。……だからこんな条件を付けたんじゃないか? いろんな運命を経て再びめぐり合って、偶然にも同じ厨番だ。主の陰謀を利用して、俺や伽羅坊や、他の男士ともこの際に仲良くしてみちゃあどうかって、提案してるのさ」
「それは……初めて聞いたね」
それでも、と言いよどむ。こんな時に、先ほどの和泉守の言葉を思い出した。
『本丸の案内はしてくれたのに、あとは話し掛けにも来ねえ。……もしかして一人でいる方が好きなのかとも思ったが……オレが話し掛けてみたくて、よ』
確かにすべての刀に本丸の案内をするのは歌仙だった。だが、それだけなのだ。一人でいることが苦痛になる性分ではないし、逆に話が合わなければ共にいることもつらくなる性分である。
けれどもこれから仲間として共にやっていくのに、本丸の案内だけではダメだろうと思うのだ。そうは思っていても……昔からの性分を変えるのはなかなか難しいだけで。
「なにか、心当たりがあるのか?」
「話をね、しようと思ったんだ。でもどういう刀なのか、何が好きなのかもわからない。……話が合わないかもしれないと思うと、ね。……はは、之定ともあろうものがこの様だ。和歌(うた)も戦も独りではできないと分かっているのに、僕は文系名刀なのに、言葉が出てこなくなる。本当に、どうしたらいいかわからない」
「……今まで、辛かったかい?」
鶴丸が歌仙の顔を覗き込む。少しね、と歌仙は小さな声でつぶやいた。
「お小夜が来た日は、嬉しかったよ。燭台切が来た日ももちろん。……言ってはいないけれど、ね」
そうかと大分年嵩の男は淡い笑みを浮かべる。
「それに鶴丸、君が来た日も。……主は君が来るのを心待ちにしていたみたいだから」
この本丸が始まった日から鶴丸国永を迎えるために歌仙は奔走した。どうも審神者募集の広告か何かで鶴丸を見かけたことが切っ掛けで審神者職の試験を受けたらしいからだ。進軍がゆっくりとした調子だったから、日に何度も鍛刀を行った。その甲斐あって鶴丸が本丸に招かれて、審神者が喜んでいるのを見て、自分の役目は終わったと晴れ晴れとした気持ちで近侍の任を鶴丸にと進言したことがあった。
「まぁ、進言しに行った瞬間に足元に纏わりつかれてこの有り様だけれどね」
政府にはそろそろ審神者の躾け講習会でも近侍向けに開いてほしいところだ。……一定数需要はあると思うが、まさか躾のなっていない審神者はこの本丸だけなのだろうか。
「はは、大変だなぁ」
本当にね、とまた一口、茶を啜る。よしよしとカチューシャを外して頭を撫でまわされて、目を細める。なんだか細川の屋敷に戻ったような心地にすらなる。
「……なんだか昔みたいだ」
心の奥の柔らかい部分を優しく包まれるような、真綿のような記憶。甘えたい放題甘えていいような図体ではもうないのに、際限なく身を委ねてしまいそうになる。ふと目を開けると、優しく蕩ける金色の瞳とかち合った。
「君が童子の姿の時に、こうやってうりうり甘やかしてやりたかったなぁ」
「もう戻らないと思うよ」
細川の屋敷で聞いたことだが、付喪神は始め三つか四つほどの童子の姿で現れ、ゆっくりと時間をかけて相応しい姿になる。その後はなにかとんでもないことが起こらない限りは着るもの以外は変わらない。それは分霊として現れても本霊の成長具合と同じ姿で生み出されるそうだ。ただし妖怪として紹介されることもあるとはいえ神であることに変わりはないから、性別ぐらいは好きに変えられるらしいが、それもなかなか骨が折れるらしい。
「……今の身体で女人に変わることはできると思うかい?」
「人の身だからなぁ……よし、今夜酔っぱらってやってみるか」
翌朝起きたら鶴丸国永が女人になっていた、なんて審神者が聞いたらおそらく喜んで卒倒するようなことは近侍として頷かない方がいいだろうな、と密かに思う。だが、……明日になっても着物が戻らない場合、試してみなければならないだろう。
「主に卒倒されたら介抱は任せるよ?」
「それは俺がまいた種だからな。刀剣男士だからな、責任は持つぜ」
持ってくれたまえとふんぞり返ろうかとも思ったが、頭を撫でられているために胸を張ることが難しい。顔面に他人の手のひらが当たる感触があまり好きではないからだ。
「僕はこの着物を着続けるのであれば、これに合わせて女の身になるべきかと思っただけだよ」
「主が嬉しすぎて卒倒するだろ」
「手荒く介抱してやろうじゃないか」
元はと言えばアレが諸悪の根源だと息巻いてやれば、鶴丸は堪え切れないように噴出した。
「なんだい」
「……っはは、流石は最上大業物だ。まったく淑やかなことを言ったかと思えば。物騒だねぇ」
「物騒かい?」
普段の酔っぱらいを介抱するより少し手荒いぐらいのつもりだから、中々甲斐甲斐しいと思う。どうせ一日介抱すれば満足するだろうから、その日の晩に着物を返して貰えばいい話だ。
「まあな。……長谷部にはどれくらい話せる?」
「何故長谷部?」
「近侍補佐みたいなもんだろ? それに昔から知った仲じゃなかったか?」
間違ってはいない。その昔細川忠興が織田信長の嫡男・信忠に仕えていた時代にまだ年若い主にくっついて、幼い歌仙も出仕していたような気がする。その記憶が人の手で作られたものだったか、確かな事実だったのかはもう思い出せないし、そもそも後の世で文献を検めたところによれば、歌仙兼定という刀がいつ細川家に渡ってきたかも明らかになっていなかった。実際あの時代のはっきりとした記憶は長谷部をはじめとする織田の刀と何度か話したことがあることぐらいしかない。ついでに言えば、今取っている青年の姿になったのは実は小夜左文字が細川家から売られてしまってからのことである。
「元主が仕えていたのは信忠様のほうだったと思うけれど……うん、確かに何度か話したことはある、気がする」
「ふんふん」
「でも、個人的なことはあんまり話さない……かな。近侍の仕事も多いし、話している暇はないし」
僕も長谷部も出陣あるし、と続けると、長谷部の所属する第三部隊の隊長である鶴丸はそうだなぁと頷く。第一部隊に次ぐレベル帯の第三部隊は、遠征仕事も多い。ついでに近侍の仕事は審神者の業務ほどでもないけれども多いし、ほとんどが書類仕事だから、余計なことを話している暇はあまりないのだ。
「だから、長谷部が黒田に下賜されていたからといって話さないわけではないんだ。ただ、話す時間があまりないし、……黒田にいる間に向こうは僕にあまりいい感情を抱いていないかもしれない。だから」
「なるほどなぁ」
髪の毛をかき回していた細い手が離れる。そのまま幼子にするようにむにりと頬を摘む。
「まぁ、黒田細川の不仲は今の世にも伝わっているからなぁ……。ただ、見た限りではお前さんのこと、悪く思ってはいないだろうよ。朝のやり取りを見るに、ただただ懐かしいだけなんだろう。忘れられないほど慕った男に下げ渡した魔王の息子に仕えていた、小さな之定が一振りが、こんなに立派に……大きくなったんだからな」
嬉しくないわけがない、と細められた金色の眼はとろりと優しい。
「それは、嬉しいけれど。……笑い者にされるのだけは耐えがたいんだ」
「そうだなぁ。……だが、きっと、……」
暫く考えていたらしい鶴丸はうん、と頷くと、摘んだ頬をむにむにと引っ張る。
「ちょ、っと……痛いよ」
「……之定ともあろうものが、そんな弱音を吐くのかい?」
「……え」
僅かに低くなった声。快活な調子ではなく、まるで叱るような、諫めるような調子の色が乗っている。頬から手を放して刀掛けのほうへ歩いてゆき、鮫革の拵えも美しい一振りを手に取る。他人に自分自身を握られる感触に知らず、身体が震えた。
「誇り高い之定、最上大業物」
「……っ」
「三十六の首を切り落とした名刀が、人の目を気にするかい?」
当たり前だろう、と開きかけた口は、恐ろしいほどの気迫がこもった眼差しに射竦められる。
「ここで暮らすうちに鈍らになったか? これほどまでに美しい刀が、人の目に怯えて引き籠るのか? ……違うだろう。お前は……歌仙兼定は、実戦刀だ。美しさも実力も兼ね備えた、三十六も切り捨ててなお鈍らにならなかった業物だろう」
白い指が歌仙兼定自身を鞘から抜き放つ。切っ先を歌仙の目の前に向けられ、白昼の下に晒された白刃は、己の心がどうあれ今日も美しい。何度も何度も手入れをして、レベルも最大まで上がった。二代目兼定より生み出された、細川家の愛刀。
切っ先をつぅとなぞれば、自分自身だ、刺さることも、切れることもない。
「君は」
二人称が変わる。他の本丸ではどうだか分からないが、この本丸の鶴丸は気分で二人称がころころ変わる。歌仙の声を縛っていた気迫が僅かに和らぐ。
「人見知りなのは分かる。……だが、それがどうした? 同じ釜の飯を食う仲間だろう。好きなものの話でもふってやればいい。飯の話でもふってやれば、誰だって話しやすいだろう?」
「それで、……喫茶店、と?」
ああ、と気迫が完全に消えた。歌仙は白刃をぐっと掴んで引き寄せる。反対の手で柄を握り、鶴丸から返された鞘に納める。己自身を縋るように抱きしめて、金色の目を見つめる。
「ああ。そう言うことだ。……ま、酔っぱらいの相手は大変だと思うがな。そこは俺らも手伝うさ」
猫のように機嫌よく細められた眼差しに最早厳しさはなく、ただただ優しさだけが込められている。
(ああ、……敵わない)
やってもいいかなぁと思わされる。心の殻に入ったひびが、大きくなる。この刀には甘えてもいいのではないかと思わされる。それが悔しくて……でも、身体が震えるほどに嬉しい。唇から震える息が零れる。
「……勝手に、したまえ」
続く
夏コミで発行予定の『歌仙が女給に着替えたら』のWEB版になります。
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
宣言通り厨で朝食を食べて、自室に戻る。冷房をつけてから障子をぴしゃりと閉めて、ため息を吐く。
今日も部屋の外は暑い。この時代の障子は何故だか密封性に優れており、時代錯誤ではないかと思えるほど武家屋敷を再現した内装(外装は建物であることは分かるが、もうなんの建築だかよくわからない何かと化していた)の癖に、政府はこういうところだけマメに手配してくれる。冷暖房も完備しているし、厨だって原理は分からないが最新式のものだ。あらかじめレシピを登録しておけば、コンロを使う段になったらスイッチ一つで火加減から時間まで調節してくれる。炊飯器は開発者の正気を疑うほどに大人数分を炊けるものだし、本丸に常備してある鍋の大多数は馬鹿でかい、という表現がまさにぴったりで、このまま刀剣男士が増えていったとしても全く問題ないだろう。
二十二世紀って怖い、と本丸が始まったばかりの頃はよく初鍛刀の今剣と震えていたものだ。今は慣れてしまったが。
「……本当に、僕らは戦をしているんだろうか」
出陣さえなければこうして日々を暮らし、内番や趣味に勤しむ。大阪城を攻略していた時などは手入れ部屋が満室だったというのに、今では誰も入る者などいない。刃毀れもしていないのだから当然だ。
今は歴史修正主義者を斃し、本物の歴史……人間たちの営みや、歌仙の前の主達が繋いだ歴史を守る、そのための戦いのはずだ。審神者には他の業務があるのだからいないのは仕方ないとして、総隊長である自分までこの戦いのことを忘れたら、本丸はどうなるのだろう。そうなった本丸のことを、生憎歌仙は知らない。審神者が帰ってこなくなった本丸も、刀剣男士が戦を拒否した本丸も、知らない。
だから、自分が一番戦から遠いような振る舞いをして、結局戦場へ出たいと願う。三十六の佞臣の首は歌仙にとって主君に尽くしたという誇りだったけれど、戦場で三十六の首級を上げたってなにも罰は当たらないだろう。
「僕らは、一体何のためにこうして休日を迎えているんだろうね」
日々移り行く時の中で、季節の移ろいを楽しむ。人のかたちをとって、歌仙兼定というこの本丸の初期刀が一番に嬉しかったことだ。人の感じた世界を、人と同じように楽しむことが出来る。素晴らしいことだ。
だが、光輝いて見える世界は歴史改変という魔の手に脅かされているのだという。何故歴史を改変するのか、改変してどうするのか。それすらわからないままに、日々悪趣味な形を取った歴史遡行軍と対峙する。敵ならば斬る。それに異論はないが、あちらが何をやらかそうとしているのか、政府は知っているのだろうか。知っているならば教えてくれてもいいはずだ。そうすればもっと、自分の守るものについて知ることもできただろうに。元の主を助けることが叶わずに涙する者も少なくて済んだかもしれない。
(彼らの死は、この国の歴史にとって必要なことだった……ということ、かな。同時に、助けてしまえば大きな変わり目となる)
それは何にとってか、誰にとっての変わり目なのか。どんな風に変わって、誰が歴史の勝者になるのか。そんなことは誰もわかりはしないのに、敵は細切れにいくつもの時代を改変しようとしている。
(結局それだと整合性がつかなくなるんじゃないか? 一番古いところを変えてしまうだけで、きっと今のこの世界は消えてしまう……多分)
大変癪だが、詳しいことはあの審神者が帰ってきてから問い詰めないと分からない。あっちもこっちも戦の真っ最中であるということを忘れそうになる現実で、本当に自分たちは戦力になっているのだろうか。とりあえず資源の供給が止まらないところを見ると、役に立ってはいるのだろうが。
(今はそれよりも……この着物の意図だ)
これを話のタネに交流を広げろなんて、鶴丸みたいなことをあの審神者が言うとは思えない。単に着せて見たかっただけだろうとは思うが、本人が逃げたのなら見せようがない。
(鶴丸には喫茶店をしてみようなんて言われるし、話のタネにしろなんて、……一体僕はどうしたらいいんだ)
この本丸に女物の着物を纏った刀剣男士は二名ほどいる。だが、彼らは日常的に纏っているのと相応の化粧も施しているからこそ違和感が消えているのだ。それこそ笑われたらどうしたらいいのかわからない。
(人間の眼には自分自身は良く映るというし……僕が鏡で見た時は悪くはなかったが、そうでなければどうしたらいい)
こんな姿を旧知の小夜左文字に見られて、距離を置かれたりしたら耐えられない。それ以外の刀に見られて笑い者にされるなど、この歌仙兼定の矜持が許さない。元伊達家の面子とは知らない仲ではなかったから姿を見せられただけのことで、特定多数に見られるくらいならば今日は引き籠っていたい、と歌仙は畳に寝転んで丸くなる。
(帰ってきたらただでは置かないからな……!)
不穏当なことを決意しながら、手近にあった本を引き寄せる。『明日の献立』と書いてある表紙をめくれば、なぜか果物のたっぷり入ったかき氷のイラストが視界に飛び込んでくる。
「『絶品! 桃とマンゴーのフラッペ』……かき氷じゃないか」
これは食事とは言わないだろうと次のページをめくると、またカットされた桃がホットケーキの上に載っている写真が掲載されている。
「『桃とココナツのアイスパンケーキ』……今月号は喫茶店のメニューだったか?」
定期購読を希望すれば各本丸に毎月配られる料理の月間レシピ本だが、何かの陰謀ではないかと疑わずにはいられない。昨日から読んでいたのは事実だが、よもや自分がこんな格好をするとは思わなかったから、単なる被害妄想だとは分かっていても下らない陰謀論を疑ってしまう。
「喫茶店、か」
鶴丸国永の言葉が蘇る。喫茶店の真似事なんてしてみちゃあどうだい、なんて好き勝手を言ってくれる。大体、結局は歌仙と燭台切が料理を作ることになるのだから、そんなことをしたって女給(ウエイトレス)の真似事などしている暇なぞないだろう。
「……間違いなく非番なのに過労で倒れるな……」
この本丸は意外にも食い意地の張っている刀が多い。喫茶店など開こうものなら、本丸に常備してある果物や小麦粉が一日でなくなってしまいそうだ。通常喫茶店で供されるという珈琲はおそらく、どれほど高い豆を準備しようと余るに違いない。はぁ、とため息を吐いていると、障子の外に気配を感じた。
「歌仙、いますか?」
細川の家にいた時分に懇意にしていた短刀・小夜左文字の声だ。ばくばくと鳴る心臓を押さえながらゆるりと起き上がってどうぞと答えれば、音もなく障子が開かれる。
「あの、……その着物、もらったんですか?」
小夜の表情はいつもと変わらない、あまり感情の乗らない表情だ。それにひとまずほっと安心して、こくりと頷く。
「もらったというか、僕の着物と引き換えに置いてあったというか……」
「じゃあ、自分で買ったわけではない……ということですか?」
「ああ。でなければ女物の着物なんて手に入れないよ。こういう女物の着物を着ることの是非はともかく、着物自体はいいものだと思う。……でもねぇ、今日は人前には出たくないかな」
「……あなたならそう言うでしょうね」
さすがに細川の家では長い付き合いだ。何をどうやったら歌仙が嫌がるのかをよくわかっているこの短刀は、どうしようとも言いたげに首を傾げる。
「……鶴丸がね、喫茶店の真似事でもしたらどうだ、って言うんだ」
「喫茶店? ……ああ、その格好だから、ですか」
多分ね、とため息を吐くと、小夜の指先がフリルを突っついた。
「でもそんなことしたら本丸の備蓄が無くなってしまう。おまけに珈琲だけは絶対に余るのが目に見えているだろう?」
「甘党ばかりですからね」
そう。この本丸には非常に残念ながら珈琲という飲み物が浸透していない。いや、ブラックコーヒーだとかアメリカンコーヒーだとかいう、珈琲の中に砂糖もミルクも、その他甘味という甘味を入れていない飲み物が一般的ではない。小夜が言う通り、甘党が大多数を占める本丸だからである。
近侍ではないものの、近侍の歌仙の負担を減らすという名目で主命という名の仕事を求めて日々審神者に連絡を入れているあのへし切長谷部でさえ、厨で求めてくるのはどこぞの珈琲ショップで注文できるような飲み物である。グラスに注いだ液体の上に甘いホイップクリームとキャラメルシロップにチョコレートチップがどんと乗った飲み物を見て、燭台切と二人で卒倒しかけたのは随分と前のことだ。それからそんなに甘いものは身体に悪いと言い続けて早数ヶ月、へし切長谷部の飲み物の嗜好は……残念なことにまったく変わっていない。冷蔵庫の中にシロップやらチョコレートチップやらの飾り付け用の甘味類がやたら充実しているのは、この本丸の大多数が長谷部までとはいかないまでもそういう味付けを好むからである。
「ただでさえ業務用を大量に買い溜めして、政府から数量で問い合わせが来るのに……喫茶店なんてどうしたらいいんだ……」
もう泣きたい、とまた丸くなる歌仙に、小夜は溜め息を吐く。昔いつも見ていたような、まるで兄のような表情で仕方ない、という表情で、昔は大きく感じた小さな手で背中を撫でてくれる。
「……鶴丸国永さんはなんと?」
「交流を、温めろって」
「そう、ですか」
「この着物が話のタネになるだろうって。……そんなの無理だ。いつもこんな格好をしているわけじゃなし、笑い者になるなど耐えられない」
ぐじぐじと弱音を吐いているとくしゃりと髪の毛を撫でられる。
「お小夜……どうしよう。こんな格好で人前に出たくない。でも、燭台切も悪乗りして、もし注文していたらどうしよう……」
「……うん」
そうだね、と小夜が気遣わしげに頷いた。……なんだか、いやな予感がした。
朝食の後からどれだけ丸まっていただろうか。ずっと小夜についていてもらったが、燭台切は来なかったからまだ昼餉の準備の時間ではないらしい。
「よぅし歌仙! 業務用のクリームと砂糖と……まぁその他諸々を注文してきたぞ! というかもう届いた!」
すぱぁん! と勢いよく障子を開かれて、歌仙はびくりと身を震わせた。まさに飛び上がる勢いだった。鶴丸の後ろにはあんぐりと口を開いたへし切長谷部が立っている。
「どういうことだい……?」
「光坊も賛成してくれてなぁ、本人はギャルソンがやりたいらしいから衣装を調達してる真っ最中だ」
「ちょっと待て鶴丸国永」
なんだって、と声を荒げそうになった歌仙を援護するように、長谷部は鶴丸の肩をがっちり掴んで低い声で制止を掛ける。
「俺にもわかるように説明しろ。それと歌仙の衣装は何事だ。貴様か、貴様のせいか」
「歌仙が主の陰謀で喫茶店の女給の格好をさせられてるからいっそ喫茶店の真似事をしたらいいじゃないかって話だ」
主……! と長谷部が頽れた。別に彼が女装をしたいわけではないし、審神者からそういうものを貰いたかったというわけではないだろう。ただ単に、本丸運営上近侍の歌仙がこうなれば長谷部にもしわ寄せが来るわけで。
「何故本人に根回しをしなかったのですか……!」
「本当にね」
根回しをしなければ彼は表情には出さなくともあたふたするだろうし、歌仙だって何が目的なのか分からなくて困ってしまう。というよりも、現に今困っている。だが、そんなことより今は喫茶店云々の件だ。それで、と居住まいを正して鶴丸に向き直る。
「光忠は二つ返事だったのかい?」
「二つ返事だった。あと伽羅坊には消極的に反対された」
「何故積極的に反対しなかった」
これはひどいと呆然としていると後ろで小夜がため息を吐く。
「流されても一日部屋に引き籠れば一連の騒動から逃れられると思ったんでしょうか。……今日の歌仙みたいに」
「お小夜! 僕は当事者であって巻き込まれた側じゃないんだよ……!」
それはそうですけど、と彼は首を傾げる。
「でも歌仙、着物なら主に大分貢がれていたんじゃ……」
そう。歌仙を溺愛する審神者によって非番の時に着る着物には事欠かない……はずだった。昨日の夜までは確かにそのはずだった。
「全部女物にすり替えられていたよ。……なんだろうねあの行動力。この部屋、監視カメラとかついているんだろうか」
「……監視カメラはついていないと思うぞ」
長谷部がせめてもと慰めてくれたが、歌仙の心は泣きたい気持ちでいっぱいだった。
「おまけに……長谷部にまで見られるなんて」
「俺で不都合があったか?」
「笑い者にされたくないんだ! 頼むから今日は一日引き籠らせてくれ!」
そうかと紫色の瞳が瞬く。
「気に病むほどではないと思うが。……むしろ、なんだ。その……似合っていると思うぞ?」
これでもダメかと見つめてくる眼差しに、歌仙はじりと後退する。目と目で通じ合うことは信頼関係を得ているようで嬉しいのだが、じっと見つめられるのはどうにも居心地が悪い。これが本体を見つめられるのならば誇らしいが、人の器では気恥ずかしさが優ってくる。
「あの、長谷部。……その、何か気になるのかい? じっと見たりして」
「い、や。そうではない。そうではないんだが……元が華のある奴だから、そういうのも似合うのだな、と思って、つい」
「そ、そうかい」
つい気恥ずかしくて視線を逸らすと、鶴丸が微笑ましそうににこにこしている。
「ほら、話のタネになるだろ? お前さんの人見知りを治すいい機会だ。喫茶店をやろうじゃないか」
手伝えよ長谷部、と声を掛けられた長谷部は、なぜか裏返った声で何故俺がと抗議していた。声色はともかく内容は納得できる。
「……丸め込まれましたね」
「……うん」
主命第一で主たる者以外にはわき目もふらない男かと思えば、長谷部は意外にも付き合いのいい男である。本丸の飲み会には大体参加していたりするし、クリスマスパーティーの時だって率先してビンゴを買ってきた。織田信長から下賜されて以来ずっと黒田の家に仕えていた刀剣だから、てっきり敬虔な基督教徒として厳粛な一日を過ごすのかと思っていたから、大層驚いたことを覚えている。……クリスマスイブにパーティーを開催したからだったのかどうかは分からないが、その次の日に自室に籠もっていた。彼がこの上なく愛するかつての主と同じように祈りを捧げていたからかもしれない。
ともかく、面白そうなことはなぜか嫌そうな顔をしながらも率先してくれるのがへし切長谷部という男である。鶴丸と燭台切が乗り気で、大倶利伽羅も反論がないとなれば、本丸の板張りの部屋……三つある応接室のうちどれかを貸し切って、レイアウトから何からこだわるに違いない。これで大分退路は塞がれてしまった、と思う。彼がやると言えば強硬にやらないとは歌仙としても言い張りづらいのだ。だが。
「……やるんなら絶対に厨に引き籠ってやる」
こんな格好で人前に出たくない、と唸れば、小夜がよしよしと後ろ頭を撫でてくれた。よろよろと立ち上がって障子を閉めて、ずるずると座り込む。普段なら雅でも風流でもない振る舞いは避けて通ることにしているが、今はそんな気分ではなかった。
「歌仙、」
「はしたないのは分かっているんだ……でも、少し、耐えられなくて」
「……主に復讐しますか?」
それには首を横に振る。
「主は後で手打ちにする」
「……死なない程度に」
「戦国の世ではないし、僕もそこまで非道ではないよ……ただ、今後の僕への接し方は改めてもらう。二度と主に僕の下着は洗わせない。というか干しているところも見せない」
「洗ってたんですか?」
「もちろん洗わせないよ。主だよ? 刀である僕が主人に洗い物などさせられるわけがないだろう? ……実は、僕が洗濯機に放り込んでから乾いたものを畳むまでじっと見ているんだ」
「それならいいですが」
傍らの短刀がほっと安堵の息を吐いた。
「当面の問題は喫茶店、ですか」
「ああ。……こればっかりは主を責めても八つ当たりになってしまうし……どうしようか。やるにしたって厨に引き籠ったままとはいかない気がするんだ」
元をただせば歌仙のこの格好を見て鶴丸が言い出したことである。燭台切もギャルソンの衣装を調達しているというから、今日の夕方まで準備をするにしても、恐らく交代で接客に出ることになるだろう。最初の本丸案内は近侍である歌仙の仕事だから、この本丸の全員と話したことはある。だが、その後も全員と親しくしているかと言ったら、それは別の問題と言わざるを得ない。
かつて細川の家で共に過ごした小夜のように親しい刀はいる。燭台切だってその頃からの付き合いだ。むしろ(恐らくいつか本丸に来るはずの太鼓鐘貞宗も含め)伊達の面子や前の主が織田信長に仕えていた頃に顔見知りだった面子はそれなりに親しいし、歌仙が付喪神としてまだまだ生まれたてほやほやの頃を知られている。(あの頃は分類が脇差だったような気がするから、今のような成人男性の成りではなく、ほんの小さな童子だった。ちなみにいつ今の姿になったのかは覚えていないが、長谷部や宗三左文字など随分可愛がってくれたものだ。宗三などこの本丸に来た時に、『あの小さな之定が随分大きくなりましたねぇ』とまるで親のような顔をしていた)
だが、本丸にいるのはそういう刀ばかりではない。前の主に教養は似ても、人付き合いの能力までは似なかったのだ。戦国時代に細川の家が懇意にしていた大名の家にいた刀もいるし、逆に仲の悪かった家の刀もいる。そうかと思えば三条派のように全く知らない刀もいる。そういう刀たちと懇意に渡り合っていくなど、気が遠くなりそうだ。
「何をどう話せばいいって言うんだ……」
「同じ兼定派の和泉守とは仲が良くないのですか? 同じ部隊でしょう」
「戦場のこと以外で話したことはないよ。……同じ新選組の面子のほうが話しやすいだろうし、実際そのようだし」
同じ刀工から生まれた訳でもないし、とため息を吐くと、またよしよしと撫でられる。
「難儀ですね……」
「……うん」
やはり喫茶店など無謀なのでは、と二振りでため息を吐いた。
☆☆☆
昼餉を食べ終わり、歌仙は自室に下がって本を開いていた。面白そうだと思って何とはなしに読んでいる、付喪神に関する本だ。パラパラと適当に流し読みをしていると、ふと騒がしい足音と共に障子の前に人影が見えた。長い髪に羽織姿。和泉守兼定だ。
「之定ぁ、今いいか」
「……」
「ここで構わねぇからよ」
先刻部屋には入れてあげられない、とは言ったものの、このまま外に出したままで対応するのも可哀想というものだ。何しろ外は暑い。今日は内番用の着物姿でも戦支度でもない、涼しそうな浅黄色の小袖に袴といういでたちだが、熱を吸いやすい長い黒髪はこの陽気では辛いだろう。
「……いいよ。入っておいで」
外から安堵のため息が聞こえ、障子が開いた。和泉守兼定が小さな紙袋を携えて入ってくる。
「悪いな。……これ、さっき端末見てて買ってみたんだけどよ……」
おずおずと差し出された紙の箱には『八国山』と箔押しされている。
「オレの前にいたところの近くの名産品らしいぜ。……栗が入った饅頭とかって書いてあった」
「へぇ……」
紙の箱はしっかりしていたが、受け取るとずっしりと重い。饅頭というのならば致し方ないだろう。
「開けても?」
「おう」
箱のふたを開けると、紅白の細い紙と柔らかな白い紙に包まれた饅頭が十ほど姿を現す。
「お茶を淹れようね」
立ち上がって茶葉を取り出し、常に温めてある湯を急須に注ぐ。茶こしに茶葉を入れて急須の中に入れる。氷を入れるのだから少し濃いぐらいがいいだろう。部屋に備え付けてある小さな冷蔵庫から氷を出して、湯呑に入れる。
「冷たいお茶でいいかな」
「ああ、すまねぇな」
ふと見てしまった快活な笑顔に饅頭のお礼だよと小声で呟いて、蒸らしが終わった茶を注ぐ。ぱきぱきと小さな音がして、氷にひびが入っていく。どうぞ、と饅頭と一緒に差し出すと、おお、と嬉しそうな声が上がった。いただきます、と二人で手を合わせて茶を一口すする。僅かな苦みと茶葉の香りが鼻腔を満たした。
「うめぇ」
「それは嬉しいねぇ。……で、どうしたんだい?」
もう一口茶を啜りながら聞くと、和泉守は饅頭の包み紙を剥がしながら少しばかり気まずそうな表情を浮かべる。
「いや、な。……主の陰謀で大変な目に遭ったって言ってただろ? んで、喫茶店やるって」
「やるとは言ってない」
やるって聞いたぜ、と彼は不満げに饅頭を一口齧る。歌仙も饅頭を齧ると、優しい甘さの白あんが舌の上でとろりと広がった。
「昼餉の時に、長谷部が大々的に手伝えって言ってたぜ? ……燭台切が張り切ってたから、多分もう準備が始まってるかもしれねぇな」
「……主に怒られるぞ……?」
どうせばれたってあの審神者が本気で怒るとは思えないのだが、せめてもの抵抗で言ってみる。
「本気で怒られるとは思えねぇがな」
「放任主義だからね」
お互いこの本丸に招かれて長い身だ、あっさりと見抜かれて歌仙は苦笑する。
「それでよ、ずっと考えてたんだが。……之定の格好な、どっかで見たことあんだよな」
和泉守はどこだっけなぁと長い黒髪を掻き回す。
「僕は三百年くらい前の女学生……いや、喫茶店の女給みたいだと思ったのだけど」
「いや、それもそうなんだが、もうちょい最近……あ、卒業生だ」
卒業生? と歌仙が眉を顰めると、和泉守はそうそう、と得心のいったように頷く。
「ほら、三月の卒業式ん時な、女の学生があんたのカチューシャとエプロンとったみたいな格好で学校行くんだよ。化粧もしてるし、大学生なのかねぇ。……見たことあるだろ?」
ああそういえば、と歌仙も思い出す。あまり人混みに近づきたくはないから外へはそれほど出なかったのだが、確かに早春の頃はそんな風景を見たような気がする。卒業おめでとう、と言いかわす人の群れが、右に左に歩いてゆく光景。また一つ巣立ちに近づく、華やかな別れの式。
「そうだね、見たことがある。……確かにエプロンとカチューシャはなかったよね。でも、あれは……女学生のものだ。今着ているこれも女給のものだし」
僕が着るのはどうなんだろうねぇと首を傾げる。女物の着物。ほんの童子の姿だった頃ならこの色でも……いや、もっと濃い桃色でもまだ童子だからと許されただろう。だが、あれから数百年が流れた。今の青年の姿では許されないものも多いだろう。
「童子であった時分なら許されたかもしれないんだけれどねぇ……着物自体はね、いいものだから……着る分にはいいんだ。人前に出るのは極力遠慮したいだけでね」
「そうか」
そう言うと、和泉守が難しい顔で饅頭を口の中に放り込む。黙って茶を飲み干すその様子は何かを思案しているようでもあり、言葉を選んでいるようでもある。新撰組のように旧知の間柄であれば、その思考の海に割って入ることもできるかもしれない。けれども、数百年という時の隔たりが、刀工(おや)の何代にもわたる隔たりが、喉の奥に言葉をしまい込んでしまう。
鶴丸の言う通りに女給の真似事でもすれば、少しは話せるようになるだろうか。いつかこの歴史修正主義者との果てのない争いが終わり、いるべき場所へ戻った時、共に暮らす付喪神たちと他愛のない話を他愛もなく……それこそ、話題に詰まることも、うまく話せない自分自身に苛立つこともなく話せるだろうか。饅頭の残りを食べてと茶を飲み干してしまいながらもそんなことを考えていると、大分考えがまとまったらしい和泉守が口を開いた。
「なぁ之定」
「なんだい」
「喫茶店の……あー、キャフェーとかいうのの真似事、本当にやってみねえ?」
キャフェーてなんだ、と思考が停止仕掛けて、ああ喫茶店の大分古い言い回しか、と思い至る。大正時代から昭和時代にかけて、小説の中に出てくる喫茶店には現代で言うカフェ、という表記ではなく喫茶店(キャッフェー)と表記されることが多い。断定が出来ないのは歌仙が読んでいた小説ではそう言う表記であったというだけで、全ての本がそうであるとは言い切れないからである。ともかく、最近流行りの刀、と言うだけあって和泉守もそういう言い方をするのかと少し驚いたが、なによりも女給の真似事を提案するこの後代に驚いた。
「……パンケーキでも食べたいのかい?」
出来るだけ声色に出ないように注意を払って問いかけると、彼は気まずそうに頬を掻く。
「まぁそれもあるんだけどよ……オレの勘違いかも知れねぇんだが……あんた、他の奴と喋んの、怖がってるような気がしてよ」
「そうかい」
気が付いていたのか、と声には出さずに呟く。饅頭の包み紙と飲み干した湯呑をものともせずにじり、と歌仙の方に膝がにじり寄って来て、少しだけ後ろに下がる。とっさに湯呑の被害を防ごうと端に避けたが、それが失敗だったかもしれない。じりじりと迫る大柄な身体を阻むものが、何もないのだ。
「オレん時だってそうだろ。本丸の案内はしてくれたのに、あとは話し掛けにも来ねえ。……もしかして一人でいる方が好きなのかとも思ったが……オレが話し掛けてみたくて、よ」
「……そう」
「……だから、他の奴もあんたと話したいんじゃねぇか?」
本当に、とは聞けなかった。目を見るまでもない。歌仙の頑なな心の殻にヒビを入れる、そのまま割ってしまいそうな程に強い一撃、真摯な声だったから。だから歌仙も、震える声で心の中を吐き出した。
「……僕はね、何を話していいかわからないんだよ。きっと細川の家で大元の僕が懇意にしている刀が来たって、きっとうまく話せない。お小夜にだって全てを晒け出せるとは言い難い」
「……いや、オレだって国広に全部報告なんかしてないぜ」
「それだけじゃない。……これは、女物の着物だ。長谷部やお小夜や伊達の刀は忠興にくっついていた小さい姿を知っているし、あの時はあの時でこういう柄の着物も他の刀に着せられていたからまるで気にしていないような反応だけど……」
君たちのように知らない者にしたら珍妙にしか見えないだろう? と返せば、力強い手が肩を掴む。
「んなことねぇよ!」
「え……」
「文系だから、ってのはよくわかんねぇけど、あんたそういうの似合うんだよ!」
「だが、エプロンやカチューシャなんて」
「可愛いじゃねぇか! ……なぁ、あんたの人見知り、多分皆知ってると思う。でもよ、それ以上に皆、あんたと話してみたいんだよ。……キャフェーを取っ掛かりにな」
「そういう、ものなのかい?」
ああ、と和泉守は力強く頷く。
「主の悪行だったとしても?」
「主はなんも考えてねぇと思うけどな、オレらにとっちゃあ渡りに船だ。……なぁどうだい之定。手塩にかけて育ててくれた可愛い可愛い後代に最初に作ってくれたオムライス、食わせてくれよ」
ふと視線を戻して、ああ、眩しいと思った。生存その他諸々で機動以外の全てを歌仙より上回る、可愛いと表現するには少しばかり優秀すぎる兼定の後代。武士の世の終わり、壬生の狼と称された新撰組の鬼の副長に振るわれた打刀は、こんな風に時代の違う先代を導くことが出来るのだ。
「和泉守」
「ん? あとオレ、カルアミルク飲みてえ」
「在庫がないよ。この間の宴会で君、全部飲み干したじゃないか。しかも潰れるし……あのあと布団に放り込むの、大変だったのだから」
「……おう」
カルアミルクなどのカクテルは、歌仙の記憶が正しければ材料の在庫がなかったはずだ。言い訳という名の説教を始めてしまえば、きらきらしい笑顔の眉尻がしょんぼりと垂れた。
「……仮にやったとしても、次の日の食材はどうするんだい? 野菜は畑でとっても残りの食材をすぐに買ってこられるわけでもなし、食べつくしてしまったら何も作れないよ」
「う……」
それに、とふいと視線を湯呑に投げる。これでもう表情を見なくて済む。
「いくら僕が文系名刀とはいえ、着物に罪はないとはいえ……どうして女装をして人前に出なければならないんだい」
「あ……」
今、和泉守がどんな顔をしているかはわからない。顔を上げるのが、怖い。
「……知らなかったよ。人の眼がこんなに怖いなんてね。君もそうだと思うけど、まだ自我を持つ前から数多の人間の賛美を浴びてきたし……付喪神になってからだって、他の付喪神が色々と構ってくれた。少しばかり他の場所で暮らしたことはあるけれど、まったく知らない家のものばかりいる場所で暮らすのは……初めてなんだよ。あの家のものなら僕がこんな格好をしていても気なんか使わなかっただろうけど、……君たちに失望されるのが、怖いんだ」
初期刀として招かれ、近侍に置かれてからずっと、相応しい振る舞いをと心掛けてきた。そのためには内番も文句は言うけれどもこなしてきたし、一番多く首級を上げてきた。刀が増えてからは審神者が常駐しない本丸を切り盛りするために効率をずっと考えてきた。勿論風雅を愛でる時間はとってはいたが、それは歌仙を形作るものゆえのこと。雅たれと説くことはなかったが、長谷部と共に刀剣男士としての振る舞いを説いたことなど何度もある。目の前の和泉守などその最たるものだ。
そうして作ってきた、近侍として、刀剣男士としての歌仙兼定は、誰よりも厳しく、凛々しく、そして優しくなくてはならないのだ。ちょっと若気の至り(もうそんな年ではないけれど)、と言って女装をするなどあってはならないのだ。たとえその近侍像が張りぼてだったとしても、決して崩してはならないのだ。
「僕は君を何度か叱ったことがあるよね。誰も見ていないからって足を放り出して大の字になって、ぽてとちっぷすを齧ってはいけないって」
「……おう、そんなこともあったな」
「僕が女装をしているということはね、それと同じなんだよ。普段から女物を着ている者たちであればいいけれど、普段男物を着ている僕が着るのは、近侍として相応しい振る舞いとは言えないんだ」
「之定……」
「それで笑い者にされたら……僕はこれから、どうやって過ごしていけばいいんだい?」
之定ともあろうものが情けない、と思う。世が世なら、笑い者にする者は片っ端から手打ちにしてしまえばいい。……それでも、今は……戦国時代の常識が通用しない審神者を頂点とする本丸では、そんなことはできないのだ。だから、初めてこの後代に弱音を吐いた。小夜に縋りついて泣き出してしまいそうなのを堪えて、それでも意識して声を作った。
「……そんなの」
「……?」
肩を掴む手に力が入る。痛い、と抗議しようとして……先ほどよりも強い眼差しに射抜かれた。
「少なくともオレは! それ之定にすっげえ似合ってるって思った!」
「和泉守……」
だから笑い者になんてしない、と彼は言った。
「歳さんだってきっとそう言ってくれる!」
「忠興も、言ってくれるかな」
もうこの世にいない主人。歌仙に号を与えてくれた人。エプロンとカチューシャがなければまた違ったかもしれないが、おそらく見たところで正気を疑うだろう。むしろ似合ってるなんて言われたら忠興の正気を疑ってしまう。けれども和泉守は、優しい後代は、真剣な瞳で言うのだ。
「言うに決まってんだろ!」
きっとオムライスやパンケーキの為だけに説得しているわけではあるまい。先程も言っていた通り、歌仙が人見知りということを知っているからこそ、本当に外に引っ張り出したいのだろう。
「少し……考えさせてくれ」
続く
今日も部屋の外は暑い。この時代の障子は何故だか密封性に優れており、時代錯誤ではないかと思えるほど武家屋敷を再現した内装(外装は建物であることは分かるが、もうなんの建築だかよくわからない何かと化していた)の癖に、政府はこういうところだけマメに手配してくれる。冷暖房も完備しているし、厨だって原理は分からないが最新式のものだ。あらかじめレシピを登録しておけば、コンロを使う段になったらスイッチ一つで火加減から時間まで調節してくれる。炊飯器は開発者の正気を疑うほどに大人数分を炊けるものだし、本丸に常備してある鍋の大多数は馬鹿でかい、という表現がまさにぴったりで、このまま刀剣男士が増えていったとしても全く問題ないだろう。
二十二世紀って怖い、と本丸が始まったばかりの頃はよく初鍛刀の今剣と震えていたものだ。今は慣れてしまったが。
「……本当に、僕らは戦をしているんだろうか」
出陣さえなければこうして日々を暮らし、内番や趣味に勤しむ。大阪城を攻略していた時などは手入れ部屋が満室だったというのに、今では誰も入る者などいない。刃毀れもしていないのだから当然だ。
今は歴史修正主義者を斃し、本物の歴史……人間たちの営みや、歌仙の前の主達が繋いだ歴史を守る、そのための戦いのはずだ。審神者には他の業務があるのだからいないのは仕方ないとして、総隊長である自分までこの戦いのことを忘れたら、本丸はどうなるのだろう。そうなった本丸のことを、生憎歌仙は知らない。審神者が帰ってこなくなった本丸も、刀剣男士が戦を拒否した本丸も、知らない。
だから、自分が一番戦から遠いような振る舞いをして、結局戦場へ出たいと願う。三十六の佞臣の首は歌仙にとって主君に尽くしたという誇りだったけれど、戦場で三十六の首級を上げたってなにも罰は当たらないだろう。
「僕らは、一体何のためにこうして休日を迎えているんだろうね」
日々移り行く時の中で、季節の移ろいを楽しむ。人のかたちをとって、歌仙兼定というこの本丸の初期刀が一番に嬉しかったことだ。人の感じた世界を、人と同じように楽しむことが出来る。素晴らしいことだ。
だが、光輝いて見える世界は歴史改変という魔の手に脅かされているのだという。何故歴史を改変するのか、改変してどうするのか。それすらわからないままに、日々悪趣味な形を取った歴史遡行軍と対峙する。敵ならば斬る。それに異論はないが、あちらが何をやらかそうとしているのか、政府は知っているのだろうか。知っているならば教えてくれてもいいはずだ。そうすればもっと、自分の守るものについて知ることもできただろうに。元の主を助けることが叶わずに涙する者も少なくて済んだかもしれない。
(彼らの死は、この国の歴史にとって必要なことだった……ということ、かな。同時に、助けてしまえば大きな変わり目となる)
それは何にとってか、誰にとっての変わり目なのか。どんな風に変わって、誰が歴史の勝者になるのか。そんなことは誰もわかりはしないのに、敵は細切れにいくつもの時代を改変しようとしている。
(結局それだと整合性がつかなくなるんじゃないか? 一番古いところを変えてしまうだけで、きっと今のこの世界は消えてしまう……多分)
大変癪だが、詳しいことはあの審神者が帰ってきてから問い詰めないと分からない。あっちもこっちも戦の真っ最中であるということを忘れそうになる現実で、本当に自分たちは戦力になっているのだろうか。とりあえず資源の供給が止まらないところを見ると、役に立ってはいるのだろうが。
(今はそれよりも……この着物の意図だ)
これを話のタネに交流を広げろなんて、鶴丸みたいなことをあの審神者が言うとは思えない。単に着せて見たかっただけだろうとは思うが、本人が逃げたのなら見せようがない。
(鶴丸には喫茶店をしてみようなんて言われるし、話のタネにしろなんて、……一体僕はどうしたらいいんだ)
この本丸に女物の着物を纏った刀剣男士は二名ほどいる。だが、彼らは日常的に纏っているのと相応の化粧も施しているからこそ違和感が消えているのだ。それこそ笑われたらどうしたらいいのかわからない。
(人間の眼には自分自身は良く映るというし……僕が鏡で見た時は悪くはなかったが、そうでなければどうしたらいい)
こんな姿を旧知の小夜左文字に見られて、距離を置かれたりしたら耐えられない。それ以外の刀に見られて笑い者にされるなど、この歌仙兼定の矜持が許さない。元伊達家の面子とは知らない仲ではなかったから姿を見せられただけのことで、特定多数に見られるくらいならば今日は引き籠っていたい、と歌仙は畳に寝転んで丸くなる。
(帰ってきたらただでは置かないからな……!)
不穏当なことを決意しながら、手近にあった本を引き寄せる。『明日の献立』と書いてある表紙をめくれば、なぜか果物のたっぷり入ったかき氷のイラストが視界に飛び込んでくる。
「『絶品! 桃とマンゴーのフラッペ』……かき氷じゃないか」
これは食事とは言わないだろうと次のページをめくると、またカットされた桃がホットケーキの上に載っている写真が掲載されている。
「『桃とココナツのアイスパンケーキ』……今月号は喫茶店のメニューだったか?」
定期購読を希望すれば各本丸に毎月配られる料理の月間レシピ本だが、何かの陰謀ではないかと疑わずにはいられない。昨日から読んでいたのは事実だが、よもや自分がこんな格好をするとは思わなかったから、単なる被害妄想だとは分かっていても下らない陰謀論を疑ってしまう。
「喫茶店、か」
鶴丸国永の言葉が蘇る。喫茶店の真似事なんてしてみちゃあどうだい、なんて好き勝手を言ってくれる。大体、結局は歌仙と燭台切が料理を作ることになるのだから、そんなことをしたって女給(ウエイトレス)の真似事などしている暇なぞないだろう。
「……間違いなく非番なのに過労で倒れるな……」
この本丸は意外にも食い意地の張っている刀が多い。喫茶店など開こうものなら、本丸に常備してある果物や小麦粉が一日でなくなってしまいそうだ。通常喫茶店で供されるという珈琲はおそらく、どれほど高い豆を準備しようと余るに違いない。はぁ、とため息を吐いていると、障子の外に気配を感じた。
「歌仙、いますか?」
細川の家にいた時分に懇意にしていた短刀・小夜左文字の声だ。ばくばくと鳴る心臓を押さえながらゆるりと起き上がってどうぞと答えれば、音もなく障子が開かれる。
「あの、……その着物、もらったんですか?」
小夜の表情はいつもと変わらない、あまり感情の乗らない表情だ。それにひとまずほっと安心して、こくりと頷く。
「もらったというか、僕の着物と引き換えに置いてあったというか……」
「じゃあ、自分で買ったわけではない……ということですか?」
「ああ。でなければ女物の着物なんて手に入れないよ。こういう女物の着物を着ることの是非はともかく、着物自体はいいものだと思う。……でもねぇ、今日は人前には出たくないかな」
「……あなたならそう言うでしょうね」
さすがに細川の家では長い付き合いだ。何をどうやったら歌仙が嫌がるのかをよくわかっているこの短刀は、どうしようとも言いたげに首を傾げる。
「……鶴丸がね、喫茶店の真似事でもしたらどうだ、って言うんだ」
「喫茶店? ……ああ、その格好だから、ですか」
多分ね、とため息を吐くと、小夜の指先がフリルを突っついた。
「でもそんなことしたら本丸の備蓄が無くなってしまう。おまけに珈琲だけは絶対に余るのが目に見えているだろう?」
「甘党ばかりですからね」
そう。この本丸には非常に残念ながら珈琲という飲み物が浸透していない。いや、ブラックコーヒーだとかアメリカンコーヒーだとかいう、珈琲の中に砂糖もミルクも、その他甘味という甘味を入れていない飲み物が一般的ではない。小夜が言う通り、甘党が大多数を占める本丸だからである。
近侍ではないものの、近侍の歌仙の負担を減らすという名目で主命という名の仕事を求めて日々審神者に連絡を入れているあのへし切長谷部でさえ、厨で求めてくるのはどこぞの珈琲ショップで注文できるような飲み物である。グラスに注いだ液体の上に甘いホイップクリームとキャラメルシロップにチョコレートチップがどんと乗った飲み物を見て、燭台切と二人で卒倒しかけたのは随分と前のことだ。それからそんなに甘いものは身体に悪いと言い続けて早数ヶ月、へし切長谷部の飲み物の嗜好は……残念なことにまったく変わっていない。冷蔵庫の中にシロップやらチョコレートチップやらの飾り付け用の甘味類がやたら充実しているのは、この本丸の大多数が長谷部までとはいかないまでもそういう味付けを好むからである。
「ただでさえ業務用を大量に買い溜めして、政府から数量で問い合わせが来るのに……喫茶店なんてどうしたらいいんだ……」
もう泣きたい、とまた丸くなる歌仙に、小夜は溜め息を吐く。昔いつも見ていたような、まるで兄のような表情で仕方ない、という表情で、昔は大きく感じた小さな手で背中を撫でてくれる。
「……鶴丸国永さんはなんと?」
「交流を、温めろって」
「そう、ですか」
「この着物が話のタネになるだろうって。……そんなの無理だ。いつもこんな格好をしているわけじゃなし、笑い者になるなど耐えられない」
ぐじぐじと弱音を吐いているとくしゃりと髪の毛を撫でられる。
「お小夜……どうしよう。こんな格好で人前に出たくない。でも、燭台切も悪乗りして、もし注文していたらどうしよう……」
「……うん」
そうだね、と小夜が気遣わしげに頷いた。……なんだか、いやな予感がした。
朝食の後からどれだけ丸まっていただろうか。ずっと小夜についていてもらったが、燭台切は来なかったからまだ昼餉の準備の時間ではないらしい。
「よぅし歌仙! 業務用のクリームと砂糖と……まぁその他諸々を注文してきたぞ! というかもう届いた!」
すぱぁん! と勢いよく障子を開かれて、歌仙はびくりと身を震わせた。まさに飛び上がる勢いだった。鶴丸の後ろにはあんぐりと口を開いたへし切長谷部が立っている。
「どういうことだい……?」
「光坊も賛成してくれてなぁ、本人はギャルソンがやりたいらしいから衣装を調達してる真っ最中だ」
「ちょっと待て鶴丸国永」
なんだって、と声を荒げそうになった歌仙を援護するように、長谷部は鶴丸の肩をがっちり掴んで低い声で制止を掛ける。
「俺にもわかるように説明しろ。それと歌仙の衣装は何事だ。貴様か、貴様のせいか」
「歌仙が主の陰謀で喫茶店の女給の格好をさせられてるからいっそ喫茶店の真似事をしたらいいじゃないかって話だ」
主……! と長谷部が頽れた。別に彼が女装をしたいわけではないし、審神者からそういうものを貰いたかったというわけではないだろう。ただ単に、本丸運営上近侍の歌仙がこうなれば長谷部にもしわ寄せが来るわけで。
「何故本人に根回しをしなかったのですか……!」
「本当にね」
根回しをしなければ彼は表情には出さなくともあたふたするだろうし、歌仙だって何が目的なのか分からなくて困ってしまう。というよりも、現に今困っている。だが、そんなことより今は喫茶店云々の件だ。それで、と居住まいを正して鶴丸に向き直る。
「光忠は二つ返事だったのかい?」
「二つ返事だった。あと伽羅坊には消極的に反対された」
「何故積極的に反対しなかった」
これはひどいと呆然としていると後ろで小夜がため息を吐く。
「流されても一日部屋に引き籠れば一連の騒動から逃れられると思ったんでしょうか。……今日の歌仙みたいに」
「お小夜! 僕は当事者であって巻き込まれた側じゃないんだよ……!」
それはそうですけど、と彼は首を傾げる。
「でも歌仙、着物なら主に大分貢がれていたんじゃ……」
そう。歌仙を溺愛する審神者によって非番の時に着る着物には事欠かない……はずだった。昨日の夜までは確かにそのはずだった。
「全部女物にすり替えられていたよ。……なんだろうねあの行動力。この部屋、監視カメラとかついているんだろうか」
「……監視カメラはついていないと思うぞ」
長谷部がせめてもと慰めてくれたが、歌仙の心は泣きたい気持ちでいっぱいだった。
「おまけに……長谷部にまで見られるなんて」
「俺で不都合があったか?」
「笑い者にされたくないんだ! 頼むから今日は一日引き籠らせてくれ!」
そうかと紫色の瞳が瞬く。
「気に病むほどではないと思うが。……むしろ、なんだ。その……似合っていると思うぞ?」
これでもダメかと見つめてくる眼差しに、歌仙はじりと後退する。目と目で通じ合うことは信頼関係を得ているようで嬉しいのだが、じっと見つめられるのはどうにも居心地が悪い。これが本体を見つめられるのならば誇らしいが、人の器では気恥ずかしさが優ってくる。
「あの、長谷部。……その、何か気になるのかい? じっと見たりして」
「い、や。そうではない。そうではないんだが……元が華のある奴だから、そういうのも似合うのだな、と思って、つい」
「そ、そうかい」
つい気恥ずかしくて視線を逸らすと、鶴丸が微笑ましそうににこにこしている。
「ほら、話のタネになるだろ? お前さんの人見知りを治すいい機会だ。喫茶店をやろうじゃないか」
手伝えよ長谷部、と声を掛けられた長谷部は、なぜか裏返った声で何故俺がと抗議していた。声色はともかく内容は納得できる。
「……丸め込まれましたね」
「……うん」
主命第一で主たる者以外にはわき目もふらない男かと思えば、長谷部は意外にも付き合いのいい男である。本丸の飲み会には大体参加していたりするし、クリスマスパーティーの時だって率先してビンゴを買ってきた。織田信長から下賜されて以来ずっと黒田の家に仕えていた刀剣だから、てっきり敬虔な基督教徒として厳粛な一日を過ごすのかと思っていたから、大層驚いたことを覚えている。……クリスマスイブにパーティーを開催したからだったのかどうかは分からないが、その次の日に自室に籠もっていた。彼がこの上なく愛するかつての主と同じように祈りを捧げていたからかもしれない。
ともかく、面白そうなことはなぜか嫌そうな顔をしながらも率先してくれるのがへし切長谷部という男である。鶴丸と燭台切が乗り気で、大倶利伽羅も反論がないとなれば、本丸の板張りの部屋……三つある応接室のうちどれかを貸し切って、レイアウトから何からこだわるに違いない。これで大分退路は塞がれてしまった、と思う。彼がやると言えば強硬にやらないとは歌仙としても言い張りづらいのだ。だが。
「……やるんなら絶対に厨に引き籠ってやる」
こんな格好で人前に出たくない、と唸れば、小夜がよしよしと後ろ頭を撫でてくれた。よろよろと立ち上がって障子を閉めて、ずるずると座り込む。普段なら雅でも風流でもない振る舞いは避けて通ることにしているが、今はそんな気分ではなかった。
「歌仙、」
「はしたないのは分かっているんだ……でも、少し、耐えられなくて」
「……主に復讐しますか?」
それには首を横に振る。
「主は後で手打ちにする」
「……死なない程度に」
「戦国の世ではないし、僕もそこまで非道ではないよ……ただ、今後の僕への接し方は改めてもらう。二度と主に僕の下着は洗わせない。というか干しているところも見せない」
「洗ってたんですか?」
「もちろん洗わせないよ。主だよ? 刀である僕が主人に洗い物などさせられるわけがないだろう? ……実は、僕が洗濯機に放り込んでから乾いたものを畳むまでじっと見ているんだ」
「それならいいですが」
傍らの短刀がほっと安堵の息を吐いた。
「当面の問題は喫茶店、ですか」
「ああ。……こればっかりは主を責めても八つ当たりになってしまうし……どうしようか。やるにしたって厨に引き籠ったままとはいかない気がするんだ」
元をただせば歌仙のこの格好を見て鶴丸が言い出したことである。燭台切もギャルソンの衣装を調達しているというから、今日の夕方まで準備をするにしても、恐らく交代で接客に出ることになるだろう。最初の本丸案内は近侍である歌仙の仕事だから、この本丸の全員と話したことはある。だが、その後も全員と親しくしているかと言ったら、それは別の問題と言わざるを得ない。
かつて細川の家で共に過ごした小夜のように親しい刀はいる。燭台切だってその頃からの付き合いだ。むしろ(恐らくいつか本丸に来るはずの太鼓鐘貞宗も含め)伊達の面子や前の主が織田信長に仕えていた頃に顔見知りだった面子はそれなりに親しいし、歌仙が付喪神としてまだまだ生まれたてほやほやの頃を知られている。(あの頃は分類が脇差だったような気がするから、今のような成人男性の成りではなく、ほんの小さな童子だった。ちなみにいつ今の姿になったのかは覚えていないが、長谷部や宗三左文字など随分可愛がってくれたものだ。宗三などこの本丸に来た時に、『あの小さな之定が随分大きくなりましたねぇ』とまるで親のような顔をしていた)
だが、本丸にいるのはそういう刀ばかりではない。前の主に教養は似ても、人付き合いの能力までは似なかったのだ。戦国時代に細川の家が懇意にしていた大名の家にいた刀もいるし、逆に仲の悪かった家の刀もいる。そうかと思えば三条派のように全く知らない刀もいる。そういう刀たちと懇意に渡り合っていくなど、気が遠くなりそうだ。
「何をどう話せばいいって言うんだ……」
「同じ兼定派の和泉守とは仲が良くないのですか? 同じ部隊でしょう」
「戦場のこと以外で話したことはないよ。……同じ新選組の面子のほうが話しやすいだろうし、実際そのようだし」
同じ刀工から生まれた訳でもないし、とため息を吐くと、またよしよしと撫でられる。
「難儀ですね……」
「……うん」
やはり喫茶店など無謀なのでは、と二振りでため息を吐いた。
☆☆☆
昼餉を食べ終わり、歌仙は自室に下がって本を開いていた。面白そうだと思って何とはなしに読んでいる、付喪神に関する本だ。パラパラと適当に流し読みをしていると、ふと騒がしい足音と共に障子の前に人影が見えた。長い髪に羽織姿。和泉守兼定だ。
「之定ぁ、今いいか」
「……」
「ここで構わねぇからよ」
先刻部屋には入れてあげられない、とは言ったものの、このまま外に出したままで対応するのも可哀想というものだ。何しろ外は暑い。今日は内番用の着物姿でも戦支度でもない、涼しそうな浅黄色の小袖に袴といういでたちだが、熱を吸いやすい長い黒髪はこの陽気では辛いだろう。
「……いいよ。入っておいで」
外から安堵のため息が聞こえ、障子が開いた。和泉守兼定が小さな紙袋を携えて入ってくる。
「悪いな。……これ、さっき端末見てて買ってみたんだけどよ……」
おずおずと差し出された紙の箱には『八国山』と箔押しされている。
「オレの前にいたところの近くの名産品らしいぜ。……栗が入った饅頭とかって書いてあった」
「へぇ……」
紙の箱はしっかりしていたが、受け取るとずっしりと重い。饅頭というのならば致し方ないだろう。
「開けても?」
「おう」
箱のふたを開けると、紅白の細い紙と柔らかな白い紙に包まれた饅頭が十ほど姿を現す。
「お茶を淹れようね」
立ち上がって茶葉を取り出し、常に温めてある湯を急須に注ぐ。茶こしに茶葉を入れて急須の中に入れる。氷を入れるのだから少し濃いぐらいがいいだろう。部屋に備え付けてある小さな冷蔵庫から氷を出して、湯呑に入れる。
「冷たいお茶でいいかな」
「ああ、すまねぇな」
ふと見てしまった快活な笑顔に饅頭のお礼だよと小声で呟いて、蒸らしが終わった茶を注ぐ。ぱきぱきと小さな音がして、氷にひびが入っていく。どうぞ、と饅頭と一緒に差し出すと、おお、と嬉しそうな声が上がった。いただきます、と二人で手を合わせて茶を一口すする。僅かな苦みと茶葉の香りが鼻腔を満たした。
「うめぇ」
「それは嬉しいねぇ。……で、どうしたんだい?」
もう一口茶を啜りながら聞くと、和泉守は饅頭の包み紙を剥がしながら少しばかり気まずそうな表情を浮かべる。
「いや、な。……主の陰謀で大変な目に遭ったって言ってただろ? んで、喫茶店やるって」
「やるとは言ってない」
やるって聞いたぜ、と彼は不満げに饅頭を一口齧る。歌仙も饅頭を齧ると、優しい甘さの白あんが舌の上でとろりと広がった。
「昼餉の時に、長谷部が大々的に手伝えって言ってたぜ? ……燭台切が張り切ってたから、多分もう準備が始まってるかもしれねぇな」
「……主に怒られるぞ……?」
どうせばれたってあの審神者が本気で怒るとは思えないのだが、せめてもの抵抗で言ってみる。
「本気で怒られるとは思えねぇがな」
「放任主義だからね」
お互いこの本丸に招かれて長い身だ、あっさりと見抜かれて歌仙は苦笑する。
「それでよ、ずっと考えてたんだが。……之定の格好な、どっかで見たことあんだよな」
和泉守はどこだっけなぁと長い黒髪を掻き回す。
「僕は三百年くらい前の女学生……いや、喫茶店の女給みたいだと思ったのだけど」
「いや、それもそうなんだが、もうちょい最近……あ、卒業生だ」
卒業生? と歌仙が眉を顰めると、和泉守はそうそう、と得心のいったように頷く。
「ほら、三月の卒業式ん時な、女の学生があんたのカチューシャとエプロンとったみたいな格好で学校行くんだよ。化粧もしてるし、大学生なのかねぇ。……見たことあるだろ?」
ああそういえば、と歌仙も思い出す。あまり人混みに近づきたくはないから外へはそれほど出なかったのだが、確かに早春の頃はそんな風景を見たような気がする。卒業おめでとう、と言いかわす人の群れが、右に左に歩いてゆく光景。また一つ巣立ちに近づく、華やかな別れの式。
「そうだね、見たことがある。……確かにエプロンとカチューシャはなかったよね。でも、あれは……女学生のものだ。今着ているこれも女給のものだし」
僕が着るのはどうなんだろうねぇと首を傾げる。女物の着物。ほんの童子の姿だった頃ならこの色でも……いや、もっと濃い桃色でもまだ童子だからと許されただろう。だが、あれから数百年が流れた。今の青年の姿では許されないものも多いだろう。
「童子であった時分なら許されたかもしれないんだけれどねぇ……着物自体はね、いいものだから……着る分にはいいんだ。人前に出るのは極力遠慮したいだけでね」
「そうか」
そう言うと、和泉守が難しい顔で饅頭を口の中に放り込む。黙って茶を飲み干すその様子は何かを思案しているようでもあり、言葉を選んでいるようでもある。新撰組のように旧知の間柄であれば、その思考の海に割って入ることもできるかもしれない。けれども、数百年という時の隔たりが、刀工(おや)の何代にもわたる隔たりが、喉の奥に言葉をしまい込んでしまう。
鶴丸の言う通りに女給の真似事でもすれば、少しは話せるようになるだろうか。いつかこの歴史修正主義者との果てのない争いが終わり、いるべき場所へ戻った時、共に暮らす付喪神たちと他愛のない話を他愛もなく……それこそ、話題に詰まることも、うまく話せない自分自身に苛立つこともなく話せるだろうか。饅頭の残りを食べてと茶を飲み干してしまいながらもそんなことを考えていると、大分考えがまとまったらしい和泉守が口を開いた。
「なぁ之定」
「なんだい」
「喫茶店の……あー、キャフェーとかいうのの真似事、本当にやってみねえ?」
キャフェーてなんだ、と思考が停止仕掛けて、ああ喫茶店の大分古い言い回しか、と思い至る。大正時代から昭和時代にかけて、小説の中に出てくる喫茶店には現代で言うカフェ、という表記ではなく喫茶店(キャッフェー)と表記されることが多い。断定が出来ないのは歌仙が読んでいた小説ではそう言う表記であったというだけで、全ての本がそうであるとは言い切れないからである。ともかく、最近流行りの刀、と言うだけあって和泉守もそういう言い方をするのかと少し驚いたが、なによりも女給の真似事を提案するこの後代に驚いた。
「……パンケーキでも食べたいのかい?」
出来るだけ声色に出ないように注意を払って問いかけると、彼は気まずそうに頬を掻く。
「まぁそれもあるんだけどよ……オレの勘違いかも知れねぇんだが……あんた、他の奴と喋んの、怖がってるような気がしてよ」
「そうかい」
気が付いていたのか、と声には出さずに呟く。饅頭の包み紙と飲み干した湯呑をものともせずにじり、と歌仙の方に膝がにじり寄って来て、少しだけ後ろに下がる。とっさに湯呑の被害を防ごうと端に避けたが、それが失敗だったかもしれない。じりじりと迫る大柄な身体を阻むものが、何もないのだ。
「オレん時だってそうだろ。本丸の案内はしてくれたのに、あとは話し掛けにも来ねえ。……もしかして一人でいる方が好きなのかとも思ったが……オレが話し掛けてみたくて、よ」
「……そう」
「……だから、他の奴もあんたと話したいんじゃねぇか?」
本当に、とは聞けなかった。目を見るまでもない。歌仙の頑なな心の殻にヒビを入れる、そのまま割ってしまいそうな程に強い一撃、真摯な声だったから。だから歌仙も、震える声で心の中を吐き出した。
「……僕はね、何を話していいかわからないんだよ。きっと細川の家で大元の僕が懇意にしている刀が来たって、きっとうまく話せない。お小夜にだって全てを晒け出せるとは言い難い」
「……いや、オレだって国広に全部報告なんかしてないぜ」
「それだけじゃない。……これは、女物の着物だ。長谷部やお小夜や伊達の刀は忠興にくっついていた小さい姿を知っているし、あの時はあの時でこういう柄の着物も他の刀に着せられていたからまるで気にしていないような反応だけど……」
君たちのように知らない者にしたら珍妙にしか見えないだろう? と返せば、力強い手が肩を掴む。
「んなことねぇよ!」
「え……」
「文系だから、ってのはよくわかんねぇけど、あんたそういうの似合うんだよ!」
「だが、エプロンやカチューシャなんて」
「可愛いじゃねぇか! ……なぁ、あんたの人見知り、多分皆知ってると思う。でもよ、それ以上に皆、あんたと話してみたいんだよ。……キャフェーを取っ掛かりにな」
「そういう、ものなのかい?」
ああ、と和泉守は力強く頷く。
「主の悪行だったとしても?」
「主はなんも考えてねぇと思うけどな、オレらにとっちゃあ渡りに船だ。……なぁどうだい之定。手塩にかけて育ててくれた可愛い可愛い後代に最初に作ってくれたオムライス、食わせてくれよ」
ふと視線を戻して、ああ、眩しいと思った。生存その他諸々で機動以外の全てを歌仙より上回る、可愛いと表現するには少しばかり優秀すぎる兼定の後代。武士の世の終わり、壬生の狼と称された新撰組の鬼の副長に振るわれた打刀は、こんな風に時代の違う先代を導くことが出来るのだ。
「和泉守」
「ん? あとオレ、カルアミルク飲みてえ」
「在庫がないよ。この間の宴会で君、全部飲み干したじゃないか。しかも潰れるし……あのあと布団に放り込むの、大変だったのだから」
「……おう」
カルアミルクなどのカクテルは、歌仙の記憶が正しければ材料の在庫がなかったはずだ。言い訳という名の説教を始めてしまえば、きらきらしい笑顔の眉尻がしょんぼりと垂れた。
「……仮にやったとしても、次の日の食材はどうするんだい? 野菜は畑でとっても残りの食材をすぐに買ってこられるわけでもなし、食べつくしてしまったら何も作れないよ」
「う……」
それに、とふいと視線を湯呑に投げる。これでもう表情を見なくて済む。
「いくら僕が文系名刀とはいえ、着物に罪はないとはいえ……どうして女装をして人前に出なければならないんだい」
「あ……」
今、和泉守がどんな顔をしているかはわからない。顔を上げるのが、怖い。
「……知らなかったよ。人の眼がこんなに怖いなんてね。君もそうだと思うけど、まだ自我を持つ前から数多の人間の賛美を浴びてきたし……付喪神になってからだって、他の付喪神が色々と構ってくれた。少しばかり他の場所で暮らしたことはあるけれど、まったく知らない家のものばかりいる場所で暮らすのは……初めてなんだよ。あの家のものなら僕がこんな格好をしていても気なんか使わなかっただろうけど、……君たちに失望されるのが、怖いんだ」
初期刀として招かれ、近侍に置かれてからずっと、相応しい振る舞いをと心掛けてきた。そのためには内番も文句は言うけれどもこなしてきたし、一番多く首級を上げてきた。刀が増えてからは審神者が常駐しない本丸を切り盛りするために効率をずっと考えてきた。勿論風雅を愛でる時間はとってはいたが、それは歌仙を形作るものゆえのこと。雅たれと説くことはなかったが、長谷部と共に刀剣男士としての振る舞いを説いたことなど何度もある。目の前の和泉守などその最たるものだ。
そうして作ってきた、近侍として、刀剣男士としての歌仙兼定は、誰よりも厳しく、凛々しく、そして優しくなくてはならないのだ。ちょっと若気の至り(もうそんな年ではないけれど)、と言って女装をするなどあってはならないのだ。たとえその近侍像が張りぼてだったとしても、決して崩してはならないのだ。
「僕は君を何度か叱ったことがあるよね。誰も見ていないからって足を放り出して大の字になって、ぽてとちっぷすを齧ってはいけないって」
「……おう、そんなこともあったな」
「僕が女装をしているということはね、それと同じなんだよ。普段から女物を着ている者たちであればいいけれど、普段男物を着ている僕が着るのは、近侍として相応しい振る舞いとは言えないんだ」
「之定……」
「それで笑い者にされたら……僕はこれから、どうやって過ごしていけばいいんだい?」
之定ともあろうものが情けない、と思う。世が世なら、笑い者にする者は片っ端から手打ちにしてしまえばいい。……それでも、今は……戦国時代の常識が通用しない審神者を頂点とする本丸では、そんなことはできないのだ。だから、初めてこの後代に弱音を吐いた。小夜に縋りついて泣き出してしまいそうなのを堪えて、それでも意識して声を作った。
「……そんなの」
「……?」
肩を掴む手に力が入る。痛い、と抗議しようとして……先ほどよりも強い眼差しに射抜かれた。
「少なくともオレは! それ之定にすっげえ似合ってるって思った!」
「和泉守……」
だから笑い者になんてしない、と彼は言った。
「歳さんだってきっとそう言ってくれる!」
「忠興も、言ってくれるかな」
もうこの世にいない主人。歌仙に号を与えてくれた人。エプロンとカチューシャがなければまた違ったかもしれないが、おそらく見たところで正気を疑うだろう。むしろ似合ってるなんて言われたら忠興の正気を疑ってしまう。けれども和泉守は、優しい後代は、真剣な瞳で言うのだ。
「言うに決まってんだろ!」
きっとオムライスやパンケーキの為だけに説得しているわけではあるまい。先程も言っていた通り、歌仙が人見知りということを知っているからこそ、本当に外に引っ張り出したいのだろう。
「少し……考えさせてくれ」
続く
夏コミで発行予定の『歌仙が女給に着替えたら』のWEB版になります。
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
とある夏の暑い日のことである。この本丸の主……審神者と呼ばれる何かの気分ひとつで庭の景趣が変えられるとはいえ、青葉繁る庭の気温は本丸の外の季節に従っている。そこまでは変えられないだの云々かんぬんと書いてある説明書はさておいて、刀剣男士たちが刀として持ち主に振るわれ、活躍していた時代からすれば異常気象とも言えるほどの暑さにこの本丸の男士のほとんどが萎れていたことは認めよう。ついでに室温調整機器が設置されていたのに、節約のためにあまり使わないと自主的に決めたのも認めよう。後者についてはあまりの暑さに全員が三日と持たず、結局は手のひらを反して室温調節器……冷房器具に頼ることを早々に決めたことを記しておく。文明の進歩とはかくも尊いものだった。
とにかく、そんな暑い日のことである。
歌仙兼定が朝目覚めると、内番着と戦衣装が彼の悪辣極まる審神者によって神隠しにあっていた。
「主! 今日という今日は仕置きが必要なようだな……!」
枕元に置かれた可愛らしい柄の小袖に袴。明治、大正と呼ばれた時代の女学生が着るような着物に加えて、真っ白なフリルつきのカチューシャとエプロンを睨み付けながら、歌仙兼定は憤懣やるかたなしに低く唸った。
「あの、歌仙くん?」
何処かに雲隠れした審神者を手打ちにできなかった怒りをぶつけるように朝食のサラダにするニンジンを短冊切りにしていると、フードプロセッサーでトウモロコシを砕いていた燭台切光忠がどうしたの、と戸惑うように問うてくる。結局は用意された着物を着るほかなかった歌仙が一言主がね、と言えば、大体を了解したように燭台切はああと頷いた。
決して着物の柄が気に食わないわけではない。淡い桃色の地に小振りでありながらも華やかな椿があしらわれており、紫の袴も薄紅色の花弁が染め抜かれている。髪の色から着られると判断したのだろうが、それにしたってこの仕打ちは手打ちものだ。
大体フリルがふりふり付いているエプロンとカチューシャがくっついていること自体おかしい。歌仙は刀剣男士であってどこぞのいい家柄の子女ではない。というかいい家柄ではあるが人間でも女性でもない。まったく困ったものである。
「一体主は何を考えているんだ……少しは常識というものを……すまない、少し落ち着かせてくれ」
「初期刀のお役目も大変だね」
「そろそろ実家に帰っていいかな……」
よしよしと背中を撫でる同僚に、歌仙はしんみりと訴えた。里帰り制度は刀剣男士に適用されないというのは、そんな制度があったら有事に対応できないからだろう。……食事を摂り、自分自身を持って出陣し、風呂に入り、掃除をし、眠る。そんな平和なことをしていれば、今が歴史修正主義者との戦の真っ最中だということも忘れてしまいそうだ。……それを忘れないために大阪城の調査や戦力拡充計画があるのだろうが。
それにしても、とかつての主のように右目を眼帯で覆った同僚は呟く。
「何で女物の着物なんだろうね?」
「気まぐれじゃないか? ……とにかく、朝餉の支度が終わったら、今日は部屋から出ないからね。炊事の時間になったら厨に行くから。食事はそのままここで食べる」
今日が非番で本当に助かった、と歌仙がため息をつくと、燭台切は苦笑いする。この本丸での非番とはすなわち、審神者が何の指令も出さない日……つまるところ本日のように本丸を留守にしている日、ということになる。年がら年中審神者が本丸に詰めている本丸ではまた違うらしいが、この本丸に置いてもそれでは調査が進まない。ゆえに審神者がいない日は各自食事も内番も好きにしていい、と初期の本丸中で協議した結果、そう決定している。
「オーケー。時間になったら部屋に行こうか?」
「いやいい。僕がそっちに出向くよ」
「そう? ……女物を着るのが恥ずかしいんじゃないんだ?」
「なんだかんだでいい着物ではあるからね。これで出陣するのは嫌だし内番もいつもの着物の方がいいのだけど、部屋着として着るんならまだましだよ。……それに、着ない方が着物に対して失礼だ」
思い切りいいねぇと燭台切は快活に笑う。遥か昔の戦国の世にいた時分、前の主・細川忠興にくっついて伊達屋敷に赴いてからの仲だが、どうでもいいことをどうでもよく話すにはいい相手だと思う。
「ありがとう。君が話を聞いてくれてよかった。……話しづらいこともいろいろと話せるよ」
「それは嬉しいな」
「お小夜に話せることの三分の一ぐらいだけど」
しれっと澄ました顔で言ってやれば、彼はもう、とあきれたように笑う。
「相変わらず小夜ちゃん、かい? ……あれから随分経つのに人見知り、治らないねぇ」
「なんだい、人聞きの悪い。親しく付き合う相手を厳選していると言ってくれ」
「君のそれは厳選しているとは言わないんだよ」
そうなのかい、と聞くと、それはそうさとかえってくる。細川の屋敷ではそんなことを言われなかったぞ、と表情には出さないまでも全力でむくれていると、それは君が解決することだからさ、とまた笑う。
「……いや、君にしか解決できないことだから、って言ったほうが正しいかな。まぁ、独りであんまり悩まないようにね? 胃に穴が空いちゃうから」
「……そうだね。胃に穴が空くまで深刻に悩んだこともないからなんとも言えないけど」
それは半分ほどなら正しい。深刻な悩みで付喪神の胃に穴など物理的に空かないからだ。
刀剣男士として政府に招かれ、審神者なるものの一人が構えるこの本丸に落ち着いてからも悩みが尽きないものの、実は京都や大阪城、戦力拡充計画に赴いた際に出現した敵の高速槍以外に歌仙の胃に風穴を開けたものなどいはしないのである。
「そうかい? ま、総隊長殿の悩みといったらあれだろう? 延享年間の新橋」
「二番目ぐらいはね」
延享年間・新橋。先日開かれたばかりの戦場である。方々の本丸……否、恐らく全ての本丸に調査通達が出されており、その先の白金台では今隣で呑気にコーンポタージュを拵えている燭台切光忠の知己、太鼓鐘貞宗が確認されているのだという。通達によれば歌仙兼定という刀を大事に伝えてくれた細川忠興の末裔にも絡む場所だという噂である。
「早く行きたいねぇ」
「そのためにはレベルとやらを早く上げないといけないんだけどね……」
ただしその戦場に行くにはどうも刀剣男士としての熟練度……レベルというものが足りないらしい。京都までを駆け抜けてきたいつもの面子ではなく、延享年間専用に隊を編成したいというのが審神者の意向だ。他の本丸では京都の時点で短刀たちのみの編成をしていると聞くから、隊の再編成自体は全く珍しいことではない。問題は編成対象の刀剣男士のレベルが上がっていないということだった。隣のコンロでコーンポタージュに牛乳を入れている燭台切もその一振りだ。
「まぁ、敵も強いみたいだし、無様に負けるよりはいいんじゃないかな。……歌仙くん、味見てくれる?」
差し出された小皿からカスタードクリームの色をしたスープを啜って喉に通す。甘いトウモロコシの香りが牛乳でまろやかに溶かされている。
「うん、いいんじゃないかい?」
「よかった。……じゃあ、一応大広間に持って行くね。伽羅ちゃんと鶴さんがオーブントースターとパンを持って行ってくれたから、後はサラダと果物かな」
「そうだね。サラダは後卵を乗せるだけだからすぐ出来るよ」
厨の番人たる二人の手際はとてもいい。行ってらっしゃい、と燭台切を見送って、すぐに歌仙も水菜やレタス、トマトにきゅうり、それとニンジンを乗せたサラダボウルの上にゆで卵を切って乗せる。最後にクルトンを振りかけて完成した皿を持って厨を出る。
食事処の大広間では、つまみ食いをしようとする不届き者を鶴丸国永と大倶利伽羅が見張っていた。燭台切と入れ違いに部屋に入って、サラダボウルを机に乗せる。
「おお、今日も豪勢だな」
最近クルトンがお気に入りらしい鶴丸が目を輝かせる。喜んでくれるなら料理人冥利に尽きる。
「ドレッシングは和風か?」
「冷蔵庫にあるやつだね。全部持ってくるよ」
万屋で買ったドレッシングが大量にあるので、それを使うことにする。
「大倶利伽羅は?」
「……フレンチ」
フレンチドレッシングが好きらしい大倶利伽羅は、今日も今日とて慣れ合いたくはないらしい。確か和風ドレッシング好きが大勢を閉めるこの本丸内で、まだ在庫があったはずだ。
「……冷蔵庫にあるはずだから自分の部屋から持ってこなくてもいいからね」
「……ああ」
……とはいえ、歌仙が同じ部隊の彼と話すのは出陣のときだけなのだが。社交的でない大倶利伽羅とどうでもいいことをどうでもいいように……燭台切とするように喋るには、なかなか難しい。苦手というつもりはないのだけれど。
「……うん」
会話が続かないためにしゅんと目を伏せて立ち上がると、鶴丸がお、と声を上げた。
「どうした歌仙。その着物、今日は審神者に何かされたのかい?」
「どうしたもこうしたも、着物を全て持っていかれてしまって。今朝目が覚めたらこれしか残っていなかったんだ」
「ははぁ、なるほどな。……ま、夜には戻ってくるんじゃないか?」
「主が戻れば、だけれど」
そうだよなぁと鶴丸は指先でパン籠の縁をなぞって、なぜか面白そうに笑う。
「まぁ、これを機に息抜きでもしたらどうだ? ……ほら、この間テレビで見た……喫茶店、とかいう店の真似事とか」
光坊なら乗ってくれると思うぜ? などと楽しそうにのたまう平安刀は心底本気で言っているらしい。そうはいっても、と歌仙は溜め息を吐く。
「息抜きといってもねぇ……僕は結構息抜きできているほうだと思うのだけれど? 歌も好きに詠ませてもらっているし、茶室はないが茶も点てている。何より僕らにとっては戦場に出ることが一番の息抜きだと思うけれどね」
刀相手に戦場以外の息抜きを勧めるなんて、と思ったが、鶴丸の本意はそうではないらしい。ちっちと悪戯っぽく指を振られる。
「そういう意味じゃないぜ?」
「ではどういう意味だい?」
「もうちょい他の刀と喋ってみちゃあどうだ、ってことさ。見たところ、同じ兼定の坊やともあまり喋ってないだろう? ……同じ刀派で同じ部隊なんだし、引き籠らずにもっと交流を温めたほうがいい。お前さんの今の格好は話のタネにはちょうどいいだろう?」
兼定の坊や。平安時代の生まれである鶴丸にとっては室町時代の生まれである歌仙も坊やのようなものだ。だが、いま彼が言っているのはおそらく和泉守兼定のことだろう。幕末の激動の時代を駆け抜けた新撰組・鬼の副長と謳われた土方歳三の愛刀。
「……仕方ないだろう。僕は戦国の生まれだし、彼は幕末だ。話も合わないだろうし……同じ新選組の大和守安定が同じ部隊にいるのだから、彼にも十分話し相手はいるだろう」
決して自分が臆病なわけではない。話が合わなくて失望されることを恐れているわけではない。勿論歌仙とて二十二世紀の現在まで存在している刀だ。江戸時代末期の開国から江戸城開城、五稜郭の戦いのことは人の耳から聞いている。だが、自分がその場所にいた訳ではない。同じ時代に存在していても、同じ空気を感じていたわけではない。
自分の知らない戦の中を駆け抜けた幕末の刀と、どうして話が合うだろうか。そう思えば出陣のときも自然と口を閉ざしてしまい、同部隊の大倶利伽羅や山姥切国広に何か言いたげな視線をちらちらと向けられる有様だった。
「いやぁ、伽羅坊の話を聞いてると……奴さんも話したいんじゃないかと思ってな? 決して俺の早合点じゃあないからな」
「……あいつ、ちらちら見てるぞ。出陣の度にな」
それまで黙っていた大倶利伽羅がぼそりと口を開く。どういう風に、というのは言わなかったが、さすがに部隊長が何も話さないのはまずいということなのだろうか。
「……戦場では、その状況さえ分かっていればいいだろう」
そうじゃないのか、と大倶利伽羅を見つめる。他の本丸によれば、新橋で歌仙兼定と大倶利伽羅が諍いを起こした、という情報も聞いている。確かにこの刀とは碌々会話もしたことがないし、たとえしても話が続かない。それなのに、どうして。
どうしてそんなことを言うのか。
「僕は戦場で余計なことは言いたくない」
「……そうか」
くるりと彼らに背を向けて、もう行くよ、と告げる。答えなど聞くまでもない。
「果物でも持ってくるよ。……燭台切が今頃、桃とマンゴーを切っているはずだからね」
多分、と言い置いて、広間を出た。後ろから呼び止める声は聞こえない。特段寂しいとは感じない。それでも、どこか心の奥が締め付けられるような気がした。
つづく
とにかく、そんな暑い日のことである。
歌仙兼定が朝目覚めると、内番着と戦衣装が彼の悪辣極まる審神者によって神隠しにあっていた。
「主! 今日という今日は仕置きが必要なようだな……!」
枕元に置かれた可愛らしい柄の小袖に袴。明治、大正と呼ばれた時代の女学生が着るような着物に加えて、真っ白なフリルつきのカチューシャとエプロンを睨み付けながら、歌仙兼定は憤懣やるかたなしに低く唸った。
「あの、歌仙くん?」
何処かに雲隠れした審神者を手打ちにできなかった怒りをぶつけるように朝食のサラダにするニンジンを短冊切りにしていると、フードプロセッサーでトウモロコシを砕いていた燭台切光忠がどうしたの、と戸惑うように問うてくる。結局は用意された着物を着るほかなかった歌仙が一言主がね、と言えば、大体を了解したように燭台切はああと頷いた。
決して着物の柄が気に食わないわけではない。淡い桃色の地に小振りでありながらも華やかな椿があしらわれており、紫の袴も薄紅色の花弁が染め抜かれている。髪の色から着られると判断したのだろうが、それにしたってこの仕打ちは手打ちものだ。
大体フリルがふりふり付いているエプロンとカチューシャがくっついていること自体おかしい。歌仙は刀剣男士であってどこぞのいい家柄の子女ではない。というかいい家柄ではあるが人間でも女性でもない。まったく困ったものである。
「一体主は何を考えているんだ……少しは常識というものを……すまない、少し落ち着かせてくれ」
「初期刀のお役目も大変だね」
「そろそろ実家に帰っていいかな……」
よしよしと背中を撫でる同僚に、歌仙はしんみりと訴えた。里帰り制度は刀剣男士に適用されないというのは、そんな制度があったら有事に対応できないからだろう。……食事を摂り、自分自身を持って出陣し、風呂に入り、掃除をし、眠る。そんな平和なことをしていれば、今が歴史修正主義者との戦の真っ最中だということも忘れてしまいそうだ。……それを忘れないために大阪城の調査や戦力拡充計画があるのだろうが。
それにしても、とかつての主のように右目を眼帯で覆った同僚は呟く。
「何で女物の着物なんだろうね?」
「気まぐれじゃないか? ……とにかく、朝餉の支度が終わったら、今日は部屋から出ないからね。炊事の時間になったら厨に行くから。食事はそのままここで食べる」
今日が非番で本当に助かった、と歌仙がため息をつくと、燭台切は苦笑いする。この本丸での非番とはすなわち、審神者が何の指令も出さない日……つまるところ本日のように本丸を留守にしている日、ということになる。年がら年中審神者が本丸に詰めている本丸ではまた違うらしいが、この本丸に置いてもそれでは調査が進まない。ゆえに審神者がいない日は各自食事も内番も好きにしていい、と初期の本丸中で協議した結果、そう決定している。
「オーケー。時間になったら部屋に行こうか?」
「いやいい。僕がそっちに出向くよ」
「そう? ……女物を着るのが恥ずかしいんじゃないんだ?」
「なんだかんだでいい着物ではあるからね。これで出陣するのは嫌だし内番もいつもの着物の方がいいのだけど、部屋着として着るんならまだましだよ。……それに、着ない方が着物に対して失礼だ」
思い切りいいねぇと燭台切は快活に笑う。遥か昔の戦国の世にいた時分、前の主・細川忠興にくっついて伊達屋敷に赴いてからの仲だが、どうでもいいことをどうでもよく話すにはいい相手だと思う。
「ありがとう。君が話を聞いてくれてよかった。……話しづらいこともいろいろと話せるよ」
「それは嬉しいな」
「お小夜に話せることの三分の一ぐらいだけど」
しれっと澄ました顔で言ってやれば、彼はもう、とあきれたように笑う。
「相変わらず小夜ちゃん、かい? ……あれから随分経つのに人見知り、治らないねぇ」
「なんだい、人聞きの悪い。親しく付き合う相手を厳選していると言ってくれ」
「君のそれは厳選しているとは言わないんだよ」
そうなのかい、と聞くと、それはそうさとかえってくる。細川の屋敷ではそんなことを言われなかったぞ、と表情には出さないまでも全力でむくれていると、それは君が解決することだからさ、とまた笑う。
「……いや、君にしか解決できないことだから、って言ったほうが正しいかな。まぁ、独りであんまり悩まないようにね? 胃に穴が空いちゃうから」
「……そうだね。胃に穴が空くまで深刻に悩んだこともないからなんとも言えないけど」
それは半分ほどなら正しい。深刻な悩みで付喪神の胃に穴など物理的に空かないからだ。
刀剣男士として政府に招かれ、審神者なるものの一人が構えるこの本丸に落ち着いてからも悩みが尽きないものの、実は京都や大阪城、戦力拡充計画に赴いた際に出現した敵の高速槍以外に歌仙の胃に風穴を開けたものなどいはしないのである。
「そうかい? ま、総隊長殿の悩みといったらあれだろう? 延享年間の新橋」
「二番目ぐらいはね」
延享年間・新橋。先日開かれたばかりの戦場である。方々の本丸……否、恐らく全ての本丸に調査通達が出されており、その先の白金台では今隣で呑気にコーンポタージュを拵えている燭台切光忠の知己、太鼓鐘貞宗が確認されているのだという。通達によれば歌仙兼定という刀を大事に伝えてくれた細川忠興の末裔にも絡む場所だという噂である。
「早く行きたいねぇ」
「そのためにはレベルとやらを早く上げないといけないんだけどね……」
ただしその戦場に行くにはどうも刀剣男士としての熟練度……レベルというものが足りないらしい。京都までを駆け抜けてきたいつもの面子ではなく、延享年間専用に隊を編成したいというのが審神者の意向だ。他の本丸では京都の時点で短刀たちのみの編成をしていると聞くから、隊の再編成自体は全く珍しいことではない。問題は編成対象の刀剣男士のレベルが上がっていないということだった。隣のコンロでコーンポタージュに牛乳を入れている燭台切もその一振りだ。
「まぁ、敵も強いみたいだし、無様に負けるよりはいいんじゃないかな。……歌仙くん、味見てくれる?」
差し出された小皿からカスタードクリームの色をしたスープを啜って喉に通す。甘いトウモロコシの香りが牛乳でまろやかに溶かされている。
「うん、いいんじゃないかい?」
「よかった。……じゃあ、一応大広間に持って行くね。伽羅ちゃんと鶴さんがオーブントースターとパンを持って行ってくれたから、後はサラダと果物かな」
「そうだね。サラダは後卵を乗せるだけだからすぐ出来るよ」
厨の番人たる二人の手際はとてもいい。行ってらっしゃい、と燭台切を見送って、すぐに歌仙も水菜やレタス、トマトにきゅうり、それとニンジンを乗せたサラダボウルの上にゆで卵を切って乗せる。最後にクルトンを振りかけて完成した皿を持って厨を出る。
食事処の大広間では、つまみ食いをしようとする不届き者を鶴丸国永と大倶利伽羅が見張っていた。燭台切と入れ違いに部屋に入って、サラダボウルを机に乗せる。
「おお、今日も豪勢だな」
最近クルトンがお気に入りらしい鶴丸が目を輝かせる。喜んでくれるなら料理人冥利に尽きる。
「ドレッシングは和風か?」
「冷蔵庫にあるやつだね。全部持ってくるよ」
万屋で買ったドレッシングが大量にあるので、それを使うことにする。
「大倶利伽羅は?」
「……フレンチ」
フレンチドレッシングが好きらしい大倶利伽羅は、今日も今日とて慣れ合いたくはないらしい。確か和風ドレッシング好きが大勢を閉めるこの本丸内で、まだ在庫があったはずだ。
「……冷蔵庫にあるはずだから自分の部屋から持ってこなくてもいいからね」
「……ああ」
……とはいえ、歌仙が同じ部隊の彼と話すのは出陣のときだけなのだが。社交的でない大倶利伽羅とどうでもいいことをどうでもいいように……燭台切とするように喋るには、なかなか難しい。苦手というつもりはないのだけれど。
「……うん」
会話が続かないためにしゅんと目を伏せて立ち上がると、鶴丸がお、と声を上げた。
「どうした歌仙。その着物、今日は審神者に何かされたのかい?」
「どうしたもこうしたも、着物を全て持っていかれてしまって。今朝目が覚めたらこれしか残っていなかったんだ」
「ははぁ、なるほどな。……ま、夜には戻ってくるんじゃないか?」
「主が戻れば、だけれど」
そうだよなぁと鶴丸は指先でパン籠の縁をなぞって、なぜか面白そうに笑う。
「まぁ、これを機に息抜きでもしたらどうだ? ……ほら、この間テレビで見た……喫茶店、とかいう店の真似事とか」
光坊なら乗ってくれると思うぜ? などと楽しそうにのたまう平安刀は心底本気で言っているらしい。そうはいっても、と歌仙は溜め息を吐く。
「息抜きといってもねぇ……僕は結構息抜きできているほうだと思うのだけれど? 歌も好きに詠ませてもらっているし、茶室はないが茶も点てている。何より僕らにとっては戦場に出ることが一番の息抜きだと思うけれどね」
刀相手に戦場以外の息抜きを勧めるなんて、と思ったが、鶴丸の本意はそうではないらしい。ちっちと悪戯っぽく指を振られる。
「そういう意味じゃないぜ?」
「ではどういう意味だい?」
「もうちょい他の刀と喋ってみちゃあどうだ、ってことさ。見たところ、同じ兼定の坊やともあまり喋ってないだろう? ……同じ刀派で同じ部隊なんだし、引き籠らずにもっと交流を温めたほうがいい。お前さんの今の格好は話のタネにはちょうどいいだろう?」
兼定の坊や。平安時代の生まれである鶴丸にとっては室町時代の生まれである歌仙も坊やのようなものだ。だが、いま彼が言っているのはおそらく和泉守兼定のことだろう。幕末の激動の時代を駆け抜けた新撰組・鬼の副長と謳われた土方歳三の愛刀。
「……仕方ないだろう。僕は戦国の生まれだし、彼は幕末だ。話も合わないだろうし……同じ新選組の大和守安定が同じ部隊にいるのだから、彼にも十分話し相手はいるだろう」
決して自分が臆病なわけではない。話が合わなくて失望されることを恐れているわけではない。勿論歌仙とて二十二世紀の現在まで存在している刀だ。江戸時代末期の開国から江戸城開城、五稜郭の戦いのことは人の耳から聞いている。だが、自分がその場所にいた訳ではない。同じ時代に存在していても、同じ空気を感じていたわけではない。
自分の知らない戦の中を駆け抜けた幕末の刀と、どうして話が合うだろうか。そう思えば出陣のときも自然と口を閉ざしてしまい、同部隊の大倶利伽羅や山姥切国広に何か言いたげな視線をちらちらと向けられる有様だった。
「いやぁ、伽羅坊の話を聞いてると……奴さんも話したいんじゃないかと思ってな? 決して俺の早合点じゃあないからな」
「……あいつ、ちらちら見てるぞ。出陣の度にな」
それまで黙っていた大倶利伽羅がぼそりと口を開く。どういう風に、というのは言わなかったが、さすがに部隊長が何も話さないのはまずいということなのだろうか。
「……戦場では、その状況さえ分かっていればいいだろう」
そうじゃないのか、と大倶利伽羅を見つめる。他の本丸によれば、新橋で歌仙兼定と大倶利伽羅が諍いを起こした、という情報も聞いている。確かにこの刀とは碌々会話もしたことがないし、たとえしても話が続かない。それなのに、どうして。
どうしてそんなことを言うのか。
「僕は戦場で余計なことは言いたくない」
「……そうか」
くるりと彼らに背を向けて、もう行くよ、と告げる。答えなど聞くまでもない。
「果物でも持ってくるよ。……燭台切が今頃、桃とマンゴーを切っているはずだからね」
多分、と言い置いて、広間を出た。後ろから呼び止める声は聞こえない。特段寂しいとは感じない。それでも、どこか心の奥が締め付けられるような気がした。
つづく
C90新刊のWEB版になります。
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
翌朝、気だるい体を引きずって二人は買出しに出ることにした。エクレールの日用品と、二人の食料の買出しである。とはいえ二週間分ともなれば量は大幅に増えるわけで、日用品を買う前にいったん家に帰る羽目になった。
「これで二日分くらいか?」
どさりと重たい紙袋をテーブルの上に置いてエクレールが問う。普段一人暮らしだから、二人とも二人分の感覚が掴めない。
「そうですね、また買出しに行かないと」
「……悪いな。泊り込みにしなければよかったか」
その声がなんだか気まずそうで、思わず苦笑いをこぼす。
「大丈夫ですよ。……あなたがここにいてくれるなら、食料の買出しぐらい朝飯前ですよ」
「食材ぐらい私の家からもってきてもよかったのに。……調味料とか」
足の早い食材があるなら、と思わなかったわけではない。そうしなかったのはひとえに、二人の生活がよく似ていて、エクレールの家の冷蔵庫に調味料ぐらいしかないという自己申告があったからである。職場が同じだから買出しのサイクルはどうあがいても同じになる。おまけにワーカーホリックの気があるホープに合わせて出勤していれば、たまの休みにしか料理をする機会がないのだろう。
その自己申告に申し訳ないとは思いながら、調味料は彼女の二週間後の生活のためにとって置いてもらうことにした。
「生物は入っていないんでしょう? それに……僕たち、恋人じゃないですか。本当は今すぐ結婚したいくらいなんですから、遠慮しないで」
「……そうか」
ふいと紙袋の中のレモンに視線を移した彼女の横顔が、うっすらと染まっていた。こういう瞬間に、愛されていると実感する。心の底から温かくなる幸せを噛み締めながら、次の買出しを促した。
「エクレールさんの、買いに行きましょうか」
「……ああ」
家を出て、今度はマーケットに向かう道を逸れて日用品を売っている店に入る。必要なものを買った後は、隣のブティックで白いワンピースを一着購入する。ついでその隣にあるランジェリーショップの前で、二人は足を止めた。入りますか、と聞けば、彼女は「私はな」と頷く。
「女物の下着しかないから、外で待っていればいいんじゃないか?」
「一人で待てというんですか」
そんなの絶対に嫌です、と駄々をこねていると、視界の端に一組の男女が写り込む。手に持っているのはハンドバッグ一つの女性のあとを大きな紙袋をいくつも持った男性がよろよろとついていくといった様子だが、おそらく女王様と憐れな下僕の図ではなく、いたって健全なカップルだろう。
「ほら、さっさと歩きなさいよ」
「こんなに荷物があったら無理だよ……」
理不尽ともいえる遣り取りをしながら、女性は二人の傍をすり抜けてランジェリーショップの前で立ち止まる。
「んもう、はーやーく!」
「まだ買うの!?」
当たり前でしょ、と店の中に入っていく女性に続いて、男性もそれが当然というように入店する。それをたっぷり見届けて、エクレールのほうを見る。
「……」
「……あの」
「なんだ」
「僕も入っていいですか?」
「……」
エクレールは渋い顔をしてたっぷり悩んだ後、一言仕方ない、とため息をついた。
「行くぞ」
彼女の後についてドアをくぐると、やたらピンク色の目立つ内装が目に飛び込んでくる。ファンシーな模様で彩られた壁にはもちろん色とりどりの下着が陳列されていて、客である女性たちが物色していた。
「あんまりきょろきょろするなよ」
エクレールの忠告にはい、とよいこの返事をして、彼女のほうにある下着に目をやった。そういう店だけあってさすがにデザインも色もたくさんある。普段エクレールが着用している下着に関しては、ホープが手縫いしたものをプレゼントしたって罰は当たらないのではないかと常々思ってはいるのだが、こうして専門店で見てみると、市販のものも悪くないと思えてくる。
(でもこれなら多分、僕も作れると思うんだけど)
ということは、今は言わないことにする。代わりにちょっと可愛いなと思ったセットを手に取った。黒の総レース下着で、肩紐とブラカップやとても面積の小さいいわゆるTバックと呼ばれているショーツの周りにふんだんに細かなフリルがあしらわれている。どうしてこれがただのランジェリーショップにあるのか首を傾げたいところではあるが、似合いそうだ。フリル付きのガーターベルトがついているのがなお良い。
「僕、これとかいいと思うんですよ」
「却下」
「何でですか!」
「当たり前だろ! そんな紐みたいな下着、絶対着ないからな!」
紐みたいとは言うが、紐よりはずっと布面積があるはずだ。だが絶対に着ないといわれてしまっては仕方がないと棚に戻す。その代わりといってはなんだが、くるりと見回して目に付いた下着を手に取る。
「これはどうですか? 似合うと思うんですが」
「……おまえな」
こちらは白のシルク製の上品な下着だ。よく見るような布面積のブラジャーにも、サイドリボンのショーツにも、ついでにガーターベルトにも可愛らしいレースと細かなフリルがふんだんに使われた一品である。布面積もさっきのものよりもたくさんあり、肌触りもいいはずだ。
「駄目ですか?」
「何でお前が選んでいるんだ。私の下着なんだから好きに選ばせろ」
「そんなぁ……」
そんな風に駄々をこねていると、不意に女性たちの声が耳に飛び込んできた。
「ねぇ、あれ、エストハイムさんじゃない?」
「えぇ、誰それ? あの人、カッコいいけど」
「あんた知らないの? ほら、この間月刊レムリアの表紙にグラビア載ってたじゃない」
「ああ、あの人が……。ちゃんと名前なんか見てないから覚えているわけないでしょ。でもなんでこんなところに?」
どうやら月刊レムリア……先月表紙を飾り、巻頭に論文を寄稿した社会人類学系の雑誌の読者らしい。まぁ、確かにホープ一人だったら女性物の下着屋なんかに入ったりしないだろう。
いいでしょう、僕の恋人とデートなんですよ~、とホープは下着を持ったまま一人で浮かれていたが、次に聞こえてきた言葉に眉間に皺を寄せた。
「っていうか、女連れ? ほら、 あれ」
「えぇ、本当? やだあれ誰?」
「私エストハイムさんが勤めてるの近くの研究所だって言うからちょっと狙ってたのにぃ」
「あんたこの間も銀行マンにおんなじようなこと言ってたでしょ。……でもまぁ、あの人も美人かもしれないけどさ、こういうとこに連れてきて見せびらかすとか、ちょっとないよね」
その心無い、大して隠した音量でもない密談は、当然エクレールの耳にも届いていたらしい。形のよい眉を少し顰めて何も言わずに下着を選び始める。
「……ごめんなさい、エクレールさん」
「気にするな。いつものことだろう」
「いつも、って」
「ホープのことだから隠してはいないのだろう、とは思うんだが、どうも隠していると思われているみたいだ。……もっともここに入って最初の頃はお前を色仕掛けで落とした、なんていわれたこともあったからな。……最近はなんだ、お前の婚約者? って言うのが浸透してきたみたいで週刊誌に売りつける、とか言われることもある。さぞかし高値で売れるんだろうな。なかなか女っ気のない、噂も聞かないスキャンダル知らずのイケメン研究者だから、ってな」
「そんな」
「色仕掛け云々はそうとられてもおかしくはないだろうし、週刊誌は載せられたところでホープの逃げ場がなくなるだけだからな」
淡々とこちらを見ないままに答える彼女は、静かに憤っているようにも見える。確かに自分の下心満載で彼女を就職させたことは否定しないし、確かに週刊誌に書きたてられたところでホープとエクレールは正真正銘の恋人同士なのだから痛くも痒くもない。むしろホープなどは大々的に公表してしまえとさえ思っているのだが、それが伝わらないのが不満といえば不満であるし、ホープ自身に直接言わずにエクレールに言うあたりに、特別腹が立つ。
「とりあえず、そういう人間を排除できる力がないのがつらいところですね」
「手段を選ぶ気のない発言はやめたほうがいいぞ。これからの進退にかかわる」
そんな遣り取りをしている間にも、野次馬の声が耳に障る。
「あれ、でもエストハイムさんって婚約者いなかったっけ? ほら、秘書だか助手だかっていう」
「えぇ、嘘、じゃあ浮気?」
「え、本人じゃなくて?」
「婚約者ならもうちょっと隠すでしょ! えぇ、やだぁ、エストハイムさんそんな人だったなんて、ちょっと幻滅」
婚約者本人ですが何か!? と文句を言いたい気分でいっぱいになっているところに、さらなる追い討ちがかかる。
「それもう週刊誌に売っちゃえば? ほら、週刊センなんとかみたいな」
写真撮って売っちゃえば? なんて面倒くさそうに密談をしている女性たちに、否応にもふつふつと怒りが沸いてくる。
何年この幸せを望んでいたと思っているのか。千年越えだ。自発的に週刊誌に垂れ流すぶんには問題ないのだが、二人のことをまったく知らない人間に垂れ流されれば、事実の歪曲は免れない。色仕掛けとか、週刊誌に売るとか、そんなことを彼女の口から言わせたくなかった。言わせるつもりもなかった。
「……それで、聞きたいんだが。婚約者ってなんだ。まだ私たちはそこまでじゃないだろう? 勝手に言いふらしていたのか」
その問いには堂々と胸を張る。まだ冗談めいたプロポーズしかしていないが、そう遠くない未来にそうなる予定だからである。
「ええ。僕が勝手に言いふらしていました」
「何故だ? ……私に一言も相談せずに」
「どうしても一緒にいたかったから。……僕の婚約者、っていうことにすれば、他の人間に言い寄られることもないでしょう?」
「だが、現にお前は言い寄られているだろう? なんの効果もなければ、無理に嘘をつく必要もないと思うが」
いくらエクレールに言い寄る男がいなくなったとしても、ホープ自身に付き纏う人間がいる限り、安泰とは言いがたい。それをすっかり忘れていた。憤りも怒りも、彼女に言葉の刃を投げつけた人間たちだけに向かうものではない。今彼女に告白されるまで知るすべもなく、外野共にそんな好き勝手な憶測を言わせるままで、有効な対策すら立てられなかった自分に対して向いていた。
「ごめんなさい。僕が知らなければならなかったのに。……こんなに一緒にいるのに」
「私が言わなかっただけだ。……お前の研究を妨げたくないし、もう慣れた。他に婚約者も秘書もいないんだろう?」
「当たり前ですよ! 僕にはあなただけです。あのときから……あの、ヴァイルピークスであなたが守ってくれた時から、ずっと、永遠に」
それは愛が重いな、とエクレールが笑った。その柔らかな身体をぎゅっと抱きしめて、囁く。
「あなたと恋人同士、というものを楽しんでみたかったんです。だから外堀から埋めるようなまねをしたんです。……でも、いっそのこと、週刊誌に僕から垂れ流してしまいましょうか」
それを聞いたエクレールが呆れたように仕方ないなと溜め息を吐く。
「私は玄関先で張り込まれるのはごめんだな。お前の家に張り込ませればいいんじゃないか?」
「そうしたら僕の家でお泊り出来なくなっちゃいますよ」
「じゃあ、うちに来るか? お前の家で出来ないなら、……まぁ大分狭い部屋だが私の家ならまだマシだろう。すぐにはマスコミも気が付かないだろうし。……隣人の声はたまにうるさいがな」
彼女の住むアパートは、この国のアパートにはよくあることだが壁が薄いらしい。騒いでいる声も何もかもが聞こえるため、たまに耳栓を使っている……というのはエクレールの言である。そんなに壁の薄いアパートに住まわせて、ホープとしてはセキュリティやプライバシーが心配で心配でならないのだが、同じ職場の同じ研究室、室長と助手という関係のせいでなかなか同居に持ち込めない。
「……やっぱり一緒に住みましょうよ。それで週刊誌の張り込みが来たら惚気ましょうよ。そういうの夢だったんです」
「だから転職する気はないって言っているだろ」
「転職しないで僕と一緒に住みましょ?」
「それはいろいろうるさいだろ、外野が」
外野なんてどうでもいいです、とさらにぎゅうぎゅうエクレールを抱きしめていると、白い指先が腕をはたいた。
「どうでもよくはないだろ。……それで、結局私はその下着を買わなきゃいけないのか?」
つやつやと光る紅い唇が、まるで誘うようにホープの近くに寄せられる。普段外でこんなことしないのになぁと嬉しく思いつつ顔を寄せると、外野がうそぉ、と悲鳴が上がる。
(こそこそするんなら、もっと隠せばいいのに)
どうせ隠す気もないんだろう、と思いながら唇に触れようとすると、指先で押し返される。
「いいじゃないですか、ほら、あなたは僕の婚約者なんだし」
不届きな外野にも聞こえるようにはっきりと声に出せば、彼女の頬が赤く染まる。そのさまを見るだけで、もう外野の様子などどうでもよくなっていた。
「僕のために、買ってください」
この人は僕のものだ。誰が奪おうとしても、僕たちの絆に立ち入れるはずがない。そんな優越感を覚えながら、ホープはエクレールの額に唇を押し当てる。
「ホープ!」
きっと軽く睨む彼女の蒼の瞳はどこまでも澄んでいて、反射的に青い下着も買ってもらおうと思いついた。原色ではない、澄んだ湖面の色の下着。
「青いのも買いましょうよ。……サックス、っていうんでしたっけ」
「そうだが……話を逸らすんじゃない。女ばっかりいる下着屋でそういうことをするなと言っているんだ。そういうところからマスコミにすっぱ抜かれたりするんだからな? 休暇明けに掛かってくる電話は八割私とお前の長期休暇の内容だからな? 今から私が保証しておいてやる」
実は一度、エクレールとデートしているところにマスコミと鉢合わせたことがある。幸いその記者が二人の知り合い……以前前の世界について話したことのある人間だったから、なんだか妙に輝いた微笑みのまま見逃してくれたのだ。結局その時は写真を取られることもなく、インターネット上に情報が流出することもなく、平穏無事ではあった。だが、いつまでもそうだとは限らない。
「……そうでしょうね」
二週間の休暇。今日がその一日目になるわけだが、二週間家でじっとしている気もない。二人でどこか遊びに行きたい。そうなれば、きっと人の眼は避けて通れないだろうし、件の記者のように見逃してくれるほどすべての記者が甘いわけではない。自分の欲望のままに動けないのは少しばかり悲しくはあるが、それでも二人を守るためだ。
「エクレールさんが僕の為の勝負下着を買ってくれたら約束します」
「……まったく」
仕方がないな、と彼女は溜め息を吐いた。ホープの手の中にある下着を奪い取り、サイズを確かめる。僅かに顔を顰めて、呆れたように口を開く。
「お前、これサイズ違うぞ」
「えっ」
そのサイズで合っていた筈なのに、と首を傾げれば、エクレールがさらに問いかける。
「どこにあった?」
「えと、そこです。……白の、」
「あぁ、これか」
暫くラックをごそごそと漁っていた彼女は、しかし新しい下着を持ち出すことなくホープに手渡す。
「それが私のサイズだ。……間違えるなよ」
「え、は、はい」
反射的に受け取って頷くと、彼女は満足そうにうなずいて、また下着を受け取った。
「エクレールさん、あの」
「カゴ、頼めるか」
「あ、はい」
言われたとおり手近にあるカゴを渡すと、ホープがおねだりした下着がぽんと放り込まれる。
「エクレールさん、蒼いのも」
ついでにおねだりすると、有無を言わせない口調でぴしゃりと言い切られる。
「色違いは買わない」
「じゃあほら、このフリル付きのやつにしましょう。総レースとかじゃないですけど、可愛いでしょう? ほらここ、ぱんつの紐なんてこれシルクのリボンですよ!」
手に取って白い下着の横にあった、デザインが違う下着を勧めるも、エクレールは首を横に振る。
「後は私の趣味で買わせてもらうからな」
「そんなぁ……」
「その代わり、後で着てやるから」
それならまだいいかなと頷いて、ふと首を傾げた。何やら誤魔化された気がする。
「ねぇ、エクレールさん」
「なんだ」
「下着のサイズ、なんですけど」
それだけで彼女は察してくれたらしい。ホープの耳元に唇を寄せて、小さな声で教えてくれた。
「お前に知られていることまで、外野に知られたくない。……ダメか?」
「駄目じゃにゃいです!」
ダイレクトに耳元に吹き込まれる吐息と声に、自分の声が裏返る。格好悪いとは思ったのだが、エクレールはそうは思わなかったらしい。
「なら、良かった」
くすりと小さく笑みを零して、彼女は言う。その笑顔が愛らしくて、ホープもつられて微笑んだ。
「ちゃんとあれ、後で着てくださいね」
仕方ないな、とエクレールがまた笑う。彼女の為なら、下着代ぐらいたっぷり払わせてもらってもばちは当たらないだろう、とにこにこしながら取り出した財布は、他ならぬ彼女自身の手によってホープのカバンの中に逆戻りした。ちょっと悲しかった。
☆ ☆ ☆
その夜のことである。
「エクレールさん、お風呂どうぞ」
自分の寝室にエクレールを呼びに行くと、彼女は下着を袋から出している最中だった。だいたいどんな下着を買ったかは知っているので、部屋に入ったところで彼女も特段怒ることはない。
「ああ、先に入ってくれ」
「だってエクレールさん、今日は疲れたでしょう?」
そうは言ってみたものの、家主が先に入れと言われてしまってはどうしようもない。
「……一緒に入りますか?」
「また今度な」
「じゃあ明日」
食い下がれば今度って言ってるだろ、と怒られてしまう。ちょっと悲しい気分になりながら、ホープはバスルームへととぼとぼ向かった。着ているものを全部脱ぎ捨てて、バスルームに入る。アロマオイルを垂らした湯船に浸かりながら、天井を見上げる。
「今日、エクレールさん……着てくれるかな」
下着のことである。昨晩ぐちゃぐちゃにしてしまったメイド服は洗って、既に乾いている。流石に外に出るときには着てもらえないので、今日は一日普段着でいてもらったことになる。
メイド服だけならばきっと着てくれると思うのだ。問題は下着である。結局あの白い下着以外は彼女の趣味であるらしい淡いパステルカラーの、総レースでもサイドリボンでもない(ホープから言わせれば)シンプルな下着を購入していた。エクレールが選んだ下着だ、どんなものだって彼女が着さえすれば何でも似合うと思うのだが、ホープのよこしまな希望を断るときに言ってくれたのだ。
『後で着てやるから』
エクレールに限って約束を違えることはしないだろうが、おそらく明るい場所では見せてくれまい。今までだって穿いている下着を見せてくれたことがないのだ、そこまでしっかり念を押しておけばよかった、と今さらながら後悔する。
「……」
ぶくぶくとお湯に顔を沈めながら考える。下着が見たいのは、何もよこしまな心からだけではない。彼女の恋人だという特権、優越感をまわりに振り撒きたいというのもあった。
(……エクレールさんのすべてを知っているつもりだった)
趣味嗜好も、生年月日も、身長体重も、スリーサイズも知っている。生活スタイルはおろか夜の事情だって知っているのだから、知らないことなんて全くないと思っていた。
(僕の知らないところであんな目に遭っているなんて……知らなかった)
どうして気づかなかったのだろう。
エクレールがひた隠しにしていたから?
ホープの耳に入らないようにしていたから?
(でも……それなら言ってほしかった。僕は、あなたの恋人なのに……)
今夜は無性に彼女を貪りたくてたまらなかった。
(すき、なのに。全部、僕のものにしたい)
(僕の色に、あなたを染めたい)
自分だけの、女神。いつだって背中を押してくれた。彼女の言葉を支えに、ずっと生きてきた。
(ブーニベルゼがライトさんを欲しがったのは、きっと僕がずっとあの人を欲しかったからかもしれない。……でも、渡さない。誰にも)
執着にも近い恋心を、メイド服を着たエクレールは受け取ってくれるのだろうか。自信を持って受け止めてくれるとは胸を張れないけれど、もしかしたら今ならその愛を受け取って、同じだけ愛情を返してくれるのではないだろうか、と思えた。
続く
「これで二日分くらいか?」
どさりと重たい紙袋をテーブルの上に置いてエクレールが問う。普段一人暮らしだから、二人とも二人分の感覚が掴めない。
「そうですね、また買出しに行かないと」
「……悪いな。泊り込みにしなければよかったか」
その声がなんだか気まずそうで、思わず苦笑いをこぼす。
「大丈夫ですよ。……あなたがここにいてくれるなら、食料の買出しぐらい朝飯前ですよ」
「食材ぐらい私の家からもってきてもよかったのに。……調味料とか」
足の早い食材があるなら、と思わなかったわけではない。そうしなかったのはひとえに、二人の生活がよく似ていて、エクレールの家の冷蔵庫に調味料ぐらいしかないという自己申告があったからである。職場が同じだから買出しのサイクルはどうあがいても同じになる。おまけにワーカーホリックの気があるホープに合わせて出勤していれば、たまの休みにしか料理をする機会がないのだろう。
その自己申告に申し訳ないとは思いながら、調味料は彼女の二週間後の生活のためにとって置いてもらうことにした。
「生物は入っていないんでしょう? それに……僕たち、恋人じゃないですか。本当は今すぐ結婚したいくらいなんですから、遠慮しないで」
「……そうか」
ふいと紙袋の中のレモンに視線を移した彼女の横顔が、うっすらと染まっていた。こういう瞬間に、愛されていると実感する。心の底から温かくなる幸せを噛み締めながら、次の買出しを促した。
「エクレールさんの、買いに行きましょうか」
「……ああ」
家を出て、今度はマーケットに向かう道を逸れて日用品を売っている店に入る。必要なものを買った後は、隣のブティックで白いワンピースを一着購入する。ついでその隣にあるランジェリーショップの前で、二人は足を止めた。入りますか、と聞けば、彼女は「私はな」と頷く。
「女物の下着しかないから、外で待っていればいいんじゃないか?」
「一人で待てというんですか」
そんなの絶対に嫌です、と駄々をこねていると、視界の端に一組の男女が写り込む。手に持っているのはハンドバッグ一つの女性のあとを大きな紙袋をいくつも持った男性がよろよろとついていくといった様子だが、おそらく女王様と憐れな下僕の図ではなく、いたって健全なカップルだろう。
「ほら、さっさと歩きなさいよ」
「こんなに荷物があったら無理だよ……」
理不尽ともいえる遣り取りをしながら、女性は二人の傍をすり抜けてランジェリーショップの前で立ち止まる。
「んもう、はーやーく!」
「まだ買うの!?」
当たり前でしょ、と店の中に入っていく女性に続いて、男性もそれが当然というように入店する。それをたっぷり見届けて、エクレールのほうを見る。
「……」
「……あの」
「なんだ」
「僕も入っていいですか?」
「……」
エクレールは渋い顔をしてたっぷり悩んだ後、一言仕方ない、とため息をついた。
「行くぞ」
彼女の後についてドアをくぐると、やたらピンク色の目立つ内装が目に飛び込んでくる。ファンシーな模様で彩られた壁にはもちろん色とりどりの下着が陳列されていて、客である女性たちが物色していた。
「あんまりきょろきょろするなよ」
エクレールの忠告にはい、とよいこの返事をして、彼女のほうにある下着に目をやった。そういう店だけあってさすがにデザインも色もたくさんある。普段エクレールが着用している下着に関しては、ホープが手縫いしたものをプレゼントしたって罰は当たらないのではないかと常々思ってはいるのだが、こうして専門店で見てみると、市販のものも悪くないと思えてくる。
(でもこれなら多分、僕も作れると思うんだけど)
ということは、今は言わないことにする。代わりにちょっと可愛いなと思ったセットを手に取った。黒の総レース下着で、肩紐とブラカップやとても面積の小さいいわゆるTバックと呼ばれているショーツの周りにふんだんに細かなフリルがあしらわれている。どうしてこれがただのランジェリーショップにあるのか首を傾げたいところではあるが、似合いそうだ。フリル付きのガーターベルトがついているのがなお良い。
「僕、これとかいいと思うんですよ」
「却下」
「何でですか!」
「当たり前だろ! そんな紐みたいな下着、絶対着ないからな!」
紐みたいとは言うが、紐よりはずっと布面積があるはずだ。だが絶対に着ないといわれてしまっては仕方がないと棚に戻す。その代わりといってはなんだが、くるりと見回して目に付いた下着を手に取る。
「これはどうですか? 似合うと思うんですが」
「……おまえな」
こちらは白のシルク製の上品な下着だ。よく見るような布面積のブラジャーにも、サイドリボンのショーツにも、ついでにガーターベルトにも可愛らしいレースと細かなフリルがふんだんに使われた一品である。布面積もさっきのものよりもたくさんあり、肌触りもいいはずだ。
「駄目ですか?」
「何でお前が選んでいるんだ。私の下着なんだから好きに選ばせろ」
「そんなぁ……」
そんな風に駄々をこねていると、不意に女性たちの声が耳に飛び込んできた。
「ねぇ、あれ、エストハイムさんじゃない?」
「えぇ、誰それ? あの人、カッコいいけど」
「あんた知らないの? ほら、この間月刊レムリアの表紙にグラビア載ってたじゃない」
「ああ、あの人が……。ちゃんと名前なんか見てないから覚えているわけないでしょ。でもなんでこんなところに?」
どうやら月刊レムリア……先月表紙を飾り、巻頭に論文を寄稿した社会人類学系の雑誌の読者らしい。まぁ、確かにホープ一人だったら女性物の下着屋なんかに入ったりしないだろう。
いいでしょう、僕の恋人とデートなんですよ~、とホープは下着を持ったまま一人で浮かれていたが、次に聞こえてきた言葉に眉間に皺を寄せた。
「っていうか、女連れ? ほら、 あれ」
「えぇ、本当? やだあれ誰?」
「私エストハイムさんが勤めてるの近くの研究所だって言うからちょっと狙ってたのにぃ」
「あんたこの間も銀行マンにおんなじようなこと言ってたでしょ。……でもまぁ、あの人も美人かもしれないけどさ、こういうとこに連れてきて見せびらかすとか、ちょっとないよね」
その心無い、大して隠した音量でもない密談は、当然エクレールの耳にも届いていたらしい。形のよい眉を少し顰めて何も言わずに下着を選び始める。
「……ごめんなさい、エクレールさん」
「気にするな。いつものことだろう」
「いつも、って」
「ホープのことだから隠してはいないのだろう、とは思うんだが、どうも隠していると思われているみたいだ。……もっともここに入って最初の頃はお前を色仕掛けで落とした、なんていわれたこともあったからな。……最近はなんだ、お前の婚約者? って言うのが浸透してきたみたいで週刊誌に売りつける、とか言われることもある。さぞかし高値で売れるんだろうな。なかなか女っ気のない、噂も聞かないスキャンダル知らずのイケメン研究者だから、ってな」
「そんな」
「色仕掛け云々はそうとられてもおかしくはないだろうし、週刊誌は載せられたところでホープの逃げ場がなくなるだけだからな」
淡々とこちらを見ないままに答える彼女は、静かに憤っているようにも見える。確かに自分の下心満載で彼女を就職させたことは否定しないし、確かに週刊誌に書きたてられたところでホープとエクレールは正真正銘の恋人同士なのだから痛くも痒くもない。むしろホープなどは大々的に公表してしまえとさえ思っているのだが、それが伝わらないのが不満といえば不満であるし、ホープ自身に直接言わずにエクレールに言うあたりに、特別腹が立つ。
「とりあえず、そういう人間を排除できる力がないのがつらいところですね」
「手段を選ぶ気のない発言はやめたほうがいいぞ。これからの進退にかかわる」
そんな遣り取りをしている間にも、野次馬の声が耳に障る。
「あれ、でもエストハイムさんって婚約者いなかったっけ? ほら、秘書だか助手だかっていう」
「えぇ、嘘、じゃあ浮気?」
「え、本人じゃなくて?」
「婚約者ならもうちょっと隠すでしょ! えぇ、やだぁ、エストハイムさんそんな人だったなんて、ちょっと幻滅」
婚約者本人ですが何か!? と文句を言いたい気分でいっぱいになっているところに、さらなる追い討ちがかかる。
「それもう週刊誌に売っちゃえば? ほら、週刊センなんとかみたいな」
写真撮って売っちゃえば? なんて面倒くさそうに密談をしている女性たちに、否応にもふつふつと怒りが沸いてくる。
何年この幸せを望んでいたと思っているのか。千年越えだ。自発的に週刊誌に垂れ流すぶんには問題ないのだが、二人のことをまったく知らない人間に垂れ流されれば、事実の歪曲は免れない。色仕掛けとか、週刊誌に売るとか、そんなことを彼女の口から言わせたくなかった。言わせるつもりもなかった。
「……それで、聞きたいんだが。婚約者ってなんだ。まだ私たちはそこまでじゃないだろう? 勝手に言いふらしていたのか」
その問いには堂々と胸を張る。まだ冗談めいたプロポーズしかしていないが、そう遠くない未来にそうなる予定だからである。
「ええ。僕が勝手に言いふらしていました」
「何故だ? ……私に一言も相談せずに」
「どうしても一緒にいたかったから。……僕の婚約者、っていうことにすれば、他の人間に言い寄られることもないでしょう?」
「だが、現にお前は言い寄られているだろう? なんの効果もなければ、無理に嘘をつく必要もないと思うが」
いくらエクレールに言い寄る男がいなくなったとしても、ホープ自身に付き纏う人間がいる限り、安泰とは言いがたい。それをすっかり忘れていた。憤りも怒りも、彼女に言葉の刃を投げつけた人間たちだけに向かうものではない。今彼女に告白されるまで知るすべもなく、外野共にそんな好き勝手な憶測を言わせるままで、有効な対策すら立てられなかった自分に対して向いていた。
「ごめんなさい。僕が知らなければならなかったのに。……こんなに一緒にいるのに」
「私が言わなかっただけだ。……お前の研究を妨げたくないし、もう慣れた。他に婚約者も秘書もいないんだろう?」
「当たり前ですよ! 僕にはあなただけです。あのときから……あの、ヴァイルピークスであなたが守ってくれた時から、ずっと、永遠に」
それは愛が重いな、とエクレールが笑った。その柔らかな身体をぎゅっと抱きしめて、囁く。
「あなたと恋人同士、というものを楽しんでみたかったんです。だから外堀から埋めるようなまねをしたんです。……でも、いっそのこと、週刊誌に僕から垂れ流してしまいましょうか」
それを聞いたエクレールが呆れたように仕方ないなと溜め息を吐く。
「私は玄関先で張り込まれるのはごめんだな。お前の家に張り込ませればいいんじゃないか?」
「そうしたら僕の家でお泊り出来なくなっちゃいますよ」
「じゃあ、うちに来るか? お前の家で出来ないなら、……まぁ大分狭い部屋だが私の家ならまだマシだろう。すぐにはマスコミも気が付かないだろうし。……隣人の声はたまにうるさいがな」
彼女の住むアパートは、この国のアパートにはよくあることだが壁が薄いらしい。騒いでいる声も何もかもが聞こえるため、たまに耳栓を使っている……というのはエクレールの言である。そんなに壁の薄いアパートに住まわせて、ホープとしてはセキュリティやプライバシーが心配で心配でならないのだが、同じ職場の同じ研究室、室長と助手という関係のせいでなかなか同居に持ち込めない。
「……やっぱり一緒に住みましょうよ。それで週刊誌の張り込みが来たら惚気ましょうよ。そういうの夢だったんです」
「だから転職する気はないって言っているだろ」
「転職しないで僕と一緒に住みましょ?」
「それはいろいろうるさいだろ、外野が」
外野なんてどうでもいいです、とさらにぎゅうぎゅうエクレールを抱きしめていると、白い指先が腕をはたいた。
「どうでもよくはないだろ。……それで、結局私はその下着を買わなきゃいけないのか?」
つやつやと光る紅い唇が、まるで誘うようにホープの近くに寄せられる。普段外でこんなことしないのになぁと嬉しく思いつつ顔を寄せると、外野がうそぉ、と悲鳴が上がる。
(こそこそするんなら、もっと隠せばいいのに)
どうせ隠す気もないんだろう、と思いながら唇に触れようとすると、指先で押し返される。
「いいじゃないですか、ほら、あなたは僕の婚約者なんだし」
不届きな外野にも聞こえるようにはっきりと声に出せば、彼女の頬が赤く染まる。そのさまを見るだけで、もう外野の様子などどうでもよくなっていた。
「僕のために、買ってください」
この人は僕のものだ。誰が奪おうとしても、僕たちの絆に立ち入れるはずがない。そんな優越感を覚えながら、ホープはエクレールの額に唇を押し当てる。
「ホープ!」
きっと軽く睨む彼女の蒼の瞳はどこまでも澄んでいて、反射的に青い下着も買ってもらおうと思いついた。原色ではない、澄んだ湖面の色の下着。
「青いのも買いましょうよ。……サックス、っていうんでしたっけ」
「そうだが……話を逸らすんじゃない。女ばっかりいる下着屋でそういうことをするなと言っているんだ。そういうところからマスコミにすっぱ抜かれたりするんだからな? 休暇明けに掛かってくる電話は八割私とお前の長期休暇の内容だからな? 今から私が保証しておいてやる」
実は一度、エクレールとデートしているところにマスコミと鉢合わせたことがある。幸いその記者が二人の知り合い……以前前の世界について話したことのある人間だったから、なんだか妙に輝いた微笑みのまま見逃してくれたのだ。結局その時は写真を取られることもなく、インターネット上に情報が流出することもなく、平穏無事ではあった。だが、いつまでもそうだとは限らない。
「……そうでしょうね」
二週間の休暇。今日がその一日目になるわけだが、二週間家でじっとしている気もない。二人でどこか遊びに行きたい。そうなれば、きっと人の眼は避けて通れないだろうし、件の記者のように見逃してくれるほどすべての記者が甘いわけではない。自分の欲望のままに動けないのは少しばかり悲しくはあるが、それでも二人を守るためだ。
「エクレールさんが僕の為の勝負下着を買ってくれたら約束します」
「……まったく」
仕方がないな、と彼女は溜め息を吐いた。ホープの手の中にある下着を奪い取り、サイズを確かめる。僅かに顔を顰めて、呆れたように口を開く。
「お前、これサイズ違うぞ」
「えっ」
そのサイズで合っていた筈なのに、と首を傾げれば、エクレールがさらに問いかける。
「どこにあった?」
「えと、そこです。……白の、」
「あぁ、これか」
暫くラックをごそごそと漁っていた彼女は、しかし新しい下着を持ち出すことなくホープに手渡す。
「それが私のサイズだ。……間違えるなよ」
「え、は、はい」
反射的に受け取って頷くと、彼女は満足そうにうなずいて、また下着を受け取った。
「エクレールさん、あの」
「カゴ、頼めるか」
「あ、はい」
言われたとおり手近にあるカゴを渡すと、ホープがおねだりした下着がぽんと放り込まれる。
「エクレールさん、蒼いのも」
ついでにおねだりすると、有無を言わせない口調でぴしゃりと言い切られる。
「色違いは買わない」
「じゃあほら、このフリル付きのやつにしましょう。総レースとかじゃないですけど、可愛いでしょう? ほらここ、ぱんつの紐なんてこれシルクのリボンですよ!」
手に取って白い下着の横にあった、デザインが違う下着を勧めるも、エクレールは首を横に振る。
「後は私の趣味で買わせてもらうからな」
「そんなぁ……」
「その代わり、後で着てやるから」
それならまだいいかなと頷いて、ふと首を傾げた。何やら誤魔化された気がする。
「ねぇ、エクレールさん」
「なんだ」
「下着のサイズ、なんですけど」
それだけで彼女は察してくれたらしい。ホープの耳元に唇を寄せて、小さな声で教えてくれた。
「お前に知られていることまで、外野に知られたくない。……ダメか?」
「駄目じゃにゃいです!」
ダイレクトに耳元に吹き込まれる吐息と声に、自分の声が裏返る。格好悪いとは思ったのだが、エクレールはそうは思わなかったらしい。
「なら、良かった」
くすりと小さく笑みを零して、彼女は言う。その笑顔が愛らしくて、ホープもつられて微笑んだ。
「ちゃんとあれ、後で着てくださいね」
仕方ないな、とエクレールがまた笑う。彼女の為なら、下着代ぐらいたっぷり払わせてもらってもばちは当たらないだろう、とにこにこしながら取り出した財布は、他ならぬ彼女自身の手によってホープのカバンの中に逆戻りした。ちょっと悲しかった。
☆ ☆ ☆
その夜のことである。
「エクレールさん、お風呂どうぞ」
自分の寝室にエクレールを呼びに行くと、彼女は下着を袋から出している最中だった。だいたいどんな下着を買ったかは知っているので、部屋に入ったところで彼女も特段怒ることはない。
「ああ、先に入ってくれ」
「だってエクレールさん、今日は疲れたでしょう?」
そうは言ってみたものの、家主が先に入れと言われてしまってはどうしようもない。
「……一緒に入りますか?」
「また今度な」
「じゃあ明日」
食い下がれば今度って言ってるだろ、と怒られてしまう。ちょっと悲しい気分になりながら、ホープはバスルームへととぼとぼ向かった。着ているものを全部脱ぎ捨てて、バスルームに入る。アロマオイルを垂らした湯船に浸かりながら、天井を見上げる。
「今日、エクレールさん……着てくれるかな」
下着のことである。昨晩ぐちゃぐちゃにしてしまったメイド服は洗って、既に乾いている。流石に外に出るときには着てもらえないので、今日は一日普段着でいてもらったことになる。
メイド服だけならばきっと着てくれると思うのだ。問題は下着である。結局あの白い下着以外は彼女の趣味であるらしい淡いパステルカラーの、総レースでもサイドリボンでもない(ホープから言わせれば)シンプルな下着を購入していた。エクレールが選んだ下着だ、どんなものだって彼女が着さえすれば何でも似合うと思うのだが、ホープのよこしまな希望を断るときに言ってくれたのだ。
『後で着てやるから』
エクレールに限って約束を違えることはしないだろうが、おそらく明るい場所では見せてくれまい。今までだって穿いている下着を見せてくれたことがないのだ、そこまでしっかり念を押しておけばよかった、と今さらながら後悔する。
「……」
ぶくぶくとお湯に顔を沈めながら考える。下着が見たいのは、何もよこしまな心からだけではない。彼女の恋人だという特権、優越感をまわりに振り撒きたいというのもあった。
(……エクレールさんのすべてを知っているつもりだった)
趣味嗜好も、生年月日も、身長体重も、スリーサイズも知っている。生活スタイルはおろか夜の事情だって知っているのだから、知らないことなんて全くないと思っていた。
(僕の知らないところであんな目に遭っているなんて……知らなかった)
どうして気づかなかったのだろう。
エクレールがひた隠しにしていたから?
ホープの耳に入らないようにしていたから?
(でも……それなら言ってほしかった。僕は、あなたの恋人なのに……)
今夜は無性に彼女を貪りたくてたまらなかった。
(すき、なのに。全部、僕のものにしたい)
(僕の色に、あなたを染めたい)
自分だけの、女神。いつだって背中を押してくれた。彼女の言葉を支えに、ずっと生きてきた。
(ブーニベルゼがライトさんを欲しがったのは、きっと僕がずっとあの人を欲しかったからかもしれない。……でも、渡さない。誰にも)
執着にも近い恋心を、メイド服を着たエクレールは受け取ってくれるのだろうか。自信を持って受け止めてくれるとは胸を張れないけれど、もしかしたら今ならその愛を受け取って、同じだけ愛情を返してくれるのではないだろうか、と思えた。
続く
C90新刊のWEB版になります。
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
LRFF13シークレットエンディング後、とてもワーカーホリックなホープ君がライトさんにとあるお願いをする話です。
同人誌版は後日BOOTHにて通販予定です。(エロシーンが大幅増量の予定です)
妄想による職業・世界観の捏造がございます。
しゅるしゅるという衣擦れの音を聞きながら、ホープの胸がどきどきと早鐘を打ち鳴らす。絶対に似合っているだろうし、清楚で可憐な様が見られるのは嬉しい。ゆっくり爪先からドレスに足を入れて、するすると白い肌を隠していくさまを、細い指が白いエプロンのリボンを結ぶさまを想像するだけで堪らなくなって、エクレールさぁん、と甘えた声でホープはバスルームのドアに頭を擦り付けた。
「なんだ、ホープ」
何かあったか、と彼女がドアの向こうから問いかけてくる。
「もう待てないです」
「もうちょっとだから……待ってくれ」
その言葉はどうやら嘘ではないらしく、すぐにドアが開く。
「すまなかった、ホープ。待たせたな」
その向こうには、ヴィクトリアンタイプのメイド服を纏ったエクレールが立っていた。
「エクレールさん……」
端的に言えば、想像以上だった。フリルのカチューシャを乗せて艶やかに光る薔薇色の髪も、機能美と可憐さを両立させながらも上半身のラインをあでやかに際立たせている。彼女がドレスの裾を持ち上げると白い素足が露わになった。ぼうっと見とれていると、エクレールはちょっとだけ困ったような表情になって、ふっくらと艶やかな唇がそうか、と動く。ドレスの裾をチョンと摘んだまま、彼女はぺこりとお辞儀をした。
「お待たせいたしました、ご主人様」
真っ白なふくらはぎ。細い足首。もう、耐えられそうにない。突っ立っていないで早く風呂に入れ、という優しい言葉も頭に入らない。
「私は先に寝室で待っている……―――っ!?」
耐えられなくて、その言葉でホープの中で何かが切れた。大股に歩み寄って柔らかい身体を抱き締める。赤く色づいた頬を手のひらで包んで、瑞々しい唇に己のそれを重ねた。
「……!」
必死に塗った口紅ごと舐めとるように甘い香りのするそこを食む。ぬるりと口内に舌を滑らせれば、突然のことに小さな舌が逃げ惑う。捕まえて絡めると、エクレールが鼻から抜けるように甘く、高くて小さなうめき声をあげた。とんと小さく自分の胸を叩かれるのを合図に唇を解放すると、頬を真っ赤に染め上げて潤んだ眼差しで彼女がこちらを睨む。
「我慢、出来ないです」
「おい、ホープ……っ」
問答無用。彼女をひょいと横抱きにして、ホープは一目散に寝室を目指した。可愛らしい抗議の声はきちんと聞こえているが、この際聞かなかったことにする。寝室のドアを開ければ、腕の中のエクレールが僅かに身じろいだ。
「ホープ」
「大丈夫です、優しくします」
そんなことは知ってる! と怒られても、ベッドに向かうホープの歩みは止まらない。
「あ……」
目的地について、衝撃のないように優しくベッドに降ろすと、これからどうなるのか分かっているように彼女は頬を染め上げた。
「寝るって言っただろ」
「だって、興奮しちゃったんです」
ねえ、と柔らかな身体にのし掛かると、縋るように白い指先がホープの胸をなぞる。それからゆっくりと頬を撫でられて……額をぴん、と弾かれた。痛い。
「痛いです……」
「お前、風呂はどうした」
「う……」
すっかり忘れていた。本当は我慢なんて効くはずもないのだが、このままベッドに雪崩れ込みたいと見上げても、彼女は許してくれなかった。
「駄目だ。風呂に入って汗を流してこい。……でないとこのまま寝る」
正直に白状すると、ホープとしてはその方が困る。理性のタガなんてほぼ外れているのに、一晩中お預けなんて食らってしまったら明日は買い出しどころの騒ぎではないだろう。
「本当に待っててくれますか?」
「当たり前だろ。……そのためのメイド服なんだろう?」
前の世界ではまず見られなかったような悪戯っぽい微笑みに、ホープもくすりと微笑み返した。健全に似合うと思ったのは嘘ではないが、確かにそう言った目的が含まれていたことも否定しない。この変なところで聡明な恋人はそのあたりもよく分かって付き合ってくれるのが、本当に嬉しかった。
「……分かりました。急いでお風呂に入ってきますね。寝ちゃったら嫌ですよ」
「寝るもんか」
苦笑交じりの返答に満足して、ホープはいそいそとバスルームに向かった。
「……あ」
風呂から上がった後のことで頭がいっぱいで、着替えるべき下着のこともすっかり忘れて。
☆ ☆ ☆
辛うじてバスルームに置きっぱなしにしていたバスローヴを羽織って、今さらながら赤面して寝室に戻る。ベッドの上で大人しく待っていてくれたエクレールが出迎えてくれた。
「お前、着替え忘れてただろ」
「忘れてました」
てへ、と笑ってみせると、彼女はまったくお前は、と苦く笑う。
「後で穿くんだろうな?」
「もちろんです! そんな、ぱんつ穿かないと落ち着きませんし……」
「ならいい」
頷いた彼女の頬に手のひらを滑らせて、ふっくらした唇にもう一度口付ける。腰を引き寄せてシーツの海に沈めれば、鼻から抜ける甘い声とともにしなやかな腕がホープの背に回された。舌をねじ込んで思う存分口内を堪能して唇を離せば、二人の間に透明な糸が伝う。
「ねぇ、……いい、ですか」
「……ああ」
頬を赤く染めたその言葉が合図だった。メイド服の上から丸く張り出している胸に優しく触れる。そのままゆっくりと撫でさすると、エクレールがくすぐったそうに身を捩った。
「……っ、こら」
「こっちのほうがいいですか?」
指先に力を込めると、彼女が僅かに息を詰める。そのままむにむにと手の動きに合わせて柔らかく形を変えるその場所を思うさま揉み倒す。
「柔らかい、です」
「ん……」
身体を小さく震わせながら、時折はぁ、と息を荒げるのが実に色っぽい。普段の研究者然とした姿からは想像もできない、ホープだけが知っているエクレールの姿だ。ドレスの襟元のボタンに手を掛けて、彼女の耳元で囁く。
「優しく、します」
「……知ってる」
その返事を聞くや否や、ホープは目の前のボタンをぷちりと外した。三つ目までは容易に外せたのだが、その下はエプロンが邪魔で外せない。かといって買ったばかりのメイド服を破いてしまうのも気が引ける。だが脱がすのも……と迷っていると、エクレールがエプロンの中に手を突っ込んで、ぷちぷちと残りのボタンを外してしまった。
「これでどうだ? ……ご主人さま」
「とてもイイ仕事だと思います」
ありがとうございます、とエプロンの下に隠れた双丘に顔を突っ込むと、そのままぎゅっと頭を抱え込まれる。柔らかくて温かくて、何とも幸せな心地がする。
「ほら、このまま寝てしまえ」
「嫌ですよ」
優しい声に優しく返して、エプロン越しにふにゅんと胸を包み込む。手触りからするとどうやらブラジャーを着けているようなので、後ろに手を伸ばしてドレス越しにホックを外してみる。
「あっ」
「ブラジャー、着けてたら寝苦しいんじゃないですか?」
エプロンのリボンを解きながら囁くと、頬を赤く染めたエクレールはぷいとそっぽを向いてしまった。白くて小さな耳がほんのり赤く染まっている。おいしそう、と思ったときにはその可愛らしい耳をぺろりと舐めていた。
「ふ、ん……っ!」
「ご主人様の質問に答えてくれないんですか?」
「誰、が」
「だってエクレールさんがそう言ったんじゃないですか。……ね?」
何の飾り気も傷跡もない、滑らかな耳朶を舐めたり甘噛みしたりしながら囁いていると、もぞりと彼女の足元が動く。
「おしえて、エクレール」
たっぷり吐息を含ませた声を吹き込めば、エクレールは歯を食いしばって大きく震えた。
「ホープ、の……ば、か……っ!」
荒い息を吐きながら抗議する姿は劣情を煽りこそすれ、ホープのそういうやる気を削ぐ効果は何一つない。肩紐を留めているボタンを外せば、あっさりとエプロンは彼女の前を露わにした。もう一度腰のリボンを結んで、露わになった場所に手を伸ばす。何度触れても柔らかい双丘は、しっとりと手に吸い付いてくる。
「やらかい、です」
「あ、ああ」
震える声を漏らす恋人の両の乳房をたっぷりと手のひらで堪能してから、しっかりと主張してくる蕾を指先で弾く。
「……っ!」
「ここ、気持ちいい、ですね?」
「や、ぁっ」
勢いよく首を横に振りながらも甘い声を殺しきれないエクレールを、嘘ばっかり、と責め立てる。
「ここは気持ちいいって言ってますよ?」
きゅっと頂を摘んでやれば、耐えきれないというように背中が反った。もう一度シーツの海に沈めてから、ボタンが外されたドレスの前を肌蹴て、片方の膨らみを出してやる。それから濃いピンク色に主張している蕾に唇を寄せた。
「あ……ホープ……」
悩ましげに弾んだ吐息に腰のあたりがずんと重くなるのを感じる。舌を這わせれば、いやいやと首を横に振りながら嬌声が高く漏れる。甘噛みすれば、きっと彼女は耐えられない。だからちゅうっと強く吸い上げる。ホープの肩に置かれた手は、懸命に押しのけようとしているように見えながら、もう力が入っていない。
「あ、んん……!」
「駄目ですよ、噛んじゃ」
エクレールがきゅっと唇を噛み締める。それを咎めて、唾液に濡れた唇を人差し指で擽る。唇の力が緩んだ隙に、その温かな口内に指を潜り込ませた。それと同時に吸っていた蕾にかり、と歯を立てる。
「あ、ああぁっ!」
細い腰がびくびくと跳ねて、ホープのバスローヴを握る指先に力が籠もる。指に僅かに歯が当たったものの、彼女はすぐに可愛らしい声を聞かせてくれた。
「気持ちよかったですか?」
「……それ、は……」
まだエクレールの中で羞恥心が捨てきれないらしい。唾液に濡れた赤い頂を弾いてやると、ひぅ、と高い声が漏れる。このまま何もわからなくなるぐらいに二人でドロドロに溶けてしまえば、恥ずかしがりやの彼女も素直になってくれるだろうか。なってくれるとは思うのだが、如何せん彼女がそうなる頃には自分も何もわからなくなって、無我夢中で愛を貪っているためによく覚えていないのである。
「じゃあ、気持ちよくなりましょうね」
ついとお腹を撫でると、赤い頬がますます赤くなる。そのまま手は下に。スカートを持ち上げて、淡いクリーム色の下着に口付ける。
「可愛い」
賢明に閉じようとする脚の間にはホープの身体が挟まっている。ぽすぽすと踵で軽く蹴ってくる恋人の太ももをがっちり抱え込んで、右の内腿に口付けた。
「い、やだ……っ」
「嫌、ですか?」
ぺろぺろと舌を這わせながら聞けば、恥ずかしい、と答えが返ってくる。とはいえこういうことを知らない仲ではない。行きつくところへは行っているのだから、彼女の身体は僅かな期待にふるりと震えている。今だってホープに敏感な太ももを舐められながら、びくびくと身体を震わせて耐えているのだ。その我慢している様がやはりどうしようもなくいやらしく見えて、抱えていた片足を肩に乗せると、その指先でショーツのクロッチをなぞった。温かさと、にじみ出る湿り気が指に伝わる。
「濡れて、ますね」
「ぁ……は、ぁ……ほーぷが、あんなこと、するから……あぁっ!」
無我夢中でその場所を弄りながら、ホープは自分の腹の奥からぞくぞくと震えが走るのを感じた。バスローヴの帯を乱暴に解いて脱ぎ捨てると、エクレールに覆い被さって唇を重ねる。
「ん、……ふ、ぁ……」
貪りながら下着を脱がせて、柔らかい尻を揉みしだく。嫌がって逃げ出そうとする身体を捕まえたまま、その奥の泉へと指先を伸ばした。温かい滑りに誘われるようにつぷりと指が沈む。喉の奥でエクレールが声にならない嬌声を揚げた。唇を離せば、彼女は身を捩って逃げようとする。
「逃げないで」
「だ、って……これ、汚れるだろ」
結構高いんだろう、と言われて、それもそうか、と納得してしまう。確かに安くはなかった。元々コスプレ用に売っていたものではなく、急にメイドを雇うことになった家の為に売っていたものだ。したがって生地の材質もいいし、ボタン一つとっても細かい装飾が施されている。本当にメイドを雇う家ならばデザインにもっと細かい指定ができるらしいが、出来合いのものでも十二分に良いものである。
だがしかし、だ。
「駄目です。……だって、僕のこと、監視してくれるんでしょう?」
「だからってこれじゃなくてもいいだろ!?」
「それこそ駄目ですよ。これじゃなきゃ僕、ちゃんと寝ません。……それに、この方が気持ちいいんじゃないですか?」
瞬時にエクレールの頬がリンゴもかくやというほどに染まる。初めての時から今に至るまで彼女は一言もそういうプレイが好きとは言わなかったが、まさか我慢していたのだろうか。
「……あの」
「おまえ、はっ!」
むにににに、と頬を引っ張られて、ホープは堪らず悲鳴を上げた。
「ひゅわあああ、いたいれふ!」
「どうして! 余計なことを! 言うんだ!」
ぶにっと力の限り引っ張られた頬は、解放されたときにはじんじんと小さな痛みが残っていた。素直にごめんなさいと謝れば、そっぽを向かれる。
「エクレールさん?」
「もう、今日は寝る」
「えっ」
ここまで来てお預けなんて酷い、とショックを受ける間もなく、気付けばホープはエクレールに覆い被さっていた。
「駄目ですよ、エクレールさん。……ご主人様の顔を引っ張るなんて、お仕置きが必要、ですよね?」
「まだそのネタを引っ張るのか!?」
「引っ張りますよ? だって、こうすれば今夜は二人きりで仲良くできるでしょ?」
お前、とまた身を捩る彼女の泉に、再び指先を差し入れる。少しなぞれば腰が跳ねて、とろりと蜜が零れてくる。その滑りの力を借りて、差し入れていた指を二本、ぐっと奥まで差し込んだ。
「あ……っ」
「ほら、気持ちよくなりましょう?」
滴る蜜を指先に纏わせてエクレールの一番敏感な芽に親指の腹を這わせると、甘い声は一層高くなる。
「気持ちいいですか?」
耳元で囁くと、僅かに頭がこくりと頷く。それに気をよくして探るように刺激を加えれば、スカートをめくられて露わになった白い腰が誘うように怪しく揺れた。
「ホープ」
涙の膜の揺蕩う蒼い瞳がホープを見つめる。何度も口づけを交わしたせいでグロスの取れかけた唇が、ホープを呼ぶ。
「終わったら、本当に寝るんだろうな……?」
「ちゃんと寝ますよ」
そう言って指を引き抜けば、その指先に名残惜しげに蜜が纏わりつく。彼女の腰を抱いて、入り口に己の怒張を宛がう。
「ね、いい、ですか……?」
「ああ。……いい」
その甘く掠れた声に誘われるようにゆっくりと侵入すると、鋭く息を吐く音と共にエクレールの身体がぐっと弓なりに反った。
「……だいじょうぶ、ですか」
ぎゅうぎゅうと搾り取らんばかりに締め付けてくる彼女の中に、ホープも息を詰めながら問いかける。まるで金魚のように唇をはくはくと動かしながら、それでも頷く恋人がいじらしい。
「……動きますよ」
「ん……」
部屋の中が快適であることに越したことはないと設置したエアコンの稼働も空しく、二人して汗だくになりながら動き出す。上になったり下になったりしながら何度も欲望を吐き出して、結局エクレールが一番高い嬌声を上げてぐったりとシーツに沈み込むころには二人とも疲労困憊の体だった。ホープとしては非常に満足したけれども。
☆ ☆ ☆
気が付けばうとうとと微睡んでいたらしい。ぶにぶにと頬を引っ張られる感触に目を覚ますと、恋人がホープの頬をふくれっ面で引っ張っていた。
「あの、怒ってます……?」
恐る恐るホープが問い掛けると、かすれた声が怒ってない、と返ってくる。水の入ったグラスを差し出せば、エクレールはのろのろと起き上がって飲み干した。唇の端から溢れた水が白い肌をつうと伝う様に、どうしようもなく身体が熱くなる。冷たいものでも食べれば少しは治まるかと部屋を出ようとすると、気だるげにこちらを見つめるエクレールと目があった。
「どうした……?」
「アイスキャンディ、食べますか? 暑すぎて買いだめしてたんです」
持ってきますよ、と微笑みかけると、彼女はこくんと頷いた。その様は先程の乱れ方からは想像もできないくらいにいとけなくて、ますますホープの口許が緩む。何て可愛い人なんだろうと幸せを噛み締めながらキッチンに向かい、冷凍庫を開けると……少し前に買った練乳アイスキャンディの箱が鎮座していた。
「練乳……」
このアイスキャンディを買った日は非常に暑い夜だったのも、あまりに疲れていて甘いものが食べたかったのも認めよう。エクレールさんも練乳好きかな、と思ったのも認めよう。買ったその時は特になにも考えず、甘くて美味しいアイスキャンディが手に入ったことに大喜びだったのだ。決して疚しい想像をして買った訳ではない。……のだが、先程まで彼女と仲良くしていたホープの頭の中では、そういう妄想がぐるぐると繰り広げられていた。ちょっと細めの白いアイスキャンディをくわえる艶々の唇とか、溶け出てきた練乳や手首を伝うアイスの雫が落ちてしまわないように舐めとる小さな舌だとか、齧ったキャンディを呑み込む喉の動きだとか、色んなものがもわもわと脳裏に渦巻いている。ただでさえ先程の余韻が残っているのに更に燃料が投下されて、興奮するなという方が無理というものだ。
「わぁぁあああ!!!」
思わず悲鳴をあげてごんごんと額を冷蔵庫にぶつけ、自分にだけ都合のよい、大分いやらしい妄想を振り払う。自分を沈めるためにアイスキャンディを取りに来たのに、これでは台無しだ。
「早く持ってこう……」
額をさすりながらアイスキャンディを二本取り出して、冷凍庫のドアを閉める。寝室に戻ると、軽く身なりを整えたらしいエクレールがスカートの裾を摘まんで出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
可愛い。
「僕、幸せです」
素直に呟けば、ちらりと軽く睨まれる。
「二週間だけだからな」
勿論構いませんとも。ご主人様とメイドが本職ではないのだから、普段は恋人同士がいい。それが分かっているから、きっと彼女も引き受けてくれたのだろう。
「で、……なんで練乳」
ホープの手にあるものに目を留めたエクレールは、露骨に怪訝そうな顔をする。
「いえあの違うんです! たまたま買ったのが! 練乳だったんです!」
「珍しいな」
いつもはアイスコーヒーで済ませるやつが、と言われて、そういえばそうだと思い当たる。基本的にホープは職場では甘いものは食べない。学生の頃からそうだったが、両親のくれるものや仕事でもらうもの以外は食べ物をもらったことがない。なまじ女性に人気があったからクリスマスには山ほどお誘いが来たし、「もらってください」と女性から綺麗にラッピングされたファッジやチョコレート、クッキーの類を差し出されることも多かった。
それらをすべて受け取らなかったのは、エクレールがこの世界に生きている、という確信があったからだ。いわば一種の願掛けのようなもので、研究室の教授や両親にも「どうしても会いたい人がいるから、甘いものを我慢する」と宣言してなるべく甘味を避けていた。友人には大層心配されたし、モテるからとやっかみを言われたこともあった。
今でも甘いものをあまり食べないのは、その時の癖がまだ残っているのと、単純にエクレールもあまり食べないからである。再会する前のことはあまり教えてくれないが、モデルのバイトをしたことがあるとセラに教えてもらったことがある。おそらくその時の習慣が残っているのだろう。
そのホープがアイスキャンディを買った、というのがどうやら彼女には不思議らしい。これからはもう少し積極的に甘いものを食べるべきかなぁと思いながらも、練乳アイスキャンディを買った理由を口にする。
「一番甘いのが食べたくて」
「それだけ毎日遅くまで仕事をしていればそれは疲れるだろうな」
私も買って帰ればよかった、とぼやくエクレールにアイスキャンディを渡すと、先程までホープと絡めあっていた小さな舌が白くて硬い氷の塊をぺろりと舐めた。これはとんでもないものを渡してしまった。彼女は恐らくそんなつもりで舐めているわけではあるまいに、どうしても先程の下世話な妄想が頭をもたげる。思わずごくりと唾を飲み込むと、青い瞳がちらりとこちらを向く。
「何見てる? ……溶けるぞ」
「わひゃい!」
その言葉にホープも慌ててアイスキャンディを口に運ぶ。冷房が効いていても少しだけ溶けていた。しゃりしゃりと音を立てて食べ進め、練乳の甘さを堪能する。冷えていると甘さは感じにくいが、恋人と食べているからか十分に甘い。しあわせ、なんて感慨に浸っていると、あっ、と焦ったような声が耳に入った。
「エクレールさん?」
「れ、練乳が溶けただけだ、気にするな」
見ればアイスキャンディを持つ彼女の指に、とろりと真っ白い練乳が垂れている。ぱくりと指をくわえて練乳を舐めとった後、彼女は慌てて氷の塊を口に運ぶ。もうそれだけでホープはどうしたらいいか分からなくなって、とにかく自分の分のアイスキャンディを口に運んだ。お腹の中は冷えても、多分別のところは冷えてくれない。何故なら目の前に赤くて小さな舌で白い練乳をぺろぺろと舐めとっているエクレールがいるからである。
「ホープ……?」
何時の間にやらアイスキャンディを食べ終えて、彼女が不思議そうな目でこちらを見ている。
「お前、さっきから変だぞ? そんな据わった眼をして……」
「だ、大丈夫です。ちょっとヨコシマな妄想をしてただけですから」
「ヨコシマな妄想ってお前、まさか」
ぽろりと零した本音に何かを察したのか、エクレールの眼がついとホープの下半身に向く。そういえば下着を穿き忘れていたと目を移せば、興奮したせいか何だか股間が立派なことになっている。
「あの……お前、この後はもう寝るんだよな!? 寝ると言ってくれご主人様」
「これで寝ろと言いますか!? 無理ですよ!」
あまりに真剣な表情でそんなことを言われて思わず訴えかけると、エクレールは頬を真っ赤に染め上げる。そのままじっとホープの眼を見つめて、おずおずと口を開いた。
「どうしたら、寝るんだ……」
「どうしたらって、それは……ですね」
下半身の立派なものが落ち着かない限り寝られないし、このまま放っておいてはどうやったって落ち着かない。かといってエクレールの前で「すみませんトイレで落ち着けてきます」なんていうのは寂しいし格好悪いような気がする。が、彼女の先ほどの言葉を聞く限り、多分今夜はもう寝てほしいのだろう。
「手伝っていただければ……その、多分」
「多分ってなんだ、多分って」
胡散臭そうな目をしながら、それでも彼女はホープの欲望の先端に手を伸ばす。
「……とにかく、落ち着けば寝るんだな?」
「落ち着けば、ですけど」
「わかった。……メイドの仕事には多分含まれていないと思うがな。私はメイドじゃなくてお前の……その、恋人、だから」
「エクレールさん……」
恋人であるというその言葉が、素直に嬉しい。エクレールはきゅっと眉間に皺を寄せて、あのな、と不満げな声を上げる。
「もう私は眠いんだ。落ち着かないと寝れないっていうからやっているだけで、お前が落ち着いたら寝るからな」
「わかってますよぅ」
おそらく本当に眠いのだろう、少し機嫌の悪そうな声に唇を尖らせると、彼女はならいい、とだけ言ってホープのアレを指先でなぞった。
「今日は本当にこれで寝るんだぞ」
☆☆☆
「……ごめんなさい、やり過ぎました?」
「今日だけで……何回目だ……」
その言葉すらもう疲れ切っていて、この情事に彼女の残った体力を使わせてしまったと思い当たる。
「だって、ここのところ、ずっと仲良くしてませんでしたし……研究室は人がいないから、昨日も仮眠室に連れ込みたい衝動と戦っていたんですよ」
そう。エストハイム研究室にはエクレールのほかに職員がいない。就職したいと願い出る者(特に女性が多かった)もいたし、推薦状も山のように届いていたのだが、ホープはエクレールを除いては一度として助手というものを採用したことがない。
何も研究会で知り合った研究者から助手に熱い眼差しを向けられたと愚痴をこぼされたことがあるからではない。単にエクレールを探すという目的に、助手など不要だと思ったからだ。後日件の研究者に恋人を助手にしたと報告したところ、痴情の縺れになりそうな助手などいらないだろうと愚痴られたのだが、確かに一理あると思ったために彼女以外には助手を迎えていないのである。
そんなわけで研究などが長引いたときの為にある仮眠室ではあるが、ホープとエクレール以外は足を踏み入れたことすらない。本当はそこで仲良くしたいな、などと考えてはいたのだが、そうは問屋が卸さない。研究室でも二人きりではあるが、もし仲良くして資料が汚れてしまったら、きっと二人とも後悔する。ならば仮眠室でと企んでいたのだが、そういうわけにもいかない。仮眠室に行くと言えば、エクレールは必然的に電話番をすると言い出すのだ。
故に己の欲望を抑えるのに必死だった、といえば、彼女は気だるげに眼を開けて、そうかという。
「そうですよ。ずっと我慢してたんですから」
「……だからこんなに?」
「そうです。本当は毎日仲良くしたいくらいなのに……」
ぶつぶつと恨みがましくつぶやいていると、けだるげな声が耳を打つ。
「じゃあ、今度泊まるか」
「本当ですか!?」
「……ああ。もっともばれたら大変なことになるだろうがな」
「そんなことは承知の上ですよ!」
「そう、か」
そうですよ! と力説すると、エクレールは嬉しそうにとろりと笑って、眠そうな声でふにゃりと呟く。
「きたい、してる」
「な、な、な」
なんですと!? 期待している!? あまりに嬉しすぎる言葉に一瞬自分の耳を疑った。乱れっぱなしのメイド服に包まれた肩を掴んで揺すって、もう一度言ってほしいと切に願ったが、残念ながら彼女はすでに眠りの淵に落ちていた。規則正しい呼吸を聞きながらホープは自分の口の端が上がるのを感じる。
「がっかりは、絶対にさせませんから」
手放すつもりはない。でも、エクレールが翼を広げて大空を舞う姿が見たい。それは相反する願いだろうか。……なににも囚われない彼女が見たいと願うのに、自分に囚われてほしいと願うのは、果たして罪だろうか。彼女の期待を裏切るつもりなど毛頭ない。それでも、ホープ・エストハイムと結婚などしない方が……彼女は幸せなのだろうか。
「……僕と結婚した方が……幸せですよね?」
一人だけでは答えなど。到底出ようはずもない。それでも、ふとした瞬間に不安と疑念に襲われる。前の世界でホープの前から姿を消した彼女。二十一歳という若さで前の世界でのライトニング……エクレール・ファロンという人生を散らした彼女は、本当はどんな生き方がしたいのだろう。彼女には何が一番必要なのだろう。……それは、ホープに与えられるものだろうか。ホープ自身が持っているものだろうか。
「……なければ、どうなっちゃうのかな」
窓の外では、暗闇の中で木々を渡る風がざわざわと鳴いていた。不安をあおるその音を聞かなかったことにして、彼は無理やり先ほどまでの幸せな気分を思い出す。
「エクレールさんは今ここにいる。……それで、いいじゃないか」
たとえそうでなくとも、今彼女がここにいる現実のほうが重要だ。そう思うことにした。
続く