とある日の遠征途中、海を見た。きらきらと夏の陽の光に当たって輝く、雲一つない空と同じ色の海だ。その色に、何故だか大倶利伽羅はこの場にはいない恋人を思い出した。
大倶利伽羅には恋人がいる。歌仙兼定という打刀だ。藤色の髪に翡翠の色をした瞳をしていて、華やかな印象を持つ刀剣女士である。最初は歌仙に関心などなかったし、むしろ遠巻きに見られていたと言ったほうが正しいだろう。それがとある調査任務でひょんなことから喧嘩になり、……どういう因果か、飲み友達になったはずが恋仲になった。最初はどこか避けていたような歌仙の態度も次第に柔らかくなり、声色や視線に甘いものが混じるようになった。さて大倶利伽羅の態度はどうかと言えば、ほとんど変わらない。もともと他人に干渉されるのを嫌う性質である。だが、歌仙のことに関してはもう無関心ではいられないし、実際無関心を装って、歌仙の話題にじっと耳を澄ましていることが多くなった。それに歌仙が怒るかと言えば、そういうわけでもなかった。眉を垂らして寂しそうに、仕方がないね、と笑うのだ。
(そういえば、海に誘われていたか)
細川と伊達の刀で本丸の近くにある海に行かないかと誘われていたのを思い出す。歌仙から伝えられて、行かないとすげなく返したのが昨日のこと。そのときも、歌仙は寂しそうに、悲しそうに笑って、仕方がないねと言ったのだ。
(……悪いことをしたか……?)
だが、歌仙に断ってもどのみち大倶利伽羅は他の伊達の刀によって連行されるだろう。遠征から帰った後にでも、燭台切が歌仙くんから聞いていると思うけど、と前置きしてこう言うのだろう。
『歌仙くんには断ったみたいだけど、伽羅ちゃんは強制参加だから』
なんという横暴だろうか。拒否権はないのだろうか。同じ厨を預かるものでも、歌仙は大倶利伽羅に何かを誘うとき(だけ)はあんなにも控えめ(人見知り)で、おとなしい(人見知り)だというのに。まるで虎とマルチーズではないか。とはいえ、歌仙には断ってしまったのに、当日しれっと海へ行く面子の中に混ざっていたら、歌仙はどう思うだろう。矜持の高いあの刀は、傷つくのではあるまいか。
(なら、直接歌仙に言ったほうがいいか)
歌仙は恋人なのだ。自分のあずかり知らぬところで傷ついてほしくないし、そんなことを許しはしない。誰かに傷つけられるのも、勝手に傷つくのも許さない。
(帰ったら、どう光忠を躱すかだな)
絶対に一番に歌仙に会う。そうでなければ、悲劇しか待っていないだろう。そう決意を固めて、大倶利伽羅は帰途を急いだ。
本丸に帰りつき、報告を部隊長の一期一振に任せてまっすぐに歌仙の部屋へと急ぐ。
「歌仙」
障子の外からいるか、と声を掛ければ、入っていいよと返事が返ってくる。からりと障子をあけて、その隙間から忍び込む。
「入るぞ」
空いた障子を元通りに閉めれば、冷房のひんやりとした空気が大倶利伽羅を迎え入れる。本を読んでいたらしい歌仙がぱたんと本を閉じて、茶を用意してくれる。
「どうぞ」
「もらうぞ」
冷たい麦茶が遠征で乾いた喉を潤しながら通り過ぎる。一息に飲み干せば、麦茶の入った水差しが傾けられて、もう一杯注がれた。
「遠征で、何かあったのかい」
「いや……」
「そうなのかい? 貴殿は用がなければ来ないから、何かあったのかと……」
何も用がなくて来たわけではない。だが、ふわりと控えめに向けられる笑顔が愛らしくて、一瞬、ほんの一瞬だけ呼吸を忘れた。そのことにはっと気づいて、慌てて口を開く。
「昨日の、海の件だが」
「あ、ああ。……貴殿は、行かないんだろう? 燭台切にはもう話したよ」
「……俺はたぶん強制参加だから、参加する……と、思う」
「そうなのかい……?」
「ああ。光忠ならやる。絶対に俺を引きずっていく」
歌仙がぽかんと口を開いて、それから拗ねたように視線をそらした。
「じゃあ、僕が誘っても、無駄だった、ということじゃないか」
「……いや、そういうわけでは」
「じゃあなんだい」
「……あんたは、俺が行かないと言ったら、行かないでいてくれるか」
「……え」
歌仙は首を傾げる。
「答えろ」
「……行くけど?」
なんということだ。海へ行かないと言ったのは大倶利伽羅なのだから、歌仙が行こうが行くまいが彼女の勝手なのだが、恋人を差し置いて水着姿を見せびらかすのはよろしくない。件の海は本丸付属の土地らしいので関係ないものが紛れ込む心配はないのだが、それでも燭台切や鶴丸に恋人の水着姿を見られるのは我慢しがたい。
「……なら、俺も行く」
「……どうせ貴殿は強制参加だろう」
「問題ない」
まあいい、と歌仙が溜息を吐いた。それから、立ち上がる。
「どうせ何かあったんだろう。……おいで、大倶利伽羅」
誘われたのは歌仙の胸だ。後ろをついていって、布団に横になった彼女の上に覆いかぶさる。袴と帯を解いて、着物を開ける。あらわになった白い胸に顔を押し付けると、そこは柔らかく大倶利伽羅を迎えてくれた。
「重くないか」
「重くないよ」
よしよしと頭を撫でられる。出陣があった日や遠征から帰ってきた日などは決まって歌仙の部屋を訪れて、こうして豊かな胸に包まれるのが彼女と恋人になった大倶利伽羅の日常だった。
「……海の件だけど、貴殿は水着を持っているのかい?」
「持っていない。……明後日だったか? 海」
「そうだよ。……明日、買いに行かなければならないね」
優しい声が耳を打つ。
「あんたはもう買ったのか」
「買ったよ。話を貰ったその日にね、貴殿が喜んでくれそうなやつを」
「そうか」
ならば、上に羽織るものを一枚買ってやる必要があるだろう。
「俺が一枚、羽織るものを買う。だから、ずっとそれを着たままでいろ」
「泳ぐためのものとは思えないから、それは構わないけれど」
「光忠や鶴丸に見せるのは癪だ」
そうかい、と歌仙が笑う。上下する身体に、なぜか海の中にいるような心地がする。
「……遠征から帰る途中、海が見えた」
「おや、いいねぇ。晴れていたかい?」
「ああ。……あんたみたいだと思った」
歌仙の目のいろは、美しい翡翠の色だ。それが、時折青く見えることがある。あの海の色によく似た青い色を、美しい瞳が映すのだ。その時が大倶利伽羅は好きだったし、そういう時を好んで傍にいた。それだけではない。歌仙兼定という刀は、この本丸全員の命をはぐくんでいる。海が多くの命をはぐくむように、本丸全員分の飯を炊き、洗濯をする。彼女は初期刀なのだから、この本丸に招かれた刀は例外なく歌仙に人の身での過ごし方や戦い方を教わる。だからだろうか、彼女は(小夜左文字曰く)人見知りでありながら、多くの刀に好かれていた。その包容力すら、海に似ている。
「あんたは、海だ」
「主が持っていた音楽に女は海、なんて歌詞があったけれど」
「俺の腕の中で違う男の夢など見させるか」
「では、確かめるために今夜は君の腕の中で寝なくてはね」
くすくすと笑うさまが、愛しい。
「僕の部屋の風呂を使うといい。……ここで、待っているから」
海に似ている恋人の胸から身を起こし、立ち上がる。
「いや、自分の部屋で済ませてくる。……すぐ戻るから、待っていろ」
今日の夜は長くなりそうだと、大倶利伽羅はしらず口元を緩めていた。
翌々日、海に行った先で白いビキニ姿の歌仙から一時も離れず、ずっと隣に張り付いていた大倶利伽羅に、小夜左文字が怪訝そうな眼差しを向けていたのはまた別の話である。
おわり
燭台切と歌仙はいわゆる恋仲というやつである。燭台切がこの本丸に降り立ったとき、審神者のそばで迎えてくれたのが歌仙だった。顔見知りだったから世話を焼こうとしてかわされて、指の間をすり抜ける水のように逃げて行く歌仙に恋をしたと気づいたのはいつだったか。愛していると自覚してしまえば迷う暇もなく、歌仙に想いをぶつけに行った。彼は初期刀だ。この本丸の刀は大抵歌仙が迎えていて、人見知りなりに世話をしている。美しい歌仙に世話を焼かれれば、大抵の刀剣男士は彼になつく。そこから懸想をする者がいないとも限らないからだ。さて、果たして歌仙は燭台切の想いを受け入れたかと言えば、そういうわけでもなかった。
☆
布団を片付けて、内番着を身に纏う。昨夜共寝をした熱がまだ身体の奥深くで燻ぶっているようで、なんだか照れくさい。くふ、と笑っていると、歌仙が不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
厨につくと、パンの焼ける匂いと、シチューの匂いが漂ってくる。どうやら今日の朝餉はパンとシチューらしい。扉を開ければ当番の三日月宗近と鶯丸がこちらを向いた。
燭台切光忠にとって、歌仙兼定は昔のお向かいの屋敷の可愛い子、という印象だった。人見知りで、愛らしい童子で、けれど不思議と甘やかしたくなる存在だったのを覚えている。……それだけのはずが、刀剣男士として顕現した今、燭台切の目の前にいるのはすっかり成長した歌仙だった。
「僕は燭台切光忠。青銅の燭台だって切れちゃうんだよ。……うーん、やっぱり格好付かないな」
「燭台切」
「久しぶり、歌仙……くん……!?」
ただし、その姿はどこからどう見ても美しい女性の姿をしている。あれ、と面食らう燭台切に歌仙は至極美しく微笑んで見せる。
「おやおや、どうしたんだい?」
「いやだって、君、それ、その姿」
ああ、これかい、と彼女は自分の姿を見て、事も無げに雅だろう、と首を傾げた。
「昔は男の子じゃなかったかい!?」
「そうだねぇ。……顕現した当初は僕も主もいろいろと問い合わせはしてみたのだけど」
政府からの回答は『本霊がそう判断したのかもしれない』という大変頼りないものだったそうだ。救いは能力そのものに変動があるわけではない、ということで、彼女は今日も近侍として第一部隊長を務めていると言う。
「そうなんだ」
「ああ。顕現した当初は動きづらいこともあったけれど、今はそういうこともないし。……まぁ、露天風呂に入れないのが少々残念だが、不便と言えばそれくらいかな」
歌仙が胸を張ると、重たそうに膨らんだ胸がふるんと揺れる。確かにここまで立派なものであれば、さぞかし人目を惹くだろうし、視線も釘付けになろうというものだ。しかしなぜここまで、とじっくり眺めていると、彼女は居心地が悪そうに一歩後退る。
「燭台切。……君、その、……そういうの、よくないんじゃないかい」
「えっ」
はっと視線を歌仙の顔に戻せば、彼女は戸惑ったような顔をしている。太めの眉をきゅっと寄せて、若干非難の色を滲ませた翡翠の瞳がこちらを見上げる。その表情が非常に悩ましい。こちらを非難しているのにそれすら艶めいているのは、非常に燭台切の理性によろしくない。
「あ、ごめん! つい」
「まぁ、いい、けれど。……気持ちはわかるし、他の男士も同じようなものだったからね」
え、とまた声を上げる。確かに歴史修正主義者を殲滅せよとの命を本霊から預かってきているのだから、こちらの軍勢にも人がいなければ困ってしまう。しかし、他の男士も燭台切のようにじっくりとあの柔らかそうな胸に見入っていたのかと思えば、あまり気分の良いものではない。
「駄目だよ、歌仙くん。君は今、女の子なんだから、ちゃんと自覚した格好しなきゃ」
「え……しかし燭台切」
「前もちゃんと閉めて! ただでさえ見えてるんだから、何かあったら困るだろう?」
歌仙の胸元はどういう構造をしているのかは知らないが、鎖骨から膨らみのはじめにかけて窓が開いている。谷間が少しだけ見えるのが、よくないものを引き寄せてしまいそうだ。柔らかく藤の花のようにうねる長めの髪の毛も、細くて形のいい指も、何もかもが扇情的だ、と思う。ここにいるのは付喪神とはいえ、男連中だ。何かあったらつらい思いをするのは歌仙なのだから、という兄心めいたもので口に出してしまったが、それは彼女の機嫌をどうも損ねたらしい。
「燭台切」
すぅっと彼女の瞳が冷たく光る。
「之定が一振りを侮っているのかい? 女の身では何もできないだろうと? 僕が第一部隊長だと先ほど説明したことは、君の頭に入らなかったのかな?」
すっかり臍を曲げてしまった彼女は、どうしたら機嫌が直るだろうか。慌てることは慌てたが、拗ねてしまえばわかりやすい。もともと少女めいていて可愛らしかった顔は、女性になってしまえば違和感もなく、大輪の花を思わせる。そんな整った容姿でありながら、記憶通りの気の短さと拗ね顔に口の端がほころぶのがわかる。
「なんだい君、にやにやして……ほら、さっさと主のところに行くよ! それからなんでもすればいいだろう」
くるりと外套を翻して部屋を出ようとする歌仙を後ろから抱きしめる。柔らかな髪に鼻先を埋めれば、蜜柑の花の良い香りがする。
「君ねぇ……!」
「ごめんね、歌仙くん。……再会したらすごく綺麗な女性になっていたから、誰かに何かされたら嫌だなって思ったんだ。決して君を侮ったわけじゃない」
「……それで?」
「もしよかったら……昔みたいにいろいろ話したいんだ。君が、見てきたこととか、ここのこととか」
歌仙の表情を見ることは、当たり前だがかなわない。だが、冷たい雰囲気が少しだけ和らいだのを感じた。
「いいけれど、まずは主のところだ。……そのあとで、背中でも流してあげよう。僕も風呂はまだだし、君だってこんなに寒いのだからそのまま寝るわけにはいかないだろう」
戸を開ければ今は真夜中だ。真っ暗な中でしんしんと音もなく降る雪は幻想的で、だからこそ凍てつくような寒さが襲ってくる。確かにこの時間に主……審神者なるもののもとへ行き、そのまま寝るのは少し寒い。
「君の部屋、暖房もつけていないからね。今日は僕の部屋で寝ればいい」
「あのね、僕が言ったこと、聞いていたよね?」
あまりにも据え膳……いや、無防備な誘いに思わず問えば、ふふんと彼女はこちらを流し見た。
「僕は今までここまで触らせたことはない。……明日の朝、大倶利伽羅に君を僕のいい人だと紹介されたくなければ、今夜は鉄壁の理性で耐えたまえ」
「なんて横暴な……」
思わずつぶやけば、歌仙はふいと顔をそらす。寒さのせいか、少しだけ耳と頬が赤い。
「嫌なら冷たい布団で寝ることだね」
「嘘、頑張って格好良く耐えるよ!」
二日目から風邪などひきたくない。自分の鉄壁の理性なるものがどれほど信用できるかは分からないが、とにもかくにも温かい寝床を確保したかった。
(それと、歌仙くんに教えないといけないこともできたし……ね)
正確にはできてしまった、というべきだろう。昔馴染みがこうも無防備だとは思わなかったし、こんなにも飢えた獣の群れにぽつんといる羊のような状態だとは思わなかったし、何より燭台切自身の中に何か火のようなものが灯ろうとしていることも信じがたかった。
(僕だけは安全だけど、僕に一番気をつけなきゃいけないってこと)
「ねぇ、歌仙くん」
「なんだい」
「僕以外に、こういうことしたら駄目だよ」
優しく諭すように口にすれば、彼女は少し考えて、そうだね、と頷いた。
「どうも僕の姿は……というより、僕の胸に目が行く者もいるようだし、自分から日の中に飛び込む虫のような真似はしないさ」
もうしているんだけどなぁ、という感想はさておいて、彼女はさっさと部屋を出て、凍てつくように寒い廊下を歩いてゆく。そのあとをついていけば、厳重にしまった一室の中に歌仙は声をかけた。
「主。起きているかい? ……ああよかった。新しい刀剣男士だよ」
ほら入って、と促され、燭台切は扉の中へと足を踏み入れた。
脱衣所で服を脱ぎながら、燭台切は審神者に言われたことを反芻する。
(食事は決まった時刻に。出陣は部隊攻勢による。給料は何に使ってもいい。家具の使い方は部屋にあるマニュアルを読むこと。……それと、不純異性交遊だろうが同性交遊だろうがオーケー。ただし刃物沙汰にならないように。……風呂の時間は各自自由だが、近侍部屋の近くの風呂場には入らないこと)
近侍部屋の近くの風呂場とは、つまり、この部屋である。隣では歌仙がするすると事も無げに戦装束を脱いでいて、非常に忍耐力を試されている。どうしよう、と固まっていると、彼女がこちらを覗き込んだ。
「どうしたんだい燭台切。半端に脱いだままで固まったりして」
「あのさ、歌仙くん」
「なんだい」
「僕も、男だからね?」
「知ってるよ」
「なんで隣で脱いでるの!?」
「僕の専用の風呂だからだよ!」
ほんのり赤い頬でこちらを見る歌仙は少し幼くも見えて美しい。だが、いくら昔は童子のなりをしていた立派な付喪神だとしても、目の前の現実は彼女は立派な女性だろうと訴えかけてくる。
「だからね、歌仙くん」
殆ど脱ぎ終わって、湯帷子を着けようとしている柔らかい身体をぎゅっと抱きしめる。
「お風呂でもっといいこと、してもいいんだよ?」
これはただの肉欲だろうか。目の前に現れたのが彼女だったということで、その色香に欲望が暴走しているだけなのだろうか。
「……っ」
歌仙がようやく意図を察知してくれたらしい。むき出しの脇腹にちりりと爪を立てられて、腕の力を強くする。
「鉄壁の理性はどうしたんだい」
「いいよ」
「……なんだって?」
「好きに紹介すればいい。……それで、どう? お風呂の中でも、君の布団でも……既成事実を作ってから報告したほうが、やりやすいよね」
「訳が分からない」
そうかい、と首をかしげる。彼女がもし男の身体だったとしたら、こんな風に性急に求めただろうか。
「君は、僕の身体が珍しいだけだろう」
「たぶん違うよ」
多分!? と歌仙が眉を跳ねさせる。
「君が男の身体でも、僕は同じことを言ったと思うよ。……あんなにも綺麗だったのだもの、悪い虫が付かない保証がないからね」
「え、あ……」
自分の胸に伝わる鼓動は先ほどよりも少し速い。自分の鼓動もきっと速くなっていることだろう。
「ね、悪い虫はね、一人だけならいい虫なんだよ」
知ってた? と問いかければ、脇腹に食い込む指先がさらに力を籠める。
「つまり、自分がそうだと言いたいのかい」
「もちろん。……僕なら君のことよく知ってるし、辛い思いはさせないよ」
「……そんなこと言われても、君はずっと昔、僕の憧れの君だったわけだし」
「主はそういう書物、好きなんだろう? 主君を楽しませるのも臣下の役目じゃないか」
「主をダシにするのはやめないか。……いざというときに面倒になるだろう」
何がどう面倒なのかは教えてくれなかったが、彼女はペタリと頬を燭台切の胸に押し当てる。
「僕を娶りたいのなら、お小夜に頼むんだね。……まだここにはいないけれど」
「貞ちゃんは?」
「いないよ。……誰だいそれは」
「太鼓鐘貞宗。伊達の家で一緒だったんだけど……そっか、いないんだ」
「その貞ちゃんとやらが来たら僕は二股に掛けられるのかい? 随分執心のようだけど」
その声は少し拗ねているように低くて、可愛らしい嫉妬に頬が緩む。
「まさか! 君をどうやって振り向かせようか相談しようと思ってさ。……ああ、お風呂、入ろうか」
温かな身体を解放すれば、歌仙がじっとりとこちらをにらむ。燭台切の言葉が本当かどうか値踏みするような眼だ。確か昔、初めて出会った時もこんな感じだったような気がする。
「昔みたいだね」
「それは警戒もするだろう。いきなり抱きすくめられたり、貞操の危機にさらされたりしたのだし」
「それは悪かったけど」
歌仙くんも気を付けなきゃ、と言いながら小さな手を引っ張って浴室の戸を開ける。ぱっと明かりがついて、大きな風呂に燭台切は目を見開いた。立派な檜風呂だ。硫黄の香りがするから、きっと温泉が湧いているに違いない。
「まずはそこの椅子に座りたまえ。掛け湯をしてあげるよ」
言われたとおりに檜の椅子に腰かけると、背中に湯が掛けられる。
「ここの風呂は熱いからね。向こうは人がいる分、少しは冷えているかも」
そう言いながら、彼女はスポンジを泡立てる。よいしょ、と背中を流しながら、彼女は口を開いた。
「……こういうのは、明日から一人でやっておくれ。僕が誰か一人を優遇するのは本丸の風紀とやらが乱れる、と長谷部が言っていた」
「長谷部?」
「へし切長谷部。知っているだろう、信長様が軍師だった黒田に渡した……」
「……ああ。彼ね。……その長谷部君は、君とどういう関係なの」
我ながら意地の悪い聞き方だと思うし、こういう言葉を第三者として聞いたら、絶対に関わらないようにするだろう。既成事実だなんだと、まだ恋人にもなっていない女性に対して恋人面もいいところだ。長谷部に関しては名前だけは聞いたことがある、といった有様だが、当の本人がこういうことを言われていると知ったら、全力で誤解を解きに来るだろう。
「別にどういう関係だろうと問題ないだろう。前の主は確かに仲が悪かったけれど、彼と僕にはそういうことはないから安心していい。……ただ、彼に貰ったユニなんとかの肌着は誰かに譲ったほうがよさそうだ」
「そうだね。でも女性ものが合う男士はいないだろうし、勿体無いから僕がクッションにでもしてあげるよ」
他の男から貰ったものなど着るなと言いたいところだが、譲り先がなくて捨てられるのもなんだか哀れである。
「自分でできるからいいよ」
ばっさりと切り捨てられたが、燭台切は続ける。
「僕が買ってあげるから」
「……君、本気か?」
「本気だよ。着物も、茶器も、花器も。君が好きなもの、僕が全部買ってあげる」
そう口に出した瞬間、唐突にそうか、と思った。自分が歌仙の悪い虫になりたいのも、長谷部が歌仙に肌着を贈ったのが気に食わないのも、歌仙を振り向かせたいのも、すべて一つの感情から来ているのだ。
「僕、君のこと、好きになっちゃったみたい」
「……な、ん」
だから、よろしくね。そう微笑めば、彼女は唸る様に言葉を絞り出す。
「君、は……!」
「歌仙くん?」
振り向こうとすれば、ざばっとお湯が掛けられる。
「前は自分でやりたまえ! 僕は隣で身体を洗う!」
そういう行動が迂闊だというのに、歌仙は乱暴に桶を置くと、隣の椅子に腰かけて湯帷子の帯を解く。白い肩がむき出しになって、慌てて燭台切は声を上げる。
「ちょっ、歌仙くん!」
「見るんじゃない!」
「そんな理不尽な!」
言い合いながら燭台切は身体を洗い、泡を流してから湯船に浸かる。熱いお湯が身体を包むが、鋼の身だったころのような心配はない。肉の身体にじんわりと馴染む湯が心地よい。
「本当に迂闊だよ……君」
視線の先にはまだ身体を洗っている歌仙がいる。湯帷子はすっかり脱いでしまって、美しい肢体がよく見える。泡だらけではあるが美しいものだ。
「歌仙くん、本当君、ちゃんと自覚したほうがいいよ」
「君こそ昔馴染みが女の身だと分かった瞬間に懸想なんて、不毛なことはやめたほうがいい。……昔は憧れていたのだから、嬉しくはあるけれど」
「そういうとこ僕の理性に優しくないよね!」
勢い付けて湯から上がり、彼女を後ろから抱きしめる。手のひらを滑らせれば、腕の中の身体がびくりと跳ねた。その反応をそ知らぬふりで囁きかける。
「……僕もね、人間の暮らしはそこそこ知っているんだよ。ねぇ、今度は僕が洗ってあげようか」
「い、いや、いい! 全力で遠慮する!」
身を捩られては、泡で滑って転びそうになる。仕方なく開放すれば、歌仙はシャワーのコックを捻ってシャワーヘッドを燭台切に向けた。熱い湯が掛かって、泡を洗い流してゆく。一通り流れたと判断すると、彼女は自分の身体を流し始めた。シャワーの音に紛れて、彼女は言う。
「燭台切」
「なんだい?」
「既成事実くらいは許してやらんこともない。幸い僕には主からいただいたそういうときのとっておきがあるからね、先に着替えて待っていてくれ」
「え、いいの」
「いいも何も、君が言い出したことだろう。……近侍部屋はここを出てすぐだ。名札があるからわかるだろうし、入っていていいよ」
突然のお許しに心が浮つくのを感じる。恋というのはここまで浮かれさせるものなのだろうか。
「……オーケー。最高の一夜にしてみせるよ」
君がこの先、誰と何をしようとも、忘れられないくらいに。そう片目をつぶってみせれば、こちらを向いた歌仙の唇の端が吊り上がる。
「できるものなら。……期待しているよ」
「期待していて」
風呂から上がり、浴衣に着替える。近侍部屋に行く道々も、さてどうやって歌仙兼定という美しい女を自分のものにするかを考えれば、燭台切の中に燃える闘争心という名の焔が勢いを増す。彼女は今宵、どんな姿を見せてくれるのだろうと知らず、彼は唇を舐めた。
おわり
性描写を匂わせるような表現がありますが、全く致していないので全年齢にしております。
歌仙ちゃん女体化ですのでご注意くださいませ。
燭台切光忠にとって、歌仙兼定は昔のお向かいの屋敷の可愛い子、という印象だった。人見知りで、愛らしい童子で、けれど不思議と甘やかしたくなる存在だったのを覚えている。……それだけのはずが、刀剣男士として顕現した今、燭台切の目の前にいるのはすっかり成長した歌仙だった。
「僕は燭台切光忠。青銅の燭台だって切れちゃうんだよ。……うーん、やっぱり格好付かないな」
「燭台切」
「久しぶり、歌仙……くん……!?」
ただし、その姿はどこからどう見ても美しい女性の姿をしている。あれ、と面食らう燭台切に歌仙は至極美しく微笑んで見せる。
「おやおや、どうしたんだい?」
「いやだって、君、それ、その姿」
ああ、これかい、と彼女は自分の姿を見て、事も無げに雅だろう、と首を傾げた。
「昔は男の子じゃなかったかい!?」
「そうだねぇ。……顕現した当初は僕も主もいろいろと問い合わせはしてみたのだけど」
政府からの回答は『本霊がそう判断したのかもしれない』という大変頼りないものだったそうだ。救いは能力そのものに変動があるわけではない、ということで、彼女は今日も近侍として第一部隊長を務めていると言う。
「そうなんだ」
「ああ。顕現した当初は動きづらいこともあったけれど、今はそういうこともないし。……まぁ、露天風呂に入れないのが少々残念だが、不便と言えばそれくらいかな」
歌仙が胸を張ると、重たそうに膨らんだ胸がふるんと揺れる。確かにここまで立派なものであれば、さぞかし人目を惹くだろうし、視線も釘付けになろうというものだ。しかしなぜここまで、とじっくり眺めていると、彼女は居心地が悪そうに一歩後退る。
「燭台切。……君、その、……そういうの、よくないんじゃないかい」
「えっ」
はっと視線を歌仙の顔に戻せば、彼女は戸惑ったような顔をしている。太めの眉をきゅっと寄せて、若干非難の色を滲ませた翡翠の瞳がこちらを見上げる。その表情が非常に悩ましい。こちらを非難しているのにそれすら艶めいているのは、非常に燭台切の理性によろしくない。
「あ、ごめん! つい」
「まぁ、いい、けれど。……気持ちはわかるし、他の男士も同じようなものだったからね」
え、とまた声を上げる。確かに歴史修正主義者を殲滅せよとの命を本霊から預かってきているのだから、こちらの軍勢にも人がいなければ困ってしまう。しかし、他の男士も燭台切のようにじっくりとあの柔らかそうな胸に見入っていたのかと思えば、あまり気分の良いものではない。
「駄目だよ、歌仙くん。君は今、女の子なんだから、ちゃんと自覚した格好しなきゃ」
「え……しかし燭台切」
「前もちゃんと閉めて! ただでさえ見えてるんだから、何かあったら困るだろう?」
歌仙の胸元はどういう構造をしているのかは知らないが、鎖骨から膨らみのはじめにかけて窓が開いている。谷間が少しだけ見えるのが、よくないものを引き寄せてしまいそうだ。柔らかく藤の花のようにうねる長めの髪の毛も、細くて形のいい指も、何もかもが扇情的だ、と思う。ここにいるのは付喪神とはいえ、男連中だ。何かあったらつらい思いをするのは歌仙なのだから、という兄心めいたもので口に出してしまったが、それは彼女の機嫌をどうも損ねたらしい。
「燭台切」
すぅっと彼女の瞳が冷たく光る。
「之定が一振りを侮っているのかい? 女の身では何もできないだろうと? 僕が第一部隊長だと先ほど説明したことは、君の頭に入らなかったのかな?」
すっかり臍を曲げてしまった彼女は、どうしたら機嫌が直るだろうか。慌てることは慌てたが、拗ねてしまえばわかりやすい。もともと少女めいていて可愛らしかった顔は、女性になってしまえば違和感もなく、大輪の花を思わせる。そんな整った容姿でありながら、記憶通りの気の短さと拗ね顔に口の端がほころぶのがわかる。
「なんだい君、にやにやして……ほら、さっさと主のところに行くよ! それからなんでもすればいいだろう」
くるりと外套を翻して部屋を出ようとする歌仙を後ろから抱きしめる。柔らかな髪に鼻先を埋めれば、蜜柑の花の良い香りがする。
「君ねぇ……!」
「ごめんね、歌仙くん。……再会したらすごく綺麗な女性になっていたから、誰かに何かされたら嫌だなって思ったんだ。決して君を侮ったわけじゃない」
「……それで?」
「もしよかったら……昔みたいにいろいろ話したいんだ。君が、見てきたこととか、ここのこととか」
歌仙の表情を見ることは、当たり前だがかなわない。だが、冷たい雰囲気が少しだけ和らいだのを感じた。
「いいけれど、まずは主のところだ。……そのあとで、背中でも流してあげよう。僕も風呂はまだだし、君だってこんなに寒いのだからそのまま寝るわけにはいかないだろう」
戸を開ければ今は真夜中だ。真っ暗な中でしんしんと音もなく降る雪は幻想的で、だからこそ凍てつくような寒さが襲ってくる。確かにこの時間に主……審神者なるもののもとへ行き、そのまま寝るのは少し寒い。
「君の部屋、暖房もつけていないからね。今日は僕の部屋で寝ればいい」
「あのね、僕が言ったこと、聞いていたよね?」
あまりにも据え膳……いや、無防備な誘いに思わず問えば、ふふんと彼女はこちらを流し見た。
「僕は今までここまで触らせたことはない。……明日の朝、大倶利伽羅に君を僕のいい人だと紹介されたくなければ、今夜は鉄壁の理性で耐えたまえ」
「なんて横暴な……」
思わずつぶやけば、歌仙はふいと顔をそらす。寒さのせいか、少しだけ耳と頬が赤い。
「嫌なら冷たい布団で寝ることだね」
「嘘、頑張って格好良く耐えるよ!」
二日目から風邪などひきたくない。自分の鉄壁の理性なるものがどれほど信用できるかは分からないが、とにもかくにも温かい寝床を確保したかった。
(それと、歌仙くんに教えないといけないこともできたし……ね)
正確にはできてしまった、というべきだろう。昔馴染みがこうも無防備だとは思わなかったし、こんなにも飢えた獣の群れにぽつんといる羊のような状態だとは思わなかったし、何より燭台切自身の中に何か火のようなものが灯ろうとしていることも信じがたかった。
(僕だけは安全だけど、僕に一番気をつけなきゃいけないってこと)
「ねぇ、歌仙くん」
「なんだい」
「僕以外に、こういうことしたら駄目だよ」
優しく諭すように口にすれば、彼女は少し考えて、そうだね、と頷いた。
「どうも僕の姿は……というより、僕の胸に目が行く者もいるようだし、自分から日の中に飛び込む虫のような真似はしないさ」
もうしているんだけどなぁ、という感想はさておいて、彼女はさっさと部屋を出て、凍てつくように寒い廊下を歩いてゆく。そのあとをついていけば、厳重にしまった一室の中に歌仙は声をかけた。
「主。起きているかい? ……ああよかった。新しい刀剣男士だよ」
ほら入って、と促され、燭台切は扉の中へと足を踏み入れた。
脱衣所で服を脱ぎながら、燭台切は審神者に言われたことを反芻する。
(食事は決まった時刻に。出陣は部隊攻勢による。給料は何に使ってもいい。家具の使い方は部屋にあるマニュアルを読むこと。……それと、不純異性交遊だろうが同性交遊だろうがオーケー。ただし刃物沙汰にならないように。……風呂の時間は各自自由だが、近侍部屋の近くの風呂場には入らないこと)
近侍部屋の近くの風呂場とは、つまり、この部屋である。隣では歌仙がするすると事も無げに戦装束を脱いでいて、非常に忍耐力を試されている。どうしよう、と固まっていると、彼女がこちらを覗き込んだ。
「どうしたんだい燭台切。半端に脱いだままで固まったりして」
「あのさ、歌仙くん」
「なんだい」
「僕も、男だからね?」
「知ってるよ」
「なんで隣で脱いでるの!?」
「僕の専用の風呂だからだよ!」
ほんのり赤い頬でこちらを見る歌仙は少し幼くも見えて美しい。だが、いくら昔は童子のなりをしていた立派な付喪神だとしても、目の前の現実は彼女は立派な女性だろうと訴えかけてくる。
「だからね、歌仙くん」
殆ど脱ぎ終わって、湯帷子を着けようとしている柔らかい身体をぎゅっと抱きしめる。
「お風呂でもっといいこと、してもいいんだよ?」
これはただの肉欲だろうか。目の前に現れたのが彼女だったということで、その色香に欲望が暴走しているだけなのだろうか。
「……っ」
歌仙がようやく意図を察知してくれたらしい。むき出しの脇腹にちりりと爪を立てられて、腕の力を強くする。
「鉄壁の理性はどうしたんだい」
「いいよ」
「……なんだって?」
「好きに紹介すればいい。……それで、どう? お風呂の中でも、君の布団でも……既成事実を作ってから報告したほうが、やりやすいよね」
「訳が分からない」
そうかい、と首をかしげる。彼女がもし男の身体だったとしたら、こんな風に性急に求めただろうか。
「君は、僕の身体が珍しいだけだろう」
「たぶん違うよ」
多分!? と歌仙が眉を跳ねさせる。
「君が男の身体でも、僕は同じことを言ったと思うよ。……あんなにも綺麗だったのだもの、悪い虫が付かない保証がないからね」
「え、あ……」
自分の胸に伝わる鼓動は先ほどよりも少し速い。自分の鼓動もきっと速くなっていることだろう。
「ね、悪い虫はね、一人だけならいい虫なんだよ」
知ってた? と問いかければ、脇腹に食い込む指先がさらに力を籠める。
「つまり、自分がそうだと言いたいのかい」
「もちろん。……僕なら君のことよく知ってるし、辛い思いはさせないよ」
「……そんなこと言われても、君はずっと昔、僕の憧れの君だったわけだし」
「主はそういう書物、好きなんだろう? 主君を楽しませるのも臣下の役目じゃないか」
「主をダシにするのはやめないか。……いざというときに面倒になるだろう」
何がどう面倒なのかは教えてくれなかったが、彼女はペタリと頬を燭台切の胸に押し当てる。
「僕を娶りたいのなら、お小夜に頼むんだね。……まだここにはいないけれど」
「貞ちゃんは?」
「いないよ。……誰だいそれは」
「太鼓鐘貞宗。伊達の家で一緒だったんだけど……そっか、いないんだ」
「その貞ちゃんとやらが来たら僕は二股に掛けられるのかい? 随分執心のようだけど」
その声は少し拗ねているように低くて、可愛らしい嫉妬に頬が緩む。
「まさか! 君をどうやって振り向かせようか相談しようと思ってさ。……ああ、お風呂、入ろうか」
温かな身体を解放すれば、歌仙がじっとりとこちらをにらむ。燭台切の言葉が本当かどうか値踏みするような眼だ。確か昔、初めて出会った時もこんな感じだったような気がする。
「昔みたいだね」
「それは警戒もするだろう。いきなり抱きすくめられたり、貞操の危機にさらされたりしたのだし」
「それは悪かったけど」
歌仙くんも気を付けなきゃ、と言いながら小さな手を引っ張って浴室の戸を開ける。ぱっと明かりがついて、大きな風呂に燭台切は目を見開いた。立派な檜風呂だ。硫黄の香りがするから、きっと温泉が湧いているに違いない。
「まずはそこの椅子に座りたまえ。掛け湯をしてあげるよ」
言われたとおりに檜の椅子に腰かけると、背中に湯が掛けられる。
「ここの風呂は熱いからね。向こうは人がいる分、少しは冷えているかも」
そう言いながら、彼女はスポンジを泡立てる。よいしょ、と背中を流しながら、彼女は口を開いた。
「……こういうのは、明日から一人でやっておくれ。僕が誰か一人を優遇するのは本丸の風紀とやらが乱れる、と長谷部が言っていた」
「長谷部?」
「へし切長谷部。知っているだろう、信長様が軍師だった黒田に渡した……」
「……ああ。彼ね。……その長谷部君は、君とどういう関係なの」
我ながら意地の悪い聞き方だと思うし、こういう言葉を第三者として聞いたら、絶対に関わらないようにするだろう。既成事実だなんだと、まだ恋人にもなっていない女性に対して恋人面もいいところだ。長谷部に関しては名前だけは聞いたことがある、といった有様だが、当の本人がこういうことを言われていると知ったら、全力で誤解を解きに来るだろう。
「別にどういう関係だろうと問題ないだろう。前の主は確かに仲が悪かったけれど、彼と僕にはそういうことはないから安心していい。……ただ、彼に貰ったユニなんとかの肌着は誰かに譲ったほうがよさそうだ」
「そうだね。でも女性ものが合う男士はいないだろうし、勿体無いから僕がクッションにでもしてあげるよ」
他の男から貰ったものなど着るなと言いたいところだが、譲り先がなくて捨てられるのもなんだか哀れである。
「自分でできるからいいよ」
ばっさりと切り捨てられたが、燭台切は続ける。
「僕が買ってあげるから」
「……君、本気か?」
「本気だよ。着物も、茶器も、花器も。君が好きなもの、僕が全部買ってあげる」
そう口に出した瞬間、唐突にそうか、と思った。自分が歌仙の悪い虫になりたいのも、長谷部が歌仙に肌着を贈ったのが気に食わないのも、歌仙を振り向かせたいのも、すべて一つの感情から来ているのだ。
「僕、君のこと、好きになっちゃったみたい」
「……な、ん」
だから、よろしくね。そう微笑めば、彼女は唸る様に言葉を絞り出す。
「君、は……!」
「歌仙くん?」
振り向こうとすれば、ざばっとお湯が掛けられる。
「前は自分でやりたまえ! 僕は隣で身体を洗う!」
そういう行動が迂闊だというのに、歌仙は乱暴に桶を置くと、隣の椅子に腰かけて湯帷子の帯を解く。白い肩がむき出しになって、慌てて燭台切は声を上げる。
「ちょっ、歌仙くん!」
「見るんじゃない!」
「そんな理不尽な!」
言い合いながら燭台切は身体を洗い、泡を流してから湯船に浸かる。熱いお湯が身体を包むが、鋼の身だったころのような心配はない。肉の身体にじんわりと馴染む湯が心地よい。
「本当に迂闊だよ……君」
視線の先にはまだ身体を洗っている歌仙がいる。湯帷子はすっかり脱いでしまって、美しい肢体がよく見える。泡だらけではあるが美しいものだ。
「歌仙くん、本当君、ちゃんと自覚したほうがいいよ」
「君こそ昔馴染みが女の身だと分かった瞬間に懸想なんて、不毛なことはやめたほうがいい。……昔は憧れていたのだから、嬉しくはあるけれど」
「そういうとこ僕の理性に優しくないよね!」
勢い付けて湯から上がり、彼女を後ろから抱きしめる。手のひらを滑らせれば、腕の中の身体がびくりと跳ねた。その反応をそ知らぬふりで囁きかける。
「……僕もね、人間の暮らしはそこそこ知っているんだよ。ねぇ、今度は僕が洗ってあげようか」
「い、いや、いい! 全力で遠慮する!」
身を捩られては、泡で滑って転びそうになる。仕方なく開放すれば、歌仙はシャワーのコックを捻ってシャワーヘッドを燭台切に向けた。熱い湯が掛かって、泡を洗い流してゆく。一通り流れたと判断すると、彼女は自分の身体を流し始めた。シャワーの音に紛れて、彼女は言う。
「燭台切」
「なんだい?」
「既成事実くらいは許してやらんこともない。幸い僕には主からいただいたそういうときのとっておきがあるからね、先に着替えて待っていてくれ」
「え、いいの」
「いいも何も、君が言い出したことだろう。……近侍部屋はここを出てすぐだ。名札があるからわかるだろうし、入っていていいよ」
突然のお許しに心が浮つくのを感じる。恋というのはここまで浮かれさせるものなのだろうか。
「……オーケー。最高の一夜にしてみせるよ」
君がこの先、誰と何をしようとも、忘れられないくらいに。そう片目をつぶってみせれば、こちらを向いた歌仙の唇の端が吊り上がる。
「できるものなら。……期待しているよ」
「期待していて」
風呂から上がり、浴衣に着替える。近侍部屋に行く道々も、さてどうやって歌仙兼定という美しい女を自分のものにするかを考えれば、燭台切の中に燃える闘争心という名の焔が勢いを増す。彼女は今宵、どんな姿を見せてくれるのだろうと知らず、彼は唇を舐めた。
おわり
つづき考えたらエロにしかならなかったとかそんなことは
さて、明日の閃華の刻9にサークル参加いたします。とうらぶでは初だ……!
サークル名:胡蝶苑
スペース:東7ホール キ57b
頒布物
新刊:蜜柑の檻、永久の愛(燭台切光忠×歌仙兼定)全年齢/68P/600円
燭台切は顕現したその日に、歌仙が他の刀剣男士と親しくしていることが嫌だという気持ちを持つ。しかしその気持ちをあってはならないものだと押し込めているうちに、歌仙が謎の体調不良に倒れてしまう。ついには昏睡状態に陥った歌仙を目覚めさせるため、燭台切は彼の部屋に日参するが、さらなる異変が起こる……。
既刊:歌仙が女給に着替えたら(歌仙兼定中心、燭台切・小夜・和泉守・鶴丸の出番が多いです)
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定。小夜左文字や燭台切光忠には大変だねぇと同情されたが、鶴丸国永が『喫茶店の真似事をやろう』と言い出す。いったんはやらないと言い置いた歌仙だが、へし切長谷部や和泉守兼定は乗り気になっていた。やるのならば厨に引きこもる、笑い者になるのは嫌だと主張する歌仙に、鶴丸たちは……。
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
女給の……ウエイトレスの真似事など、したことがない。確かに文明開化の頃から喫茶店を覗いたことはある。大元の本体を所蔵している家の近くをふらふらして、気に入った場所に遊びに行った。だが、当時気になっていたのは珈琲なる黒い液体の正体と色とりどりに美味しそうな甘味の、目を楽しませる美しさだけだった。だから今の歌仙の格好をした女給の存在は知っていても、所作など何一つわからない。どうしよう、と後ろに倒れると、藺草の匂いが微かに香る。
(主に言い訳して怒られるのは構わない)
審神者の代わりに本丸を切り盛りしている者として、仲間の不手際で怒られるのは近侍の務めというものだ。それはまだ耐えられる。後でしっかり不手際を起こした者を長谷部と共に指導すればいいだけの話だ。……相手の機嫌を損ねるなど関係ない。
(だが……)
ああは言われたものの、やはり踏ん切りがつかないのだ。近侍としての面子、文系名刀としてのプライドもあるし、それ以外にも翌日の食材の心配など懸念点は尽きない。
(どうしたらいいんだ……)
目を閉じても暗闇が訪れるばかりで、何も解決にはならなかった。ため息を吐いて目を開ける。天井は相変わらずの木目が並んでいるだけだ。
(人見知りなんて、今まで困ることもなかったのに……今さら困るなんて)
今朝がたの鶴丸の言葉を思い出す。
『引き籠らずにもっと交流を温めたほうがいい』
どうしてあんなことを言ったのか。第三部隊の隊長である鶴丸とは戦事に関してはよく話す。それだけだと思っていたのだが、どうも向こうは違うらしい。伊達家にいた時分に細川家から遊びに来た歌仙を見かけたというのだ。そういえば燭台切と話しているときにちらちらと白い着物を見かけたかもしれない。話し掛けられなかったのか、燭台切の話を優先したのかは忘れてしまったが、伊達家に遊びに行っていた時代はだいたい燭台切と話していて、他の刀とはあまり話したこともなかった。
(やっぱり、もう少し話したほうがいいのだろうけれど……)
うぅんと唸っていれば、都合よく人の気配がする。一人だけだ。ぼんやりとそちらに目をやると、人影がすっと屈んだ。
「歌仙、今いいか?」
障子の外に見えた影が、そう声を出す。人影の体型を考慮すれば声の主は鶴丸らしい。どうぞ、と頷けば、障子がすらりと開いて、真っ白な成りをした男がするりと入室した。
「主とは連絡ついたか?」
「いや、今日一日はつかないはずだよ。だから、取ってない」
「まぁ、お前さんが近侍だからそうなんだろうなぁ……」
金色の眼が遠く細められる。どういうことなんだろうと首を傾げる。
「ご不満かい?」
「いや。主は初期刀のお前を特別信頼しているんだなと」
「まぁ、僕は文系名刀だからね」
鶴丸ははは、と面白そうに笑って、確かにそうだなと頷いた。
「ところで、喫茶店のことだけれど。主には何て言うつもりだい? ……そもそも君たち沢山食べるだろう? 本丸の食材が底をついたら、言い訳のしようもないよ?」
あの審神者が、本丸に備蓄してある食材が尽きたくらいで怒るとは思えない。だが、歌仙兼定という刀を特別溺愛する審神者は、歌仙が食べるものがなにもないと知った瞬間に無駄に高い宅配食を全員分手配するに違いない。本丸全員分手配してくれるのはありがたいのだが、如何せん味の割に値段が高い。そういう無駄なことは避けたいのだが、と鶴丸を見ると、そういえば、と少しだけ青ざめている。
「怒りはしないと思うよ?」
「それは知ってる」
「お高い宅配食が出てくるだけで」
「出てくるのか」
「全員分ね」
「美味いのか?」
それなりだよ、と答えれば、やっぱりそうかと返ってくる。そういえば鶴丸が招かれてからそういうことはなかったかと思い出す。
「多分、喫茶店の真似事なんてやろうものなら明日はそれなりの味の……むしろ値段の割が取れない宅配食で過ごすことになるだろうね」
どうせ畑当番の耕す畑の作物も、粗方とられてしまっているだろう。明日食べる分があるかどうかも怪しいのだ。
「ま、それも驚きかも知れんな」
「そうかい」
ああ、と答える鶴丸は大分男らしい。刀剣男士なのだから当然と言えば当然ではあるが。
「……それで、喫茶店の真似事に話を戻すけれど。どこまで準備している?」
「『簡単! 本丸カフェキット』とやらが格安で売っていたからそれを買ってみた。テーブルクロスも安いのを買ったし、後は手伝うって奴が寄付してくれたぜ。……ああ、光坊が伽羅坊にギャルソンの衣装を買わせていたな。あれは光坊の給料から引くのかい?」
「主次第ではあるけれど、大倶利伽羅が希望しない限りはそうだろうね。燭台切が指示して買わせたというのなら、なおさらだ。そもそも長谷部が許可を出さないだろう」
「俺は買わなくて正解だったな」
「本当にね」
くすりと笑えば、だろう、と鶴丸も笑う。
「賢明だった。でもまぁ、あいつなりに歌仙と話してみたいんだよ。光坊と同じ政宗公のところにいた刀ではあるし、話が合うか合わないかは別として、な」
「……そう、かい」
お茶でも飲むかい、なんて気軽に言う機会を逸してしまったなと頭の片隅でちらりと思った。
「さっき、和泉守が来たよ。長谷部が喫茶店に乗り気なのも、君が話したのも教えてくれた。……外堀から埋めようということかい?」
「そうとも言うな」
「そうとしか言わないんじゃないか……?」
いやいや違う、と鶴丸は悪戯っぽく目を光らせる。ため息を吐いて、勝手に茶を出してしまうことにした。このまま茶も進めないのでは之定の名が廃る。
「……まあ今お茶を入れるよ。飲みながら話を聞こうか」
「あぁ、すまんな。……よかったらこれ、光坊の最新作らしいんだが」
そう鶴丸が出してきたのは真っ白で柔らかそうな食べ物を乗せた皿だった。ふるふると揺れる白い物体の上には、南国を思わせる黄色いとろりとしたソースと小さく切られた果実が乗っている。
「ぷりん、だと。……うまく行ったら喫茶店のメニューにも加えたいらしいぞ」
「君たちねぇ……」
何を言っても本当に効かないんだから、とため息をつけば、まあまあと頭を撫でられた。その白く細い手から逃れるように僅かに身体を動かして急須を手に取る。和泉守に出したものと同じように氷をほうり込んだ湯呑に茶を注ぐ。ぴしぴしと氷にひびの入る音を聞きながら、和泉守にもらった饅頭を取り出す。優しい後代には後で誤っておこう。
「これ、和泉守がくれたものだけど。良ければ」
そう言って差し出せば、鶴丸は早速白い紙と柔らかな包み紙を剥ぎ取りにかかる。
「お、すまんな。饅頭か?」
「ああ。和泉守の本霊が宿る場所の近くの名産品らしいよ」
「へぇ。おお、こりゃあ美味そうだ」
頂きます、と豪快に口を開けて、鶴丸は饅頭の三分の一程を齧り取る。顔を綻ばせたところを見れば分かる。美味いのだろう。実際この饅頭は美味い。しっとりした、少し硬めの饅頭の生地にほろほろとろりと口の中で蕩ける白あんの後味はすっきりとしている。
「ん、栗が入っているのか! しかもでかい! 手が込んでるなぁ!」
大振りの栗と柔らかな白あんの風味。栗も砂糖で甘露煮にしてあるらしく、舌触りの割には柔らかい。うまいうまいとぱくぱく食べる鶴丸を横目に、歌仙も燭台切特製のプリンに匙を入れる。まずは白い場所からだ。普段食べるものよりも柔らかい。しかし寒天のようにくしゃりと潰れるのではなく、確かな重さを持って匙に乗る。
「いただきます」
少しの振動でもふるふると揺れるプリンをそっと口の中に入れる。
「……!」
流石は燭台切だ、と思う。おそらくこれは牛乳プリンだ。バニラエッセンスを使ったのか、アイスクリームのような匂いが鼻腔を満たす。しっかり噛めばドロドロに溶けてしまうプリンは、しかし強烈な甘味ではない。後を引く甘さでもなく、物足りない甘さでもなく、質量を持って喉を通り、胃の腑に落ちる甘さだ。だが、少々くどい。さて、と黄色いソースを匙の端で掬いとり、ぺろりと舐める。先ほどの少々くどいプリンとは違って甘酸っぱい。
「この味はマンゴー、だね」
「お、そうなのか?」
「ああ。ただ、上に乗っているやつは買ったはいいものの対処に困って、この間甘露煮にしていたやつだと思うけれど」
まぁ、だからこそこういう生菓子に利用してしまおうと思ったのかもしれないが。ソースのほうは大方切り損ねた生の果実をフードプロセッサーで砕いたものだろう。
「で、餡が酸っぱいことを考慮して、プリンをくどい甘さにしたんだろうね」
芸の細かいことだ、と普段自分が菓子を作るときのことを棚に上げてため息を吐く。ソース……餡とプリンを一緒に口に入れれば、酸味がうまく甘味と混ざり合って、ちょうどいい甘さへと仕上げてくれている。
「出せばいいんじゃないかい?」
美味しいよ、と感想を漏らせば、鶴丸は満足げに饅頭を全て口の中に放り込んだ。うまうまと咀嚼して、ほろ苦い茶で甘くなった舌を締める。歌仙もプリンと柔らかいマンゴーをゆっくり咀嚼し、最後の一欠片まで飲み下す。茶を飲めばやはり甘くなった口の中がすっきりするような気がした。
「……ところがどっこい、これを出すのには条件があってだな」
「は? 条件?」
どうやらあの伊達男は何か企んでいるらしい。歌仙には心当たりがあった。今ほぼやることになっている、歌仙の頭を悩ませるあのことである。
「歌仙が女給をやるんなら出すらしい」
「へ、へぇ……」
それだけ言って、やはりと歌仙は溜め息をついた。もうほぼ決まったようなものだ。ならばと厨に入りびたりになろうと思ったのだが、この条件では些か分が悪い。新作の甘味などこの本丸の全員が楽しみにしていることを取引条件に付けるなんて、昔よく遊んでいた身としては悲しい。
「厨に詰めているのじゃダメなのかい?」
「だめだな」
鶴丸にしては珍しくきっぱりと言い切った。
「これは歌仙、お前さんのためでもある。……何を話せばいいのかわからなくて困ってるんだろう? 話が合わないって気にしてるんだろ? 主の陰謀の結果がその着物だったとして、それなら積極的に話のタネにしていったほうがいい」
「そういうものかい」
「ああ」
そういうものだ、と鶴丸は言う。
「……童子の時ならば女装も少しは似合っていただろうにね」
「今も似合ってるぜ?」
「君は僕の小さい頃を知っているからだろう。伊達の屋敷に遊びに行っていたときはまだ童子だったんだ。……でも今はもう、大人の男の姿だ。日常的に着ている者ならいいが、他の者から見ればちょっとこれはきついだろう」
だが、彼は歌仙が大人の成りか童子の成りかは問題ではないと言う。
「単純に色目が合ってるんだよ。主もなかなかいい仕事するじゃねぇか。ずっと歌仙と一緒にいて、目利きの腕も上がってきたかねぇ」
その様はどこか嬉しそうだったが、歌仙は頷くことが出来なかった。
「……主は、目利きが必要なものは今でも僕を呼ぶんだ。分からない、助けてって。でも、今回は呼ばれなかった。その挙句にこれだ。いい着物ではあるのだけれど、これでは女装だ。……実際、主は何がしたかったんだろう」
「お前さんの羞恥に震える姿を見ることでないのは確かだな。……見て喜びたかったんだろうな。お前さんがたとえ女給の真似事でも、主の気に入りの着物を着て、他の男士たちと仲睦まじくしているさまが見たいんだろうよ」
「そういう、ものか」
そうかもしれない、とふと思う。小夜左文字が本丸にやってきた日、歌仙は素直に嬉しいと思ったし、招いてくれた審神者にも感謝した。食事を摂って僅かに口元をほころばせている姿や、戦事以外で小夜が他の刀剣男士に心を開いているのを見た時、安心した。幼い日に兄と慕った付喪神が、刀剣男士の姿を得て他の男士とぎこちなくとも話すことが出来ている。それがたまらなく嬉しくて、けれども自分より先を歩いている小夜にどうしようもなく寂しかったのを覚えている。
「……光坊だって、同じだと思うぜ? あいつはお前さんの人見知りを知っている。伽羅坊と慣れ合うようにそう簡単にお前さんの心の中に踏み入れるわけじゃないと分かっている。……だからこんな条件を付けたんじゃないか? いろんな運命を経て再びめぐり合って、偶然にも同じ厨番だ。主の陰謀を利用して、俺や伽羅坊や、他の男士ともこの際に仲良くしてみちゃあどうかって、提案してるのさ」
「それは……初めて聞いたね」
それでも、と言いよどむ。こんな時に、先ほどの和泉守の言葉を思い出した。
『本丸の案内はしてくれたのに、あとは話し掛けにも来ねえ。……もしかして一人でいる方が好きなのかとも思ったが……オレが話し掛けてみたくて、よ』
確かにすべての刀に本丸の案内をするのは歌仙だった。だが、それだけなのだ。一人でいることが苦痛になる性分ではないし、逆に話が合わなければ共にいることもつらくなる性分である。
けれどもこれから仲間として共にやっていくのに、本丸の案内だけではダメだろうと思うのだ。そうは思っていても……昔からの性分を変えるのはなかなか難しいだけで。
「なにか、心当たりがあるのか?」
「話をね、しようと思ったんだ。でもどういう刀なのか、何が好きなのかもわからない。……話が合わないかもしれないと思うと、ね。……はは、之定ともあろうものがこの様だ。和歌(うた)も戦も独りではできないと分かっているのに、僕は文系名刀なのに、言葉が出てこなくなる。本当に、どうしたらいいかわからない」
「……今まで、辛かったかい?」
鶴丸が歌仙の顔を覗き込む。少しね、と歌仙は小さな声でつぶやいた。
「お小夜が来た日は、嬉しかったよ。燭台切が来た日ももちろん。……言ってはいないけれど、ね」
そうかと大分年嵩の男は淡い笑みを浮かべる。
「それに鶴丸、君が来た日も。……主は君が来るのを心待ちにしていたみたいだから」
この本丸が始まった日から鶴丸国永を迎えるために歌仙は奔走した。どうも審神者募集の広告か何かで鶴丸を見かけたことが切っ掛けで審神者職の試験を受けたらしいからだ。進軍がゆっくりとした調子だったから、日に何度も鍛刀を行った。その甲斐あって鶴丸が本丸に招かれて、審神者が喜んでいるのを見て、自分の役目は終わったと晴れ晴れとした気持ちで近侍の任を鶴丸にと進言したことがあった。
「まぁ、進言しに行った瞬間に足元に纏わりつかれてこの有り様だけれどね」
政府にはそろそろ審神者の躾け講習会でも近侍向けに開いてほしいところだ。……一定数需要はあると思うが、まさか躾のなっていない審神者はこの本丸だけなのだろうか。
「はは、大変だなぁ」
本当にね、とまた一口、茶を啜る。よしよしとカチューシャを外して頭を撫でまわされて、目を細める。なんだか細川の屋敷に戻ったような心地にすらなる。
「……なんだか昔みたいだ」
心の奥の柔らかい部分を優しく包まれるような、真綿のような記憶。甘えたい放題甘えていいような図体ではもうないのに、際限なく身を委ねてしまいそうになる。ふと目を開けると、優しく蕩ける金色の瞳とかち合った。
「君が童子の姿の時に、こうやってうりうり甘やかしてやりたかったなぁ」
「もう戻らないと思うよ」
細川の屋敷で聞いたことだが、付喪神は始め三つか四つほどの童子の姿で現れ、ゆっくりと時間をかけて相応しい姿になる。その後はなにかとんでもないことが起こらない限りは着るもの以外は変わらない。それは分霊として現れても本霊の成長具合と同じ姿で生み出されるそうだ。ただし妖怪として紹介されることもあるとはいえ神であることに変わりはないから、性別ぐらいは好きに変えられるらしいが、それもなかなか骨が折れるらしい。
「……今の身体で女人に変わることはできると思うかい?」
「人の身だからなぁ……よし、今夜酔っぱらってやってみるか」
翌朝起きたら鶴丸国永が女人になっていた、なんて審神者が聞いたらおそらく喜んで卒倒するようなことは近侍として頷かない方がいいだろうな、と密かに思う。だが、……明日になっても着物が戻らない場合、試してみなければならないだろう。
「主に卒倒されたら介抱は任せるよ?」
「それは俺がまいた種だからな。刀剣男士だからな、責任は持つぜ」
持ってくれたまえとふんぞり返ろうかとも思ったが、頭を撫でられているために胸を張ることが難しい。顔面に他人の手のひらが当たる感触があまり好きではないからだ。
「僕はこの着物を着続けるのであれば、これに合わせて女の身になるべきかと思っただけだよ」
「主が嬉しすぎて卒倒するだろ」
「手荒く介抱してやろうじゃないか」
元はと言えばアレが諸悪の根源だと息巻いてやれば、鶴丸は堪え切れないように噴出した。
「なんだい」
「……っはは、流石は最上大業物だ。まったく淑やかなことを言ったかと思えば。物騒だねぇ」
「物騒かい?」
普段の酔っぱらいを介抱するより少し手荒いぐらいのつもりだから、中々甲斐甲斐しいと思う。どうせ一日介抱すれば満足するだろうから、その日の晩に着物を返して貰えばいい話だ。
「まあな。……長谷部にはどれくらい話せる?」
「何故長谷部?」
「近侍補佐みたいなもんだろ? それに昔から知った仲じゃなかったか?」
間違ってはいない。その昔細川忠興が織田信長の嫡男・信忠に仕えていた時代にまだ年若い主にくっついて、幼い歌仙も出仕していたような気がする。その記憶が人の手で作られたものだったか、確かな事実だったのかはもう思い出せないし、そもそも後の世で文献を検めたところによれば、歌仙兼定という刀がいつ細川家に渡ってきたかも明らかになっていなかった。実際あの時代のはっきりとした記憶は長谷部をはじめとする織田の刀と何度か話したことがあることぐらいしかない。ついでに言えば、今取っている青年の姿になったのは実は小夜左文字が細川家から売られてしまってからのことである。
「元主が仕えていたのは信忠様のほうだったと思うけれど……うん、確かに何度か話したことはある、気がする」
「ふんふん」
「でも、個人的なことはあんまり話さない……かな。近侍の仕事も多いし、話している暇はないし」
僕も長谷部も出陣あるし、と続けると、長谷部の所属する第三部隊の隊長である鶴丸はそうだなぁと頷く。第一部隊に次ぐレベル帯の第三部隊は、遠征仕事も多い。ついでに近侍の仕事は審神者の業務ほどでもないけれども多いし、ほとんどが書類仕事だから、余計なことを話している暇はあまりないのだ。
「だから、長谷部が黒田に下賜されていたからといって話さないわけではないんだ。ただ、話す時間があまりないし、……黒田にいる間に向こうは僕にあまりいい感情を抱いていないかもしれない。だから」
「なるほどなぁ」
髪の毛をかき回していた細い手が離れる。そのまま幼子にするようにむにりと頬を摘む。
「まぁ、黒田細川の不仲は今の世にも伝わっているからなぁ……。ただ、見た限りではお前さんのこと、悪く思ってはいないだろうよ。朝のやり取りを見るに、ただただ懐かしいだけなんだろう。忘れられないほど慕った男に下げ渡した魔王の息子に仕えていた、小さな之定が一振りが、こんなに立派に……大きくなったんだからな」
嬉しくないわけがない、と細められた金色の眼はとろりと優しい。
「それは、嬉しいけれど。……笑い者にされるのだけは耐えがたいんだ」
「そうだなぁ。……だが、きっと、……」
暫く考えていたらしい鶴丸はうん、と頷くと、摘んだ頬をむにむにと引っ張る。
「ちょ、っと……痛いよ」
「……之定ともあろうものが、そんな弱音を吐くのかい?」
「……え」
僅かに低くなった声。快活な調子ではなく、まるで叱るような、諫めるような調子の色が乗っている。頬から手を放して刀掛けのほうへ歩いてゆき、鮫革の拵えも美しい一振りを手に取る。他人に自分自身を握られる感触に知らず、身体が震えた。
「誇り高い之定、最上大業物」
「……っ」
「三十六の首を切り落とした名刀が、人の目を気にするかい?」
当たり前だろう、と開きかけた口は、恐ろしいほどの気迫がこもった眼差しに射竦められる。
「ここで暮らすうちに鈍らになったか? これほどまでに美しい刀が、人の目に怯えて引き籠るのか? ……違うだろう。お前は……歌仙兼定は、実戦刀だ。美しさも実力も兼ね備えた、三十六も切り捨ててなお鈍らにならなかった業物だろう」
白い指が歌仙兼定自身を鞘から抜き放つ。切っ先を歌仙の目の前に向けられ、白昼の下に晒された白刃は、己の心がどうあれ今日も美しい。何度も何度も手入れをして、レベルも最大まで上がった。二代目兼定より生み出された、細川家の愛刀。
切っ先をつぅとなぞれば、自分自身だ、刺さることも、切れることもない。
「君は」
二人称が変わる。他の本丸ではどうだか分からないが、この本丸の鶴丸は気分で二人称がころころ変わる。歌仙の声を縛っていた気迫が僅かに和らぐ。
「人見知りなのは分かる。……だが、それがどうした? 同じ釜の飯を食う仲間だろう。好きなものの話でもふってやればいい。飯の話でもふってやれば、誰だって話しやすいだろう?」
「それで、……喫茶店、と?」
ああ、と気迫が完全に消えた。歌仙は白刃をぐっと掴んで引き寄せる。反対の手で柄を握り、鶴丸から返された鞘に納める。己自身を縋るように抱きしめて、金色の目を見つめる。
「ああ。そう言うことだ。……ま、酔っぱらいの相手は大変だと思うがな。そこは俺らも手伝うさ」
猫のように機嫌よく細められた眼差しに最早厳しさはなく、ただただ優しさだけが込められている。
(ああ、……敵わない)
やってもいいかなぁと思わされる。心の殻に入ったひびが、大きくなる。この刀には甘えてもいいのではないかと思わされる。それが悔しくて……でも、身体が震えるほどに嬉しい。唇から震える息が零れる。
「……勝手に、したまえ」
続く
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
今日も部屋の外は暑い。この時代の障子は何故だか密封性に優れており、時代錯誤ではないかと思えるほど武家屋敷を再現した内装(外装は建物であることは分かるが、もうなんの建築だかよくわからない何かと化していた)の癖に、政府はこういうところだけマメに手配してくれる。冷暖房も完備しているし、厨だって原理は分からないが最新式のものだ。あらかじめレシピを登録しておけば、コンロを使う段になったらスイッチ一つで火加減から時間まで調節してくれる。炊飯器は開発者の正気を疑うほどに大人数分を炊けるものだし、本丸に常備してある鍋の大多数は馬鹿でかい、という表現がまさにぴったりで、このまま刀剣男士が増えていったとしても全く問題ないだろう。
二十二世紀って怖い、と本丸が始まったばかりの頃はよく初鍛刀の今剣と震えていたものだ。今は慣れてしまったが。
「……本当に、僕らは戦をしているんだろうか」
出陣さえなければこうして日々を暮らし、内番や趣味に勤しむ。大阪城を攻略していた時などは手入れ部屋が満室だったというのに、今では誰も入る者などいない。刃毀れもしていないのだから当然だ。
今は歴史修正主義者を斃し、本物の歴史……人間たちの営みや、歌仙の前の主達が繋いだ歴史を守る、そのための戦いのはずだ。審神者には他の業務があるのだからいないのは仕方ないとして、総隊長である自分までこの戦いのことを忘れたら、本丸はどうなるのだろう。そうなった本丸のことを、生憎歌仙は知らない。審神者が帰ってこなくなった本丸も、刀剣男士が戦を拒否した本丸も、知らない。
だから、自分が一番戦から遠いような振る舞いをして、結局戦場へ出たいと願う。三十六の佞臣の首は歌仙にとって主君に尽くしたという誇りだったけれど、戦場で三十六の首級を上げたってなにも罰は当たらないだろう。
「僕らは、一体何のためにこうして休日を迎えているんだろうね」
日々移り行く時の中で、季節の移ろいを楽しむ。人のかたちをとって、歌仙兼定というこの本丸の初期刀が一番に嬉しかったことだ。人の感じた世界を、人と同じように楽しむことが出来る。素晴らしいことだ。
だが、光輝いて見える世界は歴史改変という魔の手に脅かされているのだという。何故歴史を改変するのか、改変してどうするのか。それすらわからないままに、日々悪趣味な形を取った歴史遡行軍と対峙する。敵ならば斬る。それに異論はないが、あちらが何をやらかそうとしているのか、政府は知っているのだろうか。知っているならば教えてくれてもいいはずだ。そうすればもっと、自分の守るものについて知ることもできただろうに。元の主を助けることが叶わずに涙する者も少なくて済んだかもしれない。
(彼らの死は、この国の歴史にとって必要なことだった……ということ、かな。同時に、助けてしまえば大きな変わり目となる)
それは何にとってか、誰にとっての変わり目なのか。どんな風に変わって、誰が歴史の勝者になるのか。そんなことは誰もわかりはしないのに、敵は細切れにいくつもの時代を改変しようとしている。
(結局それだと整合性がつかなくなるんじゃないか? 一番古いところを変えてしまうだけで、きっと今のこの世界は消えてしまう……多分)
大変癪だが、詳しいことはあの審神者が帰ってきてから問い詰めないと分からない。あっちもこっちも戦の真っ最中であるということを忘れそうになる現実で、本当に自分たちは戦力になっているのだろうか。とりあえず資源の供給が止まらないところを見ると、役に立ってはいるのだろうが。
(今はそれよりも……この着物の意図だ)
これを話のタネに交流を広げろなんて、鶴丸みたいなことをあの審神者が言うとは思えない。単に着せて見たかっただけだろうとは思うが、本人が逃げたのなら見せようがない。
(鶴丸には喫茶店をしてみようなんて言われるし、話のタネにしろなんて、……一体僕はどうしたらいいんだ)
この本丸に女物の着物を纏った刀剣男士は二名ほどいる。だが、彼らは日常的に纏っているのと相応の化粧も施しているからこそ違和感が消えているのだ。それこそ笑われたらどうしたらいいのかわからない。
(人間の眼には自分自身は良く映るというし……僕が鏡で見た時は悪くはなかったが、そうでなければどうしたらいい)
こんな姿を旧知の小夜左文字に見られて、距離を置かれたりしたら耐えられない。それ以外の刀に見られて笑い者にされるなど、この歌仙兼定の矜持が許さない。元伊達家の面子とは知らない仲ではなかったから姿を見せられただけのことで、特定多数に見られるくらいならば今日は引き籠っていたい、と歌仙は畳に寝転んで丸くなる。
(帰ってきたらただでは置かないからな……!)
不穏当なことを決意しながら、手近にあった本を引き寄せる。『明日の献立』と書いてある表紙をめくれば、なぜか果物のたっぷり入ったかき氷のイラストが視界に飛び込んでくる。
「『絶品! 桃とマンゴーのフラッペ』……かき氷じゃないか」
これは食事とは言わないだろうと次のページをめくると、またカットされた桃がホットケーキの上に載っている写真が掲載されている。
「『桃とココナツのアイスパンケーキ』……今月号は喫茶店のメニューだったか?」
定期購読を希望すれば各本丸に毎月配られる料理の月間レシピ本だが、何かの陰謀ではないかと疑わずにはいられない。昨日から読んでいたのは事実だが、よもや自分がこんな格好をするとは思わなかったから、単なる被害妄想だとは分かっていても下らない陰謀論を疑ってしまう。
「喫茶店、か」
鶴丸国永の言葉が蘇る。喫茶店の真似事なんてしてみちゃあどうだい、なんて好き勝手を言ってくれる。大体、結局は歌仙と燭台切が料理を作ることになるのだから、そんなことをしたって女給(ウエイトレス)の真似事などしている暇なぞないだろう。
「……間違いなく非番なのに過労で倒れるな……」
この本丸は意外にも食い意地の張っている刀が多い。喫茶店など開こうものなら、本丸に常備してある果物や小麦粉が一日でなくなってしまいそうだ。通常喫茶店で供されるという珈琲はおそらく、どれほど高い豆を準備しようと余るに違いない。はぁ、とため息を吐いていると、障子の外に気配を感じた。
「歌仙、いますか?」
細川の家にいた時分に懇意にしていた短刀・小夜左文字の声だ。ばくばくと鳴る心臓を押さえながらゆるりと起き上がってどうぞと答えれば、音もなく障子が開かれる。
「あの、……その着物、もらったんですか?」
小夜の表情はいつもと変わらない、あまり感情の乗らない表情だ。それにひとまずほっと安心して、こくりと頷く。
「もらったというか、僕の着物と引き換えに置いてあったというか……」
「じゃあ、自分で買ったわけではない……ということですか?」
「ああ。でなければ女物の着物なんて手に入れないよ。こういう女物の着物を着ることの是非はともかく、着物自体はいいものだと思う。……でもねぇ、今日は人前には出たくないかな」
「……あなたならそう言うでしょうね」
さすがに細川の家では長い付き合いだ。何をどうやったら歌仙が嫌がるのかをよくわかっているこの短刀は、どうしようとも言いたげに首を傾げる。
「……鶴丸がね、喫茶店の真似事でもしたらどうだ、って言うんだ」
「喫茶店? ……ああ、その格好だから、ですか」
多分ね、とため息を吐くと、小夜の指先がフリルを突っついた。
「でもそんなことしたら本丸の備蓄が無くなってしまう。おまけに珈琲だけは絶対に余るのが目に見えているだろう?」
「甘党ばかりですからね」
そう。この本丸には非常に残念ながら珈琲という飲み物が浸透していない。いや、ブラックコーヒーだとかアメリカンコーヒーだとかいう、珈琲の中に砂糖もミルクも、その他甘味という甘味を入れていない飲み物が一般的ではない。小夜が言う通り、甘党が大多数を占める本丸だからである。
近侍ではないものの、近侍の歌仙の負担を減らすという名目で主命という名の仕事を求めて日々審神者に連絡を入れているあのへし切長谷部でさえ、厨で求めてくるのはどこぞの珈琲ショップで注文できるような飲み物である。グラスに注いだ液体の上に甘いホイップクリームとキャラメルシロップにチョコレートチップがどんと乗った飲み物を見て、燭台切と二人で卒倒しかけたのは随分と前のことだ。それからそんなに甘いものは身体に悪いと言い続けて早数ヶ月、へし切長谷部の飲み物の嗜好は……残念なことにまったく変わっていない。冷蔵庫の中にシロップやらチョコレートチップやらの飾り付け用の甘味類がやたら充実しているのは、この本丸の大多数が長谷部までとはいかないまでもそういう味付けを好むからである。
「ただでさえ業務用を大量に買い溜めして、政府から数量で問い合わせが来るのに……喫茶店なんてどうしたらいいんだ……」
もう泣きたい、とまた丸くなる歌仙に、小夜は溜め息を吐く。昔いつも見ていたような、まるで兄のような表情で仕方ない、という表情で、昔は大きく感じた小さな手で背中を撫でてくれる。
「……鶴丸国永さんはなんと?」
「交流を、温めろって」
「そう、ですか」
「この着物が話のタネになるだろうって。……そんなの無理だ。いつもこんな格好をしているわけじゃなし、笑い者になるなど耐えられない」
ぐじぐじと弱音を吐いているとくしゃりと髪の毛を撫でられる。
「お小夜……どうしよう。こんな格好で人前に出たくない。でも、燭台切も悪乗りして、もし注文していたらどうしよう……」
「……うん」
そうだね、と小夜が気遣わしげに頷いた。……なんだか、いやな予感がした。
朝食の後からどれだけ丸まっていただろうか。ずっと小夜についていてもらったが、燭台切は来なかったからまだ昼餉の準備の時間ではないらしい。
「よぅし歌仙! 業務用のクリームと砂糖と……まぁその他諸々を注文してきたぞ! というかもう届いた!」
すぱぁん! と勢いよく障子を開かれて、歌仙はびくりと身を震わせた。まさに飛び上がる勢いだった。鶴丸の後ろにはあんぐりと口を開いたへし切長谷部が立っている。
「どういうことだい……?」
「光坊も賛成してくれてなぁ、本人はギャルソンがやりたいらしいから衣装を調達してる真っ最中だ」
「ちょっと待て鶴丸国永」
なんだって、と声を荒げそうになった歌仙を援護するように、長谷部は鶴丸の肩をがっちり掴んで低い声で制止を掛ける。
「俺にもわかるように説明しろ。それと歌仙の衣装は何事だ。貴様か、貴様のせいか」
「歌仙が主の陰謀で喫茶店の女給の格好をさせられてるからいっそ喫茶店の真似事をしたらいいじゃないかって話だ」
主……! と長谷部が頽れた。別に彼が女装をしたいわけではないし、審神者からそういうものを貰いたかったというわけではないだろう。ただ単に、本丸運営上近侍の歌仙がこうなれば長谷部にもしわ寄せが来るわけで。
「何故本人に根回しをしなかったのですか……!」
「本当にね」
根回しをしなければ彼は表情には出さなくともあたふたするだろうし、歌仙だって何が目的なのか分からなくて困ってしまう。というよりも、現に今困っている。だが、そんなことより今は喫茶店云々の件だ。それで、と居住まいを正して鶴丸に向き直る。
「光忠は二つ返事だったのかい?」
「二つ返事だった。あと伽羅坊には消極的に反対された」
「何故積極的に反対しなかった」
これはひどいと呆然としていると後ろで小夜がため息を吐く。
「流されても一日部屋に引き籠れば一連の騒動から逃れられると思ったんでしょうか。……今日の歌仙みたいに」
「お小夜! 僕は当事者であって巻き込まれた側じゃないんだよ……!」
それはそうですけど、と彼は首を傾げる。
「でも歌仙、着物なら主に大分貢がれていたんじゃ……」
そう。歌仙を溺愛する審神者によって非番の時に着る着物には事欠かない……はずだった。昨日の夜までは確かにそのはずだった。
「全部女物にすり替えられていたよ。……なんだろうねあの行動力。この部屋、監視カメラとかついているんだろうか」
「……監視カメラはついていないと思うぞ」
長谷部がせめてもと慰めてくれたが、歌仙の心は泣きたい気持ちでいっぱいだった。
「おまけに……長谷部にまで見られるなんて」
「俺で不都合があったか?」
「笑い者にされたくないんだ! 頼むから今日は一日引き籠らせてくれ!」
そうかと紫色の瞳が瞬く。
「気に病むほどではないと思うが。……むしろ、なんだ。その……似合っていると思うぞ?」
これでもダメかと見つめてくる眼差しに、歌仙はじりと後退する。目と目で通じ合うことは信頼関係を得ているようで嬉しいのだが、じっと見つめられるのはどうにも居心地が悪い。これが本体を見つめられるのならば誇らしいが、人の器では気恥ずかしさが優ってくる。
「あの、長谷部。……その、何か気になるのかい? じっと見たりして」
「い、や。そうではない。そうではないんだが……元が華のある奴だから、そういうのも似合うのだな、と思って、つい」
「そ、そうかい」
つい気恥ずかしくて視線を逸らすと、鶴丸が微笑ましそうににこにこしている。
「ほら、話のタネになるだろ? お前さんの人見知りを治すいい機会だ。喫茶店をやろうじゃないか」
手伝えよ長谷部、と声を掛けられた長谷部は、なぜか裏返った声で何故俺がと抗議していた。声色はともかく内容は納得できる。
「……丸め込まれましたね」
「……うん」
主命第一で主たる者以外にはわき目もふらない男かと思えば、長谷部は意外にも付き合いのいい男である。本丸の飲み会には大体参加していたりするし、クリスマスパーティーの時だって率先してビンゴを買ってきた。織田信長から下賜されて以来ずっと黒田の家に仕えていた刀剣だから、てっきり敬虔な基督教徒として厳粛な一日を過ごすのかと思っていたから、大層驚いたことを覚えている。……クリスマスイブにパーティーを開催したからだったのかどうかは分からないが、その次の日に自室に籠もっていた。彼がこの上なく愛するかつての主と同じように祈りを捧げていたからかもしれない。
ともかく、面白そうなことはなぜか嫌そうな顔をしながらも率先してくれるのがへし切長谷部という男である。鶴丸と燭台切が乗り気で、大倶利伽羅も反論がないとなれば、本丸の板張りの部屋……三つある応接室のうちどれかを貸し切って、レイアウトから何からこだわるに違いない。これで大分退路は塞がれてしまった、と思う。彼がやると言えば強硬にやらないとは歌仙としても言い張りづらいのだ。だが。
「……やるんなら絶対に厨に引き籠ってやる」
こんな格好で人前に出たくない、と唸れば、小夜がよしよしと後ろ頭を撫でてくれた。よろよろと立ち上がって障子を閉めて、ずるずると座り込む。普段なら雅でも風流でもない振る舞いは避けて通ることにしているが、今はそんな気分ではなかった。
「歌仙、」
「はしたないのは分かっているんだ……でも、少し、耐えられなくて」
「……主に復讐しますか?」
それには首を横に振る。
「主は後で手打ちにする」
「……死なない程度に」
「戦国の世ではないし、僕もそこまで非道ではないよ……ただ、今後の僕への接し方は改めてもらう。二度と主に僕の下着は洗わせない。というか干しているところも見せない」
「洗ってたんですか?」
「もちろん洗わせないよ。主だよ? 刀である僕が主人に洗い物などさせられるわけがないだろう? ……実は、僕が洗濯機に放り込んでから乾いたものを畳むまでじっと見ているんだ」
「それならいいですが」
傍らの短刀がほっと安堵の息を吐いた。
「当面の問題は喫茶店、ですか」
「ああ。……こればっかりは主を責めても八つ当たりになってしまうし……どうしようか。やるにしたって厨に引き籠ったままとはいかない気がするんだ」
元をただせば歌仙のこの格好を見て鶴丸が言い出したことである。燭台切もギャルソンの衣装を調達しているというから、今日の夕方まで準備をするにしても、恐らく交代で接客に出ることになるだろう。最初の本丸案内は近侍である歌仙の仕事だから、この本丸の全員と話したことはある。だが、その後も全員と親しくしているかと言ったら、それは別の問題と言わざるを得ない。
かつて細川の家で共に過ごした小夜のように親しい刀はいる。燭台切だってその頃からの付き合いだ。むしろ(恐らくいつか本丸に来るはずの太鼓鐘貞宗も含め)伊達の面子や前の主が織田信長に仕えていた頃に顔見知りだった面子はそれなりに親しいし、歌仙が付喪神としてまだまだ生まれたてほやほやの頃を知られている。(あの頃は分類が脇差だったような気がするから、今のような成人男性の成りではなく、ほんの小さな童子だった。ちなみにいつ今の姿になったのかは覚えていないが、長谷部や宗三左文字など随分可愛がってくれたものだ。宗三などこの本丸に来た時に、『あの小さな之定が随分大きくなりましたねぇ』とまるで親のような顔をしていた)
だが、本丸にいるのはそういう刀ばかりではない。前の主に教養は似ても、人付き合いの能力までは似なかったのだ。戦国時代に細川の家が懇意にしていた大名の家にいた刀もいるし、逆に仲の悪かった家の刀もいる。そうかと思えば三条派のように全く知らない刀もいる。そういう刀たちと懇意に渡り合っていくなど、気が遠くなりそうだ。
「何をどう話せばいいって言うんだ……」
「同じ兼定派の和泉守とは仲が良くないのですか? 同じ部隊でしょう」
「戦場のこと以外で話したことはないよ。……同じ新選組の面子のほうが話しやすいだろうし、実際そのようだし」
同じ刀工から生まれた訳でもないし、とため息を吐くと、またよしよしと撫でられる。
「難儀ですね……」
「……うん」
やはり喫茶店など無謀なのでは、と二振りでため息を吐いた。
☆☆☆
昼餉を食べ終わり、歌仙は自室に下がって本を開いていた。面白そうだと思って何とはなしに読んでいる、付喪神に関する本だ。パラパラと適当に流し読みをしていると、ふと騒がしい足音と共に障子の前に人影が見えた。長い髪に羽織姿。和泉守兼定だ。
「之定ぁ、今いいか」
「……」
「ここで構わねぇからよ」
先刻部屋には入れてあげられない、とは言ったものの、このまま外に出したままで対応するのも可哀想というものだ。何しろ外は暑い。今日は内番用の着物姿でも戦支度でもない、涼しそうな浅黄色の小袖に袴といういでたちだが、熱を吸いやすい長い黒髪はこの陽気では辛いだろう。
「……いいよ。入っておいで」
外から安堵のため息が聞こえ、障子が開いた。和泉守兼定が小さな紙袋を携えて入ってくる。
「悪いな。……これ、さっき端末見てて買ってみたんだけどよ……」
おずおずと差し出された紙の箱には『八国山』と箔押しされている。
「オレの前にいたところの近くの名産品らしいぜ。……栗が入った饅頭とかって書いてあった」
「へぇ……」
紙の箱はしっかりしていたが、受け取るとずっしりと重い。饅頭というのならば致し方ないだろう。
「開けても?」
「おう」
箱のふたを開けると、紅白の細い紙と柔らかな白い紙に包まれた饅頭が十ほど姿を現す。
「お茶を淹れようね」
立ち上がって茶葉を取り出し、常に温めてある湯を急須に注ぐ。茶こしに茶葉を入れて急須の中に入れる。氷を入れるのだから少し濃いぐらいがいいだろう。部屋に備え付けてある小さな冷蔵庫から氷を出して、湯呑に入れる。
「冷たいお茶でいいかな」
「ああ、すまねぇな」
ふと見てしまった快活な笑顔に饅頭のお礼だよと小声で呟いて、蒸らしが終わった茶を注ぐ。ぱきぱきと小さな音がして、氷にひびが入っていく。どうぞ、と饅頭と一緒に差し出すと、おお、と嬉しそうな声が上がった。いただきます、と二人で手を合わせて茶を一口すする。僅かな苦みと茶葉の香りが鼻腔を満たした。
「うめぇ」
「それは嬉しいねぇ。……で、どうしたんだい?」
もう一口茶を啜りながら聞くと、和泉守は饅頭の包み紙を剥がしながら少しばかり気まずそうな表情を浮かべる。
「いや、な。……主の陰謀で大変な目に遭ったって言ってただろ? んで、喫茶店やるって」
「やるとは言ってない」
やるって聞いたぜ、と彼は不満げに饅頭を一口齧る。歌仙も饅頭を齧ると、優しい甘さの白あんが舌の上でとろりと広がった。
「昼餉の時に、長谷部が大々的に手伝えって言ってたぜ? ……燭台切が張り切ってたから、多分もう準備が始まってるかもしれねぇな」
「……主に怒られるぞ……?」
どうせばれたってあの審神者が本気で怒るとは思えないのだが、せめてもの抵抗で言ってみる。
「本気で怒られるとは思えねぇがな」
「放任主義だからね」
お互いこの本丸に招かれて長い身だ、あっさりと見抜かれて歌仙は苦笑する。
「それでよ、ずっと考えてたんだが。……之定の格好な、どっかで見たことあんだよな」
和泉守はどこだっけなぁと長い黒髪を掻き回す。
「僕は三百年くらい前の女学生……いや、喫茶店の女給みたいだと思ったのだけど」
「いや、それもそうなんだが、もうちょい最近……あ、卒業生だ」
卒業生? と歌仙が眉を顰めると、和泉守はそうそう、と得心のいったように頷く。
「ほら、三月の卒業式ん時な、女の学生があんたのカチューシャとエプロンとったみたいな格好で学校行くんだよ。化粧もしてるし、大学生なのかねぇ。……見たことあるだろ?」
ああそういえば、と歌仙も思い出す。あまり人混みに近づきたくはないから外へはそれほど出なかったのだが、確かに早春の頃はそんな風景を見たような気がする。卒業おめでとう、と言いかわす人の群れが、右に左に歩いてゆく光景。また一つ巣立ちに近づく、華やかな別れの式。
「そうだね、見たことがある。……確かにエプロンとカチューシャはなかったよね。でも、あれは……女学生のものだ。今着ているこれも女給のものだし」
僕が着るのはどうなんだろうねぇと首を傾げる。女物の着物。ほんの童子の姿だった頃ならこの色でも……いや、もっと濃い桃色でもまだ童子だからと許されただろう。だが、あれから数百年が流れた。今の青年の姿では許されないものも多いだろう。
「童子であった時分なら許されたかもしれないんだけれどねぇ……着物自体はね、いいものだから……着る分にはいいんだ。人前に出るのは極力遠慮したいだけでね」
「そうか」
そう言うと、和泉守が難しい顔で饅頭を口の中に放り込む。黙って茶を飲み干すその様子は何かを思案しているようでもあり、言葉を選んでいるようでもある。新撰組のように旧知の間柄であれば、その思考の海に割って入ることもできるかもしれない。けれども、数百年という時の隔たりが、刀工(おや)の何代にもわたる隔たりが、喉の奥に言葉をしまい込んでしまう。
鶴丸の言う通りに女給の真似事でもすれば、少しは話せるようになるだろうか。いつかこの歴史修正主義者との果てのない争いが終わり、いるべき場所へ戻った時、共に暮らす付喪神たちと他愛のない話を他愛もなく……それこそ、話題に詰まることも、うまく話せない自分自身に苛立つこともなく話せるだろうか。饅頭の残りを食べてと茶を飲み干してしまいながらもそんなことを考えていると、大分考えがまとまったらしい和泉守が口を開いた。
「なぁ之定」
「なんだい」
「喫茶店の……あー、キャフェーとかいうのの真似事、本当にやってみねえ?」
キャフェーてなんだ、と思考が停止仕掛けて、ああ喫茶店の大分古い言い回しか、と思い至る。大正時代から昭和時代にかけて、小説の中に出てくる喫茶店には現代で言うカフェ、という表記ではなく喫茶店(キャッフェー)と表記されることが多い。断定が出来ないのは歌仙が読んでいた小説ではそう言う表記であったというだけで、全ての本がそうであるとは言い切れないからである。ともかく、最近流行りの刀、と言うだけあって和泉守もそういう言い方をするのかと少し驚いたが、なによりも女給の真似事を提案するこの後代に驚いた。
「……パンケーキでも食べたいのかい?」
出来るだけ声色に出ないように注意を払って問いかけると、彼は気まずそうに頬を掻く。
「まぁそれもあるんだけどよ……オレの勘違いかも知れねぇんだが……あんた、他の奴と喋んの、怖がってるような気がしてよ」
「そうかい」
気が付いていたのか、と声には出さずに呟く。饅頭の包み紙と飲み干した湯呑をものともせずにじり、と歌仙の方に膝がにじり寄って来て、少しだけ後ろに下がる。とっさに湯呑の被害を防ごうと端に避けたが、それが失敗だったかもしれない。じりじりと迫る大柄な身体を阻むものが、何もないのだ。
「オレん時だってそうだろ。本丸の案内はしてくれたのに、あとは話し掛けにも来ねえ。……もしかして一人でいる方が好きなのかとも思ったが……オレが話し掛けてみたくて、よ」
「……そう」
「……だから、他の奴もあんたと話したいんじゃねぇか?」
本当に、とは聞けなかった。目を見るまでもない。歌仙の頑なな心の殻にヒビを入れる、そのまま割ってしまいそうな程に強い一撃、真摯な声だったから。だから歌仙も、震える声で心の中を吐き出した。
「……僕はね、何を話していいかわからないんだよ。きっと細川の家で大元の僕が懇意にしている刀が来たって、きっとうまく話せない。お小夜にだって全てを晒け出せるとは言い難い」
「……いや、オレだって国広に全部報告なんかしてないぜ」
「それだけじゃない。……これは、女物の着物だ。長谷部やお小夜や伊達の刀は忠興にくっついていた小さい姿を知っているし、あの時はあの時でこういう柄の着物も他の刀に着せられていたからまるで気にしていないような反応だけど……」
君たちのように知らない者にしたら珍妙にしか見えないだろう? と返せば、力強い手が肩を掴む。
「んなことねぇよ!」
「え……」
「文系だから、ってのはよくわかんねぇけど、あんたそういうの似合うんだよ!」
「だが、エプロンやカチューシャなんて」
「可愛いじゃねぇか! ……なぁ、あんたの人見知り、多分皆知ってると思う。でもよ、それ以上に皆、あんたと話してみたいんだよ。……キャフェーを取っ掛かりにな」
「そういう、ものなのかい?」
ああ、と和泉守は力強く頷く。
「主の悪行だったとしても?」
「主はなんも考えてねぇと思うけどな、オレらにとっちゃあ渡りに船だ。……なぁどうだい之定。手塩にかけて育ててくれた可愛い可愛い後代に最初に作ってくれたオムライス、食わせてくれよ」
ふと視線を戻して、ああ、眩しいと思った。生存その他諸々で機動以外の全てを歌仙より上回る、可愛いと表現するには少しばかり優秀すぎる兼定の後代。武士の世の終わり、壬生の狼と称された新撰組の鬼の副長に振るわれた打刀は、こんな風に時代の違う先代を導くことが出来るのだ。
「和泉守」
「ん? あとオレ、カルアミルク飲みてえ」
「在庫がないよ。この間の宴会で君、全部飲み干したじゃないか。しかも潰れるし……あのあと布団に放り込むの、大変だったのだから」
「……おう」
カルアミルクなどのカクテルは、歌仙の記憶が正しければ材料の在庫がなかったはずだ。言い訳という名の説教を始めてしまえば、きらきらしい笑顔の眉尻がしょんぼりと垂れた。
「……仮にやったとしても、次の日の食材はどうするんだい? 野菜は畑でとっても残りの食材をすぐに買ってこられるわけでもなし、食べつくしてしまったら何も作れないよ」
「う……」
それに、とふいと視線を湯呑に投げる。これでもう表情を見なくて済む。
「いくら僕が文系名刀とはいえ、着物に罪はないとはいえ……どうして女装をして人前に出なければならないんだい」
「あ……」
今、和泉守がどんな顔をしているかはわからない。顔を上げるのが、怖い。
「……知らなかったよ。人の眼がこんなに怖いなんてね。君もそうだと思うけど、まだ自我を持つ前から数多の人間の賛美を浴びてきたし……付喪神になってからだって、他の付喪神が色々と構ってくれた。少しばかり他の場所で暮らしたことはあるけれど、まったく知らない家のものばかりいる場所で暮らすのは……初めてなんだよ。あの家のものなら僕がこんな格好をしていても気なんか使わなかっただろうけど、……君たちに失望されるのが、怖いんだ」
初期刀として招かれ、近侍に置かれてからずっと、相応しい振る舞いをと心掛けてきた。そのためには内番も文句は言うけれどもこなしてきたし、一番多く首級を上げてきた。刀が増えてからは審神者が常駐しない本丸を切り盛りするために効率をずっと考えてきた。勿論風雅を愛でる時間はとってはいたが、それは歌仙を形作るものゆえのこと。雅たれと説くことはなかったが、長谷部と共に刀剣男士としての振る舞いを説いたことなど何度もある。目の前の和泉守などその最たるものだ。
そうして作ってきた、近侍として、刀剣男士としての歌仙兼定は、誰よりも厳しく、凛々しく、そして優しくなくてはならないのだ。ちょっと若気の至り(もうそんな年ではないけれど)、と言って女装をするなどあってはならないのだ。たとえその近侍像が張りぼてだったとしても、決して崩してはならないのだ。
「僕は君を何度か叱ったことがあるよね。誰も見ていないからって足を放り出して大の字になって、ぽてとちっぷすを齧ってはいけないって」
「……おう、そんなこともあったな」
「僕が女装をしているということはね、それと同じなんだよ。普段から女物を着ている者たちであればいいけれど、普段男物を着ている僕が着るのは、近侍として相応しい振る舞いとは言えないんだ」
「之定……」
「それで笑い者にされたら……僕はこれから、どうやって過ごしていけばいいんだい?」
之定ともあろうものが情けない、と思う。世が世なら、笑い者にする者は片っ端から手打ちにしてしまえばいい。……それでも、今は……戦国時代の常識が通用しない審神者を頂点とする本丸では、そんなことはできないのだ。だから、初めてこの後代に弱音を吐いた。小夜に縋りついて泣き出してしまいそうなのを堪えて、それでも意識して声を作った。
「……そんなの」
「……?」
肩を掴む手に力が入る。痛い、と抗議しようとして……先ほどよりも強い眼差しに射抜かれた。
「少なくともオレは! それ之定にすっげえ似合ってるって思った!」
「和泉守……」
だから笑い者になんてしない、と彼は言った。
「歳さんだってきっとそう言ってくれる!」
「忠興も、言ってくれるかな」
もうこの世にいない主人。歌仙に号を与えてくれた人。エプロンとカチューシャがなければまた違ったかもしれないが、おそらく見たところで正気を疑うだろう。むしろ似合ってるなんて言われたら忠興の正気を疑ってしまう。けれども和泉守は、優しい後代は、真剣な瞳で言うのだ。
「言うに決まってんだろ!」
きっとオムライスやパンケーキの為だけに説得しているわけではあるまい。先程も言っていた通り、歌仙が人見知りということを知っているからこそ、本当に外に引っ張り出したいのだろう。
「少し……考えさせてくれ」
続く
審神者の陰謀によって女装をする羽目になった歌仙兼定と、和泉守兼定、伊達組(貞ちゃん除く)、小夜左文字のコミュニケーションを巡る話。
*刀剣男士同士の仲が良すぎる描写がありますが、特にカップリング等はございません。
*所謂『うちの本丸』描写、刀剣男士の設定・嗜好についての捏造、審神者に関する言及がございます。
*歌仙さんが女装します。
とにかく、そんな暑い日のことである。
歌仙兼定が朝目覚めると、内番着と戦衣装が彼の悪辣極まる審神者によって神隠しにあっていた。
「主! 今日という今日は仕置きが必要なようだな……!」
枕元に置かれた可愛らしい柄の小袖に袴。明治、大正と呼ばれた時代の女学生が着るような着物に加えて、真っ白なフリルつきのカチューシャとエプロンを睨み付けながら、歌仙兼定は憤懣やるかたなしに低く唸った。
「あの、歌仙くん?」
何処かに雲隠れした審神者を手打ちにできなかった怒りをぶつけるように朝食のサラダにするニンジンを短冊切りにしていると、フードプロセッサーでトウモロコシを砕いていた燭台切光忠がどうしたの、と戸惑うように問うてくる。結局は用意された着物を着るほかなかった歌仙が一言主がね、と言えば、大体を了解したように燭台切はああと頷いた。
決して着物の柄が気に食わないわけではない。淡い桃色の地に小振りでありながらも華やかな椿があしらわれており、紫の袴も薄紅色の花弁が染め抜かれている。髪の色から着られると判断したのだろうが、それにしたってこの仕打ちは手打ちものだ。
大体フリルがふりふり付いているエプロンとカチューシャがくっついていること自体おかしい。歌仙は刀剣男士であってどこぞのいい家柄の子女ではない。というかいい家柄ではあるが人間でも女性でもない。まったく困ったものである。
「一体主は何を考えているんだ……少しは常識というものを……すまない、少し落ち着かせてくれ」
「初期刀のお役目も大変だね」
「そろそろ実家に帰っていいかな……」
よしよしと背中を撫でる同僚に、歌仙はしんみりと訴えた。里帰り制度は刀剣男士に適用されないというのは、そんな制度があったら有事に対応できないからだろう。……食事を摂り、自分自身を持って出陣し、風呂に入り、掃除をし、眠る。そんな平和なことをしていれば、今が歴史修正主義者との戦の真っ最中だということも忘れてしまいそうだ。……それを忘れないために大阪城の調査や戦力拡充計画があるのだろうが。
それにしても、とかつての主のように右目を眼帯で覆った同僚は呟く。
「何で女物の着物なんだろうね?」
「気まぐれじゃないか? ……とにかく、朝餉の支度が終わったら、今日は部屋から出ないからね。炊事の時間になったら厨に行くから。食事はそのままここで食べる」
今日が非番で本当に助かった、と歌仙がため息をつくと、燭台切は苦笑いする。この本丸での非番とはすなわち、審神者が何の指令も出さない日……つまるところ本日のように本丸を留守にしている日、ということになる。年がら年中審神者が本丸に詰めている本丸ではまた違うらしいが、この本丸に置いてもそれでは調査が進まない。ゆえに審神者がいない日は各自食事も内番も好きにしていい、と初期の本丸中で協議した結果、そう決定している。
「オーケー。時間になったら部屋に行こうか?」
「いやいい。僕がそっちに出向くよ」
「そう? ……女物を着るのが恥ずかしいんじゃないんだ?」
「なんだかんだでいい着物ではあるからね。これで出陣するのは嫌だし内番もいつもの着物の方がいいのだけど、部屋着として着るんならまだましだよ。……それに、着ない方が着物に対して失礼だ」
思い切りいいねぇと燭台切は快活に笑う。遥か昔の戦国の世にいた時分、前の主・細川忠興にくっついて伊達屋敷に赴いてからの仲だが、どうでもいいことをどうでもよく話すにはいい相手だと思う。
「ありがとう。君が話を聞いてくれてよかった。……話しづらいこともいろいろと話せるよ」
「それは嬉しいな」
「お小夜に話せることの三分の一ぐらいだけど」
しれっと澄ました顔で言ってやれば、彼はもう、とあきれたように笑う。
「相変わらず小夜ちゃん、かい? ……あれから随分経つのに人見知り、治らないねぇ」
「なんだい、人聞きの悪い。親しく付き合う相手を厳選していると言ってくれ」
「君のそれは厳選しているとは言わないんだよ」
そうなのかい、と聞くと、それはそうさとかえってくる。細川の屋敷ではそんなことを言われなかったぞ、と表情には出さないまでも全力でむくれていると、それは君が解決することだからさ、とまた笑う。
「……いや、君にしか解決できないことだから、って言ったほうが正しいかな。まぁ、独りであんまり悩まないようにね? 胃に穴が空いちゃうから」
「……そうだね。胃に穴が空くまで深刻に悩んだこともないからなんとも言えないけど」
それは半分ほどなら正しい。深刻な悩みで付喪神の胃に穴など物理的に空かないからだ。
刀剣男士として政府に招かれ、審神者なるものの一人が構えるこの本丸に落ち着いてからも悩みが尽きないものの、実は京都や大阪城、戦力拡充計画に赴いた際に出現した敵の高速槍以外に歌仙の胃に風穴を開けたものなどいはしないのである。
「そうかい? ま、総隊長殿の悩みといったらあれだろう? 延享年間の新橋」
「二番目ぐらいはね」
延享年間・新橋。先日開かれたばかりの戦場である。方々の本丸……否、恐らく全ての本丸に調査通達が出されており、その先の白金台では今隣で呑気にコーンポタージュを拵えている燭台切光忠の知己、太鼓鐘貞宗が確認されているのだという。通達によれば歌仙兼定という刀を大事に伝えてくれた細川忠興の末裔にも絡む場所だという噂である。
「早く行きたいねぇ」
「そのためにはレベルとやらを早く上げないといけないんだけどね……」
ただしその戦場に行くにはどうも刀剣男士としての熟練度……レベルというものが足りないらしい。京都までを駆け抜けてきたいつもの面子ではなく、延享年間専用に隊を編成したいというのが審神者の意向だ。他の本丸では京都の時点で短刀たちのみの編成をしていると聞くから、隊の再編成自体は全く珍しいことではない。問題は編成対象の刀剣男士のレベルが上がっていないということだった。隣のコンロでコーンポタージュに牛乳を入れている燭台切もその一振りだ。
「まぁ、敵も強いみたいだし、無様に負けるよりはいいんじゃないかな。……歌仙くん、味見てくれる?」
差し出された小皿からカスタードクリームの色をしたスープを啜って喉に通す。甘いトウモロコシの香りが牛乳でまろやかに溶かされている。
「うん、いいんじゃないかい?」
「よかった。……じゃあ、一応大広間に持って行くね。伽羅ちゃんと鶴さんがオーブントースターとパンを持って行ってくれたから、後はサラダと果物かな」
「そうだね。サラダは後卵を乗せるだけだからすぐ出来るよ」
厨の番人たる二人の手際はとてもいい。行ってらっしゃい、と燭台切を見送って、すぐに歌仙も水菜やレタス、トマトにきゅうり、それとニンジンを乗せたサラダボウルの上にゆで卵を切って乗せる。最後にクルトンを振りかけて完成した皿を持って厨を出る。
食事処の大広間では、つまみ食いをしようとする不届き者を鶴丸国永と大倶利伽羅が見張っていた。燭台切と入れ違いに部屋に入って、サラダボウルを机に乗せる。
「おお、今日も豪勢だな」
最近クルトンがお気に入りらしい鶴丸が目を輝かせる。喜んでくれるなら料理人冥利に尽きる。
「ドレッシングは和風か?」
「冷蔵庫にあるやつだね。全部持ってくるよ」
万屋で買ったドレッシングが大量にあるので、それを使うことにする。
「大倶利伽羅は?」
「……フレンチ」
フレンチドレッシングが好きらしい大倶利伽羅は、今日も今日とて慣れ合いたくはないらしい。確か和風ドレッシング好きが大勢を閉めるこの本丸内で、まだ在庫があったはずだ。
「……冷蔵庫にあるはずだから自分の部屋から持ってこなくてもいいからね」
「……ああ」
……とはいえ、歌仙が同じ部隊の彼と話すのは出陣のときだけなのだが。社交的でない大倶利伽羅とどうでもいいことをどうでもいいように……燭台切とするように喋るには、なかなか難しい。苦手というつもりはないのだけれど。
「……うん」
会話が続かないためにしゅんと目を伏せて立ち上がると、鶴丸がお、と声を上げた。
「どうした歌仙。その着物、今日は審神者に何かされたのかい?」
「どうしたもこうしたも、着物を全て持っていかれてしまって。今朝目が覚めたらこれしか残っていなかったんだ」
「ははぁ、なるほどな。……ま、夜には戻ってくるんじゃないか?」
「主が戻れば、だけれど」
そうだよなぁと鶴丸は指先でパン籠の縁をなぞって、なぜか面白そうに笑う。
「まぁ、これを機に息抜きでもしたらどうだ? ……ほら、この間テレビで見た……喫茶店、とかいう店の真似事とか」
光坊なら乗ってくれると思うぜ? などと楽しそうにのたまう平安刀は心底本気で言っているらしい。そうはいっても、と歌仙は溜め息を吐く。
「息抜きといってもねぇ……僕は結構息抜きできているほうだと思うのだけれど? 歌も好きに詠ませてもらっているし、茶室はないが茶も点てている。何より僕らにとっては戦場に出ることが一番の息抜きだと思うけれどね」
刀相手に戦場以外の息抜きを勧めるなんて、と思ったが、鶴丸の本意はそうではないらしい。ちっちと悪戯っぽく指を振られる。
「そういう意味じゃないぜ?」
「ではどういう意味だい?」
「もうちょい他の刀と喋ってみちゃあどうだ、ってことさ。見たところ、同じ兼定の坊やともあまり喋ってないだろう? ……同じ刀派で同じ部隊なんだし、引き籠らずにもっと交流を温めたほうがいい。お前さんの今の格好は話のタネにはちょうどいいだろう?」
兼定の坊や。平安時代の生まれである鶴丸にとっては室町時代の生まれである歌仙も坊やのようなものだ。だが、いま彼が言っているのはおそらく和泉守兼定のことだろう。幕末の激動の時代を駆け抜けた新撰組・鬼の副長と謳われた土方歳三の愛刀。
「……仕方ないだろう。僕は戦国の生まれだし、彼は幕末だ。話も合わないだろうし……同じ新選組の大和守安定が同じ部隊にいるのだから、彼にも十分話し相手はいるだろう」
決して自分が臆病なわけではない。話が合わなくて失望されることを恐れているわけではない。勿論歌仙とて二十二世紀の現在まで存在している刀だ。江戸時代末期の開国から江戸城開城、五稜郭の戦いのことは人の耳から聞いている。だが、自分がその場所にいた訳ではない。同じ時代に存在していても、同じ空気を感じていたわけではない。
自分の知らない戦の中を駆け抜けた幕末の刀と、どうして話が合うだろうか。そう思えば出陣のときも自然と口を閉ざしてしまい、同部隊の大倶利伽羅や山姥切国広に何か言いたげな視線をちらちらと向けられる有様だった。
「いやぁ、伽羅坊の話を聞いてると……奴さんも話したいんじゃないかと思ってな? 決して俺の早合点じゃあないからな」
「……あいつ、ちらちら見てるぞ。出陣の度にな」
それまで黙っていた大倶利伽羅がぼそりと口を開く。どういう風に、というのは言わなかったが、さすがに部隊長が何も話さないのはまずいということなのだろうか。
「……戦場では、その状況さえ分かっていればいいだろう」
そうじゃないのか、と大倶利伽羅を見つめる。他の本丸によれば、新橋で歌仙兼定と大倶利伽羅が諍いを起こした、という情報も聞いている。確かにこの刀とは碌々会話もしたことがないし、たとえしても話が続かない。それなのに、どうして。
どうしてそんなことを言うのか。
「僕は戦場で余計なことは言いたくない」
「……そうか」
くるりと彼らに背を向けて、もう行くよ、と告げる。答えなど聞くまでもない。
「果物でも持ってくるよ。……燭台切が今頃、桃とマンゴーを切っているはずだからね」
多分、と言い置いて、広間を出た。後ろから呼び止める声は聞こえない。特段寂しいとは感じない。それでも、どこか心の奥が締め付けられるような気がした。
つづく